2026年1月27日火曜日

公明党はイソップ寓話のコウモリか

  


 立憲民主党と公明党が合体して新党「中道改革連合」(以下「中道」)を結成した。その評価を概観すると、右派・左派双方から批判の嵐に曝されている。右と左のいいとこどりは、必然的に右と左の悪いところを抱えこむ。 

 筆者の見立てでは、中道の主導権は公明党にある。

 その公明党だが、自民党と連立して政権についたのが1999年。2009年〜2012年の野党時代を除き、2025年10月に離脱するまで、約26年間政権与党にあった。こんにちの日本国の衰退を招いたのは、自民・公明政権が続いた26年間という年限に求められる。たとえば、生活者を苦しめている物価高の主因であるアベノミクスは2012年の第二次安倍政権の経済政策であり、政権与党に復帰した公明党は同政策を推進した。また同党は、森友疑惑(2017)、加計学園(2017)、桜を見る会(2019発覚)といった疑惑の解明に動かなかった。森友疑惑では関係する国家公務員が自殺をしている。その安倍晋三が暗殺された旧統一教会問題でも、同党は被害者救済に動かなかった。また、自民党議員の裏金問題についても容認した。

 公明党が昨年10月に自公連立から離脱した理由はよくわからないが、連立政権時代の政策・疑惑について、かつてどう考えていたのか、そしていま、どう考えているのかを明確に有権者に示さなければならない。「連立政権時代の悪政は自民党のせいで、公明党は悪くありません」ではすまない。

 イソップ寓話に「鳥と獣とコウモリ」の話がある〔註〕。獣(自民党)が優勢の時にはコウモリ(公明党)は自分たちは獣だと言い、鳥(立憲民主党)が優勢になると、自分たちは鳥だと言っているようにみえる。獣と鳥が争いをやめた時、コウモリは双方から疎んじられ、暗い洞窟で暮らすことを強いられたというのがこの寓話の結論だ。日本の政局では獣(自民党)と鳥(立憲民主党)が争いをやめることは、しばらくはないだろうから、コウモリを裁くのは有権者ということになる。 

*      * 

 中道が自民・維新から政権を奪い、公明党が前出の自公連立政権時代に起きた疑惑等々の真相解明に動くことが確認できるならば、筆者は中道を支持する。少なくとも、前出の森友問題で自死した国家公務員の弔いになる。〔完〕  


〔註〕昔、地上の動物達は皆仲良しだったが、ある時から獣と鳥に分かれ、どちらが強いかで戦いになった。身体が小さい鳥はいつも劣勢で、その様子を見ていたずる賢い一羽のコウモリは、獣が有利になると獣たちの前に姿を現し、「私は全身に毛が生えているから、獣の仲間です」と言った。そして、鳥が有利になると鳥たちの前に姿を現し、「私は羽があるから、鳥の仲間です」と言った。
その後、鳥と獣が和解し戦争が終結する日がやってくる。しかし幾度もの背信行為を重ね、双方にいい顔をしたコウモリは、「お前のような卑怯者は二度と出てくるな」と皆に嫌われ仲間はずれにされてしまう。居場所のなくなったコウモリは、やがて暗い洞窟の中へ身を潜め、皆が寝静まった夜だけ飛ぶようになった。(Wikipediaより)

2026年1月18日日曜日

最新のアナログ・リマスター盤で聴くザ・バンド『南十字星』

きのう(1月17日)、「最新のアナログ・リマスター盤で聴くザ・バンド『Northen Lights-Soututhrn Cross(邦題:南十字星』」という音楽イベントに行ってきた。 (「アナログ天国/西荻窪)

このイベントは、『ザ・バンド 来たるべきロック』の著者・池上晴之氏が1曲ずつ聴きどころを案内し、われわれ参加者がじっくりと鑑賞するというものだが、くだんのレコード鑑賞会とは一味も二味もちがった。 

会場の「アナログ天国」が擁する ALTEC A7(スピーカー)と真空管アンプを核に構成したオーディオシステムが、マスターテープから新たにアナログ・リマスターされたVinylphyleシリーズの良さを驚異的に再現し、鑑賞者を魅了した。 

池上氏の解説が秀逸で、解説を受けた後に楽曲を聴くと、ザ・バンドの音楽性の高さが確認できる。あたかも、ザ・バンドのメンバーが天国から「アナログ天国」に降臨し、演奏を始めたのかと思うばかりだ。 

池上氏の「ぼんやり音楽を聴くのもいいけれど、じっくり聴くことも大切」という趣旨の言説が印象に残った。 







2026年1月13日火曜日

祝福する喜び


写真と本文は関係ありません
 
 成人の日のきのう、地下鉄駅のエレベーターに乗り込んだわたしのあとから、晴れ着姿の若い女性がひとり、はいってきた。ほかにだれもこなかった。 

 エレベーターの扉が閉まったとき、「成人ですか」とわたし、「はいそうです」と女性、「おめでとうございます、きれいですね」とわたし、「ありがとうございます」と、満面の笑みの彼女。エレベーターの扉が開き、互いに微笑みを交わし無言で別れた。 

 一人になったわたしに説明できない至福感が漂った。祝福される喜びもあるが、祝福する喜びもあるのだと。声をかけてよかったと。 

 いま思えば不思議だ。こういう時代、エレベーターという密室のなか、知らない男から声をかけられれば警戒して当然、わたしはガン無視される可能性もあった。そうなれば不快感だけが残っただろう。 

 振り返れば、エレベーターの扉が閉まったとき、そんなことはまったく思わなかった。「声をかけなさい」と、――そして、一分にもみたない時間をおいて扉が開いたとき、「もう、なにもいうな、これ以上、彼女にかかわるな」と、――神(のようなもの)が私に命じた。

 彼女は美人ではなかったけれど、美しかった。がんばったすこし濃い目の化粧がそれを強調した。なによりも若さが明るい未来を指し示していた。 〔完〕

2026年1月11日日曜日

新春Karaokeはじめ

 2026 新春Karaokeはじめで歌ってきました。







2026年1月3日土曜日

短歌09

 


正月 界隈の散策






2026年1月1日木曜日

HAPPY NEW YEAR 2026

 


2025年12月31日水曜日

歌い納め

 昼タイムカラオケにて歌い納め。








2025年12月30日火曜日

日本赤軍とは何だったのか その草創期をめぐって

●和光晴生〔著〕 ●彩流社 ●2000円+税

 日本赤軍とは何だったのか――読んでみると新たな発見があった。著者(和光晴生)の述懐という一方的な情報からのみ本題の問いの解を示せば、以下のとおりになる。日本赤軍とは――それを一言で言えば――重信房子の私党であり、いまなお、私党であり続けていると。

日本赤軍の歴史


(一)共産主義者同盟赤軍派

 「日本赤軍」という組織名の由来を辿れば、1969年9月5日、全国全共闘結成大会で暴力的に登場した共産主義者同盟赤軍派(以下「共産同赤軍派」と略記)の結成を基点とする。このとき初めて日本の新左翼組織に「赤軍」という名称が使われた。同派は新左翼各派のゲバ棒街頭闘争の限界を軍事的に突破することを目指した。しかし、1969年11月5日、大菩薩峠における軍事訓練中に官憲に踏み込まれ、幹部・活動家の大多数が逮捕され壊滅的打撃を受けた。1970年3月31日、逮捕を免れた幹部と活動家数人が日本航空「よど号」をハイジャックし北朝鮮に亡命した。〔後述〕

 幹部不在となった同派は京浜安保共闘革命左派と合流し連合赤軍を結成したものの、1971~1972年、山岳ベース・リンチ殺人事件、あさま山荘事件など数々の殺人事件、リンチ殺人を起こして消滅した。ただし、連合赤軍に参加しなかった同派の残党(重信房子ら)は地下に潜った。

 ことほどさように、「赤軍」という組織名は共産同赤軍派・連合赤軍の非合法活動により、日本国内ではきわめてネガティブな印象を与える呼称となった。とりわけ、連合赤軍による同志リンチ殺人は新左翼の大衆的支持喪失の引き金となったと言われている。

(二)「リッダ闘争」と岡本公三

 「赤軍」という名称は日本では悪評ところが、人々が敬遠するほど忌み嫌われたものだったが、アラブ世界では、日本国内と真逆の評価を受けた。

 1972年5月30日、イスラエルの国際空港において、パレスチナ解放を目指す日本人3名(岡本公三、奥平剛士、安田安之)が空港内で銃を乱射し、26人を殺害した。奥平、安田は現場で死亡し岡本だけが逮捕された。和光は本書ではこの闘争を「リッダ闘争」と表記しているが、日本では「テルアビブ空港銃撃事件」として浸透している。岡本、奥平、安田は「京都パルチザン」というグループに属していて、共産同赤軍派ではなかった。〔後述〕

 なお、テルアビブ空港は、ベン・グリオン空港と名称を変更した。

 「リッダ闘争」は中東戦争に敗北し鎮静化したアラブ世界の反イスラエル闘争、パレスチナ解放闘争に火をつけた。逮捕された岡本公三はアラブ人民から英雄視されたのである。逮捕された岡本公三はその後の裁判で次のように発言した。この発言を契機として、日本赤軍が誕生することになる。

革命戦争はこれからも続くし、いろんな星(犠牲者)が増えると思う。

警告しておく:赤軍兵士は常にどこでもブルジョア側に立つ人間は(を)殺戮すると。(『日本赤軍 vs 日本警察』知られざる攻防/NHKテレビ)

The revolutionary war will continue, and I believe more planets will join the cause. Let me warn you: Red Army soldiers will slaughter anyone who sides with the bourgeoisie, anywhere and anytime.

 かくして、日本人の「赤軍兵士・岡本公三」は、アラブ世界で知らない人がいないくらい有名になった。

 前出のとおり、「リッダ闘争」は、日本赤軍の母体である共産同赤軍派とは異なる「京都パルチザン」によるものだった。岡本が発した「赤軍兵士は・・・」は党名、軍事組織名ではなく、パレスチナ解放闘争から世界革命を担う革命兵士という意味を込めた象徴的表現だった。とはいえ、「京都パルチザン」と共産同赤軍派がまったく関係ないとも言えない。なぜならば、奥平と重信は婚姻関係にあったからだ。

(三)重信房子と国際根拠地論

 重信房子は学生時代、共産同の学生組織である社会主義学生同盟の活動家として革命運動のスタートを切り、その後、共産同赤軍派に属し、「リッダ闘争」前にベイルート入りしていた。重信に課せられた使命は同派が掲げていた国際根拠地論に基づく海外拠点づくりである。1971年、2月に神戸市で「京都パルチザン」の奥平剛士との婚姻届を提出、「奥平房子」という戸籍を得て出国していた。

 ベイルート入りした重信、奥平らは、国際義勇兵としてPFLP〔註1〕に個々の意志により参加し、レバノンのベカー高原を主な根拠地に軍事訓練を受けていた。「リッダ闘争」と重信は、死亡した奥平との婚姻関係(偽装結婚といわれている)という一点で無関係ではないが、組織的関係はなかった。

〔註1〕PFLP(パレスチナ解放人民戦線/ Popular Front for the Liberation of Palestine):1967年に設立されたパレスチナの政党・武装組織。パレスチナ解放機構(PLO)に参加している。

(四)「リッダ闘争」の遺産を掠めとる

 共産同赤軍派が重信に課したプロジェクトは順調に進んではいなかったのだが、「リッダ闘争」という強い追い風が吹いた。重信は「リッダ闘争」でアラブ諸国から英雄視された日本人コマンド・岡本公三が発した「赤軍兵士・・・」という呼称を「日本赤軍」としてブランド化した。共産同赤軍派から日本赤軍への飛躍は、重信が属していた共産同赤軍派が自らの手で成し遂げたものではなく、「京都パルチザン」によって切り開かれたものだ、と筆者は思っている。

 「リッダ闘争」の直後、重信とPFLPとの共同声明の中で、「『日本赤軍』結成の日」との表現が使用された。ただし、組織名称を公式に「日本赤軍」としたのは1974年である。〔後述〕

 重信の構想をバックアップしたのがパレスチナ解放を公然・非公然で目指すPFLPのアブ・ハニ氏が率いる一派である。前者にとっては、「日本赤軍」という名称の公然・非公然組織をつくる絶好の機の到来であり、後者にとってはアラブの英雄・岡本公三が所属した「日本赤軍」が傘下に入ることは望むところだったにちがいない。重信に課せられたプロジェクトが完成に近づいた。

 繰り返すが、日本赤軍とは――「京都パルチザン派」2名の死をもってアラブに齎した遺産を掠めとって命名された組織名である。

 実体上、日本赤軍の最高幹部となった重信房子は日本に向けて、日本赤軍の下、パレスチナ解放闘争に参加するよう発信を続けた。PFLPのプロパガンダ映画も日本人映画監督によって制作され、日本各地で上映された。こうして、日本の若者がアラブを訪れるようになる。この間、紆余曲折を経て、前出のとおり、重信は前出のアブ・ハニ氏から離れ1974年、日本赤軍の正式創設に至った。

 筆者は、重信房子が日本赤軍の非公然活動にどのように関与したかについてはなにも知らない。イデオローグ?スポークスマン?連絡役?調整役?・・・筆者が思い描く重信房子は、オフィス、電話、テレックス、レジュメづくり、書類にかこまれた日常、そして、交渉、連絡、同志を集めて会議をする姿である。

(五)「北の国」と重信房子

 日本赤軍というよりも、重信房子が「北の国」と和光が称する国家と関係をもっていたことを本書で初めて知った。北の国とは、前出のとおり1970年、共産同赤軍派9名が「よど号」(日本航空351便)をハイジャックし、亡命した国のことだ。和光によると、1975年、重信房子は北の国を訪問したことになっている。

 日本赤軍は「よど号グループ」との協力関係は実現しなかった、と公式に発表している。亡命から5年を経過した「よど号グループ」はハイジャック当時に描いていた共産同赤軍派の世界革命戦略を放棄し、「北の国」の革命思想(一国革命路線)に感化されていたため、日本赤軍が目指す「世界党-世界赤軍-世界革命戦線構築」とは相いれなかったからだとされている。

 しかし、重信房子は「よど号グループ」から強い影響を受け、「自己批判-相互批判による思想闘争」を日本赤軍内部に提起したという。この「思想闘争」という概念は田宮高麿(「よど号グループ」リーダー)が北の国の革命論に感化されたもののようだが、和光はその内容にはふれていない。

 それだけではない。和光は重信房子と北の国との接触はPFLPの仲介なくしては実現不可能であり、パレスチナ解放勢力と北の国のあいだには、緊密なネットワークが形成されていて、重信房子が拉致問題と無関係ではないと示唆しているように読める記述が本書にある(本書P232~233)。

人はなぜ闘争に立つのか

 上記見出しは、本書第6章に付された表題である。この章から和光の文体は著しく変化する。同章は〈『1968』(小熊英二著)を糺す〉〈「70年代のパラダイム転換」とは何だったのか〉〈「同感力」・「共感力」〉の3節で構成されている。

 和光は第1節において、小熊の『1968』を次のように批判する。

 彼(小熊)の論点の前提には、人が闘いに立つ動機は「不幸」である、という考え方があるようである。
 果して、人は「不幸」の故にのみ闘いに立つのだろうか。
 「不幸」を起点とする、怒り・憎悪・怨恨・ねたみ・やっかみ、などのネガティブな動機からでは、報復のための闘いにしかならない。私は自分自身の体験からそんなふうに考えるようになった。
〔中略〕
 ・・・リーダーの位置にいた重信房子さんが「貧乏への嫌悪」を自らの行動の動因の一つにしているのではないか、ということだった。(本書P247)

 重信房子の父親は厳格な「憂国の士」である一方、そのことが家業の食料品店を営む上ではマイナスとなり、家庭は決して裕福でなかったことを和光は重信から聞かされたという。それらの体験が、重信にとって貧しい人々や虐げられた人々への憐憫、同情の念を生むのか、という印象を和光は感じたと書いている。和光が重信に抱いた印象は、いわゆる人道主義だ。自分が不幸だから闘うというのと、他者の不幸を憐れんで闘いに立つのとは似たように思われるが、そこには千里の径庭がある。貧しい人々、虐げられた人々と、そのような他者の不幸を憐れむ者とがつながるのが、後者が抱く「同感力」「共感力」なのだ、というのが和光の論理だろう。

 ところがその直後に《(重信房子は)裕福な階層や、いわゆる「セレブ」な人々に対する反発を抱くようになったのではないか、という印象を、私はアラブでの(重信との)初対面の当時から受けていた(本書P248)》、と書き足している。そして、以下に続く。

 70年代の初め頃は、海外旅行者や海外に駐在する商社員などは、まだ裕福な階層と思われる時代だった。在アラブの日本人グループが、当時、旅客機ハイジャック作戦や、商社員誘拐作戦などを次々と計画し、実行した背景に、それらの「セレブ」や富裕層に対するネタミ・ヤッカミの類の感情も働いていたのではないか、ということが今現在の私のとらえかえしにはある。(本書P248)

 第6章がいつ書かれたか不明だが、かなり混乱した書きぶりである。重信房子について、人道主義に立って貧しい者のために闘うという印象を受けながら、一方で重信が「セレブ」に対する反発を闘いの原点だと受けとめた、というのでは矛盾をきたす。しかも和光は、アラブに参集した自分自身を含めた日本人グループまでもが「セレブ」や富裕層に対するネタミ・ヤッカミの類の感情も働いていた、という。この言説は、和光の革命家としての立脚点を全否定するに等しい。和光の闘争の原点がそこだったとしたら、小熊のいう、人が闘いに立つ動機は「不幸」である、を全面的に認めたように読めてしまう。

 和光は小熊の前掲書にある「70年代のパラダイム転換」において、小熊の言説を認めつつ、次の節では次のように書いている。

 かつて、70年代初めに、日本からアラブの地へと結集していた人たちも、日本国内で感じていた閉塞感とかの「現代的不幸」を出国の契機としていただけではなく、パレスチナの人々の難民としての来し方への同情、最下層社会たる難民キャンプで懸命に生きる姿への共感、そして彼らの解放へ向けた闘いへの連帯感を抱き、それらの想いを実際の活動によって表現しようとすることもまた、大きな契機となったはずである。
 それらの想いは、決して「不幸」というキィーワードで括られるものではない。(本書P254)

 ここでは前出の「セレブ」に対するネタミ・ヤッカミ云々は消され、人道主義的きれいごと的表現に回帰している。アラブに来るまでは人道主義的想い(同感力・共感力)を契機とし、アラブに来るや、日本人「セレブ」に対するネタミ・ヤッカミ感情が武装闘争の戦術に盛り込まれたというのだろうか。和光の論理からはそのように解釈する以外にない。

「不幸」な者ではなく、疎外された者

 和光の小熊批判が支離滅裂に陥ってしまった主因は、小熊の「不幸」という表現にとらわれすぎたためだろう。近代的不幸、現代的不幸を問わず、人が闘争に立つ契機は〈疎外された〉者であるとの自覚からだ。他者の不幸を憐み、それを糺そうと闘争に参加するのは憐みからではなく、不幸な者を救いたくても救えない〈疎外された〉者であることの克服のためだ。裕福な「セレブ」に対して反発を覚え、彼らをなんとかしようと闘いに立つのは、自分一人では彼らを抹殺できない〈疎外感〉から、自己回復の手段として、武装闘争に参加するのである。

 1960年代末期の全共闘運動では、多くの活動家が自己否定の論理の下に運動に参加した。大卒の肩書を得てエスカレーター式に社会に出れば、中流より上の階層に到達できる自己を否定する。当時の大学進学率は20%程度だったから、そのような否定の論理が有効だった。結果、ベトナム戦争に加担している自己、パレスチナ抑圧に加担する自己・・・自己を否定する精神性は死に至るまで拡張する。日本の全共闘運動に参加した若者と、日本からアラブに飛んでパレスチナ解放闘争に参加した若者とは、1万3千キロ離れていても共通していた。

「1968年革命」と日本赤軍

 1960年代末期、世界は冷戦という奇妙な均衡の下、対立しているはずの東西の市民社会にほぼ同様の閉塞感が充満していた。東と西はイデオロギーと経済体制に相違があったものの、両陣営には官僚支配による抑圧的管理社会が形成されていたという共通点を持っていた。それに対する反発が「1968年革命」である。

(一)「1968年革命」の帰結――左派の政治的テロリズム

 「1968年革命」は頓挫し、以下のような帰結に至った。スラヴォイ・ジジェク〔註2〕に従えば、①過激な形での性的な享楽の探求、②左派の政治的テロリズム、③精神的経験の〈現実界〉への志向(東洋の神秘主義)――の3点に集約される。日本赤軍の登場は②にあたり、(西)ドイツ赤軍派、イタリアの赤い旅団などと同列に分類される。

 ジジェクは《大衆が資本主義のイデオロギーの泥沼にどっぷりつかった時代には、もはや権威あるイデオロギー批判も有効ではなく、生の〈現実界〉の直接的暴力、つまり、「直接行動」に訴えるよりほかに大衆を目覚めさせる手段はないと考え、(ドイツ赤軍派、赤い旅団、日本赤軍等は)そこに賭けた》と書いている。

(二)資本主義の新たな精神としてのネオリベラリズム

 「1968年革命」の帰結の後に登場したのが、1968年革命の平等主義かつ反ヒエラルキー的な文言を昂然と復活させ、法人資本主義と〈現実に存在する社会主義〉の両者に共通する抑圧的な社会組織というものに対して、勝利をおさめるリバタリアンの反乱の出現だった。

 この新たな自由至上主義 はネオリベラリズム(新自由主義)、フリー・マーケット・システム(市場原理主義)などと呼ばれ、経済学なのかイデオロギーなのか判別しにくいが、日本を含めた多くの国の人々の価値観・思考・行動を規定し、新たな社会的風潮(資本主義の新たな精神)をつくりあげる原理となった。なお、経済学における「ポストモダン資本主義」については、ここではふれない。

具体的な社会・政治的企てからの逃避

 ジジェクは、前出の①過激な形での性的な享楽の探求、②左派の政治的テロリズム、③精神的経験の〈現実界〉への志向に共通するのは、直接〈現実界〉に触れる具体的な社会・政治的企てからの逃避だった、書いている。

 和光は前出のとおり、70年代初めに、日本からアラブの地へと結集していた人たちが日本国内で感じていた閉塞感そして「現代的不幸」を出国の契機としていただけではなく、難民となったパレスチナの人々への同情、最下層社会たる難民キャンプで生きる姿への共感、そして彼らの解放へ向けた闘いへの連帯感が活動を志す大きな契機となったはずだ、と書いたが、和光の「共感」「連帯」からの〈活動による表現〉という説明からでは、なぜ、日本国内(直接〈現実界〉に触れる具体的な社会・政治的企て)へのコミットではなく、遠いアラブの地の解放闘争なのか――という疑問に答えられない。

 ジジェクの上記3分類における、②左派の政治的テロリズムと③精神的の〈現実界〉への志向(東洋の神秘主義)には、場所的・空間的な隔離を伴うという共通点を見出すことができる。③に分類されるヒッピーのコミューンは人里離れた僻地やアジアの宗教の聖地(バリ島のクタビーチ、カトマンズ、インドのゴヤなど)が選ばれた。オウム真理教がサリンを製造した上九一色村(現在は廃止)のサティアンも自然豊かで風光明媚な村だ。人民寺院(Peoples Temple of the Disciples of Christ Peoples Temple)事件は信者918人が自殺・殺害により命を落とした大事件だったが、舞台は彼らが南米ガイアナに信徒が開拓したコミューンで起きた。ヤマギシ会の共同農場(ヤマギシ村)も外界と距離をおいたところにある。こうした、コミューン、キャンプ、共同農場などは指導者が信者を僻地に囲い込み、外界から遮断するためのものだ。

 ②の政治的テロリズムでは、全共闘運動の「バリケード」、共産同赤軍派よど号グループの「北の国」、連合赤軍の「山岳ベース」、日本赤軍の「アラブ」などを挙げることができる。

 左派は革命理論(国際革命根拠地づくり等)に基づいた戦略的行動だと説明するだろうが、筆者には、直接〈現実界〉に触れる具体的な社会・政治的企てからの逃避の場のようににうつる。〔完〕

〔註2〕『ポストモダンの共産主義』(スラヴォイ・ジジェク〔著〕ちくま新書)


2025年12月13日土曜日

巨人のチーム編成が見えない



MLB,Winter Meetings

 読売ジャイアンツ(以下「巨人」)のオフシーズンが落ち着かない。大げさにいえば不穏な状況にあり、チーム編成に暗雲が立ち込めているとも言える。

(一)発端は桑田二軍監督の辞任

 
 発端は拙Blogですでに取り上げた通り、桑田二軍監督の辞任だった。桑田が辞めたのは阿部監督との指導方法の対立だったと言われている。「理論の桑田」と「根性の阿部」が対立し、阿部が桑田を追い出した、というナラティブができあがった。


(二)山瀬捕手のSNSによる球団批判


 続いて、山瀬慎之介捕手による契約更改をめぐる球団批判ともとらえられかねない情報発信があった。二軍で活躍しながら出場機会に恵まれないのは甲斐をFAで獲得したことだと暗に、球団を批判した。
 岸田の台頭、ベテランで強肩、リードに定評のある小林、強打の大城と巨人の捕手陣はそろっていたのだが、打撃に難のある小林、そしてなぜか打撃不振に陥った大城――との競争ならば山瀬にチャンスはあった。しかし、甲斐の加入で山瀬の一軍昇格は阻まれ、その甲斐が活躍したとはとても言えないままシーズンは終わった。甲斐の獲得については、投じた費用ほどの効果を生まなかった。山瀬の発信は正当だと言える。山瀬のSNSは、チーム強化の失敗の責任を問うべきだと読めるかもしれない。

(三)オコエの突然の退団


 第三弾はオコエの突然の自由契約発表だ。彼の自由契約は、阿部が秋季キャンプのテーマとして「猛練習」を掲げた時点と偶然にも重なった。阿部は、前述のとおり、「昭和」の根性論野球の継承者とされ、秋季キャンプはその再現を計画したかのように報道された。もちろん、阿部の猛練習は象徴的表現であって、取り組むべきテーマはそれなりに用意されているはずだ。「昭和の阿部」といえども、「走り込み」や「千本ノック」だけを練習に取り入れるほど愚かでないことは誰もが認めるだろう。けれども、言葉が足りない、表現力の欠如。言葉だけでチームのまとまりは得られないけれど、選手、メディア、ファンを動かす表現が阿部にはない。具体的テーマを表現しないと誤解を招くし、現にオコエの自由契約の原因を阿部の秋季キャンプの猛練習と関連づけた報道があった。この報道は憶測の域を出ないものだが、いかにもありそうな話に聞こえてしまう。

(四)チームづくりが見えないまま


 秋季キャンプの成功もしくは失敗については、来シーズン終了までまたなければならない。けれども、筆者は結果が出ないものと予想する。その理由については、実は秋季キャンプ云々ではなく、いま(2025/12/09)のところ、巨人のチームづくりの骨格が見えないからだ。

難航中の選手補強


 巨人を引退、戦力外、自由契約等により退団するであろう主な選手は、岡本、オコエ、ヘルナンデス、長野、重信、グリフィン、ケラー等であり、その一方、新人を除いて入団が決まった主な選手は、松本剛(日ハムからFA入団)ただ一人だ。補強がこれで終わるとは思えないが、この先、国内の主力級で行き先が決まっていないのは、つまり、巨人が獲得できる選手は、ソフトバンクを自由契約になった有原航平投手しかいない。その有原はMLB復帰を目指しているというから雲行きはあやしい。NPBを自由契約になった外国人選手については後述する。

現役ドラフトは不発か


 現役ドラフトが12月9日に行われたが、驚くような補強になったとは思えなかった。もちろん、昨シーズンの田中瑛のように、嬉しい誤算になる可能性を否定できないのだが。
 なお、FA入団の松本剛の人的補償として、巨人はもう一人選手を放出しなければならなくなる可能性もある。

先発投手が足りない


 2025シーズン、巨人が3位で終わった主因は、先発投手のコマがそろわなかったことだった。菅野の流出、戸郷の不振、井上、赤星、グリフィンの故障と先発5人がダメで、ローテーションを守れたのは山崎のみ。赤星はフォーム改造(肘を下げた)が裏目に出た。改造を奨めたのは阿部監督だったとも言われている。ブルペンでは高梨が勤続疲労でダウン。船迫も安定感を欠いた。中川は辛うじて合格点だが、シーズン終盤の登板過多が2026シーズンに悪い影響を及ぼす可能性は高い。

不可解な投手コーチ全員留任


 来季、巨人投手陣を再建する任務を負っているのは、一軍の杉内、内海、二軍の山口、大竹(いずれも留任)のコーチ陣だ。2025シーズンの成績からすれば、一軍・二軍の投手コーチが留任し、二軍監督の桑田が事実上解任された理由の説明ができない。つまり、留任の4コーチでは投手再建は難しい。

目ぼしい外国人選手はMLBか


 巨人残留が決まっている外国人選手はマルティネス、バルドナードの2投手とキャベッジ外野手の3選手。投手2人はいずれも先発ではない。外国人選手獲得枠はじゅうぶんすぎるほど空いている。
 NPB在籍の外国人選手については、契約交渉中なのでなんともいえないが、阪神のゲラ投手、デュプランティエ投手、ビーズリー投手、ヘルナンデス野手、ネルソン野手、ドリス投手自由契約となった。 DeNAでは バウアー投手、ケイ投手、オースチン野手の自由契約が発表されている。広島ではハーン投手が自由契約、ロッテのポランコ野手、ソト野手の自由契約が濃厚となっている。
 巨人がこのうちのどの選手と交渉しているかしていないかは不明であるが、望む選手ほどMLB入りを希望しているというから、有力選手の獲得は難しかろう。最終手段は米国MLB、AAA、メキシコリーグ等の海外球団を自由契約になった選手となろうが、ウインターミーティング真っ最中なので、現時点では確定的情報を得られない。

(五)好材料なしのまま2026シーズンを迎える予感


 以上から、いまのところ、巨人の戦力は2025シーズンと比較しても大幅にダウンしている。昨シーズンが3位だから、既存戦力の台頭およびドラフト入団の新人の活躍およびウインターミーティング後、MLB球団から声がかからずNPB行きを希望して獲得できた外国人選手の活躍という好条件がそろわない限り、リーグ優勝は難しい。
 そこで新人を除く既存戦力をポジション別に並べてみよう。(◎レギュラー候補、△レギュラー期待)

・投手
先発=◎山崎、◎戸郷、◎井上、◎森田、田中将、赤星、西舘、外国人A
ブルペン=◎中川、◎高梨、◎船迫、◎田中瑛、◎石川、◎バルドナード、◎大勢、◎マルティネス、宮原、泉
起用法未定=横川、堀田、平内、又木

・捕手
◎岸田、甲斐、小林、大城、山瀬

・一塁
△リチャード、荒巻、増田陸、外国人B

・二塁
◎吉川尚、門脇、中山

・三塁
坂本勇、石塚、(門脇、中山、リチャード)、外国人B

・ショート
◎泉口、石塚、(門脇、中山)

・外野
レフト=◎キャベッジ、松本剛、若林、岡田、浅野、萩尾、外国人C
センター=◎丸、松本剛、若林、岡田、浅野、萩尾、外国人C
ライト=△佐々木、松本剛、若林、岡田、浅野、萩尾、中山、外国人C

(六)結論――リチャードがキープレーヤー


 巨人が補強すべきは先発投手、一塁手、三塁手、外野手である。
〔投手陣〕
 外国人を除く先発候補投手としては、赤星、西舘、横川、堀田、平内、又木以外に、園田純規が注目されている。2025年、三軍で防御率0.20を記録し、二軍に昇格後は先発ローテーションに定着。イースタン・リーグで14試合に登板し、8勝0敗、防御率1.42を記録している。
〔野手陣〕
 野手については、出場機会を増やすために複数ポジションを守れるというのはもちろん大切なことで否定しないが、安定した打撃を維持し、レギュラーポジションを確保した選手が主力と呼ばれる。2025年、巨人はエラー数がNPBで最多を記録した。人工芝がホームでありながら、この結果はいただけない。筆者はこの惨状を招いた主因について、阿部監督が選手の守備(対応)能力を把握せず、安易に守備位置を変更して起用した結果だと考えている。
 喫緊の課題は、一塁手・三塁手を確定することだ。就中、阿部監督はリチャードに賭けているようだから、阿部がこの賭けに勝てば、巨人の内野は安定する。もしリチャードが期待に応えられなければ、巨人の一塁と三塁のレギュラー不在は決定的な瑕疵となって、巨人を苦しめることになるだろう。〔完〕

2025年12月6日土曜日

夜の根津

ギャラリー・マルヒ







 

はやめの忘年会

(2025/12/5)
ジム友マダムたちとのちょっと早めの忘年会。
飲んで食って歌っての楽しい時を過ごしました。





 

2025年11月22日土曜日

Ginと小皿

 イベント終了後、会場近くのクラフトジンのお店へ(曙橋)。

 





 2025/11/22、トークイベント「話そう ザ・バンド‼︎ 小倉エージvs池上晴之 Part2」(Bar461/曙橋)に行ってきました。

小倉さん、池上さんからメンバーの裏の顔が次々と暴露され、とてもおもしろかった。特にロビー・ロバートソン、映画「Once Were Brothers」では、ロビーが良き家庭人として描かれていたはず。

次回が楽しみです♪





2025年11月21日金曜日

ザ・バンド解散の「真相」

筆者が登録しているSNSに‘‘True Stories” という記事が偶然、流れてきた。ザ・バンド解散の「真相」を伝えるというのが主意である。ザ・バンドとは(ここでは詳細を省くが)、1960年代末から1970年代中葉にかけて活躍したロックバンドで、メンバーはカナダ人4人(ロビー・ロバートソン、リック・ダンコ、リチャード・マニュエル、ガース・ハドソン)、アメリカ南部人1人(レヴォン・ヘルム)で構成されていた。いまや伝説と化したグループで、音楽性が高く評価されている。この記事ではその中の1人、レヴォン・ヘルムの大きな顔写真が目を引いた。 

レヴォン・ヘルム

(一)ロビーとレヴォンの確執

「真相」というのはほかでもない、メンバーのリーダー格と言われるロビー・ロバートソンと、彼と対立するレヴォン・ヘルムとの確執であり、強欲のロビー・ロバートソン、純粋なレヴォン・ヘルムというナラティブの定着に有力な情報を与える内容となっている。〔 ‘‘True Stories” の本文と翻訳は後掲〕

映画『ラストワルツ』より

 ロビーがほぼ独り占めしたと思われる莫大な富は、彼がザ・バンドに貢献した結果として受け取るに足る正当な報酬なのか、それとも仲間を騙した不当なそれなのか――を判断する情報を筆者は持っていないが、ただ言えるのは、映画『ラスト・ワルツ』を企画したロビーと監督のスコセシにとって、映画が興行的に大成功をおさめるためには、このイベントがザ・バンドの解散コンサートであるという名目が絶対に必要だったということだ。一方、ロビーを除く他のメンバーはこのイベントが解散を前提とするものとは思っていなかった。レヴォンは、「バンドそのものの終わりではなく、ツアーの送別会だと思っていた」とある。レヴォンの怒りはそこから発したと筆者は推測する。 

そればかりではない。『ラスト・ワルツ』撮影の休憩中に、「法律の担当者がレヴォンに書類を手渡した。それは、この映画とサウンドトラックの将来の著作権使用料を正式に定めたものだった。また、レヴォンが長年抗議してきた作曲クレジットの分割も確定したものだった。彼は、この音楽は、ロバートソンが最終的な歌詞を書くずっと前に、リック・ダンコ、リチャード・マニュエル、ガース・ハドソンが核となる部分を形作り、一節ずつ、その部屋の中で作り上げられたものだと信じていた。レヴォンは、ロバートソンに主なクレジットを割り当てるそのページをもう一度読み返した」とある。この期に及んで、レヴォンはロビーに騙されたことを確信したようだ。

映画『ラスト・ワルツ』は、実際に行われたイベントの記録ではない。映画はロビーとスコセッシによって創作されたロック・オペラとも呼ばれる音楽映画だ。筆者は、つい最近、池上晴之氏の著作『ザ・バンド 来たるべきロック』を読んでこのことを知った。なんと半世紀近くにわたって、『ラスト・ワルツ』はその大半がイベントの記録で、そこに、多少のスタジオ撮影が付加されたと思い込んでいた次第である。

(二)バンドとは兄弟愛であるべきだ


2020年、ロビーがザ・バンドを回顧して制作した映画『Once were brothers 』が公開された。この映画では、レヴォン、リチャード、リックがアルコールとドラッグに溺れていく様子が描かれていた。解散は必至だと暗示するかのように。

ところで、この映画の邦題は「かつて僕らは兄弟だった」とある。これは名訳で、換言すれば「もう僕らは兄弟ではない」となる。その一方、レヴォンは次のように言っているではないか。“A band is supposed to be a brotherhood,” he said. “A real one.”
「バンドとは兄弟愛であるべきだ」(と彼は語った)本物の兄弟愛をなすものだ」と。

 

ザ・バンドは解散したというものの、実際はロビーが離脱しただけで残りのメンバーはザ・バンドを名乗り、ライブおよびアルバム制作を続行した。日本でも複数回公演を重ねている。しかし、怒りのレヴォンはその後、病魔に襲われ、また経済的困窮にも見舞われた。が、それらを克服し、ミッドナイト・ランブル」〔註〕を創設し、そこを活動拠点として復帰した。「(人々は)レヴォン・ヘルムの不変の部分を見た。彼は現れ、誠実に演奏し、誰にも自分の結末を書かせようとはしなかった」(終わらなかった)。 


筆者はたとえ間違っていたとしても、心情的にロビーよりもレヴォンの肩を持ちたい。ザ・バンドの成功の果実はメンバー全員で分かち合うべきだと思うからだ。〔完〕


〔註〕「ミッドナイト・ランブル」とは、レヴォン・ヘルムがニューヨーク州ウッドストックにある彼のスタジオに創設した音楽コミュニティ。ザ・バンドとレヴォン・ヘルムの象徴的音楽を演奏しながら、レヴォン・ヘルムの伝説を守り発展させている場。レヴォンの娘のエイミーはこうコメントしている。「父(レヴォン・ヘルム)は再生とコミュニティの精神を掲げてミッドナイト・ランブルを創設した」と。
なお、ミッドナイト・ランブルとは、人種差別時代にアフリカ系アメリカ人向けに深夜に映画を上映することであり、ジム・クロウ法(19世紀後半から20世紀初頭にかけてアメリカ南部で導入された州法と地方法であり、人種差別を強制するもの)の下では他の時間帯では決して入場が許可されないような映画館で上映されることが多かった。上映される映画は、1910年から1950年の間にアメリカ合衆国で黒人のプロデューサー、脚本家、俳優、監督によって制作された500本以上の映画が選ばれることが多かった〔Wikipedia〕とある。また文字通り‘‘深夜のぶらつき”という意味かも知れない。いずれにしても、レヴォン・ヘルムが、ミッドナイト・ランブルにどのような意味を込めたかは不明である。 

(三)True Stories(原文~翻訳) 


Levon Helm walked out of the Winterland Ballroom in 1976 with a contract in his pocket he refused to sign. It gave Robbie Robertson control over The Band’s future. Levon folded the paper, put it in his jacket, and said he would never agree to it. He meant it.

1976年、レヴォン・ヘルムは、署名することを拒否した契約書をポケットにしまい、ウィンターランド・ボールルームを後にした。その契約書は、ロビー・ロバートソンにザ・バンドの将来を支配する権利を与えるものだった。レヴォンは紙を折りたたみ、ジャケットのポケットに入れ、決して同意しないと言った。彼は本気だった。

Levon Helm had the voice that sounded like dirt roads, diesel engines, and Sunday mornings. He drummed like he was steering a train. To millions, he looked like the heart of The Band. But behind the harmonies, a fight over credit, ownership, and truth grew louder than any guitar line. Levon kept his part quiet for years. The paperwork told a different story.

レヴォン・ヘルムの歌声は、未舗装の道やディーゼルエンジン、日曜の朝を思わせる響きを持っていた。彼のドラムはまるで列車を操縦しているかのようだった。何百万もの人々にとって、彼はザ・バンドの心臓部のように映った。しかしハーモニーの裏では、クレジットや所有権、真実を巡る争いが、どんなギターラインよりも激しく渦巻いていた。レヴォンは長年、自らの役割を沈黙で貫いた。書類は別の物語を語っていた。

The turning point came during the filming of The Last Waltz in 1976. Martin Scorsese directed. Cameras circled the stage. The Band planned it as a farewell concert. Levon thought it was a sendoff for the road, not the end of the group itself. Then he saw the production list. Song order approved by Robertson. Interview segments shaped around Robertson.

転機は、1976年の『ラスト・ワルツ』の撮影中に訪れた。マーティン・スコセッシが監督を務めた。カメラがステージをぐるりと囲んだ。バンドはこれを別れのコンサートと位置づけていた。レヴォンは、バンドそのものの終わりではなく、ツアーの送別会だと思っていた。ところが、制作リストを見て驚いた。曲順はロバートソンが承認したもの。インタビューの構成もロバートソンを中心に組まれていた。

Publishing and backend rights funneled through companies Robertson controlled. Levon realized the concert wasn’t just a goodbye. It was a narrative being locked in ink.

出版権とバックエンドの権利は、ロバートソンが支配する企業を通じて流れた。レヴォンは、このコンサートが単なる別れではないことに気づいた。それは、インクで閉じ込められた物語だったのだ。

During a break in the shoot, a legal rep handed Levon a document. It formalized future royalties for the film and soundtrack. It also locked in songwriting credit splits Levon had protested for years. He believed the music was built in the room, bar by bar, with Rick Danko, Richard Manuel, and Garth Hudson shaping core pieces long before Robertson wrote final lyrics. Levon reread the page that assigned primary credit to Robertson again. Then again. He put the paper in his pocket and walked out to the loading dock without signing.

撮影の休憩中に、法律の担当者がレヴォンに書類を手渡した。それは、この映画とサウンドトラックの将来の著作権使用料を正式に定めたものだった。また、レヴォンが長年抗議してきた作曲クレジットの分割も確定したものだった。彼は、この音楽は、ロバートソンが最終的な歌詞を書くずっと前に、リック・ダンコ、リチャード・マニュエル、ガース・ハドソンが核となる部分を形作り、一節ずつ、その部屋の中で作り上げられたものだと信じていた。レヴォンは、ロバートソンに主なクレジットを割り当てるそのページをもう一度読み返した。そしてもう一度。彼はその書類をポケットに入れ、署名せずに積み込みドックへと歩いていった。

The refusal cost him. When The Last Waltz made millions over the next three decades, Levon received far less than he believed he had earned. He picked up acting jobs to pay medical bills. He sold pieces of his Woodstock property after a throat cancer diagnosis in the 1990s. Still, he kept telling anyone who asked that music was supposed to be shared work. He never softened the story. “A band is supposed to be a brotherhood,” he said. “A real one.”

その拒否は彼に代償を払わせた。『ラスト・ワルツ』がその後30年間で数百万ドルを稼ぎ出す中、レヴォンが受け取った報酬は、自分が稼いだと信じていた額よりはるかに少なかった。医療費を払うため俳優の仕事を引き受けた。1990年代に喉頭がんと診断されると、ウッドストックの土地の一部を売却した。それでも彼は、音楽は共有すべき仕事だと尋ねてくる者には誰にでも言い続けた。その話を和らげることは決してなかった。「バンドとは兄弟愛であるべきだ」と彼は語った。「本物の兄弟愛をなすものだと」

When he rebuilt his life through the Midnight Rambles, hosting concerts in a barn where the roof shook, people finally saw the part of Levon Helm that never changed. He showed up, he played honest, and he refused to let anyone else write the ending for him.

「ミッドナイト・ランブル」で人生を再構築した時、屋根が揺れる納屋でコンサートを開催する中で、人々はついにレヴォン・ヘルムの不変の部分を見た。彼は現れ、誠実に演奏し、誰にも自分の結末を書かせようとはしなかった。


2025年11月19日水曜日

ベランダ・レモン

 ベランダで大きなレモン。




2025年11月16日日曜日

昼タイムカラオケ

 先週に引き続き、昼カラオケで歌ってきました。



2025年11月15日土曜日

ザ・バンドをいい音で聴こう!(西荻窪・アナログ天国)

カーネーションの直枝政広さんと『ザ・バンド 来たるべきロック』の著者・池上晴之さんのトークイベントに行ってきました。

アルゼンチン盤ブラウン・アルバムやドイツで発売されたドーナツ盤などレアなレコードが聴けました。

直枝さん曰く「ザ・バンドは普遍的だ」というのが本日のキーワードでしょうか。







2025年11月11日火曜日

クマ被害を防ぐ


  クマが人間を襲う事件が、日本列島東日本を中心に続発している。これまでの人的被害の発生状況は、人間がクマの領域である山間部などに侵入して襲われることが一般的だったが、いまや市街地(コンビニ、スーパー、民家、病院等)にクマが出没し、そこで偶然出会った人間を無差別に襲撃するところが特徴となっている。

 原因は明らかで、地方における人口減、高齢化であり、それにともなう、耕作放棄地面積の増加や、里山といわれる集落――田畑・水辺・その周辺の二次林などが融合した地域――の荒廃が、人間とクマを隔てていた境界を市街地側に引き寄せた結果だと思われる。里山において、人間集団が活発に生活していたならば、クマはそこを境界として奥山にみずからの生活圏を定めていたはずである。 

 クマ被害が多発する秋田県を例に取ろう。 

 秋田県の人口は(2022年8月時点での推定)93万2227人、面積が 11,610 km²である。東京23区の世田谷区(人口:950,540人、 面積:58.05㎢)と比較すると、およそ200倍の広さのところに、2万人少ない人が住んでいる――それが秋田県である。 その他のデータ〔註〕をみても、秋田県の民力低下が著しい。 

〔註〕人口増減率:-1.47%(全国47位)、自然増減率:-1.03%(同47位)、社会増減率:-0.44%(同47位)、死亡率:人口1000対15.8人(同1位)、出生率:人口1000対5.2人(同47位)、高齢化率: 36.4%(同1位)、75歳以上高齢化率:19.7%(同1位)、年少人口比率:10.0%(同47位)、婚姻率:人口1000対3.1人(同47位) 

 クマが秋田諸地域の民力低下を本能的にかぎ分け、市街地への侵攻を開始したと考えて不思議はない。それまで活発に人や車が行きかい、クマには近づきにくかった市街地だったが、民力低下とりわけ高齢化によって、市街地の活力が失われ、そこがクマにとって危険の少ない脆弱な生き物(人間)が棲む地域へと変容した結果が、人間にとってのクマ被害となって表出している。 

 人口増、高齢化の早急な歯止めは不可能だ。即効性があるのはすでに行われている、自衛隊派遣である。自衛隊部隊とライフル等殺傷力のある武器を携行できる警察官、民間ハンター、自治体職員(全国から応援も必要)が部隊を編成し、県内のクマ出没地域を重点的に巡回し、クマを見たら、ライフルで即刻駆除する以外にない。そこでクマが部隊すなわち人間を恐怖の対象だと学習すれば、人間とクマの境線が山間地等に後退し、越境するクマは減少するだろう。とにかく、人海作戦で境界を山奥へと押しを戻すほかない。 

 いまのところ、残念ながら、即効性ある対策としては、人海作戦以外思いつかない。短期間だが、大規模な部隊の展開が必要となろうが。〔完〕 

2025年11月9日日曜日

昼カラオケ体験

 きょうはワークアウト終了後、激安・昼カラオケに行ってきました。

酒類の提供はありませんが、歌い放題1300円というお財布にやさしい価格設定。

美人ママさんに、お客様は歌自慢のマダムばかりと、楽しい午後となりました。






2025年11月1日土曜日

NPB異論


   2025NPBはソフトバンク(以下「SB」)が日本シリーズで阪神を4-1で制し、全日程を終了した。NPBはオフシーズンとなり、人々の関心は、各球団の人事へと移行する。

(一)ソフトバンク 日本一 

 SBが4勝した試合のうち3試合は1点差、両チームの実力は均衡していたという見方もできるが、筆者はパワーの差を感じた。そのことを象徴するのが第5戦、50試合連続無失点記録をもつ石井大智のフォーシームを柳田がホームランし、続く打者もこともなげに打ち返してヒットとしたシーンだった。セリーグの各打者が打てなかった石井のフォーシームがSBには通用しなかったのだ。 

 SBが本シリーズを制することができた最大の要因は、第2試合、阪神藤川監督が先発投手起用をミスしたことだ。長いブランクを経たばかりの投手を先発で起用するのはリスクが高い。 

 短期戦では投高打低の傾向が一般的だ。もともと下位打線が弱い阪神、接戦にもちこんで、少ないチャンスをものにするところに活路を見いだす以外ない。初戦、SBの強力打線も阪神投手陣に手を焼き、阪神が敵地で先勝した。以降、この流れを維持できれば、阪神にチャンスがあった。逆にSBは2戦目の圧勝で重圧から解放され、敵地で3連勝した。メンタル面で自信をもつことができたSBが、阪神にプレッシャーをかけ続けられた。3戦目以降、SBが接戦をものにできた主因だろう。 

(二)オフの話題 

 日本シリーズが始まる前後、NPB各球団から戦力外、自由契約、引退などの報道が相次ぐ。他人事とは言え、いい気持ちはしない。毎年100人余りがNPBの門の叩き、150人程度が出て行く。故障、病気などで野球をやめざるをえない者もいるのだろうが、多くは球団から実力不足と判定された者だ。この厳しさがNPBの質を高めているというのが定説だが、戦力外を通達された彼らにセカンドチャンスはないのか。このことは当該Blogに繰り返し書いたので繰り返さない。NPBという機構の近代化を望むばかりである。 

阿部VS.桑田 

 各球団の人事異動のなかで筆者が最も興味を覚えたのが読売ジャイアンツ(以下「巨人」)の人事だ。一軍では二岡智弘ヘッド兼打撃チーフコーチが退任し、桑田真澄 二軍監督および駒田徳広 三軍監督が退任、退団した。 

 スポーツ・メディが注目したのが桑田の突然の退任発表だった。読売球団内部で何かが起きているという憶測記事もあった。筆者はこの件について取材できる立場にないから、以下の記述はいわゆる「こたつ記事」以外のなにものでもない。憶測、推測にすぎないが書いておきたい衝動に駆られた。 

 桑田はイースタンリーグの優勝監督であるから、実績上、咎を受ける立場ではない。退任理由は「一軍に戦力となる若手選手を送り出せなかったから」ということになっているが、これをそのまま受け取る者はいないだろう。これが退任理由となるならば、優勝を逃した球団の二軍監督は全員退任しなければならなくなる。望ましい成績を上げられなかった責任を二軍監督が引き受けるという論理は成り立ちようがない。 

 あるメディアは関係者の話として、球団が「3年契約の阿部慎之助にとって、来季はおそらく監督最後のシーズンになるから、彼の思うとおりにやらせてあげたかったからだろう」と報道した。この報道は阿部と桑田が相いれないことを前提としている。まったくそのとおりだと思う。阿部と桑田は野球指導理論に隔たりがあることは周知の事実。前者は昭和の根性論、後者は大学院でスポーツ科学を学び直した理論派、水と油だ。 

 いま(2025/10/31現在)のところ、橋上秀樹(一軍作戦戦略コーチ)、松本哲也(一軍外野守備走塁コーチ)、立岡宗一郎(三軍外野守備走塁コーチ)の就任が発表されていて、桑田の後任(二軍監督)は未定だ。桑田の後任がだれになるかわからないが、阿部が選んだスタッフの顔ぶれから想像するに、桑田以上の理論派が就任する可能性はない。阿部の指導方法を素直に受け入れ、阿部の言うとおりに二軍から一軍に選手を送り出す、いわゆる「イエスマン」となるだろう。 

 桑田追放人事は、巨人の将来像を規定する。昭和の偉業(V9)にしがみつき、根性論と厳しい選手管理で選手を締め付ける保守派が主導権を握り続ける予感がする。保守派は育成を怠り、FAで完成品を入手して優勝を狙う金満球団経営派と換言できる。理論派は排除され、スター選手が天下りし監督となり、独裁チームとなる。彼らの理想はV9の時代だ。ドラフト制度がなく、巨人は有望なアマチュア選手を自由に獲得できたうえ、高額な報酬をちらつかせて、他球団の大物選手を引き抜いてチーム強化が図れた。高倉照幸(西鉄ライオンズ)、金田正一(国鉄スワローズ)、そしてV9後に張本勲(東映フライヤーズ)が続く。金田、張本はいま現在、巨人OBとして知名度が高いが、晩年に巨人に移籍した選手だ。その結果のV9であり、いまとは情況が異なる。いまや巨人幻想は色褪せ、かならずしも巨人でなければという意識は薄れ、MLB志向の方が強くなった。その結果、巨人に限らず全球団においてV2すら難しくなってきた。V9はほぼ困難だと言っていい。 

 来季の巨人は、岡本の流出という戦力ダウンが予想されるから、2025シーズン以上に厳しくなる。リーグ優勝する要因を見つけにくい。3年契約が終了する来季以降、阿部が続投する可能性は高くない。2025オフの桑田の退任は、彼が一軍監督として巨人に復帰する可能性が消滅したことを意味する。筆者には、「巨人」の終わりが見える。

 他球団が有望アマチュア選手に係る情報収集網を広域化し、入団後の育成に資する人材(スタッフ)を集め、FA制度に依存しないチーム強化に舵を切るなか、巨人すなわち読売球団はその流れから取り残される。しかも、スター選手=有能な指導者ではない。現場の指導者すなわち監督の資質を持った者をえらび、コーチほか多能なスタッフ陣が監督を支える構造をつくあげなければ強いチームはつくれない。 

阿部は監督業に不向き

 阿部の作戦面の稚拙さについては、当該Blogでたびたび書いたので繰り返さない。そのことを大雑把に言えば、監督の作戦で試合に勝てたというナラティブを欲しがりすぎる、ということになる。

 チームで打率トップの選手に犠牲バンドをさせる、気候変動により猛暑が続く夏場に中継ぎ投手を酷使し、自分の継投策で勝てたと満足するが、そのツケが後半戦に及んでしまう。野手に複数ポジションを守らせて、エラーをまねく。2025シーズン、巨人のエラー数78は、12球団中トップだった。しかも得点がらみのエラーが多かった。そのうえで、 ミスをした選手に不要なプレッシャーをかける。

 加えて、記録を調べていないが、主力選手にケガ、故障が多かったような気がする。思いつくままに、岡本、甲斐、吉川、ヘルナンデス、グリフィン、赤星、高梨らが挙げられる。ケガを完全になくすこと(たとえば甲斐の場合のように)はできないが、岡本のケガは彼に複数ポジションを守らせたことによるものだ。要は、選手の健康・メンタル面の管理ができない。

おわりに 

 セリーグにDH制度が導入されるのは2027シーズンからだ。遅きに失した感がある。MLBを見ればわかるとおり、ベースボールは急速に変化している。試合時間短縮のため、さまざまな新ルールが導入された結果、選手はそれに従い、よけいなタイムをかけることがなくなった。投手はピッチロック導入とともに、超小型デバイスを耳に入れなければならなくなったが、MLB各投手は特に問題なくそれらを使いこなしている。 

 デジタル化の波が審判の判定にも押し寄せ、いずれ審判不要の時代が来るかもしれない。「誤審を含めて野球」なんて情緒的野球観は一掃される。誤審によって野球人生を狂わされた選手もいるのだから、厳密かつ正確な判定が可能になれば、スポーツとしての純度が上がる、すなわち実力がより反映されるようになる。昭和の野球では、「長嶋ボール」「王ボール」と揶揄された。巨人のスター選手が見送れば、ストライクであってもボールと判定されたのだ。前出のV9とはそんな不正すら見過ごされ、「栄光の巨人軍」が成立した時代だった。 

 巨人一強はすでに過去のものとなり、地域のチームを応援するあたりまえの野球界が成立しつつある。日本の職業野球近代化の完成まで、あと一歩のところまできている。〔完〕