先日(2026/2/8)行われた51回衆院選、立憲民主党と公明党が合体した「中道改革連合(中道)」は、高市自民党(高市自民党総裁・総理大臣/以降、肩書省略)に惨敗した。選挙前、筆者は中道の結党を主導した公明党は、イソップ寓話のコウモリだ、と拙Blogに書いた。50回衆院選で議席を減らした自民(ケモノ)を見た公明(コウモリ)は、次の選挙では自民との連立を解消し、立憲(トリ)についた方が党勢の拡大が見込まれると考えていたにちがいない、というのがその要約である。
中道は公明党の延命策だったのか
コウモリの戦略はあやまった、と思えるが結果をみるとそうでもない。中道当選者のうち、比例に絞って立候補した公明出身者は候補者全員が当選し、前回衆院選を上回る28議席を獲得した。比例を公明に譲って小選挙区のみに立候補した立憲出身者は総獲得議席数で公明出身者より少ない21議席しか獲得できなかった。つまり、議席獲得数でみれば、小規模ながらコウモリがトリを飲み込んだ。「公明」は「立憲」を肥やしにして、微増ながら議席を増やしたのだ。
中道の旧立憲系候補者が有権者から嫌われた理由については、選挙の専門家が分析を加えているからそちらに譲り、日本の保守主義とはどのようなものかを考える機会を与えてくれた、と受け止め、本稿にまとめてみた。
認知の歪み
筆者は、日本人の大多数がミャクミャクを可愛いと感じていることについて、日本人に「認知の歪み」が生じているのではないかとSNSに書いたことがある。この説に同年代の知人が「(ミャクミャクは)キモイよ」と同感してくれた。ミャクミャクに認知の歪みを感じている者は筆者だけではないようだ。
このことを敷衍するに、高市人気とミャクミャク人気は、日本人の認知の歪みの表象という共通性をもっている、と筆者は感じている。
高市は極右政治家
筆者は、高市及び高市政権について以下のように認識している。
- 過去の発言・行動から、戦前の日本帝国回帰の情念を強く抱く政治家であり、極右に位置する。
- 彼女が尊敬するという安倍晋三の経済政策・アベノミクス(円安容認、国債発行依存といった負の遺産)は現在、生活者を苦しめている物価高、社会保険料の負担増、資産インフレ(大都市における家賃高騰)働く者の実質収入減、その結果としての貧困層の増加、倒産件数増傾向等々につながっている。高市がそれを容認し引き継ごうとしている点からみて、庶民の敵である。
- インテリジェンス強化(「国家情報戦略」)という方針は、国民の思想・表現の自由を侵害する方向に舵を切るものだ。
- 国会で、台湾有事が存立危機事態になり得るとの答弁は、対中国強硬姿勢というよりも、「中国に対する宣戦布告」に準ずるものであるにもかかわらず、いまだ訂正しない。
- 自身と統一教会との関係疑惑が報じられながら、明快な説明がないばかりか、統一教会関係議員を党の要職、内閣の役職に任命している。
- 裏金議員を公認し、党の要職に復帰させている。
- 憲法改正を視野に入れていることを明言している。
- 排外主義、差別思想を容認している。ヘイト発言を繰り返す杉田水脈を大阪5区自民党公認候補とした(結果は落選)ことで、そのことは明らかだ。
- 防衛予算増額による軍事力強化は東アジアの緊張を高めている。
- トランプ政権がめざす米軍の撤退に応じ、自衛隊を米軍の代替兵力として戦う軍隊に再編成し、他国に軍事介入する先兵としようとしている。それに伴い、7項にてふれた憲法改正に動くだろう。
高市政権が進めようとする今後の日本社会は、そこに住むすべての人にとって心地よいはずがない、と筆者は考えていたので、選挙前の「自民党圧勝」というメディアの予想に恐怖さえ感じていた。
メディアと有権者
かつて、「言語明快、意味不明確」と評された首相がいたものだが、高市自民が高い支持を集めた主因は、「ハッキリしゃべれ、中身はしゃべるな」および「いつもニコニコしていればいいんだ」という指示を忠実に実行したことだ、という指摘が的確だと思う。
自民党および同党を支持する諸団体は、選挙運動方針として、高市の政治家としての能力や信条を隠蔽し、「好感度」を前面に打ち出すイメージ戦略をとった。こうしたイメージを浸透するため、新旧メディアが果たした役割は大きい。とりわけ、溢れんばかりに投稿されたSNSのショート動画が有効だったという(筆者は見たことがない)。
高市が投票日直前のテレビ討論会をドタキャンしたことが象徴するように、国や社会のあり方、それを実現するための新たな政策、外交については抽象的な表現に終始し、議論を避けた。統一教会との関係、裏金議員の公認問題、台湾有事発言、円安物価高、消費税減税、積極財政の是非などの国難に係る諸問題ついての明確な答えを発しなかった。
そのことを象徴するのが、「自分が総理でいいか皆様に問いたい」という情に訴える発言を街頭演説で繰り返したことだ。そればかりではない。(野党が)自分をイジメているという印象操作を駆使した。
高市の選挙戦略は、女性が総理になったことを苦々しく思う男(野党)たちが自分をイジメているという構図をつくりあげることだった。忘れてはならないのが、高市が総理就任直後の国会で「台湾有事発言」を引きだした岡田克也(当時立憲所属議員、中道で落選)に対し、「質問したお前(岡田議員)が悪い」という非難がSNS 上に溢れた事実だ。どう考えてもSNS上の愚かな岡田批判に道理はないが、自分は(野党議員に)イジメられているという構図を定着する伏線となった。SNS上の「岡田批判」が高市側から意図的に発せられたものかどうかの確証はないのだが・・・
中道のイメージ
中道結成を推進した5人の政治家(立憲民主党から野田佳彦当時代表、安住淳、馬淵澄夫、公明党からは斉藤鉄夫当時代表、西田実仁)がネット上で「ファイブ爺」と呼ばれ、話題となった。 5Gとはいうまでもなく、第5世代移動通信システムのことで、スマートフォンなどで「高速大容量」「超低遅延」「多数同時接続」を特徴とする最新の通信規格のことだ。本来ならば、5G は斬新なイメージを持つ用語なのだが、中道の結成で登場した5人衆はいかにも「爺さん的風貌」で永田町の手垢にまみれた御仁たちのように映った。
一方の高市は、「ガラスの天井」を破った日本で初の女性首相。筆者はまったくそう思わないが、多くの女性有権者には、おしゃれなキャリアウーマン風に見えたようだ(サナ活)。いつも笑顔でわかりやすい。外国の政治家と渉りあっている・・・イメージに感化されがちな有権者が、どちらに好感をいだいたかは結果が示したとおりだ。
それだけではない。立憲と公明が合体する理由が選挙前・中・後を通じて有権者に伝わらなかった。公明と自民が本格的に連立を組んだのは2012年、第二次安部政権発足以降のことで、爾来10年余りに及んだ。言うまでもなく、立憲の政敵である。政敵どうしが一緒になるには、それなりの理由が示されなければならないはずだが、有権者に届かなかった。高市に「解散」の大義がないように、中道にも「合体」の大義がなかった。中道の結成は解散前だから、選挙目当ての結成ではないにもかかわらず、右でも左でもないぼんやりとした、永田町特産の新政党が誕生したとみられた。選挙が進むにつれて、中道は選挙のためのつまり集票だけを目的としたビジョンなき新政党だとみなされた。
立憲民主党とは
中道を構成する立憲民主党はもともとは日本社会党(マルクス主義政党)の一部を母体とした。それが紆余曲折を経て、ゆるやかなリベラル政党に変容し、二度の野田佳彦代表の下、保守政党に転化した。立憲の支持母体は労働団体の連合であり、社会党時代から変化していない。連合の母体は総評で、1960年代前後、社会党最左派の社会主義協会(向坂派)すなわちオールドマルクス主義者を内包していた。
立憲がある年齢層に支持されてきた理由は、支持層のなかに社会党の残像を求める者が少なからず存在したからだ。その層は自民党の胡散臭さに嫌気を感じ、「55年体制〔後述〕」当時の社会党の残像を追う、アンチ自民およびオールド左翼である。彼ら・彼女らは大都会の「市民」と呼ばれる階層と重なり、宗教団体を支持基盤とする政党にアレルギーをもっている。立憲と公明の合体に失望して当然である。
松下政経塾
中道の共同代表に就いた野田佳彦は、高市と同じ松下政経塾出身である。同塾は本邦から新旧左翼を追放するため、都市型保守主義政治家を養成する教育機関であり、野田も高市もそこで思想的訓練を積んできた。塾を立ち上げた松下幸之助は、当時(1979)、日本の政権を担う保守政党は農業従事者依存から、都市「市民」依存に変わる必要があるという認識を持っていた。幸之助は財閥系ではない、新たな製造業における起業家であり、日本が第一次産業から第二次・第三次産業主体の産業国家に変容し、産業人口もそれに相関することを確信していた。新たな保守政党を担う人材育成が彼の願望だった。そして幸之助の構想は、塾創設から10年余りで達成された。
日本新党
野田の国政政治家としての出発点は、松下政経塾の評議員の1人だった元熊本県知事の細川護煕の下で、小池百合子・前原誠司・山田宏・樽床伸二・中田宏らとともに、日本新党の結党に参加したことから始まる。1992年(平成4年)のことだった。
翌年、総選挙に立候補し当選。この総選挙では日本新党・新生党・新党さきがけが党勢を拡大し自民党を過半数割れに追い込み、8党派による連立政権が誕生する。
連立政権崩壊後、野田は新進党、民主党で指導的地位を固め、民主党政権下で主要閣僚を務め、2011年に総理大臣となるが、同年、安部自民党に政権を奪われ下野。野党の再編成期を経て、2020年、立憲民主党結党後、同党に参加し、2024年同党代表となり、2026年、中道結党と同時に同党共同代表に就任する。
野田はリベラル政治家ではない。松下政経塾で薫陶を受けた、都市型保守主義者であり、自民党と差別化する政策を打ち出すビジョンを持たない。野田は(筆者の推測だが)、英国の労働党が政権奪取後、保守色が強いキア・スターマーを党首に選出し、安定した政権運営を続けている状況を参考にしているはずだ。いまの英国労働党は、保守党と大差がない。立憲民主党が英国労働党に倣って野田を代表に据えたのは理に適っているように見えた。結果、50回衆院選では、石破政権を追い詰めるほどの議席を確保した。2025年10月、高市が自民党総裁に選出すまでは、立憲内の野田一派による「立憲スターマー労働党戦略」は順調に進むように思えた。
戦後日本の保守政党
戦後日本の保守主義を振り返るとき、「55年体制」という概念を整理しておく必要がある。敗戦後(1945)、戦中に弾圧されていた社会主義者等が政治活動を再開し、右派・左派に分裂していた社会党が再統一を果たした。日本社会党の結成である。それに危機感を覚えた財界等が日本民主党と自由党を保守合同に導き、自由民主党が誕生する。こうして、保守と革新の二大政党制が日本に確立する(1955)。これが「55年体制」である。しかし、保守と革新が交互に政権交代を繰り返す、英国(保守党-労働党)、米国(民主党-共和党)のような二大政党制ではなく、自民党政権が38年間続く異形の政治体制だった。〔後述〕
日本の「55年体制」は、自由主義・資本主義経済を目指す保守(自由民主党)と社会の平等と社会主義経済を目指す革新(社会党)の対立すなわち、米国-ソ連の対立(東西冷戦構造)の投影である。
さて、38年間の「55年体制」を振り返る時、忘れてはいけないポリティカル・イッシューがある。それは今日の日本の政治状況を考えるうえでおおいに参考となるものだ。
米国に従属する日本の保守陣営は、リベラルの切り崩し策として、社会党右派議員(西尾末広、片山哲、水谷長三郎)に新党の結党を促した結果、1960年1月、民主社会党(民社党)が結成される。1960年6月の日米安保条約改定を機に、革新が勢力を拡大することを警戒した保守陣営による分断策である。民社党は反共産主義・反ソ連を掲げた。
保守と革新が対立を深めた「60年安保闘争」を乗り切った自民党政権下にて行われた第29回衆議院議員総選挙(1960年7月)の結果は以下の通りとなった。
自由民主党, 296(+9)、日本社会党, 145(-11)、民主社会党, 17(+17)、日本共産党, 3(+2)、諸派・無所属, 6(-6)。 ( )内は前回の第28回選挙からの議席増減数
1960年以降、〈保守-革新〉の対立構造に変化が生じ、自民が党勢を維持し、社会が民社の離反を受け、議席数を減らした。第30回総選挙(1963年10月)でも社会党は更に議席数を1減らし、民社党が6増の23議席を獲得する。
1960年危機を乗り切った自民党は安定多数を維持し、革新の社会党は第三党である社民党の党勢拡大により、長期的トレンドでは縮小傾向に入っていく。二大政党制が日本で確立しない主因は、保守による革新勢力分断策による。「55年体制」は二大政党制ではなく、大雑把に言えば、自民:社会=2:1の衆院議席割合が続いたのである。民社党の出現により、浮動的革新票は社会党から民社党に流出し、自民を側面から支援した。
「1968年革命」の挫折がこの流れを加速した。このムーブメントの挫折は、新旧左翼の衰退を促した。アフター・リベラリズム時代の到来である。1970~1980年代、世界は新自由主義の波にのまれ、ソ連の崩壊(1991)から社会主義国家群が消滅した。日本でも1980年代の中曽根政権下の「民営化」、2000年代の小泉構造改革路線により、福祉国家型経済・社会の残滓が一掃された。日本社会党は1996年に社会民主党に党名を変更し、国政における影響力を失った。
日本の有権者には、〈保守-革新〉の択一を嫌い、「保守的革新」もしくは「革新的保守」を好感する層が一定程度存在しているよう思える。革新を装う新党が常に反自民党票を分断し、自民党を助けるのである。〔後述〕
「55年体制」の崩壊
崩壊は、1993年(平成5年)の総選挙で自民党離党者による新生党、新党さきがけ、細川護熙率いる日本新党が躍進したことに始まる。自民党が大幅に過半数を割り込むと同時に、日本社会党も惨敗した。その結果、新生党、社会党、公明党、民社党、社会民主連合、日本新党が連携し、日本新党の細川を首相とする新政権が誕生する。同年8月、自民党は「55年体制」確立後、初めて野党に移行し、38年間にわたって続いた「55年体制」は終止符を打った。
しかし、自民党が下野したからと言って、日本の有権者の保守的傾向が変化したとは言えない。自民党から政権を奪った新政権の内実は「新保守」とも表現すべき性格をもっていた。日本新党は前出の松下政経塾が目指していた都市型保守政党であり、新生党は自民党からの分離グループである。社会党・民社党等は〝反自民″の一点で新政権に参加したにすぎない。しかも、社会党は1994年6月~1998年6月まで、自民党と連立し、社会党党首の村山富市が首相を務めた。かつてのマルクス主義政党の面影はない。
細川政権の特徴は複数の政党の連立である。この時点で〈保守-革新〉の二項対立は消え、連立型が常態化する。前出の細川連立政権、自民・社会・さきがけ連立政権、民主(鳩山・菅・野田内閣)・国民新党・社会民主党連立政権、自民・公明連立政権、自民・維新連立政権と続く。自民が野党化した前出の民主党連立政権下のおよそ3年間を除くと、自民+公明の連立が、2025年の公明党連立離脱まで続いた。
その間、第49回衆議院議員選挙(2021年10月執行)に向けて、立憲民主党と共産党が野党共闘を実現し選挙に臨んだ結果、自民党は議席を減らしたものの単独で「絶対安定多数」の261議席を獲得。連立を組んでいた公明党も9つの小選挙区で議席を獲得し比例区でも得票を伸ばし、改選前の29議席から32議席に伸ばした。
一方の立憲民主党は日本共産党と一体化を深め、各地で〝野党統一候補〟の一本化を図ったものの比例票が伸びず、改選前を大きく割り込んだ。「野党共闘」の仕掛け人だったと言われた小沢一郎は、これまで不敗だった地元選挙区で落選した。同じく「野党共闘」を主導してきた日本共産党も、改選前の12議席から10議席に減らした。
この選挙結果から窺えるのは、本邦の有権者のあいだに強い共産党アレルギーがあることだ。共産党アレルギーは「革新」アレルギーに通じ、選挙では「自民一択」の有権者が多数派を占めている現実の表象であり、「55年体制」がスタートした20世紀中葉の有権者の政治意識と変わらないことを意味している。もはや日本の政治風土と表現してもかまわないのではないか。
小選挙区制と民意
21世紀における本邦の政治状況を語るうえで、外せないのが小選挙区制度への言及である。
「55年体制」の崩壊と同時にスタートしたのが衆議院における小選挙区比例代表並立制で、1994年1月に当時の細川連立政権の細川護熙首相と野党・自民党の河野洋平総裁とのトップ会談で導入が合意され決定された。この制度を大雑把に言えば(比例復活もあるが)、小選挙区においてトップの票を獲得した候補者が当選する制度だから、たとえ一票でも少ない候補者を支持した民意はほぼゼロに収斂する。
一方でこの制度には、比例代表という政党名を記入する方式が併設されている。これは投票用紙に政党名を書くものだ。この制度により、政党支持率を把握することができる。自民が圧勝した今回選挙結果と比例代表投票数割合と総議席数について検証してみよう。今回の政党別投票数割合(出典:総務省)は下記のとおり。
自民=36.7%、中道=18.2%、参政=7.4%、国民=9.7%、維新=8.6%、共産=4.4%、社民=1.27%、れいわ=2.9%、みらい=6.7%、保守=2.5%、減税ゆうこく=1.4%となっている。
衆院の総議席数は465であるから、比例票割合で換算すると、自民171、中道=85 、参政=35、国民=45、維新=40、共産=20、社民=6、れいわ=13、みらい=31、保守=12、減税ゆうこく=7(総計= 465.小数点以下を調整)。自民党の支持率は4割弱、獲得議席数は171と換算される。
今回総選挙で自民党が獲得した総議席数は316(小選挙区249・比例67)となり、316/465=7割弱(68%)を占める。自民党を支持する割合から換算された獲得議席数と小選挙区を含めた獲得議席数の齟齬は限りなく大きい。
そればかりではない。全国の小選挙区区割りの有権者数の不均等にも問題がある。日本全国中、鳥取1区の有権者数は221,483で全国中最小有権者区である。最大は神奈川15区の453,322。前者の2倍を超える。
鳥取1区の当選者石破茂の獲得票数は66,146だが、東京2区で萩生田光一(79,216票)に敗れて2位となった有田芳生の獲得票数は71,683で、石破茂を上まわる。小選挙区において石破茂を上まわる票数を獲得しながら、トップに至らなかった候補者は少なくない(比例復活はここでは無視し、得票数の比較をする)。ちなみに、小選挙区における最低票当選者は京都2区(有権者数255,259)の前原誠司の49,415である。同区では藤田洋司が36,891票で比例復活している。比例復活にも問題がありそうだが、本稿ではふれない。小選挙区制度が正当な制度かどうか、真剣に議論すべきだ。支持政党の投票数と政党議席数が乖離する現象は今回だけではないし、今後も続くだろう。
衆議院総選挙における小選挙区制は即刻撤廃することが望ましい。日本の選挙は近年、イメージ先行の人気投票すなわち選挙の娯楽化に陥っている。SNS利用による選挙運動がそれをより加速し、実績・政策が無視される。有権者の情報リテラシーが低いという指摘も無視できない。衆院選における小選挙区は、この傾向を極大化し、投票と政権選択が遊離していく。
小選挙区制廃止とともに、ソーシャル・メディアを規制しない公職選挙法の不備を糺し改正すべきである。
日本の政治風土
高市極右政権を支持した日本の有権者は明治維新、アジア太平洋戦争前、戦後をつうじて、日本的保守主義を護持していて、そのことを象徴するのが「自民党」である。その上位には「アメリカ」があると同時に「國體護持」の信仰というか風土というか、明確に規定しえない何ものかがあり、それが多くの有権者の投票行動を支配している。
カール・マルクスは『イギリスのインド支配』(1853年刊行)において、インド問題への総括的視点について、アジア的生産様式とアジア的「村落共同体」への独自の認識を踏まえ、次のように書いている。
一方において、ヒンズー人が東洋のすべての国民とおなじくその農業と商業との基礎をなす包括的な公共事業の配慮を中央政府にまかせていたという事実。(また)他方においてこのヒンズー人が、全国に散在していて、農業的労働および手工業的労働の家内的結合によってわずかに小中心に総括されていた事実――これらの事情が遠い昔から一個の特別の社会組織、いわゆる村落制度をつくっていて、この組織がこれらの小中心のおのおのにおいてその独自な組織と独自の生活とをあたえてきた。
マルクスは、停滞的なアジア的生産様式の形態的特質を、手工業と農業との家内的結合が形成する無数の「小さな中心」の全国的散在と、このような村落共同体を基礎とする自給自足の経済構造、そして無数の共同体を外的に支配するアジア的専制の複合として把握した。そして、《住民は王国の瓦解も分割も意に介しなかった。村の内部経済はそれにもかかわらず、手を触れられずにとどまった》と書いた。筆者はマルクスの言説を以下のように変換し、日本の政治風土の実態を語ろうと思う。
日本の選挙制度における小選挙区という単位が小さな中心として全国に散在する。言うまでもなく、小選挙区は村落共同体を基礎とする自給自足の経済構造をもった単位ではもはやないがしかし、無数の共同体を外的に支配するアジア的専制の複合がこんにちの日本的アジア的共同体を形成している。小選挙区の住民は王国(日本)の瓦解も分割もおそらく、意に介しそうもない。もちろん、村(小選挙区)の内部経済は手を触れられことなく放置され、いままさに滅びを待っている。村の住人は閉じこもり、スマートフォンという極小の画面をつうじて王国から送られてくる「気持ちのいい」動画に嬉々とし、女王の押し活に励んでいる。
マス・メディアによる権力監視もなく、学生・市民運動や街頭における抗議活動(デモ等)が根づかない日本社会は、選挙が唯一の政治に対する意思表示となってしまっている。選挙制度がこのままなら、筆者のような貧困者の未来は閉ざされたままとなるだろう。〔完〕
※ ※
補遺
本稿における保守および保守主義とは、エマニュエル・オーラスティン〔著〕の『アフター・リベラリズムの世界』(藤原書店)の規定に拠る。 彼の言説を以下のとおり要約する。
1789年(フランス革命)のスローガンが「自由、平等、友愛(博愛)」であることは、中学の歴史の教科書にもあるとおりである。1789年すなわち18世紀末から19世紀初頭に支配的であった西欧(アメリカ合衆国を含む)における思想状況をウォーラステインは、(1)保守、(2)リベラリズム、(3)社会主義、に大別する。以下、それぞれの概略を示す。
(1)保守
保守とはフランス革命の思想に逆行、敵対する勢力が信奉するイデオロギーである。この勢力は国王(王室)、貴族、平民、奴隷等を序列化した身分制度を保持し、王族・貴族による国家支配を継続しようとする。強権的国家、教会、複数の共同体の伝統・規範・道徳(私法)に依拠し、言論、移動、職業選択、信仰等の個人の自由を認めず、選挙、議会による政権の移動、行政の執行を認めない(例えば絶対王政)。
「保守主義の父」と呼ばれているエドモンド・バークの著作に『フランス革命の省察』(PHP文庫)がある。ここに書かれた内容が保守主義である。保守とは――
(ⅰ)古来の精神に立ち返ること
(フランス革命による)新政府の樹立という発想は、われわれに嫌悪と恐怖を引き起こす。名誉革命の際も、また現在も、イギリス人は自分たちの権利や自由を「先祖から受け継いだもの」と見なしてきた。代々にわたって継承されてきたこの大樹に、異質な何かを接ぎ木しないよう、われわれは気をつけてきたのだ。わが国(イギリス)における政治改革は、つねに「古来の精神に立ち返る」という原則に従って行われてきた。将来行われる改革も、過去の事例を重んじ、手本とすることを願う。(P86)
自由や権利を「祖先から直系の子孫へと引き継がれる相続財産」として扱うことこそ、イギリス憲法の一貫した方針といえる。それはイギリス人であることこそ、イギリス憲法の一貫した方針と言える。それはイギリス人であることに由来する財産にほかならず、より一般的な人権や自然権とは関係していない。
〔中略〕王位も世襲なら、貴族の地位も世襲、下院や一般民衆がもつ特権や市民権や自由も、代々受け継がれたもの。
これは人間のあり方をめぐる深い思索のうえに定められた方針に思える。いや大自然のあり方にならったものとしたほうが、より的確であろう。自然とは理屈抜きに正しいと感じられるものであり、理性を超えた英知を宿しているのだ。 (P87~88)
(ⅱ)世襲が保守思想の基本
自由や権利は古来から受け継がれたもの、という世襲が保守思想の基本的立場であり、身分制も世襲(変えることができない)とする。・・・社会のどんな階層においても、善を重んずれば幸福が見つかることも理解されると思われる。人間の平等とは、こういった道義性のなかに存在する。身分や階層そのものをなくせるなどというのは、途方もない大ウソにすぎない。こんなウソは、社会の下層で生きねばならない者たちに、間違った考えやむなしい期待を抱かせたあげく、社会的な格差への不満をつのらせるだけである。そしてあらゆる格差や不平等をなくすことは、どんな社会にも不可能なのだ。(P94)
(ⅲ) 身分制、格差、不平等をなくすことはできない
フランスの大法官は・・・あらゆる職業は名誉なもの、と麗々しく宣言した。〔後略〕
しかし、あらゆるものに名誉を与えるとなっては、もう少し突っ込んだ意味合いが生じる。調髪師や獣脂ロウソク職人といった仕事は、誰がやろうと名誉なものではない。・・・もっと隷属的な仕事については言わずもがな。 そういった仕事に就いているからといっていって、国家から迫害を受けるいわれはない。だがこんな連中に(個人としてであれ集団としてであれ)政治を任せたら最後、国家はたいへんなことになる。平等主義に徹することで、フランス人は世間の偏見をくつがえしているつもりかもしれないが、じつは非常識に振る舞っているだけと言わねばならない。(P113)
(4)貴族・聖職者が国の繁栄を支える
フランス革命が生じたとき、ヨーロッパは全体として明らかに繁栄していた。伝統的な価値観や慣習が、この繁栄にどれだけ貢献していたかを具体的に計るのは難しい。けれども両者が無関係であるはずはない以上、伝統は社会にとって有益なものと見なして差し支えあるまい。平等の否定が保守思想の核心 ――バークの保守主義とはこういうことなのだ。身分制を固定的なものと考え、社会の上位者は永遠に上位であり続けられる社会が保守主義者にとってのあるべき社会なのだ。身分による差別、職業による差別、下層とされる人々に対する平然とした侮蔑を臆面もなく表明してはばからない。フランス革命を受け入れないイギリスの保守派知識人の社会観、人間観がよくわかる。
われわれの慣習、さらには文明は、さまざまな良い点を持ち合わせている。これを支えてきたのは貴族と聖職者であった。戦争や混乱のさなかにあっても、学問や文化が存続してきたのは、彼らの努力や庇護のおかげなのだ。経済を重視する政治家は、商業、交易、工業などにばかりこだわるが、これらにしたところで、貴族的精神や信仰心に多くを負っている可能性が高い。(P145)
バークの保守主義はイギリスから大西洋を渡る船に乗って新大陸に流れ着く。北米にやってきた入植者は先住民を虐殺し排除したばかりか、労働力としてアフリカから奴隷として拉致してきたアフリカ系の人々への虐待と差別の正当化の論理として保守主義が一役買った。そればかりではない。イギリス人は今日まで続く人種の序列化を北米において構造化した。貴族のいない新大陸に、WASP(White, Angro-Saxon, Protestant)を最上位とし、その下位にイタリア系、アイルランド系、東欧系…アジア系、アラブ系、アフリカ系を階層化した。アメリカのいまなお続く保守主義は、バークのような保守主義者から受け継いできた結果である。アメリカは、新しいようで古い国なのである。
バークの保守主義は危険思想 である。バークは本書終章で、国体というものの重要性をもちだし、以下のように宣言する。
イギリスにおける国家の基本的なあり方、つまり国体は、国民ひとり一人にとって、計り知れない財産と呼びうる。〔中略〕バークは危険な言説で同書を締めくくっている。日本の近現代史は、「保守」が軍国主義、国家主義、全体主義、帝国主義に変容する過程をまざまざと見せつけている。「保守主義」は唾棄すべき思想である。 そして戦後、敗戦により日本帝国は崩壊し、占領軍の指導の下、日本国憲法が新たに制定された。同憲法はフランス革命の影響を受けた自由・平等の理念を受け継ぐとともに、反戦平和主義を織り込んだ。戦後、80年の経過とともに、戦前社会への回帰(差別・排外主義、帝国主義、軍国主義等)が色濃く日本社会を覆うようになった。
既存の国体を保ち、不当な侵害から守るためには、真の愛国心や自由の精神、および自主独立の気概が欠かせない。わが同胞は誇りをもって「保守」の偉業を果し続けるだろう。(P377~378)
(2)リベラリズム
リベラリズムは前出のフランス革命のスローガンのうちの個人(の自由)を絶対的価値とする。リベラリズムは保守が依拠するものすべてを否定する。保守が守りたい身分制度や規範を打破し、個人の自由への希求により理想的世界をつくりだそうとする。ただし、個人の自由が理想社会を創造するという楽観主義にとどまり、その限界には当時もいまも、リベラリズムを支持する勢力は気づいてはいない、あるいは気づかないふりをして無視している。
(3)社会主義
社会主義は平等を第一義とする勢力のイデオロギーである。フランス革命時においてはマルクス主義はうまれていなかったけれど、ユートピア的平等社会を夢想する社会主義者は革命勢力のなかに含まれていた。彼らは、保守=右翼に対する左翼として一括されていた。その後、19世紀中葉(1848年マルクスの『共産党宣言』)から、産業革命と同時に階層化されたプロレタリアート(工場労働者)に着目したマルクス主義が台頭し、世界を揺るがす政治勢力に成長した。社会主義にはリベラリズムと多くの共通点をみいだせるが、前者は変革の急進性を指向するという運動論において後者と相容れなかった。
