昨晩の遅くに降り始めたのだろうか、
朝起きたら雪が積もっていて、しばらくしてさらに強く降り続けた。
あたり一面、銀世界。
猫のこと、本のこと、身のまわりのこと、とか・・・
『対話 日本の詩の原理』という戦後詩に係る対論がWEBにて掲載中だ。対話者は批評家の池上晴之氏と詩人の鶴山裕司氏(以下敬称略)で、現在(2026/02/06)まで、26回を数えている。毎回、両者の鋭い分析と見解が戦わされると同時に、豊饒な感性と高い知性が織りなす文学空間になっている。今回は『「凶区』と鈴木志郎康の時代-渡辺武信、天沢退二郎、菅谷規矩雄』が題材だ。この対論は「総合文学ウエブ情報誌文学金魚」の提供とある。
筆者は現代詩について体系的に読んだことがないしよく知らないので、この対話について論じる文学的蓄積がない。そこで、この対談で触発された筆者の経験を踏まえた雑感を書いてみることにした。 
興味を覚えたのは、鶴山が作成した【「荒地」以降の主要同人誌と所属詩人】という表だった。表にあるように、戦後生まれの詩人をピックアップすると、60年代詩人=佐々木幹郎(昭22年生まれ)、70年代詩人=平出隆(昭25)、稲川方人(昭24)、荒川洋治(昭24)、80年代詩人=朝吹亮二(昭27)、松浦寿輝(昭25)、吉田文憲(昭22)、林浩平(昭29)となる。なかで、筆者が知っているのは佐々木幹郎氏と荒川洋治氏のみ。前者については、中原中也論を読んだほか、ドキュメンタリー映画『きみが死んだあとで』の「きみ」こと山崎博昭と大阪・大手前高校の同期生として映画に出演していたので覚えていた。山崎と佐々木は新左翼党派の(関西)中核派の活動家だった。
後者は筆者が飲みに行っていた居酒屋の主人の友人で、たまたま居合わせたとき紹介を受けたからだが、話したことはなかった。残念ながら、筆者はご両人の詩を読んだことがない。戦後80年たったいま、鶴山は恣意的選択だとことわってはいるが、主要同人誌と所属詩人のほとんどを筆者が知らない事実に愕然とした。筆者の無教養ばかりではあるまい。おそらく、大衆が詩に興味を失うと同時に市場性を失ったからだろう。
1960年代末から1970年代にかけて筆者が新宿で吞んだくれていた時代、アングラ(アンダーグラウンド)と呼ばれた文化活動が新宿各所で行われていて、おおむね500円で缶ビールつきて鑑賞できた。出し物は暗黒舞踏(の真似)、前衛映画(8㎜)、ロック、フォークソング、前衛芝居などだが、必ず行われていたのが自作の詩の朗読だった。紙と鉛筆で自己表現できる詩作は、「1968年革命」と呼ばれる政治運動と並行して若者のあいだでマイナーではなかった。そればかりではない。雑踏に座り込んで自作の詩集を売る詩人がいたものだ。夜の新宿で石を投げれば、自称詩人に必ず当たったはずだ。彼らの多くが同人誌に集い発行していたかどうかはわからないが、いま、彼らの作品を読むことができない。その時代の詩のレベルが低かったというよりも、市場価値がなかったゆえ、あの時代の詩作に係るエネルギーは雲散霧消し、今日の詩の後退を招いたのだと思う。
以下の記述は筆者の思いつきの段階なので、批判もあろうかと思う。現代詩は歌謡の世界にのみ込まれたのではないか――というのが筆者の推論だ。
60年代後半から70年代、四畳半フォークと呼ばれた大衆歌謡が一世風靡した。それまでの歌謡曲は専門の作詩家が歌詞を書き、同じく作曲家が曲をつくった。ところが、アメリカのプロテスト・ソングの流入とともに、自分で作詩・作曲をして歌うシンガー・ソング・ライターが日本に続出した。もしかしたら、彼らがあの時代の詩作のエネルギーを継承し蕩尽してしまったのではないか、という仮説が立てられないだろうか。
たとえば、「現代詩文庫」に詩集が収録されている友部正人、中原中也の影響を強く受けた友川カズキ、「フォーク・クルセダーズ」解散後、作詞家として活躍した北山修、歌手であり「ディランⅡ」に楽曲を提供した西岡恭蔵らが思い浮かぶ。吉田拓郎、ユーミン、中島みゆき、井上陽水、ソングライターではないが、作詞家の喜多條忠(『神田川』作詩ほか作品多数、元日本作詩家協会会長)、阿久悠、なかにし礼を入れてもいい。
神田川流れ流れていまはもうカルチェラタンを恋うこともなき(『無援の抒情』)
歌人の道浦母都子氏(1947年 ~/以下敬称略)の作である。この短歌のキーワードは「カルチェラタン」で、それが意味するのは、①パリ「五月革命」(1968)の発祥地、②東京神田駿河台の学生街をパリのカルチェラタンのような解放区にしようとした新左翼党派による「神田カルチェラタン闘争」(1968.6)、③海外旅行先として気に入った場所――の3つが考えられるが、道浦の短歌創作の起点となっているのは①②であって、③はまずない。
道浦の神田川は「1968年革命」当時も、そして、それが終わったいまもかわらず流れる自然(悠久の時間)を引き出す象徴である。道浦は、カルチェラタンすなわち「1968年革命」の高揚や祝祭性を恋うることもなき自分を虚無的に見つめるもう一人の自分を確認する。政治の季節が終わり挫折した〈自己〉が浮かび上がる。5・7・5・7・7の短詩としてすぐれた作品だと思うが、筆者はこの短歌に抒情の深さ・強さを感じとることができない。政治的高揚と挫折を端的に象徴するが、広がりがない。普遍的のようでいて、私的である。時代の感覚が限定的で共感を抱きにくい。
貴方はもう忘れたかしら赤い手拭いマフラーにして
二人で行った横町の風呂屋
一緒に出ようねって言ったのに
いつも私が待たされた
洗い髪が芯まで冷えて
小さな石鹸カタカタ鳴った
貴方は私の身体を抱いて
冷たいねって言ったのよ
※
若かったあの頃
何も怖くなかった
ただ貴方のやさしさが怖かった
貴方はもう捨てたのかしら
二十四色のクレパス買って
貴方が描いた私の似顔絵
巧く描いてねって言ったのに
いつもちっとも似てないの
窓の下には神田川
三畳一間の小さな下宿
貴方は私の指先見つめ
悲しいかいってきいたのよ
※くりかえし
生活感があって私的のようだが、普遍的である。「1968年革命」に参加した者そうでない者が共有できる世界がえがかれている。高度成長から物質的・精神的を問わず脱落した男女の対話のような独白のような連語――平易で外来語に頼らない自然な言葉の選択に感心する。
※ ※
短歌と楽曲用に提供された詩を比較するのはナンセンスかもしれないが、喜多条の「神田川」が現代詩の代替として大衆に浸透した代表的作品だと筆者は思わざるをえない。
新宿のアングラ会場で無数に吟じられた詩、そして、雑踏で売られた無数の詩集は、大衆歌謡の世界(市場)に継承され、今日に至っているのではないか、と筆者は思う。〔完〕
筆者の見立てでは、中道の主導権は公明党にある。
その公明党だが、自民党と連立して政権についたのが1999年。2009年〜2012年の野党時代を除き、2025年10月に離脱するまで、約26年間政権与党にあった。こんにちの日本国の衰退を招いたのは、自民・公明政権が続いた26年間という年限に求められる。たとえば、生活者を苦しめている物価高の主因であるアベノミクスは2012年の第二次安倍政権の経済政策であり、政権与党に復帰した公明党は同政策を推進した。また同党は、森友疑惑(2017)、加計学園(2017)、桜を見る会(2019発覚)といった疑惑の解明に動かなかった。森友疑惑では関係する国家公務員が自殺をしている。その安倍晋三が暗殺された旧統一教会問題でも、同党は被害者救済に動かなかった。また、自民党議員の裏金問題についても容認した。
公明党が昨年10月に自公連立から離脱した理由はよくわからないが、連立政権時代の政策・疑惑について、かつてどう考えていたのか、そしていま、どう考えているのかを明確に有権者に示さなければならない。「連立政権時代の悪政は自民党のせいで、公明党は悪くありません」ではすまない。
イソップ寓話に「鳥と獣とコウモリ」の話がある〔註〕。獣(自民党)が優勢の時にはコウモリ(公明党)は自分たちは獣だと言い、鳥(立憲民主党)が優勢になると、自分たちは鳥だと言っているようにみえる。獣と鳥が争いをやめた時、コウモリは双方から疎んじられ、暗い洞窟で暮らすことを強いられたというのがこの寓話の結論だ。日本の政局では獣(自民党)と鳥(立憲民主党)が争いをやめることは、しばらくはないだろうから、コウモリを裁くのは有権者ということになる。
* *
中道が自民・維新から政権を奪い、公明党が前出の自公連立政権時代に起きた疑惑等々の真相解明に動くことが確認できるならば、筆者は中道を支持する。少なくとも、前出の森友問題で自死した国家公務員の弔いになる。〔完〕
〔註〕昔、地上の動物達は皆仲良しだったが、ある時から獣と鳥に分かれ、どちらが強いかで戦いになった。身体が小さい鳥はいつも劣勢で、その様子を見ていたずる賢い一羽のコウモリは、獣が有利になると獣たちの前に姿を現し、「私は全身に毛が生えているから、獣の仲間です」と言った。そして、鳥が有利になると鳥たちの前に姿を現し、「私は羽があるから、鳥の仲間です」と言った。
その後、鳥と獣が和解し戦争が終結する日がやってくる。しかし幾度もの背信行為を重ね、双方にいい顔をしたコウモリは、「お前のような卑怯者は二度と出てくるな」と皆に嫌われ仲間はずれにされてしまう。居場所のなくなったコウモリは、やがて暗い洞窟の中へ身を潜め、皆が寝静まった夜だけ飛ぶようになった。(Wikipediaより)
きのう(1月17日)、「最新のアナログ・リマスター盤で聴くザ・バンド『Northen Lights-Soututhrn Cross(邦題:南十字星』」という音楽イベントに行ってきた。 (「アナログ天国/西荻窪)
このイベントは、『ザ・バンド 来たるべきロック』の著者・池上晴之氏が1曲ずつ聴きどころを案内し、われわれ参加者がじっくりと鑑賞するというものだが、くだんのレコード鑑賞会とは一味も二味もちがった。
会場の「アナログ天国」が擁する ALTEC A7(スピーカー)と真空管アンプを核に構成したオーディオシステムが、マスターテープから新たにアナログ・リマスターされたVinylphyleシリーズの良さを驚異的に再現し、鑑賞者を魅了した。
池上氏の解説が秀逸で、解説を受けた後に楽曲を聴くと、ザ・バンドの音楽性の高さが確認できる。あたかも、ザ・バンドのメンバーが天国から「アナログ天国」に降臨し、演奏を始めたのかと思うばかりだ。
池上氏の「ぼんやり音楽を聴くのもいいけれど、じっくり聴くことも大切」という趣旨の言説が印象に残った。
エレベーターの扉が閉まったとき、「成人ですか」とわたし、「はいそうです」と女性、「おめでとうございます、きれいですね」とわたし、「ありがとうございます」と、満面の笑みの彼女。エレベーターの扉が開き、互いに微笑みを交わし無言で別れた。
一人になったわたしに説明できない至福感が漂った。祝福される喜びもあるが、祝福する喜びもあるのだと。声をかけてよかったと。
いま思えば不思議だ。こういう時代、エレベーターという密室のなか、知らない男から声をかけられれば警戒して当然、わたしはガン無視される可能性もあった。そうなれば不快感だけが残っただろう。
振り返れば、エレベーターの扉が閉まったとき、そんなことはまったく思わなかった。「声をかけなさい」と、――そして、一分にもみたない時間をおいて扉が開いたとき、「もう、なにもいうな、これ以上、彼女にかかわるな」と、――神(のようなもの)が私に命じた。
彼女は美人ではなかったけれど、美しかった。がんばったすこし濃い目の化粧がそれを強調した。なによりも若さが明るい未来を指し示していた。 〔完〕
●和光晴生〔著〕 ●彩流社 ●2000円+税
日本赤軍とは何だったのか――読んでみると新たな発見があった。著者(和光晴生)の述懐という一方的な情報からのみ本題の問いの解を示せば、以下のとおりになる。日本赤軍とは――それを一言で言えば――重信房子の私党であり、いまなお、私党であり続けていると。
「日本赤軍」という組織名の由来を辿れば、1969年9月5日、全国全共闘結成大会で暴力的に登場した共産主義者同盟赤軍派(以下「共産同赤軍派」と略記)の結成を基点とする。このとき初めて日本の新左翼組織に「赤軍」という名称が使われた。同派は新左翼各派のゲバ棒街頭闘争の限界を軍事的に突破することを目指した。しかし、1969年11月5日、大菩薩峠における軍事訓練中に官憲に踏み込まれ、幹部・活動家の大多数が逮捕され壊滅的打撃を受けた。1970年3月31日、逮捕を免れた幹部と活動家数人が日本航空「よど号」をハイジャックし北朝鮮に亡命した。〔後述〕
幹部不在となった同派は京浜安保共闘革命左派と合流し連合赤軍を結成したものの、1971~1972年、山岳ベース・リンチ殺人事件、あさま山荘事件など数々の殺人事件、リンチ殺人を起こして消滅した。ただし、連合赤軍に参加しなかった同派の残党(重信房子ら)は地下に潜った。
ことほどさように、「赤軍」という組織名は共産同赤軍派・連合赤軍の非合法活動により、日本国内ではきわめてネガティブな印象を与える呼称となった。とりわけ、連合赤軍による同志リンチ殺人は新左翼の大衆的支持喪失の引き金となったと言われている。
「赤軍」という名称は日本では悪評ところが、人々が敬遠するほど忌み嫌われたものだったが、アラブ世界では、日本国内と真逆の評価を受けた。
1972年5月30日、イスラエルの国際空港において、パレスチナ解放を目指す日本人3名(岡本公三、奥平剛士、安田安之)が空港内で銃を乱射し、26人を殺害した。奥平、安田は現場で死亡し岡本だけが逮捕された。和光は本書ではこの闘争を「リッダ闘争」と表記しているが、日本では「テルアビブ空港銃撃事件」として浸透している。岡本、奥平、安田は「京都パルチザン」というグループに属していて、共産同赤軍派ではなかった。〔後述〕
なお、テルアビブ空港は、ベン・グリオン空港と名称を変更した。
「リッダ闘争」は中東戦争に敗北し鎮静化したアラブ世界の反イスラエル闘争、パレスチナ解放闘争に火をつけた。逮捕された岡本公三はアラブ人民から英雄視されたのである。逮捕された岡本公三はその後の裁判で次のように発言した。この発言を契機として、日本赤軍が誕生することになる。
革命戦争はこれからも続くし、いろんな星(犠牲者)が増えると思う。
警告しておく:赤軍兵士は常にどこでもブルジョア側に立つ人間は(を)殺戮すると。(『日本赤軍 vs 日本警察』知られざる攻防/NHKテレビ)
The revolutionary war will continue, and I believe more planets will join the cause. Let me warn you: Red Army soldiers will slaughter anyone who sides with the bourgeoisie, anywhere and anytime.
かくして、日本人の「赤軍兵士・岡本公三」は、アラブ世界で知らない人がいないくらい有名になった。
前出のとおり、「リッダ闘争」は、日本赤軍の母体である共産同赤軍派とは異なる「京都パルチザン」によるものだった。岡本が発した「赤軍兵士は・・・」は党名、軍事組織名ではなく、パレスチナ解放闘争から世界革命を担う革命兵士という意味を込めた象徴的表現だった。とはいえ、「京都パルチザン」と共産同赤軍派がまったく関係ないとも言えない。なぜならば、奥平と重信は婚姻関係にあったからだ。
重信房子は学生時代、共産同の学生組織である社会主義学生同盟の活動家として革命運動のスタートを切り、その後、共産同赤軍派に属し、「リッダ闘争」前にベイルート入りしていた。重信に課せられた使命は同派が掲げていた国際根拠地論に基づく海外拠点づくりである。1971年、2月に神戸市で「京都パルチザン」の奥平剛士との婚姻届を提出、「奥平房子」という戸籍を得て出国していた。
ベイルート入りした重信、奥平らは、国際義勇兵としてPFLP〔註1〕に個々の意志により参加し、レバノンのベカー高原を主な根拠地に軍事訓練を受けていた。「リッダ闘争」と重信は、死亡した奥平との婚姻関係(偽装結婚といわれている)という一点で無関係ではないが、組織的関係はなかった。
〔註1〕PFLP(パレスチナ解放人民戦線/ Popular Front for the Liberation of Palestine):1967年に設立されたパレスチナの政党・武装組織。パレスチナ解放機構(PLO)に参加している。
共産同赤軍派が重信に課したプロジェクトは順調に進んではいなかったのだが、「リッダ闘争」という強い追い風が吹いた。重信は「リッダ闘争」でアラブ諸国から英雄視された日本人コマンド・岡本公三が発した「赤軍兵士・・・」という呼称を「日本赤軍」としてブランド化した。共産同赤軍派から日本赤軍への飛躍は、重信が属していた共産同赤軍派が自らの手で成し遂げたものではなく、「京都パルチザン」によって切り開かれたものだ、と筆者は思っている。
「リッダ闘争」の直後、重信とPFLPとの共同声明の中で、「『日本赤軍』結成の日」との表現が使用された。ただし、組織名称を公式に「日本赤軍」としたのは1974年である。〔後述〕
重信の構想をバックアップしたのがパレスチナ解放を公然・非公然で目指すPFLPのアブ・ハニ氏が率いる一派である。前者にとっては、「日本赤軍」という名称の公然・非公然組織をつくる絶好の機の到来であり、後者にとってはアラブの英雄・岡本公三が所属した「日本赤軍」が傘下に入ることは望むところだったにちがいない。重信に課せられたプロジェクトが完成に近づいた。
繰り返すが、日本赤軍とは――「京都パルチザン派」2名の死をもってアラブに齎した遺産を掠めとって命名された組織名である。
実体上、日本赤軍の最高幹部となった重信房子は日本に向けて、日本赤軍の下、パレスチナ解放闘争に参加するよう発信を続けた。PFLPのプロパガンダ映画も日本人映画監督によって制作され、日本各地で上映された。こうして、日本の若者がアラブを訪れるようになる。この間、紆余曲折を経て、前出のとおり、重信は前出のアブ・ハニ氏から離れ1974年、日本赤軍の正式創設に至った。
筆者は、重信房子が日本赤軍の非公然活動にどのように関与したかについてはなにも知らない。イデオローグ?スポークスマン?連絡役?調整役?・・・筆者が思い描く重信房子は、オフィス、電話、テレックス、レジュメづくり、書類にかこまれた日常、そして、交渉、連絡、同志を集めて会議をする姿である。
日本赤軍というよりも、重信房子が「北の国」と和光が称する国家と関係をもっていたことを本書で初めて知った。北の国とは、前出のとおり1970年、共産同赤軍派9名が「よど号」(日本航空351便)をハイジャックし、亡命した国のことだ。和光によると、1975年、重信房子は北の国を訪問したことになっている。
日本赤軍は「よど号グループ」との協力関係は実現しなかった、と公式に発表している。亡命から5年を経過した「よど号グループ」はハイジャック当時に描いていた共産同赤軍派の世界革命戦略を放棄し、「北の国」の革命思想(一国革命路線)に感化されていたため、日本赤軍が目指す「世界党-世界赤軍-世界革命戦線構築」とは相いれなかったからだとされている。
しかし、重信房子は「よど号グループ」から強い影響を受け、「自己批判-相互批判による思想闘争」を日本赤軍内部に提起したという。この「思想闘争」という概念は田宮高麿(「よど号グループ」リーダー)が北の国の革命論に感化されたもののようだが、和光はその内容にはふれていない。
それだけではない。和光は重信房子と北の国との接触はPFLPの仲介なくしては実現不可能であり、パレスチナ解放勢力と北の国のあいだには、緊密なネットワークが形成されていて、重信房子が拉致問題と無関係ではないと示唆しているように読める記述が本書にある(本書P232~233)。
上記見出しは、本書第6章に付された表題である。この章から和光の文体は著しく変化する。同章は〈『1968』(小熊英二著)を糺す〉〈「70年代のパラダイム転換」とは何だったのか〉〈「同感力」・「共感力」〉の3節で構成されている。
和光は第1節において、小熊の『1968』を次のように批判する。
彼(小熊)の論点の前提には、人が闘いに立つ動機は「不幸」である、という考え方があるようである。
果して、人は「不幸」の故にのみ闘いに立つのだろうか。
「不幸」を起点とする、怒り・憎悪・怨恨・ねたみ・やっかみ、などのネガティブな動機からでは、報復のための闘いにしかならない。私は自分自身の体験からそんなふうに考えるようになった。
〔中略〕
・・・リーダーの位置にいた重信房子さんが「貧乏への嫌悪」を自らの行動の動因の一つにしているのではないか、ということだった。(本書P247)
重信房子の父親は厳格な「憂国の士」である一方、そのことが家業の食料品店を営む上ではマイナスとなり、家庭は決して裕福でなかったことを和光は重信から聞かされたという。それらの体験が、重信にとって貧しい人々や虐げられた人々への憐憫、同情の念を生むのか、という印象を和光は感じたと書いている。和光が重信に抱いた印象は、いわゆる人道主義だ。自分が不幸だから闘うというのと、他者の不幸を憐れんで闘いに立つのとは似たように思われるが、そこには千里の径庭がある。貧しい人々、虐げられた人々と、そのような他者の不幸を憐れむ者とがつながるのが、後者が抱く「同感力」「共感力」なのだ、というのが和光の論理だろう。
ところがその直後に《(重信房子は)裕福な階層や、いわゆる「セレブ」な人々に対する反発を抱くようになったのではないか、という印象を、私はアラブでの(重信との)初対面の当時から受けていた(本書P248)》、と書き足している。そして、以下に続く。
70年代の初め頃は、海外旅行者や海外に駐在する商社員などは、まだ裕福な階層と思われる時代だった。在アラブの日本人グループが、当時、旅客機ハイジャック作戦や、商社員誘拐作戦などを次々と計画し、実行した背景に、それらの「セレブ」や富裕層に対するネタミ・ヤッカミの類の感情も働いていたのではないか、ということが今現在の私のとらえかえしにはある。(本書P248)
第6章がいつ書かれたか不明だが、かなり混乱した書きぶりである。重信房子について、人道主義に立って貧しい者のために闘うという印象を受けながら、一方で重信が「セレブ」に対する反発を闘いの原点だと受けとめた、というのでは矛盾をきたす。しかも和光は、アラブに参集した自分自身を含めた日本人グループまでもが「セレブ」や富裕層に対するネタミ・ヤッカミの類の感情も働いていた、という。この言説は、和光の革命家としての立脚点を全否定するに等しい。和光の闘争の原点がそこだったとしたら、小熊のいう、人が闘いに立つ動機は「不幸」である、を全面的に認めたように読めてしまう。
和光は小熊の前掲書にある「70年代のパラダイム転換」において、小熊の言説を認めつつ、次の節では次のように書いている。
かつて、70年代初めに、日本からアラブの地へと結集していた人たちも、日本国内で感じていた閉塞感とかの「現代的不幸」を出国の契機としていただけではなく、パレスチナの人々の難民としての来し方への同情、最下層社会たる難民キャンプで懸命に生きる姿への共感、そして彼らの解放へ向けた闘いへの連帯感を抱き、それらの想いを実際の活動によって表現しようとすることもまた、大きな契機となったはずである。
それらの想いは、決して「不幸」というキィーワードで括られるものではない。(本書P254)
ここでは前出の「セレブ」に対するネタミ・ヤッカミ云々は消され、人道主義的きれいごと的表現に回帰している。アラブに来るまでは人道主義的想い(同感力・共感力)を契機とし、アラブに来るや、日本人「セレブ」に対するネタミ・ヤッカミ感情が武装闘争の戦術に盛り込まれたというのだろうか。和光の論理からはそのように解釈する以外にない。
和光の小熊批判が支離滅裂に陥ってしまった主因は、小熊の「不幸」という表現にとらわれすぎたためだろう。近代的不幸、現代的不幸を問わず、人が闘争に立つ契機は〈疎外された〉者であるとの自覚からだ。他者の不幸を憐み、それを糺そうと闘争に参加するのは憐みからではなく、不幸な者を救いたくても救えない〈疎外された〉者であることの克服のためだ。裕福な「セレブ」に対して反発を覚え、彼らをなんとかしようと闘いに立つのは、自分一人では彼らを抹殺できない〈疎外感〉から、自己回復の手段として、武装闘争に参加するのである。
1960年代末期の全共闘運動では、多くの活動家が自己否定の論理の下に運動に参加した。大卒の肩書を得てエスカレーター式に社会に出れば、中流より上の階層に到達できる自己を否定する。当時の大学進学率は20%程度だったから、そのような否定の論理が有効だった。結果、ベトナム戦争に加担している自己、パレスチナ抑圧に加担する自己・・・自己を否定する精神性は死に至るまで拡張する。日本の全共闘運動に参加した若者と、日本からアラブに飛んでパレスチナ解放闘争に参加した若者とは、1万3千キロ離れていても共通していた。
1960年代末期、世界は冷戦という奇妙な均衡の下、対立しているはずの東西の市民社会にほぼ同様の閉塞感が充満していた。東と西はイデオロギーと経済体制に相違があったものの、両陣営には官僚支配による抑圧的管理社会が形成されていたという共通点を持っていた。それに対する反発が「1968年革命」である。
「1968年革命」は頓挫し、以下のような帰結に至った。スラヴォイ・ジジェク〔註2〕に従えば、①過激な形での性的な享楽の探求、②左派の政治的テロリズム、③精神的経験の〈現実界〉への志向(東洋の神秘主義)――の3点に集約される。日本赤軍の登場は②にあたり、(西)ドイツ赤軍派、イタリアの赤い旅団などと同列に分類される。
ジジェクは《大衆が資本主義のイデオロギーの泥沼にどっぷりつかった時代には、もはや権威あるイデオロギー批判も有効ではなく、生の〈現実界〉の直接的暴力、つまり、「直接行動」に訴えるよりほかに大衆を目覚めさせる手段はないと考え、(ドイツ赤軍派、赤い旅団、日本赤軍等は)そこに賭けた》と書いている。
「1968年革命」の帰結の後に登場したのが、1968年革命の平等主義かつ反ヒエラルキー的な文言を昂然と復活させ、法人資本主義と〈現実に存在する社会主義〉の両者に共通する抑圧的な社会組織というものに対して、勝利をおさめるリバタリアンの反乱の出現だった。
この新たな自由至上主義 はネオリベラリズム(新自由主義)、フリー・マーケット・システム(市場原理主義)などと呼ばれ、経済学なのかイデオロギーなのか判別しにくいが、日本を含めた多くの国の人々の価値観・思考・行動を規定し、新たな社会的風潮(資本主義の新たな精神)をつくりあげる原理となった。なお、経済学における「ポストモダン資本主義」については、ここではふれない。
ジジェクは、前出の①過激な形での性的な享楽の探求、②左派の政治的テロリズム、③精神的経験の〈現実界〉への志向に共通するのは、直接〈現実界〉に触れる具体的な社会・政治的企てからの逃避だった、書いている。
和光は前出のとおり、70年代初めに、日本からアラブの地へと結集していた人たちが日本国内で感じていた閉塞感そして「現代的不幸」を出国の契機としていただけではなく、難民となったパレスチナの人々への同情、最下層社会たる難民キャンプで生きる姿への共感、そして彼らの解放へ向けた闘いへの連帯感が活動を志す大きな契機となったはずだ、と書いたが、和光の「共感」「連帯」からの〈活動による表現〉という説明からでは、なぜ、日本国内(直接〈現実界〉に触れる具体的な社会・政治的企て)へのコミットではなく、遠いアラブの地の解放闘争なのか――という疑問に答えられない。
ジジェクの上記3分類における、②左派の政治的テロリズムと③精神的の〈現実界〉への志向(東洋の神秘主義)には、場所的・空間的な隔離を伴うという共通点を見出すことができる。③に分類されるヒッピーのコミューンは人里離れた僻地やアジアの宗教の聖地(バリ島のクタビーチ、カトマンズ、インドのゴヤなど)が選ばれた。オウム真理教がサリンを製造した上九一色村(現在は廃止)のサティアンも自然豊かで風光明媚な村だ。人民寺院(Peoples Temple of the Disciples of Christ Peoples Temple)事件は信者918人が自殺・殺害により命を落とした大事件だったが、舞台は彼らが南米ガイアナに信徒が開拓したコミューンで起きた。ヤマギシ会の共同農場(ヤマギシ村)も外界と距離をおいたところにある。こうした、コミューン、キャンプ、共同農場などは指導者が信者を僻地に囲い込み、外界から遮断するためのものだ。
②の政治的テロリズムでは、全共闘運動の「バリケード」、共産同赤軍派よど号グループの「北の国」、連合赤軍の「山岳ベース」、日本赤軍の「アラブ」などを挙げることができる。
左派は革命理論(国際革命根拠地づくり等)に基づいた戦略的行動だと説明するだろうが、筆者には、直接〈現実界〉に触れる具体的な社会・政治的企てからの逃避の場のようににうつる。〔完〕
〔註2〕『ポストモダンの共産主義』(スラヴォイ・ジジェク〔著〕ちくま新書)

筆者が登録しているSNSに‘‘True Stories” という記事が偶然、流れてきた。ザ・バンド解散の「真相」を伝えるというのが主意である。ザ・バンドとは(ここでは詳細を省くが)、1960年代末から1970年代中葉にかけて活躍したロックバンドで、メンバーはカナダ人4人(ロビー・ロバートソン、リック・ダンコ、リチャード・マニュエル、ガース・ハドソン)、アメリカ南部人1人(レヴォン・ヘルム)で構成されていた。いまや伝説と化したグループで、音楽性が高く評価されている。この記事ではその中の1人、レヴォン・ヘルムの大きな顔写真が目を引いた。
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| レヴォン・ヘルム |
「真相」というのはほかでもない、メンバーのリーダー格と言われるロビー・ロバートソンと、彼と対立するレヴォン・ヘルムとの確執であり、強欲のロビー・ロバートソン、純粋なレヴォン・ヘルムというナラティブの定着に有力な情報を与える内容となっている。〔 ‘‘True Stories” の本文と翻訳は後掲〕
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| 映画『ラストワルツ』より |
ロビーがほぼ独り占めしたと思われる莫大な富は、彼がザ・バンドに貢献した結果として受け取るに足る正当な報酬なのか、それとも仲間を騙した不当なそれなのか――を判断する情報を筆者は持っていないが、ただ言えるのは、映画『ラスト・ワルツ』を企画したロビーと監督のスコセシにとって、映画が興行的に大成功をおさめるためには、このイベントがザ・バンドの解散コンサートであるという名目が絶対に必要だったということだ。一方、ロビーを除く他のメンバーはこのイベントが解散を前提とするものとは思っていなかった。レヴォンは、「バンドそのものの終わりではなく、ツアーの送別会だと思っていた」とある。レヴォンの怒りはそこから発したと筆者は推測する。
そればかりではない。『ラスト・ワルツ』撮影の休憩中に、「法律の担当者がレヴォンに書類を手渡した。それは、この映画とサウンドトラックの将来の著作権使用料を正式に定めたものだった。また、レヴォンが長年抗議してきた作曲クレジットの分割も確定したものだった。彼は、この音楽は、ロバートソンが最終的な歌詞を書くずっと前に、リック・ダンコ、リチャード・マニュエル、ガース・ハドソンが核となる部分を形作り、一節ずつ、その部屋の中で作り上げられたものだと信じていた。レヴォンは、ロバートソンに主なクレジットを割り当てるそのページをもう一度読み返した」とある。この期に及んで、レヴォンはロビーに騙されたことを確信したようだ。
ザ・バンドは解散したというものの、実際はロビーが離脱しただけで残りのメンバーはザ・バンドを名乗り、ライブおよびアルバム制作を続行した。日本でも複数回公演を重ねている。しかし、怒りのレヴォンはその後、病魔に襲われ、また経済的困窮にも見舞われた。が、それらを克服し、「ミッドナイト・ランブル」〔註〕を創設し、そこを活動拠点として復帰した。「(人々は)レヴォン・ヘルムの不変の部分を見た。彼は現れ、誠実に演奏し、誰にも自分の結末を書かせようとはしなかった」(終わらなかった)。
筆者はたとえ間違っていたとしても、心情的にロビーよりもレヴォンの肩を持ちたい。ザ・バンドの成功の果実はメンバー全員で分かち合うべきだと思うからだ。〔完〕
〔註〕「ミッドナイト・ランブル」とは、レヴォン・ヘルムがニューヨーク州ウッドストックにある彼のスタジオに創設した音楽コミュニティ。ザ・バンドとレヴォン・ヘルムの象徴的音楽を演奏しながら、レヴォン・ヘルムの伝説を守り発展させている場。レヴォンの娘のエイミーはこうコメントしている。「父(レヴォン・ヘルム)は再生とコミュニティの精神を掲げてミッドナイト・ランブルを創設した」と。
なお、ミッドナイト・ランブルとは、人種差別時代にアフリカ系アメリカ人向けに深夜に映画を上映することであり、ジム・クロウ法(19世紀後半から20世紀初頭にかけてアメリカ南部で導入された州法と地方法であり、人種差別を強制するもの)の下では他の時間帯では決して入場が許可されないような映画館で上映されることが多かった。上映される映画は、1910年から1950年の間にアメリカ合衆国で黒人のプロデューサー、脚本家、俳優、監督によって制作された500本以上の映画が選ばれることが多かった〔Wikipedia〕とある。また文字通り‘‘深夜のぶらつき”という意味かも知れない。いずれにしても、レヴォン・ヘルムが、ミッドナイト・ランブルにどのような意味を込めたかは不明である。
カーネーションの直枝政広さんと『ザ・バンド 来たるべきロック』の著者・池上晴之さんのトークイベントに行ってきました。
アルゼンチン盤ブラウン・アルバムやドイツで発売されたドーナツ盤などレアなレコードが聴けました。
直枝さん曰く「ザ・バンドは普遍的だ」というのが本日のキーワードでしょうか。
原因は明らかで、地方における人口減、高齢化であり、それにともなう、耕作放棄地面積の増加や、里山といわれる集落――田畑・水辺・その周辺の二次林などが融合した地域――の荒廃が、人間とクマを隔てていた境界を市街地側に引き寄せた結果だと思われる。里山において、人間集団が活発に生活していたならば、クマはそこを境界として奥山にみずからの生活圏を定めていたはずである。
クマ被害が多発する秋田県を例に取ろう。
秋田県の人口は(2022年8月時点での推定)93万2227人、面積が 11,610 km²である。東京23区の世田谷区(人口:950,540人、 面積:58.05㎢)と比較すると、およそ200倍の広さのところに、2万人少ない人が住んでいる――それが秋田県である。 その他のデータ〔註〕をみても、秋田県の民力低下が著しい。
〔註〕人口増減率:-1.47%(全国47位)、自然増減率:-1.03%(同47位)、社会増減率:-0.44%(同47位)、死亡率:人口1000対15.8人(同1位)、出生率:人口1000対5.2人(同47位)、高齢化率: 36.4%(同1位)、75歳以上高齢化率:19.7%(同1位)、年少人口比率:10.0%(同47位)、婚姻率:人口1000対3.1人(同47位)
クマが秋田諸地域の民力低下を本能的にかぎ分け、市街地への侵攻を開始したと考えて不思議はない。それまで活発に人や車が行きかい、クマには近づきにくかった市街地だったが、民力低下とりわけ高齢化によって、市街地の活力が失われ、そこがクマにとって危険の少ない脆弱な生き物(人間)が棲む地域へと変容した結果が、人間にとってのクマ被害となって表出している。
人口増、高齢化の早急な歯止めは不可能だ。即効性があるのはすでに行われている、自衛隊派遣である。自衛隊部隊とライフル等殺傷力のある武器を携行できる警察官、民間ハンター、自治体職員(全国から応援も必要)が部隊を編成し、県内のクマ出没地域を重点的に巡回し、クマを見たら、ライフルで即刻駆除する以外にない。そこでクマが部隊すなわち人間を恐怖の対象だと学習すれば、人間とクマの境線が山間地等に後退し、越境するクマは減少するだろう。とにかく、人海作戦で境界を山奥へと押しを戻すほかない。
いまのところ、残念ながら、即効性ある対策としては、人海作戦以外思いつかない。短期間だが、大規模な部隊の展開が必要となろうが。〔完〕