2018年12月31日月曜日

大晦日、今年最後の忘年会

恒例となった、Sさん&Mさん邸における大晦日の忘年会。

筆者にとって、もちろん今年最後の忘年会です。

名酒、おいしいお料理、笑いがたくさんの楽しい夜となりました。





2018年12月26日水曜日

『国体論―菊と星条旗』

●白井聡〔著〕 ●集英社新書 ●940円+税

本書は、国体という概念を媒介に日本の近現代史を読み直しつつ、現在の安倍政権を痛烈に批判するという建付けである。著者の白井聡は戦後日本の諸状況について、「永続敗戦」という著者自身になる造語概念を使って規定する政治学者。本書はその論の発展的展開として位置づけられる。それゆえ、まずもって「永続敗戦」の原理をおさえておく。
「永続敗戦」とは(略)、日本の戦後レジュームの核心を指示し、その特殊な対米従属の在り方を解明するための概念である。その原理は、アメリカのアジアでの最重要の同盟者となることによって、第二次世界大戦における敗北が持つ意味を曖昧化すること、すなわち、「敗戦の否認」である。敗戦の否認を続けるためには際限なくアメリカに従属せねばならず、際限のない対米従属を続ける限り敗戦を否認し続けることができる。かくして、負けを正面から認めたくないがために、永遠と負け続ける。この原理を主柱として、親米保守派がその支配に鎮座し続ける体制が「永続敗戦レジューム」である。(本書註:P342)(※『永続敗戦論―戦後日本の核心』講談社+α文庫、2016年、61~77頁参照)
日本の現代史における国体

(一)北一輝の『国体論及び純正社会主義』
日本の近現代史において、筆者の記憶に残る国体に係る事案は3つある。最初のそれは1906年(明治39年)、北一輝の処女作『国体論及び純正社会主義』の発刊である。北一輝は後の2.26事件(1935/昭和10年2月26日)を起こした青年将校に強い影響を及ぼした思想家。北一輝の思想は本書で詳細に取り上げらえているので説明を省くが、大雑把にその肝を示せば、天皇は国民のためにあるという、「天皇機関説」の範疇にある。北一輝が2.26事件の思想的指導者として死刑に処せられた理由は、北の天皇論に影響された青年将校により国家転覆未遂事件が起きたからにほかならない。

(二)「国体明徴の声明」
第二番目は、2.26事件の直後、同年8月に、ときの政府が発表した「国体明徴の声明」である。この声明は、軍部及び右翼が天皇を統治権行使の機関とみる学説を攻撃し、その主張者美濃部達吉を「学匪」ときめつけたので、天皇機関説事件ともよばれる。「国体明徴の声明」はときの権力者が北の思想と2.26事件を経験し、いま国体は危機にある、という認識から発せられたともいえる。貴族院・衆議院とも国体明徴を決議し、美濃部は貴族議員を辞め、その著書『憲法概要』『憲法精義』は発禁となった。これをもって政府は軍部の要求に負けて天皇機関説を排撃し、議会主義を否定し、学問言論思想の自由に強く干渉するようになる。

ときの岡田啓介内閣が発した「国体明徴の声明」は、その後の軍部独裁、アジア・太平洋戦争突入という、日本現代史の転換点を象徴する重大な事件だった。

国体明徴事件が示すとおり、戦前の軍部、右翼によって持ち出された国体とは、著者(白井聡)の表現を借りれば、“万世一系の天皇を頂点に戴いた「君臣相睦み合う家族国家」を理念として全国民に強制する体制(P3)”と定義される。天皇を絶対不可侵・超越的存在の神として崇め、日本国民は臣民として天皇(の命令)に絶対服従しなければならないとする国家原理とも別言できる。なお「明徴」とは、「明らかにする」と同義である。

(三)敗戦直前、戦争終結条件としての国体護持
国体が次に顕在化するのは、日本のアジア・太平洋戦争末期、日本の敗戦が決定的となり、連合軍からポツダム宣言(無条件降伏)の受諾を強いられたときであった。ときの日本帝国の為政者は、戦争終結の条件として国体護持に執着したため、無条件降伏を受け入れなかった。そのため連合軍の本土無差別爆撃(1944/6~1945/8)、沖縄地上戦(1945/3)、広島・長崎原爆投下(1945/8)という、連合軍による、日本の民間人大量殺戮を招き寄せた。

それでも無条件降伏を頑なに拒んだ日本帝国の為政者が、一転してアメリカ軍に降伏したのは、1945年8月9日のソ連軍の日本帝国領内侵攻作戦の開始であった。昭和天皇及びその側近はソ連軍の対日参戦に恐怖し、降伏を決意した。
昭和天皇が積極的にアメリカを「迎え入れた」最大の動機は、共産主義への恐怖と嫌悪であった・・・皇帝一家の殺害にまで至ったロシア革命の帰結と敗戦直後の社会混乱に鑑みれば、「共産主義革命=国体の破壊」という観念自体は全くの絵空事ではなかった。したがって、アメリカの軍事的プレゼンスを積極的に受け入れることは、まさに「国体護持」の手段たり得たのである。(P56~57)
日本の近現代史において国体が顕在化するのは、天皇制度が危機に瀕している状況下である。天皇を国民の側に引き寄せる北一輝の思想がときの支配層を震撼させ、しかも、政府転覆未遂事件まで起きた。ときの政府はその思想的指導者及び青年将校のリーダーを処刑し、より強権的支配を確立する。加えて、民主的勢力を一掃し、独裁体制を固める。

その政府が起こした戦争の末期、敗戦という国家滅亡の危機にあっては、敵であったアメリカの支配を積極的に受け入れ、天皇(家)を抹殺しかねないソ連軍=「共産主義」から国体を護持することに成功する。戦争当事者である日本帝国の為政者は、ソ連軍=共産主義から国体を守るため、アメリカにひれ伏すという選択を行い、結果、国体は守られた。それが、戦後の象徴天皇制である。

戦後の国体とはなにか

本書における明治維新からアジア太平洋戦争敗戦までの国体論は、橋川文三の未完の著『昭和維新試論』等を下敷きにして、簡潔かつ明確に整理されている。ところが、戦後の国体論は難解である。著者(白井聡)の戦後の国体論は、戦前の国体を体現した天皇の代わりに、アメリカをそっくり代入するという図式に単純化される。その点において筋が悪い。

著者(白井聡)の戦後の国体論の中核にあるのは、アメリカである。本書は、戦後日本の対米従属を国体だと規定するわけだが、その論証は矢部浩二や孫崎亨の戦後日米関係論に依拠していて、それを超えるような情報や見識が見当たらない。強いて新鮮だと思わせる部分を挙げれば、「天皇制民主主義」という言葉の提起だろうか。

アメリカの日本占領政策は古代からのセオリーに倣ったもの

天皇が日本帝国の戦争に関与していることは明らかだった。戦勝国側は、天皇の戦争責任を強く追及するかと思われたが、アメリカは天皇の戦争責任を免責し、新憲法の中で天皇を日本国民の象徴と新たに規定した。

著者(白井聡)は、アメリカの天皇免責について、アメリカの日本研究の結果だと大げさに指摘しているがそうでもない。たとえば、新約聖書の舞台となった現在のイスラエル・パレスチナの地は、いまから2000年余り前、ローマ帝国の属州だった。この地の支配者は、ローマ帝国第5代ユダヤ属州総督ポンテオ・ピラトだった。ピラトはイエスを磔刑に処した人物として新約に記されている。

そのピラトだが、彼はイエスを処刑することに最後まで消極的だった。というのも、ローマが属州を支配する構図は、総督自らが強権を振るうことではなく、ユダヤ教の神官に属州の統治を委任するものだったからである。武力を背景にして占領者が前面に出る直接的支配は、被占領地の人民の抵抗を受けやすい。ローマ兵に犠牲者が出る確率が高い。侵略者、占領者が当該地を安定的に統治する方法は、土着の支配者を配下にして間接的に支配するのがセオリーである。

2000年前に遡らなくとも、日本帝国が中国東北部に侵略して「建国」した満州国においても、日本帝国はローマ帝国と同様の統治方法を採用した。1931(昭和6)年9月、柳条湖事件に端を発して満州事変が勃発、関東軍により満州全土が占領され、関東軍主導の下に同地域は中華民国からの独立を宣言し、1932年(昭和7年)3月、満州国が「建国」された。元首(満州国執政、後に満州国皇帝)には清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀が就いた。中華民国によって滅亡した清朝は満州人が漢族を破って建国した王朝だったから、日本帝国が「建国」した満州国に清王朝の末裔を元首に置いたのは、戦勝国アメリカが日本を占領したとき、その国(日本)の天皇を元首(象徴)として残した事例と似通っている。

アメリカの日本占領政策の第一は、日本帝国の武装解除及び占領軍人の安全確保だった。アメリカが警戒したのは、戦争終結後にあっても旧日本軍の残党が日本各所でゲリラ戦を展開することだった。それを防ぐ切札的存在が天皇だった。日本の敗戦直後(1945年)の動きを追ってみよう。
  • 8月15日=天皇の戦争終結宣言(玉音放送)
  • 8月30日=占領軍総司令官マッカーサー、厚木に到着
  • 9月2日=無条件降伏文書調印
  • 9月27日=マッカーサーが天皇と会見
翌年の1946年1月1日に天皇の「人間宣言」が発出された。この間、国内外における旧日本帝国側からの連合軍に対する軍事的抵抗はほぼゼロであり、アメリカ主導の日本占領政策の第一歩は大成功をおさめた。

戦後の国体の形成というよりも維持は、戦争末期、日本帝国の為政者がソ連=共産主義の日本侵略を阻止するためにアメリカと手を組み、アメリカ主導の占領政策を受け入れたことから始まったのである。戦勝国(アメリカ)にとっても占領政策の柱に天皇を据えることに異議はなかった。

その後、日本は民主国家として再生し、かつての国体とは絶縁したと思われている。明治欽定憲法は撤廃され、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義、象徴天皇制などを規定した日本国憲法が施行された。そこで国体は死語と化し、あえて戦後の国体とはなにかと問われれば、日本国憲法こそが戦後のそれというのが、一般的認識として定着した。そればかりか、今日、わが国の状況において、国体をテーマとした議論、論考、研究等としては、鈴木邦男著の『天皇陛下の味方です: 国体としての天皇リベラリズム』くらいしか、見当たらない。

アメリカへの隷属が新たな国体か

敗戦後から今日までの日本の歩みは、著者(白井聡)が指摘するとおり、アメリカに隷属している。とりわけ、現在の安倍首相は、アメリカのトランプ大統領の忠臣といったありさまで、アメリカ・メディアからも嘲笑を受けるありさまである。日本政府は、日米同盟は不変、普遍と認識している、と事ある後に国民に説明する。その結果、日米地位協定が代表するとおり、日本はアメリカの属国以下である。著者(白井聡)は、戦後の日本の為政者が頑ななアメリカ信仰を保持・盲従する心的構造を、アメリカをご本尊とする戦後国体思想だと結論づける。さて、そこが本書を支持するか否かの境目だろう。筆者は著者(白井聡)の論に納得していない。

天皇制の危機的局面に現れる国体擁護の動き

国体がわが国の現代史に現れた局面は、前出のとおり、天皇制が危機的状況に陥った時である。そしてもちろん、国体の護持を国民に呼びかけるのは、革新の側ではなく、絶対的、超越的存在としての天皇を擁護したい勢力からであった。戦前の場合は、議会制民主主義や社会主義の台頭を恐れた軍部及び右翼であり、アジア・太平洋戦争末期の場合は、ソ連(共産主義)の侵攻により、日本の天皇(家)がロシア皇帝(一族)のごとく処刑されることを恐れた日本の為政者からであった。

戦後の反米運動

戦後の日米関係に対する異議申し立ては、本書にあるように、60年安保闘争、68年前後の新左翼・全共闘運動、三島由紀夫の自害、反日爆弾闘争といった、戦後民主主義を相対化する思想に基づく政治運動によった。しかし連合赤軍事件、内ゲバ事件等に代表されるそれら運動組織の自滅行動を契機として、体制側の弾圧及びマスメディアによるネガティブキャンペーンが功を奏し、それら運動組織は「過激派」という蔑称で市民権を失ってしまった。このときに現れた革命運動は左翼にとっては共産主義革命(世界革命)を目指すものであり、唯一、三島由紀夫のそれだけが、アメリカに隷属する天皇、ときの政権及び自衛隊を批判するものであった。戦後体制の暴力的打倒を目指しながら、左派と三島は同床異夢の関係にあった。

日本はアングロサクソンとうまくやれば・・・

日本国民のなかに著者(白井聡)がいう戦後の国体(アメリカ信仰)がどれほど浸透しているのか。浸透というよりも、無意識化されているのか。筆者の直観では、アメリカは日本(人)にとってもっとも親和的な外国であるが、無謬的存在にまでは至っていないと思う。ただ気になるのは、「日本はアングロサクソンとうまくやれば、うまくいく」という俗論である。この言説を耳にしたのは、TVの討論番組において保守系国会議員が賜ったのか、あるいは保守系言論人の発言だったか覚えていないが、筆者のまわりの俗物保守派のあいだではしばしば使用される。

日本の近現代史において、日英同盟(Anglo-Japanese Alliance)が締結されていた期間(1902~1923)、日本帝国は順風満帆だった。日露戦争勝利(1904)、不平等条約解消=関税自主権獲得(1911)、第一次世界大戦参戦及び勝利(1914-1918)といった具合である。ところが、同盟廃棄後、満州事変(1930)を契機として、日本帝国は侵略戦争の道を突き進み、1945年の大破局を迎えたことはいうまでもない。

敗戦後の日本はアメリカの占領下におかれ、GHQの指令により国を運営してきたが、1952年、日米同盟(Japan-US Alliance)の締結(註)後、日英同盟締結後と同様に、日本は国際舞台において成功の道を歩んできている。そのとき講和条約が発効し、以降、日本は日米同盟に包摂されるかのように復興、繁栄を続け、GDP世界3位、G7(7大先進国)の一つという「大国」に成長している。

前出の「アングロサクソンに~」という言説は、(わが国は)大英帝国(戦前)、アメリカ合衆国(戦後)という超大国に追随していればいい、という没主体性を別言しただけの俗論である。だがいみじくも、その没主体性が日本を繁栄に導いたことも事実なのである。だが、それを国体とするのはなじまない。

著者(白井聡)が「永久敗戦レジューム」と定義した日本の戦後体制は、いい得て妙であるが、戦後の国体の中心にアメリカを据えるのは無理がある。日本の国体は明治維新に確立した天皇制国家であり、それは戦前・戦中・戦後も一貫している。著者(白井聡)は、国体の中心が戦後、天皇からアメリカに移ったというが、その戦後体制は国体の変化というよりも、明治以来の超大国依存、没主体的国家・国民性と規定すれば済む。日本の国体の真の変換は、天皇制か共和制かの二者択一以外にない。

著者(白井聡)の論の基調に流れる危険性

著者(白井聡)は、本書冒頭に今生天皇の退位の「お言葉」を掲げ、文末もそれで終わっている。著者(白井聡)は天皇と安倍政権を対立的関係に並べ、天皇の側に、民主主義の可能性を見出している。著者(白井聡)の認識は、かつて2.26事件で決起した青年将校が抱いた「恋闕の情」及び政治家・官僚に対する「君側の奸」という反感、すなわち、あくまでも純粋である「国民の天皇」を希求する情念に通じている。

著者(白井聡)の「お言葉」の受止めの延長線上には、安倍首相を筆頭とした政(政治家)、官(官僚)、学(学者)産(実業家)、そしてメディアが「君側の奸」であり、彼らはアメリカ依存だからダメだが、天皇だけは清いという結論を暗示している本書末に、著者(白井聡)は次のように書いている。
(天皇が)「お言葉」を読み上げたあの常のごとく穏やかな姿には、同時に烈しさが滲み出ていた・・・
それは闘う人間の烈しさだ。「この人は何かと闘っており、その闘いには義がある」――そう確信した時、不条理と闘うすべての人に対して筆者が懐く敬意から、黙って通り過ぎることはできないと感じた。ならば、筆者がそこに立ち止まってできることは、その「何か」を能う限り明確に提示することであった。(P340)
著者(白井聡)が国体の概念を用いて本書を著そうとした下地に天皇の「お言葉」があったことは明白である。そのことは日本の国体が戦前、戦後を通じて不変であり普遍的であることの逆証明にもなる。著者(白井聡)もその国体に絡めとられ、天皇制か共和制かと問う思考を脱落させてしまったのである。

註:Japan-US Allianceとは、以下の2つの条約の総称である。
  • 1952~1960:「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(Security Treaty Between the United States and Japan)
  • 1960~:「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約(Treaty of Mutual Cooperation and Security between the United States and Japan)

2018年12月21日金曜日

内海の人的補償は一岡のトラウマ

FAを使って西武から読売に移籍した炭谷捕手の人的補償が内海投手と決まった。驚きである。まさかである。前の拙Blogにて書いた通り、筆者は宇佐見捕手と予想したのだから大外れに終わった。

内海を獲得した西武は大儲け

西武は炭谷を放出して、内海と2,280万円(炭谷の年俸・5,700万円×40%*ランクB=2,280万円+人的補償としての内海)を獲得したことになる。炭谷と内海の1対1のトレードなら2,280万円は入らなかったわけだから、西武はお得な商売をしたことになる。内海と炭谷の1対1のトレードは、西武はもちろんOKだろうが、読売には話にならない商談だったに違いない。

一方の読売の判断はどうなのだろうか。内海ほどの功労者をプロテクトしなかったのは非情という意見もある。来年、内海が再度、FA宣言して読売に戻るという推測もあるが、西武が人的補償を求めれば、また新たな違う選手を西武にとられることになるので、西武と読売のFA⇔人的補償の循環が永年続くまで。

原辰徳の内海外しは一岡のトラウマから

内海をプロテクトしなかったのは、GMを兼ねた原辰徳(読売の新=出戻り監督)の判断だと思う。FA・人的補償となると、メディアが常に話題にするのが読売の失敗事例、一岡投手の放出である。

一岡投手(当時読売)は大竹投手(当時広島)のFA宣言による読売入団の人的補償で2013年に広島に入団し、以降、2014シーズンから今日まで、広島の貴重な中継ぎ投手として活躍を続けている。その一方、読売に移籍した大竹投手は一年目こそ活躍したものの、以降の成績は下降続き。その結果として、読売のFAの人的補償の失敗事例として、語り継がれている。

一岡投手をプロテクトしなかったそのときの読売の監督が原辰徳だった。おそらくこの失敗は、原辰徳及び読売球団のトラウマとなり、今年のFAでは多くの若手選手をプロテクトしたのではないか。若い才能が他球団で花開いたとしたら、読売は若手を育成できない、読売が若手選手の才能を見通せない――という評価が定着する。そうなれば、球団のイメージはより悪化する。ドラフトで読売に入団したとしても、時間をおかずに海外移籍を希望する若手選手が続出するだろう。

さて、次は広島が読売に対してだれを人的補償として要求するのか。筆者の予想は左のワンポイント・戸根投手だったが、どうやら当たらなそうな予想が濃厚だ。




2018年12月8日土曜日

学生時代の友人と忘年会

恒例になった師走の忘年会。

大学時代の友人が集まる。

会場は飯田橋の椿椿




2018年12月5日水曜日

高輪ゲートウェイは歴史・文化の破壊である

民俗学者で日本地名研究所長であった谷川 健一(1921-2013)は、“地名は大地に刻まれた刺青である”という意味のことを言った。戦後の住居表示法施行に伴う地名変更が行政により進められ、多くの貴重な町名等が失われた状況を憂いた発言だった。それでも、学校名、駅名、バスの停留所等に地名を残す努力が続けられてきた。

さて、「高輪ゲートウェイ」である。恥ずかしい。江戸東京の歴史、文化に対する冒涜である。かつて国鉄は、山手線の新駅に「御徒町」という由緒ある駅名を冠した。この地域は、江戸期、御徒と呼ばれた下級武士(騎乗を許されない歩兵)が居住した地域であったのだが、前出の町名変更により、台東という表示に変更されてしまった結果、町名としての御徒町は消滅した。国鉄はそれを新駅名として後世に残したのである。その国鉄は解体され、東京を走る旧国鉄の鉄道は、JR東日本という民営企業が引き継いだ。

このたびの山手線新駅の駅名については、一般公募したにもかかわらず、公募数下位の「高輪ゲートウェイ」に決まったという。公募は形式であって、JR東日本が「高輪ゲートウェイ」という駅名をあらかじめ決定していたと思われる。つまり、社長決済による決定であろう。命名者はJR東日本の現社長である。

新駅名を得意げに発表するJR 東日本の某社長の風貌からは、失礼ながら歴史、文化、民俗学に思いをはせるリベラルアーツが感じられない。この駅名はほぼ永遠に近い時間、東京に残されることになろう。某社長の名前は、この愚かな駅名の命名者として、無教養の経営者として、歴史・文化の破壊者として、刺青のごとく消え去ることがない。愚かというよりも、哀れである。

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2018年12月2日日曜日

NPB、今年最後のお楽しみ(読売の人的補償選手は?)

炭谷(西武)、丸(広島)のFAによる読売への移籍が決まった。そのことによって人的補償で読売から出ていく選手がだれになるのか、2018-シーズンオフ、最後のお楽しみといったところ。NPBファンは、読売のプロテクトから外れる選手の予想に興味津々である。人的補償選手を予想るす前に、FA制度により発生する補償の概要を確認しておく。

(一)FA宣言した選手のランク付け

FA宣言した選手が他球団に移籍した場合、移籍された球団はその見返り(補償)を移籍先に求めることができる。補償は、移籍した選手の元球団の年俸による〈格付け〉に基づく。〈格付け〉は、日本人選手の旧年俸順に上位3位までを〈ランクA〉、4位から10位までを〈ランクB〉、11位以下を〈ランクC〉とする。〈ランクA〉と〈ランクB〉がFA移籍した場合に限り補償が発生する。

炭谷(西武)は〈ランクB〉、丸(広島)は〈ランクA〉であるから、西武、広島とも読売に対し補償を求めることができる。補償は、〔金銭補償〕+〔人的補償〕である。

(二)補償の内容

〔金銭補償〕
移籍先球団は〈ランクA〉の選手獲得の場合は旧年俸の50%(2度目以降のFAでは25%)を、ランクBの選手獲得の場合は旧年俸の40%(2度目以降のFAでは20%)を前球団へ支払わなければならない。
〔人的補償〕
 移籍先球団は前球団が指名した上記の獲得制限外の選手1名を与えなければならない。ただし前球団が求めない場合は、〈ランクA〉の選手獲得の場合は旧年俸の30%(2度目以降のFAでは15%)、〈ランクB〉の選手獲得の場合は上記の獲得制限外の選手1名または旧年俸の20%(2度目以降のFAでは10%)を前球団へ支払わなければならない。
人的補償を求めない場合(金銭補償に加えて、〈ランクA〉の選手獲得の場合は旧年俸の30%(2度目以降のFAでは15%)、ランクBの選手獲得の場合は旧年俸の20%(2度目以降のFAでは10%)を得ることができる。

(三)丸(広島)の場合の実際の補償内容

丸(推定年俸2.1億円)のFA移籍により、広島は読売から金銭補償として、2.1×0.5=1.05億円が入る。人的補償をしない場合、1.05+2.1×0.3(=0.63)=1.68億円が入る。広島は6300万円か人的補償を選択することになるわけだが、人的補償のほうが魅力的であるから、前出の金銭補償に加えて人的補償を求める。

(四)人的補償と獲得制限選手(プロテクト)

獲得制限選手名簿(28名)がいわゆるプロテクトであり、プロテクトから外れた選手が人的補償対象選手である。前球団はその中からチーム強化に必要とする選手を移籍先球団に申し出ることとなる。また、前球団が人的補償できないのは、プロテクトした28名の選手のほか、FA権取得により外国人枠の適用外になった選手を含む外国人選手、直近のドラフトで獲得した新人選手である。

(五)西武と広島の人的補償の優先順位

複数名のFA宣言選手と契約した場合には、それぞれの球団に異なる獲得可能選手リストを提示できる。万一、人的補償選手が複数の球団で重複した場合には、移籍先球団と同一連盟内の球団が優先される。同一連盟内であれば同年度の勝率が低い球団が優先される。読売は炭谷(西武)と丸(西武)の2選手をFAで獲得したから、西武と広島がともに人的補償を要求した場合、双方に向けて2種類のプロテクト名簿を提出する。西武と広島が同一選手の獲得を申し出た場合は、広島に優先権がある。

(六)補償に係る日程

補償に関する日程は、まずFA選手と移籍先球団との選手契約締結がコミッショナーより公示された日が起点となり、2週間以内にまず移籍先球団が上記の獲得制限選手を除いた選手名簿を提示する。この後起点より40日以内に全ての補償を完了しなければならないが、金銭補償に限り前球団の同意があれば40日を延長することができる。人的補償として選ばれた選手が移籍を拒否した場合、その選手は資格停止選手となり処分が解除されるまで試合をすることができなくなる。補償は金銭補償のみだった場合と同じになる。

(七)プロテクトから外れる読売の選手は?

読売がプロテクトする28選手及び外れる選手を予想すると――
  • 投手(13)=澤村、菅野、畠、山口俊、今村、田口、鍬原、宮國、内海、野上、吉川光、高田、中川森福、大竹、桜井、谷岡、池田、戸根、高木京、大江)
  • 捕手(2)=小林、大城(宇佐美、岸田、田中貴)
  • 内野(6)=吉川尚、坂本・阿部・岡本・山本、田中俊(北村、若林、湯浅、増田、吉川大)
  • 外野(7)=陽、長野、亀井、重信、石川、松原、和田恋(立岡、村上)
  • 28選手がプロテクト選手。赤太字がプロテクト外=人的補償対象選手
2019-シーズンの読売の新戦力(ドラフト入団以外)は、炭谷(捕手)、丸(外野手)、ビヤヌエバ(一塁・三塁・外野)、中島(内野手)がすでに決定しており、さらに外国人の抑え投手の獲得も確実視されている。また、昨シーズン実績を残しながら故障で離脱したヤングマンが先発に復帰する。金子(オリックス自由契約)、MLBマリナーズを退団した岩隈の入団も視野に入れているという。昨シーズン後半、先発から中継ぎに配置換えした、野上、吉川光のブルペンが固定化しそうなので、中継ぎ投手が余剰となる。

プロテクトか人的補償対象かのボーダーラインにいる選手は、先発投手陣では昨シーズン1勝の大竹及び桜井。リリーフでは谷岡、池田、利根。大竹が人的補償として広島が指名すると、古巣復帰となる。捕手は阿部が捕手復帰を希望しているというから、宇佐美あたりか。野手では、ユーティリティープレイヤーの中島の入団で、同タイプの吉川大ではないか。

(八)西武、広島が人的補償で獲得する選手

西武、広島は野手が豊富。補償の優先順位は投手→捕手→野手 の順になろう。プロテクトから外した読売の選手のうち、広島、西武が欲しい選手はいるか。筆者の見立てでは、広島が投手で、西武が捕手。ずばり、広島が左のワンポイントの利根、西武が炭谷の代替として宇佐美を人的補償として要求すると思う。

2018年12月1日土曜日

猫の近況

猫の近況については、しばらく投稿していなかった。

猫のしぐさ、寝姿等に変化があるはずもなく、拙Blogに出尽くした感がある。

今回もかつて投稿したものと変わらない。
冬眠中のようなZazie

不自然きわまりない寝姿のNico

寒くなると人にくっつく

2018年11月30日金曜日

徒然なるままにNPB‐2018シーズンをふり返る

NPB‐2018シーズンは、広島の丸のFAによる読売入団をもって幕を閉じた。そこで、徒然なるままに今年のNPBをふり返ってみよう。

セは1強(広島)、5弱が継続

セリーグが広島、パリーグは西武が優勝した。CSはセが広島、パはソフトバンクが制し、日本シリーズはソフトバンクが優勝した。

筆者のリーグ戦セリーグ順位予想は3月14日付の拙Blogにて示したとおり、1.広島、2.阪神、3.読売、4.DeNA、5.中日、6.ヤクルト の順であった。

結果は、1.広島、2.ヤクルト、3.読売、4.DeNA、5.中日、6.阪神となり、ヤクルトと阪神の順位がそっくり入れ替わっていた。ほかの4球団の順位は予想どおりで、なんとも奇妙な順位となった。筆者の予想が当たったわけではないが、それなりの結果だったと思う。要するに2018シーズンのセリーグは昨年と同様、1強(広島)5弱(ほか5球団)の構図に変化がなかった。

金本(阪神前監督)に采配のキレなし

5弱の分析をしても意味はないと思うが、2位と予想した阪神が最下位にまで沈んだのは意外だった。その第一の要因は金本采配。筆者及びメディアが阪神の戦力を過大評価したこともあるが、それ以上に金本采配に疑問が多かった。

加えて2018年は夏季に猛暑が続き、野球界全体に打高投低傾向が著しかった。阪神打線は糸井、福留のベテラン頼り。とうとう彼らにも衰えが顕著になった。しかるに、若手が伸び悩んだ。要するに、ベテラン頼みで若手育成に失敗したまま、シーズンを迎えてしまったわけだ。金本采配も疑問だらけ・・・最下位は必然だった。

分厚い選手層で、読売3位を死守

ペナントレースで3位となった読売。分厚い選手層でどうにかAクラスに踏みとどまった。この球団も故障者に泣かされた。投手陣ではマシソン、カミネロ(退団)、ヤングマン、桜井、畠、西村(引退)、杉内(引退)が戦力にならなかった。打線も坂本、吉川尚、陽、長野、ゲレーロ(体調不良?)、石川らが長期間、戦列を離れた。これだけの選手が戦列を離れながら3位をキープできたのは繰り返すが、ぶ厚い選手層ゆえだ。2球団分の選手を抱えている。

岡本(読売)の成長は筆者には大サプライズ

読売の、というよりもNPB最大のサプライズは岡本の大活躍。入団一年目(2015年)はともかくとして、彼の2年目(2016年)の成績は、打率.100(3試合、10打数、1安打、0本塁打、打点0、三振2)。続く2017年は、打率.194(15試合、31打数、6安打、0本塁打、打点0、三振10)にとどまった。

ところが今シーズンにはなんと、打率.309(143試合、540打数、167安打、33本塁打、100打点、120三振)の強打者に大変身した。3年間の平均打率が1割台の選手が4年目にして、これだけ打撃成績が向上した事例については覚えがない。大変身、大サプライズ、大驚愕という表現でも足りない。アスリートとはこんなものか。

爆買い再開した読売

岡本の活躍に象徴されるように、読売は高橋(前監督)体制3年目で若手育成への方針転換の兆が見えたものの、高橋の退任、原元監督の再就任で、以前のFA制度依存体質に戻ってしまった。2018オフシーズンのFAで炭谷捕手(西武)、そして超大物の丸外野手(広島)を獲得。オリックスを自由契約になった中島内野手、MLBパドレスで20本塁打の実績を誇るビヤヌエバ(内外野手)も獲得した。

阿部が捕手復帰を表明しているから、読売が想定する野手陣のレギュラー(先発)候補と序列は以下のように予想される。

捕手=炭谷→小林→阿部(1塁)→大城(捕手)
1塁=ビヤヌエバ→阿部(捕手)→岡本(三塁)→大城(捕手)
2塁=中島→吉川尚→田中俊→山本
3塁=岡本→中島→吉川大
遊撃=坂本→吉川尚→山本
左翼=ゲレーロ→(ビヤヌエバ→亀井→重信)
中堅=丸→(ビヤヌエバ→陽→亀井→重信)
右翼=長野→(ビヤヌエバ→亀井→陽→重信)

一軍ベンチ入りが微妙なのが炭谷に押し出される大城、宇佐美。大城は打撃センスを買われて一塁の練習に取り組んでいるようだから、宇佐美よりは一軍出場機会が残されているかもしれない。中島に押し出されるのが吉川大、山本。ビヤヌエバに押し出されるのが阿部になるが、阿部も捕手復帰と代打でベンチ外というのは考えられない。

読売が補強した丸、ビヤヌエバ、炭谷、中島の4選手と2年目のゲレーロは年俸1億円を超える選手たち。8枠のうち5枠が補強選手及び外国人選手で占められる。次いで、坂本、岡本の2枠がレギュラー確約だから、空席は1。その一席も長野、亀井、陽との争いに勝たなければならない。読売の若手の出場機会は、前出のレギュラーに故障者が出た場合か、不調に陥った場合に限られる。

読売の爆買い効果は微々たるもの

読売の爆買い補強はチーム強化につながるのだろうか。もちろん答えは「NO」。2018シーズンの1点差ゲーム勝率 をみると(読売はチーム防御率リーグ1位なのにもかかわらず)、セリーグの最下位で他の5球団に比べて著しく低い。

その主因はセットアッパー、クローザーの人材不足。クローザーとして期待された澤村の防御率が4.64(49登板)、カミネロが同5.79(20)、セットアッパーとして期待された上原が3.63(36)、マシソンが2.97(34)とこちらも芳しくない。

リリーフ陣となると、池田4.07(27)、谷岡5.76(25)、田原2.56(29)、中川5.02(30)、宮國1.97(29)、吉川光4.26(22、先発登板を含む)となり、防御率1点台は宮國ただ一人。読売が強化すべきは、投手陣しかも中継ぎ、抑えであった。

しかるに、今シーズンオフ(2018/11/30)時点において、読売が投手陣強化のための補強情報は伝えられていない。来シーズン開幕前までに読売フロントが行わなければならない第一の仕事は、外国人を含めたクローザー及びセットアッパー探しだ。頭数だけでも上原、カミネロの抜けた穴を補修しなければならない。

丸のFA移籍について

FA宣言した丸(広島)が本日(11/30)、読売入団を公表した。この結果は驚くに当たらない。彼がFA宣言した時点で、その行き先が読売であろうことはだれもが予想し得た。契約金、契約年数、引退後の待遇等において、金満・読売に勝てるところはない。心情的には広島残留してほしいが、選手生命は短い。稼げるときに稼ぐべきだ。

丸は読売で活躍できるのか

丸が2019シーズン、新天地・読売で活躍できるのか。筆者は、ある程度の成績を残すだろうが、2018を下回ると予想する。

その理由は、彼の打撃フォームが変則であること。丸の打撃フォームの特徴は、バットの先端を揺らせてタイミングをとる点。このフォームはタイミングを狂わせると、長期スランプに陥る難点をもっている。極めて微妙な動きをインパクトの前に取り入れる。ボールを打つ前に一段階余分の動作をとる。そこにリスクが生じる。好調時のタイミングをひとたび失うと、一気に崩れる。崩れの要因は、①加齢による体力の衰え及び動体視力低下、②精神面の変調及び環境変化、③相手投手の研究――などによる。どれか一つというよりも、複合的要因として丸を襲う。丸が打撃フォームを崩せば当然、打率は下がるし打点も上がらなくなる。読売という人気球団のプレッシャー及び広島退団の後悔などが丸を襲い、心労が重なる。打撃不振は長期に及ぶだろう。彼の成績は2018シーズンを頂点として、以降、下り坂に向かう。

丸は読売との試合でよく打った。ところが、その読売に入団したのだから、得意球団が減ったことになる。広島(投手陣)は丸の弱点を知り尽くしているから、広島投手陣はそこをついてくる。他球団も広島の攻め方を真似るから、その結果だけでも、丸の打撃成績は落ちる。丸も広島投手陣を知り尽くしているが、読売投手陣と同程度打ち崩せるかというと、そうはいかない(と筆者は思う)。

読売・阿部の捕手再転向

これは論ずるに値しない。まず成功はない。阿部が捕手にすわれば、他球団に盗塁のチャンスが生まれる。

今シーズンの日本シリーズでソフトバンクの甲斐捕手が広島の足を封じMVPに選ばれ、「甲斐キャノン」という新語を生んだ。

甲斐が強肩の持ち主であることは間違いないが、それ以上に下半身が素晴らしい。捕球してから投球動作に至るフットワーク(わずか1歩半程度だが)と、腰を下ろした姿勢から投球動作をつくる立ち上がるスピードがすごい。その基盤となっているのが下半身の安定、強さ、速さだ。

二塁投球の正確なコントロールを支えているのは甲斐の強い体幹だ。天性の身体の強さと適正なトレーニングの結果だろう。阿部が甲斐のような捕手に復活することは、奇跡が起きない限り無理だ。

2018年11月28日水曜日

『江戸東京の聖地を歩く』

●岡本亮輔〔著〕 ●ちくま新書 ●940円+税

聖地というと、一昔前までは聖人の生誕地やその遺物が保管されているところ、あるいは、奇跡の起こったところ、超人的霊力が発せられるところ、特別な事件等が起きたところ…だと思われていた。ところが最近では、アニメや映画のファンにとっての〈聖地〉は、その中に描かれた「印象的シーン」の現場であり、呑み助の親父にとっての〈聖地〉は粋な「居酒屋」であり、野球好きの青少年にとっての〈聖地〉は「甲子園」…といった具合である。このような聖地の変化を換言すれば、聖地とはある者にとっての特別な場所といった意味にまで拡張される。

聖地を個人の体験・意識レベルまで還元すれば、恋愛を成就し結ばれた男(女)にとって、はじめてデートした場所を聖地と見做すこともできる。しかし、それを聖地とはとても呼ぶことができない。個人レベルにおける特別な場所が〈聖地〉となるためには、そこに物語性が付加され、世間一般に認知される必要がある。一対の恋人同士が結ばれたデートスポットの情報が多数の者に共有され、神聖視されなければならない。そこで初めて、無名のデートスポットが聖地へと変容する。

聖地とは何か

著者(岡本亮輔)は聖地を次のように定義する。
・・・内容が事実かどうかは関係なく、特別な物語と紐づけられて語られ続けられるのが聖地なのである。(P10)
物理的空間に物語が上書きされて意味を与えることで聖地になるのだ。聖地とは、虚構と現実を重ね合わせることでしか立ち上がってこない拡張現実なのである。誰かがその場所の物語を語り伝えなければ、聖地は持続しない。したがって、聖地を考える際に鍵となるのは、いかにして場所に物語が紐づけられるか、誰がそれを伝達しているのかを読み解くことなのである。(P12)

聖地の条件――場所・物語・伝達

・聖地に紐づく物語を紡ぐ者

聖地を構成する要素は、〈場所〉〈物語・神話化=作家〉〈伝達する者〉となる。場所はいうまでもない。が、物語、伝達はだれがどのようにつくりあげるのか。口コミも無視できないものの、それだけでは聖地として広域化するのは不可能だ。古代、中世、近世までは、芸能者が素朴な言い伝えを人々が関心を寄せる面白い話に創作した。

・史学と詩学の融合

近世・近代・現代では、マスメディアの発達と平行して、聖地に紐づく物語を量産化したのが作家である。著者(岡本亮輔)は、聖地=近藤勇墓所(東京・板橋区)を論ずる箇所(第6章)において、新選組頭目・近藤勇の神話化に果たした司馬遼太郎の「功績」について次のように書いている。
新選組ほどフィクションの力によって評価の一変した存在も珍しい。(略)新選組イメージは、長い時間をかけてメディアの中で作られてきたものだ。当然ながら、維新直後、新選組の評価は最悪だった。(略)新選組は京で志士たちを捕縛殺害してきたからである。(略)新選組復権の先駆となったのが、子母澤寛『新選組始末記』(1928)の刊行だ。(略)そして現在まで続く新選組のイメージを決定づけたのが、1960年代に連載刊行された司馬遼太郎の『新選組血風録』と『燃えよ剣』である。
續谷真紀は、司馬作品では、虚構があたかも史実であるかのように巧みに織り込まれていることに注目する。(略)司馬が確立した虚構と史実を織り交ぜるスタイル、つまり、詩学と史学の融合が新選組人気の理由の一つだ。(P253~255)
著者(岡本亮輔)は詩学と史学の融合は、赤穂浪士(泉岳寺)、鼠小僧(両国回向院)、四谷怪談(お岩稲荷)などにも共通する物語化の典型だという。赤穂浪士については、討ち入り事件という史実を土台にして、歌舞伎や浄瑠璃が創作を加えて演じられることによって大衆レベルに浸透した。

近代・現代に入ると、九州日報主幹の福本日南が著した『元禄快挙録』、浪曲師・桃中軒雲衛門が演じた『義士銘々伝』が人気を博し、続いて昭和になると、大佛次郎作の『赤穂浪士』をNHKテレビが大河ドラマに仕立て、赤穂浪士人気を不動のものにした。その大河ドラマは、驚異的視聴率を稼いだという。こうして泉岳寺は赤穂浪士の霊が祀られた聖地として、今日でも人気の場所である。

・物語を伝達する者

伝達する者にも変遷がみられる。古代・中世・近世前期において物語の伝達を担ったのは非農業民であった。一般に移動の自由が制限された時代に日本各地を遊行できたのは漂泊の民である。彼らの出自は古代、平民に対し職人と呼ばれた者に由来する。みずからの身につけた職能を通じて、天皇家、摂関家、民仏神と結びつき、供御人(くごにん)、殿下細工、寄人(よりうど)、神人(じにん)などの称号を与えられて奉仕するかわりに、平民の負担する年貢・公事課役を免除されたほか、交通上の特権などを保証された。その一部は荘園・公領に給免田畠を与えられたのである。中世社会には農業以外の生業に主として携わる非農業民(原始・古代以来の海民,山民,芸能民,呪術的宗教者,それに商工民など)が台頭し、全国を移動する自由をもった彼らが情報伝達の役を担ったと思われる。(参考:平凡社世界大百科事典)

近世の中後期になると、瓦版、絵本、図鑑、書物等の紙のメディアが都市を中心に発達した。その結果、非農業民の口伝に加えて、都市を中心にそれらも情報伝達の役を担った。近代、現代ではいうまでもなく、新聞、雑誌、ラジオ、テレビといったマスメディアであり、ポストモダンのいまではマスメディアとともに、SNSが聖地形成の重要な手段となっている。

帝国主義権力と聖地

本題にある江戸東京は、大雑把には4つの時代に区分される。

(1)古代、中世まで、この地は京(中央)から遠い辺境の地。とはいえ、中央の文化(文学、芸能、宗教等)は当然のことながら、この地にも移入されていた。
(2)近世からは、江戸幕府が置かれた中央に格上げされ、江戸は世界有数の規模を誇る都市に成長した。
(3)明治維新後は帝都・東京として発展を続けた。
(4)アジア太平洋戦争の日本帝国の敗戦で壊滅的打撃を受けた東京だが、奇跡の復活を遂げ、世界的メガシティとして繁栄を取り戻し今日に至っている。

なかで江戸東京の大転換は(3)の時代である。まず江戸幕府の聖地の破壊が進行した。たとえば、徳川家の菩提寺である寛永寺が上野戦争で焼失したことを機に、寛永寺という幕府の聖地は破壊され博覧会の会場となり、その後、恩賜公園として整備された。(P122~)

明治維新後の日本は日清、日露、第一次世界大戦、中国侵略、アジア太平洋戦争と、帝国主義戦争の時代であった。そして、帝国主義戦争を継続した体制によって、その維持に資するための「聖地」が体制の手によってつくられた。

1868年(明治維新)から1945年(アジア太平洋戦争敗戦)までの期間につくられたいわば官製の「聖地」は、本書に書かれたほかの聖地のどれとも異なる。生活者が塗炭の苦しみから助けを求めてすがった神社仏閣、偉人、聖人とはかけ離れた、「軍神」と呼ばれる者(に関係する地)が帝国主義国家の「聖地」とされた。彼らの「偉業」を物質化するために銅像や慰霊碑が建立され、その「偉業」を讃えるための「教育」が修身の名のもとに児童生徒に施された。このような聖地(そこに建てられた銅像や慰霊碑を含む)は、国体護持のためのアイコンにすぎない。

本書は取り上げていない聖地を二つほど紹介しよう。その第一は二宮尊徳の像だ。この像はかつて、日本のいたるところの小中学校に建てられていたという。薪を背負いながら本を読んで歩く姿(「負薪読書図」と呼ばれる)から聖なる感覚は呼び起こされるには至らないが、そこには権力側が望む人間像――休むことなく労働と勉学に勤しむ奴隷的労働者を奨励する帝国主義国家の意図――が透けて見える。帝国主義国家が人民に強制する道徳観である。

二宮尊徳もまた、修身の教科書に取り入れられた。その像が学校に建立されるということは、尊徳(像)というアイコンにより、学校という空間の聖地化及び当時の軍国主義教育という観念の聖域化が帝国主義国家によって目指された結果である。

東京・渋谷駅前に建てられた「忠犬ハチ公」もその類である。今日「忠犬ハチ公」の像は待ち合わせ場所の目印となっていて、それを聖地と見做す人はいない。そもそもハチ公とは、死去した飼い主の帰りを東京・渋谷駅の前で約10年間のあいだ待ち続けた犬(ペット)にすぎない。

ハチ公も帝国主義戦争のイデオロギーと無関係ではない。忠犬の「忠」は、上に素直に従う人格を象徴する語で、戦時下、上官の命令に忠実に従う兵士、及び、帝国主義政府の方針に文句を言わない人心――を醸成する物語として、修身の教科書に載せられ、広く国民の思想教育の具となった。

本書で取り上げられた「広瀬中佐像」(高山→東京・万世橋)、乃木神社(東京・港区)、東郷神社(東京・神宮前)も華々しい軍功が物語として語られ(もちろん事実ではない)、教科書に載せられ、臣民教育の一助とされた。それだけではない。これら「軍神」の像は彼らの故郷ではなく、帝都(東京)に建立されたことも忘れてはいけない。

聖地マーケティング

今日の「聖地」には、神社仏閣の経営戦略によって、大衆レベルに認知されたものが散見される。恋愛成就(縁結び)、健康志向等を背景にして、それらの祈願成就事例を創作し、それに関連するグッズを開発し、大量集客を求めて祈祷料、賽銭等を得ようとするものである。その結果、ほんらいの縁起と無関係の「聖地」が誕生している。その成功を意図的とするか、偶然によるものかの論議の余地はあるとしても。

・神前結婚という商品開発(東京大神宮)

文金島田の花嫁と羽織袴の花婿が神主の立会いのもと、三々九度を上げる神前結婚。日本古来の風習と思いきや、わずか100年前に東京大神宮(東京・千代田区富士見)で整備された儀礼だったとは(筆者は本書で初めて知った)。やがて全国の神社で一般化し、結婚式場の建設と平行して一般化し、今日に至っているという。筆者(岡本亮輔)は「重要なのは、神前結婚式が合理的な婚礼形式とみなされたことである。」(P200)と指摘するが。

・パワースポット・ブーム

新たな聖地がパワースポットと名を変えて形成されようとしている。アニメ、コミック、ラノベ(ライトノベル)等の若者向け表現が、LINE、フェイスブック、ツイッター、インスタグラム等のSNSによって拡散され、人々が集まりだした結果の新聖地の誕生である。知名度を得た新聖地は、グッズ(絵馬、御神籤、お守り等)や体験型商品(滝行、祈祷等)の開発に乗り出し、経営の一助としている。これら新聖地の事業の是非は論じない。聖地として信じる者には、そこが聖地なのだから。

聖地のいかがわしさ

“いかがわしい”という表現が適当かどうか迷ったが、ほかに適切な言葉が見つからなかったので使用する。本書に取り上げられた「縁切榎」という聖地についてである。「縁切榎」は現在の東京・板橋区にある。この榎に念ずれば、縁切りが可能だと信じられ大衆的支持を集め、聖地として今日に至っている。

江戸期、女性からの離縁は不可能だった。どんなに不幸な結婚生活を強いられようと、相手と縁が切れない。そのため離縁を果たそうとする女性の信仰を広く集めた。また、男が娼妓にはまって普通の生活ができなくなったことを憂えた家族が、娼妓との縁切りを願ったという事例もある。やがて縁切りは男女関係に限定されず、難病・悪病との縁切り、過度な飲酒の縁切り(=断酒)にまで拡張された。

さて、「縁切榎」にまつわる負(と筆者が感じた)事例を著者(岡本亮輔)が取り上げている。“1934年6月の朝日新聞には、恨みは「縁切榎」 縁談破れて娘服毒 という記事がある(P66)”と。

この事件は破談された22才の女性が揮発油を飲んで自殺未遂したというもの。義兄がもってきた縁談が途中までうまくいっていたが、破談にあう。その理由は男性側が、「縁切榎」の近くを通った女性を嫁にもらいたくないと言い出したせいだ。女性の実家が埼玉県の沼影にあり、帰郷するたびに「縁切榎」の横を通る。そのことを男性側が嫌がって破談にしたのだという。わずか80余年前にそんな迷信がと思うかもしれないが、それが事実なのだから仕方がない。

筆者は、この男性側の言い分を信じない。筆者の推測にすぎないが、女性が「縁切榎」を通ったというのは破談の真の理由ではなかろう。おそらく男性が別の良縁を得て、この縁談を破談にしたがったのだろう。ところが適当な理由が見つからない。そこで「縁切榎」を利用したのだ(と思う)。

男性からの一方的な破談の申し出なのだから、女性側に対して謝罪と慰謝があって当然なのだが、男性側がそれを回避して「縁切榎」という聖地を持ち出すとは、なんと卑劣な理由付けだと思うが、女性の一方的な泣き寝入りである。服毒自殺未遂とは気の毒というほかない。聖地の悪用事例だと筆者は信ずる。

(おわりに)

聖地は、生活者のギリギリの願いや祈りによって形成されたものばかりとは限らない。近年、安易で手軽な聖地(化)もなくはない。体制側による民衆コントロールの具や、帝国主義イデオロギーの醸成のための聖地もある。権力の暴力的移行に伴い犠牲となった敗者の死――荒ぶる魂――を恐れた聖地もある。怨霊信仰に基づく勝者側の保身と畏怖でつくられた聖地である。近年では、寺院、神社の経営(マーケティング)のためにつくられた新しい聖地もある。先述のように、「縁切榎」という聖地を悪用したと思われる事例もある。

本書は江戸東京に限定された聖地の紹介であるが、読みごたえがあり、信頼のおける聖地論となっている。筆者の住まいに近い聖地が多数紹介されていて、一度は訪れてみたいと思わせる情報の質と量を備えている。本書の帯に記された「東京を味わう」というコピーはうってつけ――まさに良質の料理に例えられよう。

2018年10月23日火曜日

スペイン旅行

今月の11日から21日まで、スペインの主にアンダルシア地方を観光してきました。

とてもいいところ。

トレド

コルドバ

グラナダ

セビリア

2018年10月7日日曜日

『エルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』

●ハンナ・アーレント〔著〕 ●みすず書房 ●4400円+税

戦後、ナチス・ドイツの戦犯の一人、アイヒマンという人物が潜伏先のアルゼンチンでイスラエルの諜報機関によって拉致され、イスラエルに引き戻されて裁判で死刑に処せられた。この事件については筆者もなんとなく知っていた。本書巻末の年譜によると、1962年のことだというから、この出来事は半世紀以上も前に遡る。

この事件については筆者の記憶に蘇ることなく、時間が過ぎていた。ところが近年、「〇〇のアイヒマン」という表現がジャーナリスト、批評家等によって、しばしば用いられることが気にかかってきた。たとえば、安倍首相の側近で、総理直属の諜報機関・内閣情報調査室(内調)のトップである北村滋内閣情報官は「官邸のアイヒマン」と呼ばれているし、前・原子力規制委員会委員長の田中俊一氏も「原子力村のアイヒマン」と呼ばれた。

権力側にいる人物を「アイヒマン」と呼ぶのはもちろん、批判を込めた表現だ。そのイメージは概ね、不正義を承知のうえで権力側の命令や上司の意を粛々と進める非情な人物というものではないだろうか。今日の日本が多くの「アイヒマン」を輩出しているのだとしたら――筆者の時代に対する不安は、「アイヒマン」という呪文によって大いに増幅されている。そのことが本書を手にした動機だ。

アイヒマンの任務と死刑判決

カール・アドルフ・アイヒマン(1906-1962)はナチスの戦争犯罪人(絶滅収容所移送責任者)の一人。アイヒマンの任務は、第二次世界大戦中、欧州各地に散在していたユダヤ人を狩り出し、貨車を使って絶滅収容所に移送することだった。大戦後、米軍捕虜収容所から脱出し、アルゼンチンに潜伏していたが、戦後(1948)新たに中東パレスチナの地に建国されたユダヤ人国家・イスラエル政府による「ナチ狩り」によって、1960年、同国諜報員に確保されイスラエルに移送された。1961年、アイヒマンの裁判は本題のとおり、エルサレムで行われ、1962年5月29日、アイヒマンは死刑判決を受け、2日後の31日に同地にて絞首刑に処せられた。

以上のような概略が一般のアイヒマン理解として流通している。しかしそれだけなら、前出の「〇〇のアイヒマン」という表現が頻繁に用いられるはずがない。本書はアイヒマンの裁判資料等からユダヤ人問題に深く迫った力作だ。と同時に、出版時、世界中のユダヤ人から非難を浴びせられた問題作だったともいう。本書はユダヤ人問題の複雑さを知らしめると同時に、権力に支配された組織内にあって、人はいかに思考し行動すべきかを問うものともなっている。読了後、著者(ハンナ・アーレント)の知の深さを知ることとなる。

アイヒマン裁判の疑問点

(一)アルゼンチンにいたアイヒマンを拉致しイスラエルに連行することの正当性

アイヒマンがイスラエルの諜報員に確保されるまで、彼はアルゼンチンに住んでいた。潜伏していたというよりも、普通に暮らしていたらしい。彼がドイツからこの地に逃れたのは、非合法的国外脱出に当たるのかもしれないが、アルゼンチン国内において、他国の者がその国の居住者を強制的に拉致、連行することに正当性が認められるのか――もちろん、大戦中、ナチス・ドイツがユダヤ人を大量殺戮したことは歴史的事実であり、戦争犯罪であることは疑いようがない。しかし、イスラエル諜報員がアルゼンチンで行った行為はアルゼンチンの主権を侵害したことにならないだろうか。

アイヒマンの拉致・連行のケースと似たような事件が、わが日本の首都・東京で起こっている。「金大中事件」だ。この事件は、1973年、大韓民国の民主活動家および政治家で、のちに大統領となる金大中が、韓国中央情報部 (KCIA) により日本の東京都千代田区のホテルグランドパレスで拉致され、船で韓国に連れ去られたというもの。

その後、金大中はソウルで軟禁状態に置かれ、5日後にソウル市内の自宅前で発見された。この事件を主導したのは金大中の政敵であり、当時大統領であった朴正熙だった。事件現場となったのは前出のとおり、首都・東京のど真ん中だった。

当時、朴正熙と親和的関係にあった日本政府はKCIAの「犯行」を黙認したばかりか、国内メディアに対して、徹底した報道規制を申し渡したといわれている。当時のイスラエルとアルゼンチンの関係の詳細はわからないし、アイヒマンと金大中の立場がまったく同じとはいわないが、国家間の同意さえあれば、超法規的措置というのは大いにあり得るということは確かなのだ。

(二)イスラエルで裁判が開かれることの疑問

ホロコースト(大量殺戮)があった大戦中、イスラエルという国家は存在していない。イスラエル国家が誕生したのは前出のとおり、大戦後の1948年のこと。また、ユダヤ人に対するホロコーストが行われたのは欧州各地(ドイツ本国及びナチス・ドイツの占領地)においてであり、被害者はドイツ及びその占領地の国籍を持ったユダヤ系の人々だった。イスラエル国籍というのはなかったのだから。たとえば、ドイツ本国に在住していたユダヤ人は、ユダヤ系ドイツ人。ということは、アイヒマン裁判は欧州各国に住んでいたユダヤ系の〇〇人に対する犯罪であるから、その罪を問う裁判は中東のイスラエルではなく、国際法廷の名目で、欧州のどこかで開かれなければならなかったのではないか。

建国から十数年余のイスラエルがアイヒマンを自国で裁判を行った背景には、イスラエルという存在を国内外へアピール必要があったからだ。イスラエルの表玄関である国際空港はベン=グリオン空港と名付けられているが、その名は、イスラエル国民から“建国の父”と呼ばれているベン=グリオン(当時)首相の名を冠したもの。ベン=グリオンは独立運動の指導者であり、独立直後に起きた第一次中東戦争を乗り切ってイスラエルを不動の独立国の地位に高めた英雄だ。そのベン=グリオンは1953年、不祥事でいったん退任したが、1955年に再び首相に返り咲いた。再選後のベン=グリオンが自らの政治的求心力を高めるため、そして、イスラエル(ユダヤ)人の結束力を再度高めるため、アイヒマンという戦争犯罪人を政治的に利用したという説も頷けないものではない。

(三)アイヒマンという人物と彼が犯した戦争犯罪

アイヒマンはナチスの幹部というわけではない。ナチス親衛隊国家保安本部の課長職であり、肩書は中佐だった。彼の仕事は前出のとおり各地のユダヤ人を絶滅収容所へ移送すること。彼は裁判において、自分(アイヒマン)はユダヤ人を一人として殺していない、と供述していたという。確かに彼は自ら武器をとって面と向かってユダヤ人を殺したことはなかったのかもしれないが、ユダヤ人を貨車で絶滅収容所に移送したその結果について彼が知らなかったはずがない。そればかりか、自分はユダヤ人の指導者と友好的関係にあったとも証言したという。この発言に関するユダヤ人指導者の一部とナチスの微妙な関係については後述する。

課長、中佐という地位は、日本のサラリーマン世界では中間管理職に該当する。上からの命令を部下にやらせるマネジメント職ではあるが、重要な戦略を立案する立場にはないし、決定権もない。ユダヤ人絶滅計画を立案したのはヒトラーであり、その意を受けた幹部がアイヒマンに実務を下したのだ。アイヒマンがヒトラーの絶滅計画に反対したとしたら、軍法会議でそれこそ反逆罪に問われかねない。アイヒマンも法廷では、命令に従っただけだと主張した。

戦争犯罪を裁くということは難しい。戦勝国からすれば、敗戦国の政治・軍事・行政の指導者は戦争犯罪人だ。ではどこまでがその責を負うのか。ナチス指導者のうち、敗戦時に生きていた者はことごとく裁判で死刑に処せられた。その一方で、ナチスを熱狂的に支持した一般市民に罪はないのか。ユダヤ人問題に限定すれば、移送責任者のアイヒマンは裁判にかけられたが、隠れていたユダヤ人を親衛隊に密告したドイツ市民の罪は問われないのか、逃亡しようとしたユダヤ人を射殺した兵士の罪はどうなのか…

著者(ハンナ・アーレント)はホロコーストに関与したアイヒマンは人類に対する罪を犯したという。同時に、ドイツの都市を無差別爆撃した連合国軍の空爆作戦や、日本の広島・長崎に原爆を投下した米軍の軍事行動も人類に対する罪だという。アイヒマンが罪に問われるならば、無防備な非戦闘員である市民を無差別に爆殺する軍事行動も罪に問われなければならない。戦時においては、人類に対する罪を犯す可能性、すなわちその当事者になる可能性はだれにでもある。だからといって、アイヒマンを無罪放免するわけにもいかない。彼はナチス・ドイツ敗戦時に国外逃亡をはかったのだから。

アイヒマンの罪に対する意識

アイヒマンの人物像は、裁判を傍聴し、彼の供述を丁寧に読み直した著者(ハンナ・アーレント)の観察・分析によると、極悪非道のモンスターではないという。怪物というよりもごくありふれた普通人のようだ。出世欲があり、自分を大物に見立てる傾向がある一方、上層部には忠実で勤勉な官吏のようだと。このような人間像は、アイヒマンに限らず、ナチスの中堅幹部に共通するものかもしれない。『ヒトラー最後の代理人』(原題:The Interrogation、製作年:2016年、製作国:イスラエル、監督:エレズ・ペリー、脚本:エレズ・ペリー、サリ・タージェマン、キャスト:ロマナス・フアマン、マチ・マルチェウスキ)という映画をご存知の方も多いだろう。第2次世界大戦中にアウシュビッツ強制収容所の所長を務め、終戦後に死刑に処された実在の人物ルドルフ・フェルディナント・ヘスの自叙伝をもとに描いた歴史ドラマだ。

ストーリーは、ナチス・ドイツ敗戦後の1946年。アウシュビッツ強制収容所で最も長く所長を務めたルドルフ・フランツ・フェルディナント・ヘスは、ポーランドの刑務所で裁判にかけられるのを待っていた。ヘスの取り調べを担当する若き判事アルバートは、ヘスが持ち込んだシアン化合物系の殺虫剤ツィクロンBによって101万人もの人間が虐殺されたことなど、収容所で行われていた恐ろしい行為の数々を明らかにしていく。ヘスは戦犯としてポーランドで絞首刑に処せられた。なお、アウシュビッツ強制収容所所長のヘスは、ナチ党副総統(総統代理)のルドルフ・ヘスとは別人であり注意を要する。

この映画の大部分は判事アルバートによるヘスの取り調べ風景で占められている。ヘスは尋問に対してあたかも他人事のように、強制収容所のできごとを淡々と語る。そこに罪の意識をうかがうことができない。ユダヤ人を100万人以上も毒ガスで殺害しておきながら、あたかもモノを処理したような感覚しか、ヘスには残されていないかのようだ。

アイヒマンもおそらく、取り調べや裁判において、映画『ヒトラー最後の代理人』のシーンのように、淡々と取り調べを受け、陳述を繰り返していたのだろう。著者(ハンナ・アーレント)もアイヒマンの無機的な態度ーー他人事のような当事者意識の希薄さを幾度となく指摘している。

アイヒマンのユダヤ人に対する意識は、表現は適切ではないが、廃棄物処理のようなものなのではなかったか。散在しているそれを一カ所に集め、貨車で移送し、最終処理所(絶滅収容所)へ送るまで。アイヒマンは事務的に移送計画を作成し、関係各所に通達し、処理させる。不手際があれば現場に出向き修正を加え、万事つつがなく運ぶことが自分の使命なのだと、それが総統への忠誠だと。もちろん、最終地点=絶滅収容所では、彼が移送した(と命じた)大量のユダヤ人が殺戮されることは承知している。それは悪ではなく、ナチス・ドイツにとって必要なことなのだと。

著者(ハンナ・アーレント)はこう書いている。
被告(アイヒマン)やその犯行、また裁判そのものが、エルサレムで審理された事柄の範囲をはるかに超えた普遍的性質の諸問題を提起したことはもちろん疑いを容れない。(略)私(ハンナ・アーレント)が(本書の副題である)悪の陳腐さについて語るのはもっぱら厳密な事実の面において、裁判中誰も目を向けることのできなかったある不思議な事実にふれているときである。アイヒマンはイアーゴでもマクベスでもなかった。しかも〈悪人になってみせよう〉というリチャード三世の決心ほど彼に無縁なものはなかったろう。自分の昇進にはおそらく熱心だったということのほかに彼には何らの動機もなかったのだ。そうしてこの熱心さはそれ自体としては決して犯罪的なものではなかった。(略)俗な表現をするなら、彼は自分のしていることがどういうことか全然わかっていなかった。(略)彼は愚かではなかった。まったく思考していないこと――これは愚かさとは決して同じではない――、それが彼があの時代の最大の犯罪者の一人になる素因だったのだ。そのことが〈陳腐〉であり、それのみか滑稽であるとして、・・・やはりこれは決してありふれたことではない。(P394-395)
ナチス・ドイツとユダヤ人

本書の第9章から13章まで、ヨーロッパ各地におけるユダヤ人の取扱いの状況が記されている。各地とは、◇ドイツ、オーストリア及び保護領、◇西ヨーロッパ―フランス、ベルギー、オランダ、デンマーク、イタリア、◇バルカン諸国―ユーゴスラビア、ブルガリア、ギリシャ、ルーマニア、◇中欧―ハンガリー、スロヴァキア、◇東欧の殺戮センター(ポーランド)に及ぶ。本書はエピローグを含めて16本の章だてだから、うち三分の一が割かれていることになる。この箇所は、ヨーロッパにおけるユダヤ人問題の複雑さをかなり深く理解する助けになっていて、占領地のうちナチス・ドイツにきわめて協力的だった国とそうでない国とがあったことがわかる。

また、ユダヤ人勢力のうち、ナチス・ドイツと協力関係を結んだ組織があったことも忘れてはならない。その中心となったのがシオニストだ。シオニストとは中東パレスチナにユダヤ人国家、イスラエルを建国しようとする一団だ。第二次大戦前、パレスチナはイギリスにより委任統治されていた。パレスチナへの帰還を目指すシオニストからみれば統治国イギリスは敵であり、ナチス・ドイツはイギリスの敵であるから、シオニストにとって敵(イギリス)の敵(ナチス・ドイツ)は味方となって、反イギリスという立場からナチス・ドイツに協力することもあった。アイヒマンが進めたユダヤ人移送はシオニストの協力によって推進されたという面もなくはなかったのだ。アイヒマンがユダヤ人指導者と親密だったという証言は、シオニストから協力を受けたことを指している。

著者(ハンナ・アーレント)は本書において戦時中のシオニストのナチスへの協力を明らかにしたため、全世界のユダヤ人から非難を受けた。ユダヤ人問題というのは、日本人からすると、かなりわかりにくい面をもっている。

日本には無数のアイヒマンがあふれている

安倍政権下の日本において、森友学園問題に係る文書改竄が財務省の地方部局で行われた。改竄を命じられた職員は公文書管理の規定に基づき、改竄を心情的に拒否しつつ、実際に推進させられる自己矛盾に苦悩した挙句自殺した。自殺した職員はアイヒマンにならず、思考した。その挙句の決断が自死だったことは残念極まりない。ご冥福を祈るばかりである。ところが、それを命じた(当時)財務省理財局長は退職金をほぼ全額もらって退職している。裁判にかけられない「アイヒマン」である。

日本の多くの省庁の現場では「アイヒマン」であふれている。アベノミクスという愚劣な経済政策にとびついた経産省(職員)、家計学園問題では官邸幹部職員が虚偽証言の疑惑を持たれている。シロをクロといい続けて首相を守るのが職員の使命だと曲解している。いまの日本国の経産省、財務省、官邸といった中央官庁の幹部職員は「アイヒマン」を貫徹しながらも罪に問われることがなく、むしろ、「有能な行政官だ」と権力者(財務大臣)からお褒めにあずかるといった具合だ。そういえば、日本国のいま(2018/10/07現在)の財務大臣は、「ナチスの手口を学んだらどうか」と発言をした。

アイヒマンのような、思考しない悪の陳腐さが、とりわけ日本の行政機構を蝕んでいる。

2018年9月27日木曜日

2018年9月19日水曜日

プロスポーツにおける「二刀流」は進化かそれとも退化か

“二刀流”といえば野球の大谷翔平の代名詞だが、陸上短距離100メートル世界記録保持者、ウサイン・ボルトもプロサッカー選手を夢見ているという。サッカーの本田圭佑は2018-19シーズン、選手(メルボルンビクトリー)と実質的な代表監督(カンボジア)の兼任に取り組んでいる。

大谷の場合は、日本プロ野球(NPB)で投手と打者(指名代打)の「二刀流」に成功し、2018シーズン、MLBに移籍したが故障し、現在(2018/09/14)、指名代打に専任していて、今シーズンに限っては成功していない。14日の新聞報道によると、大谷が所属するエンゼルスのソーシア監督が「大谷は来季マウンドに上がらない・・・2020年には二刀流としていい状態でプレーできるだろう」と語ったとある。大谷の二刀流は、今季はもちろん、来季も封印される。19シーズン以降、手術等を経て、「二刀流」で成功する可能性はないとはいえないが、筆者は二刀流の続行に悲観的だ。

本田の場合はAリーグがスタートしていないので、これも何ともいえないが、カンボジア代表監督としての初戦は黒星。なおボルトの場合は、どこまで本気なのかわからないので言及しない。

大谷の二刀流は100年前への回帰

大谷の二刀流挑戦は、野球というスポーツの新たな可能性を開いたという見方が一般的だと思われる。前人未到の世界への果敢な挑戦だと。すなわち二刀流への挑戦は野球選手として未知の世界に挑むこと――進化の過程だというのが日本のスポーツメディアの結論のようだ。

しかし、筆者はそのような見解に賛成しかねる。その理由は、筆者は拙Blogにおいて大谷の二刀流挑戦についてたびたび頓挫を予言したことと重なる。

MLB(アメリカにおける職業野球)の黎明期、偉大な天才、ベーブ・ルースが二刀流で実績を残したのが1910年代のこと。およそ100年前の出来事だ。その時代は9人野球が一般的だった。日本では高校野球等のアマチュア野球の世界が100年前のMLBのままで、いまだに「エースで四番」が幅を利かせている。

分業、専業化という進化

MLBはもちろんNPBにおいても野球は進歩に進歩を重ね、そのことは分業化・専業化とほぼ同義だ。投手と野手すなわち投法と打法は基本的に異なる運動であるため、投手は投手として進化を遂げ、打者も打者として進化を遂げている。

なぜ分業化(専門化)が進んだのかというと、野球がチームプレーであり、最終目標はチームが勝つことだからだ。勝つためには、ベンチに入った25名程度の選手が何をなすべきかに基づき役割が割り振られた。投手陣においては、先発、中継ぎ、抑えという分業化であり、野手では、打順ごとの役割の明確化や走塁スペシャリストの出現があり、守備専門選手もいる。登録枠およそ50~70名程度の選手も多種多様、それぞれの専門性が顕著になっている。

個人単位のフィギュア・スポーツ(たとえばフィギュア・スケート)ならば、打って投げることができる選手のポイントが高くなるかもしれないが、野球は前出のとおり、相手より1点でも多くあげて勝つことが最終目的なのだ。

大谷はエンゼルスの勝ちに貢献していない

大谷がMLBにおいて1シーズン、コンディションを維持して二刀流を続行し、はたしてどれだけの成績があげられるのか。先発で10勝、打率3割、20本塁打なら合格点だろうが、先発で5勝、打率2割5分、15本塁打程度なら、チームに貢献したとはいえない。大谷は打に専念する試合ではDH起用に限定される。DH専門なら、かなりの高打率、多本塁打が求められる。大谷が二刀流を放棄してどちらかに専念したとしたら、筆者の見立てでは、投専門で、MLBでも10~14勝が期待できるし、その反対にDH専門で打率3割以上、20~30本塁打はかたい。しかも、そのどちらでも、大谷が二刀流で中途半端な成績で終わるよりも、投手大谷、打者大谷のほうがチームの勝利に貢献する。

今季、エンゼルスは大谷の二刀流でメディアの関心を集め、集客、グッズ販売等が順調だから二刀流を容認したのだろうが、成績はア・リーグ西地区5チーム中の4位(73勝、74敗)、現地時間13日、15試合を残しワイルドカードによるプレーオフ進出の可能性が消滅している。つまり、大谷二刀流人気とは裏腹に、彼は戦力(=チームの勝利)には結果として、寄与していない。

大谷の二刀流はエンゼルスの今季限定「商品」にすぎない

エンゼルスは、来季に備え、チーム成績が回復するための方策を探らなければならない。前出のソーシア監督の発言は、来季、大谷を打者に専念させ、二刀流という中途半端な存在をチームから一掃するという球団の方針の代弁だろう。なぜなら、ソーシアは今季限りでエンゼルスを退任するからだ。来季の大谷の扱いは、次の監督が決めることになる。

大谷の契約期間は1年だが、エンゼルスが6シーズンの保有権をもっているので、この先、大谷がどうなるかは不明なまま。来季、大谷がDHでよほどの成績を上げなければ、売りに出されることもありえる。ことほどさように、大谷のMLBにおける地位は、日本人が思っている以上に不安定なのだ。

サッカーにおける監督と選手の兼任(本田圭佑の場合)

本田が所属するAリーグが開始されていない段階なので、本田の代表監督業と選手の兼任の結果については言及できない。ただ、本田が18日、ツイッターで指導者ライセンスについて問題提起しているので、その件についてふれてみよう。

本田のつぶやきは、「今のコーチングライセンス制度は廃止して新しいルールを作るべき。プロを経験した選手は筆記テストだけで取得できるのが理想。母数を増やして競争させる。クラブ側も目利きが今まで以上に求められる。ただ選択肢は増える。日本のサッカーはそういうことを議論するフェーズにきている」というもの。

本田は新自由主義者

本田の言及は、監督業における「規制緩和」を求めたもの。市場競争原理が善を導くとする新自由主義の発想にほかならない。筆者は新自由主義に批判的な立場にあるため、本田のライセンス制度への提言についても当然、賛成しかねる。その理由は、指導者、指揮官の資質と選手としての資質はまったく別ものと筆者は信じるから。

Jリーグが行っているライセンス制度が完璧だとは思わないが、筆者はその精神及び原理原則を支持する。ライセンス制度の根源には、すべての者(現役時代に実績を残した選手も無名の選手)も、指導者としてのスタートは同一であることが望ましい――という思想に基づくからだ。

かりに本田の提言のようにライセンス制度を廃止すれば、監督の職は有名選手で占められる可能性が高い。日本のスポーツ界では、有名選手が監督コーチを占める割合が高いからだ。たとえばプロ野球をみればいい。現役を引退した有名選手が即監督につくのが当りまえの業界だ。近年における、読売の高橋由伸、阪神の金本知憲の事例を見ればわかりやすい。名選手が指導者の訓練を経ず、監督に就任する不思議。このような日本独特の指導者に関する考え方は、指導者として資質をもつ現役無名選手等が監督やコーチの職を得られなくしている。有名選手が監督として失敗する事例は日本の野球界では珍しくない。本田の規制緩和が制度化された場合、そのことが日本サッカー界にもたらす弊害の第一は、Jのチームの監督の職は現役時代に実績を残した元スター選手で占められ、その陰で指導者としての資質を持った無名の者が疎外されるという現実だろう。そのことがもたらすサッカー界の損失は膨大なものとなろう。

〈有名選手・引退後指導者〉という日本スポーツ界の〈時間差二刀流〉

日本のスポーツ界では時間差はあれ、〈選手〉→(引退→)〈監督〉が兼任であり、その資質の差異は、まったくといっていいほど意識されない。本田のつぶやきが、自身のカンボジア代表監督と選手の兼任を正当化する詭弁としてなのか、もしくはJリーグの監督の職を狙ってのものなのか、それとも単なる思いつきなのか、あるいは新自由主義者を気取ってのことかはわからない。そのいずれにしても、本田の規制緩和は進化ではなく退化であり、日本のスポーツ界の時代遅れ、考え違いを肯定するものだ。

蛇足ながら、いま新しいスポーツアイコンとなったテニスの大坂なおみのコーチは、現役時代まったく無名だったサーシャ・バイン。大坂とサーシャの関係が、日本プロスポーツ界における指導者のあり方を改めようとしている。

2018年8月30日木曜日

赤羽探索(2)

赤羽その他
台湾のソウルスイーツ。「鮮芋仙」

「鯵」の料理専門店


全国の焼酎を集めた専門店
被昇天の聖母・カトリック赤羽教会

赤羽(東京・北区)探索(1)

居酒屋の聖地として近年脚光を浴びている赤羽を探索。

「シルクロード」及びその周辺には居酒屋、バルが密集。





そのなかのクラフトビアパブ(Craft×Craft)へ
クラフトビールについて熱く語る橋本氏



2018年8月26日日曜日

ダメ虎改造論―阪神タイガース再建試案

最初に筆者の日本プロ野球(NPB)に係る立場を明らかにしておこう。まず、支持する球団はない。NPBは多く改善する余地があると思っている。強いていえば「アンチ巨人」。そのことと同義だが、読売が中心となり進めてきたNPB運営は、スポーツビジネスとしてはかなり歪んだものであると確信している。概ねそんなところだ。

ではなぜ、阪神タイガースについて書くのかといえば、阪神こそ、「アンチ巨人」の象徴的存在であり、阪神が読売を倒すことがNPB再構築のカギだと思っているから。阪神が読売より上位にあり続ければ、NPBの正常化も促進されると確信するからである。

ダメ虎、宿敵読売に7年連続の負越し

しかるに、2018シーズン(2018/08/25現在)、阪神は3位ヤクルトに0.5ゲーム差の4位。2位読売との対戦成績7勝13敗とすでにシーズン負越しが決まっている。これでなんと7年連続で読売に負越しである。

セントラルリーグにおいては広島が独走状態にあり、クライマックスシーリーズ(CS)進出が興味の対象に移行しているが、このままなら、阪神がBクラスで終わる可能性は十二分にあり得る。

阪神再建のための具体案

ダメ虎を脱するために来シーズンとるべき方策を列挙しよう。第一がスタッフに係る問題で、現監督・金本知憲の更迭及び投手コーチを除くコーチ陣の総入れ替え。併せて、ゼネラル・マネジャー(GM)制度の敷設(ただし、見識ある者の就任が条件)を提言する。第二は個々の選手に係る方策で、ここでは「正捕手」梅野隆太郎に代わる捕手の獲得及び藤浪晋太郎再生法についてふれる。

理論なき金本野球

金本監督のダメさ加減の象徴は、読売との19回戦(8/25)に端的にあらわれた。読売の先発クリストファー・クリソストモ・メルセデスに右打者を並べて2安打完封に抑えられ完敗した試合である。すでに多くのスポーツメディアが金本批判を繰り広げているのでここで詳論するつもりはないが、大雑把にいえば、メルセデスが左打者に弱い左投手というのは球界の常識のみならず野球ファンのそれとして定着している。にもかかわらず、金本が先発で右打者を並べた根拠がわからない。その根拠を明言してくれれば、結果はともかく金本采配を容認する余地はあった。右には左、左には右という固定概念しかもちえないのでは、監督とはいえない。この試合、代打に登場した左打者のエフレン・ナバーロがチーム初安打を放ったが、次のイニングにナバーロを守備に就かせず1打席でベンチに下げてしまった。金本は読売に勝つ気がないとしかいいようがない。ことほどさように、金本采配は無茶苦茶である。

前出の対読売7年連続負け越しのうち3年は金本が監督を務めたシーズンに当たる。「アンチ巨人」の筆者としては、いますぐにでも金本の更迭を希望する心境にある。

失敗続きの金本監督の3シーズン

およそ3年間の金本采配を大雑把に振り返ってみよう。就任初年(2016シーズン)、金本は「超変革」をスローガンに掲げて若手を積極起用し、話題をさらった。が、結果は4位。話題性とは裏腹に実績は上がっていない。このときスポーツメディアは金本に寛容だった。「若手の活躍」を称賛したのだが、実際はそうではなかった。しかも、才能のある藤浪投手を潰してしまった。「藤浪問題」については後述する。

2017シーズンは2位。この成績を推進したのは金本が積極起用した若手打者の力ではなかった。攻撃面では、MLB帰りの福留孝介と、FAで新たに獲得した糸井嘉男、生え抜きの鳥谷敬らのベテラン打者であり、守りの面では鉄壁のリリーフ陣だった。反対に、金本は若手打者をレギュラーに育て上がられず、選手起用は混迷した。

そして今(2018)シーズンはごらんのとおり、2017シーズンで酷使した救援陣が投壊、ベテラン打者陣は勤続疲労状態、若手はさらなる伸び悩みでAクラスも危ない状態だ。3シーズンで、金本が残した遺産はゼロ。むしろ、掛布雅之(2014-2015シーズン、新設のゼネラル・マネジャー付育成&打撃コーディネーター。2016-2017シーズン二軍監督)の遺産(若手打者陣)の継承にも失敗した。

なお、金本が更迭となればコーチ陣も入れ替えになるだろうが、ここでスタッフ人事については詳論しない。ただし、投手陣を整備した香田勲男を中心としたピッチングコーチ陣については評価すべきである。

GM制度を復活せよ

阪神球団は2015年以降、GM制度を廃止した。前出のとおり、掛布はGM制度があった2013に育成&打撃コーディネーターに就任し、以降、二軍監督時代を通じて、若手打者を育成してきた。ところが、2016シーズンから一軍監督を務めるようになった金本と対立し、2017シーズン終了とともに二軍監督を退任している。GM制度があれば、2018シーズンに掛布が阪神球団を去ることはなかったのではないかと推測する。と同時に、若手打者陣がここまで成績を下げることもなかったのではないかとも。


優良助っ人の獲得に本気を出せ

そればかりではない。阪神球団を悩ますのが「外国人問題」である。主砲として期待されたゴメス、ロサリオが期待に反し、2年連続で攻撃陣の補強に失敗している。

しかしながら、阪神タイガースは伝統的に、優秀な外国人選手を獲得する球団として定評があった。打者では、いまや伝説と化したランディ・バース、MLBに戻って大活躍したセシル・フィルダー、セリーグ最多安打のマット・マートン、投手では在籍中のランディ・メッセンジャー、JFKの一角として活躍したジェフ・ウイリアムス、先発で活躍したマット・キーオ、MLBに移籍したクローザーの呉昇桓…と、阪神に在籍した優秀な外国人選手を挙げれば枚挙にいとまがない。

ところが、GM制度を廃止し、金本が監督に就任したからというもの、とりわけいい外国籍打者の入団が途絶えた。外国人獲得だけがGMの仕事ではないけれど、球団として、とりわけ、戦力となる好打者の獲得に尽力してもらいたいものだ。

オリックス伊藤光捕手獲得に動かなかったフロント

NPBでは捕手に悩みを抱えている球団が多い。そんななか、DeNAがシーズン中トレードで、オリックスから伊藤光捕手を獲得した。オリックスは阪神と同じ在阪球団。その内情は関東在のDeNAより把握しやすい状況にあったはずなのに。伊藤光の近年の球歴をみてみようーー

  • 2013シーズン:規定打席数に到達。.285の打率を残し、オールスターゲームにもファン投票で出場。
  • 2014シーズン:正捕手。ソフトバンクとのデッドヒートの中心的存在として活躍。そのオフには前年オフに引き続いて侍ジャパンに招集され日米野球に出場。
  • 2015シーズン:伊藤光の成績は急降下。春先から恒例の侍ジャパン強化試合にも出場し、開幕戦にもマスクをかぶったものの、次第に出番を減らし、二軍落ちも。チームの低迷のため森脇浩司監督がシーズン途中で休養すると、チーム低迷の責任をひとりで背負い込まされたようなかたちで、投手が打ち込まれると、伊藤のリードのまずさが指摘されるようになった。
  • 2016シーズン:現監督の福良淳一が正式に就任。チームは若い若月健矢を育てる方向に舵を切る。この年、投手陣が火だるまになった後、ベンチで伊藤が首脳陣から激しい叱責を受ける映像が流れた頃には、ファンの間でも、伊藤の立場がチーム内で極度に悪化していることが噂されるようになった。実際、「伊藤光」とネットで検索すると「干される」と言葉が続けて出てくるという。
  • 2017シーズン:若月に正捕手の座を明け渡し、ほぼ二軍暮らし。サードの練習にも取り組まされ、公式戦でスタメン起用されたこともあった。
  • 2018シーズン:シーズン途中の7月、DeNAにトレードで入団。伊藤光29才である 。
筆者は阪神の「正捕手」梅野を買っていない。彼のリードは弱気である。弱気というのははなはだ情緒的な表現だが、別言すれば策がないとなる。24日、25日の対読売との2試合、梅野は先発の秋山拓巳、小野泰己の良さを引き出せなかった。

読売打線はパワーピッチャーに弱い。腕を振って強い球を投げる投手には腰を引きがちだが、変化球主体で弱い球を投げる投手にはめっぽう強い。前のカードのDeNA戦、読売はカード初戦のDeNA先発・平良拳太郎を打ち崩したが、2戦目(井納翔一)、3戦目(東克樹)には沈黙した。平良がスライダー主体の逃げの投球だったのに反し、井納・東は速球主体にスプリットもしくはチェンジアップを織り交ぜての投球で読売打線を寄せ付けなかった。井納、東をリードしたのがオリックスからきた伊藤光で、平良と組んだのは嶺井博希(途中、伊藤光に交代)だった。

この3試合で伊藤光のリードが完璧だったとはいわないが、彼のリードには光るものがあった。阪神はその伊藤光の獲得に少なくとも乗り出すべきだった。トレードが成立するかどうかは別問題。他球団の余剰戦力を探るくらいの動きが球団にあっていい。

それだけではない。梅野のリードの悪さはとりわけ、読売の岡本和真に打たれすぎること。2018シーズン序盤、岡本は阪神戦で好打を続け、自信をつけた。岡本を「育てた」のは、阪神投手陣で、その中心に捕手・梅野がいた。

藤浪を日本球界のランディ・ジョンソンに

藤浪の不調と金本監督就任はほぼ同期している。金本が監督に就任した2016シーズン、先発陣の柱である藤浪が広島戦の序盤で5失点し、懲罰で完投こそさせなかったものの結果的に8回161球を投げさせた。しかも、延長戦で投手に打席が回るも代打を出さず、それが響いて敗れるといった不可解采配を続けた。藤浪を潰したのは金本だという評価は球界に定着している。

しかし、藤浪再生は監督が代われば解消するのかというと、筆者はそう思っていない。精神面だけでもない。藤浪の最大の欠陥はコントロール不足で、右打者の頭部近くに抜けるボールが多く、ベンチにしてみれば危険球退場のリスクがついてまわる。打者にしてみれば、野球生命にかかわる問題であり、投手の退場でイーブンではすまされない。

藤浪本人も打者にぶつけてはまずいと思っているから、右打者の外中心のスライダー中心の組み立てにならざるを得ない。フォーシーム、ツーシームが抜ければ危ないし、カットボールでも危険があるから、球種に限りが出てくる。おっかなびっくりフォーシーム、ツーシームを投げれば腕が振れず、威力は半減する。四死球が多くなり、カウントを不利にして打たれる。藤浪の負のスパイラルはそこにある。

筆者は、藤浪のノーコンがオーバースローに起因すると考える。藤浪の体型と投球フォームのバランスは横回転で威力を発揮するように思える。いまのままで負のスパイラルから脱せずに引退するのならば、フォームを改善して勝負に出るべきではないか。彼はまだ24歳なのだから。

腕の位置がスリークォータなのがはっきりわかる
身長が高くリーチのあるスリークゥオーターの大投手といえば、MLBの左腕・ランディ・ジョンソンが思い浮かぶ。左腕歴代最多となるサイ・ヤング賞5度受賞、歴代2位の通算4875奪三振を記録した大投手だ。

Wikipediaによれば、ランディ・ジョンソンはメジャーリーグでも稀な2mを超す長身で、サイドスローに近いスリー・クォーターから繰り出すフォーシームは最速164km。さらに2種類のスライダー、スプリッター、ツーシームを投げ分ける。身長の分だけ腕も長く、横に変化する高速スライダーは左打者にとっては背中越しにボールが現れる上に至近距離まで球筋が見極められず、非常に打ちづらい――と紹介されている。

藤浪も身長197㎝と日本人投手としては群を抜いた長身である。ジョンソンと同様に腕を下げ、コントロールをよくして、スライダー、フォーシーム、ツーシームを投げ分けたら打ちづらい投手になるように思うのだが。いまのままずるずる引退するか、ランディ・ジョンソンを研究してフォーム改造に取り組むか――決断すべき時(年齢)だろう。

金本体制の阪神タイガースでは選手が委縮するばかりで、若い才能が開花しにくくなっている。金本の独善的で非論理的野球観では選手がついてこない。強権的かつ自分の「成功体験」にまかせた、一方的選手対応では、選手との溝は広がるばかりだ。

阪神タイガースは球団をあげて、チームの弱点を補うための適正な補強計画及び情報収集に努めなければいけない。そのためにはGM制度の再導入は必須である。逸材、藤浪の再生も急務である。来シーズン以降、総合的球団経営を任せられる近代的野球人をGMに据えて、捲土重来を期してもらいたいものだ。

2018年8月15日水曜日

『東大闘争の語り―社会運動の予示と戦略』

●小杉亮子〔著〕 ●新曜社 ●3900円+税

いま(2018)からおよそ半世紀前、世界同時的に“異議申し立て”運動がわきあがった。米国、西ドイツ、フランス、イタリア等の学生運動の活発化、中国には紅衛兵の登場…そして日本においても、学生を中心とした若者が反体制運動を展開した。こうした動きは今日、その中心年をとって、“1968”(の思想、のムーブメント…)と呼ばれている。

語り(聞き書き)を基盤とした東大闘争の検証

本書は、当時、国民的関心を集めた東大闘争を日本における“1968”の象徴的事例として取り上げ、その詳細な検証を通じて、“1968”を読み解く試みである。“1968”についての論考、なかんずく東大闘争に係るそれは本書が初めてではない。なかで、本書でしばしば引用されている『1968』(小熊英二著)がよく知られている。同書が当時のビラ、報道資料、大学及び全共闘により刊行された記録等の二次的試料から東大闘争を論じているに反し、本書は闘争参加者44名にインタビューを試み、時代の証人として、彼らの語りを論考の基礎として加えているところに前掲書との違いがある。その44名の内訳は、東大全共闘を構成した二派(新左翼党派、ノンセクトラジカル)、そして、民主青年同盟(日本共産党学生組織。以下「民青」と略記)系、さらに当時ノンポリと呼ばれた一般学生に及んでいる。そのことにより、東大闘争=全共闘運動という既成イメージは打破され、東大闘争の多様性が明らかにされている。

ふたつの観点

本書の観点は以下のように明示されている。
以下の2点に着目することによって、1960年代の学生運動の内在的理解をめざしたいと考えている。第一に、1960年代の学生たちは、当時の社会運動セクター全般の動向と軌を一にして、社会運動のありかたをめぐる葛藤を抱えていた点である。第二に、この葛藤を前に、1960年代学生運動参加者たちは予示的政治と戦略的政治という異なる運動原理のいずれかを志向することになり、1960年代学生運動は両者の対立と共存としてとらえられる点である。(P17)
(一)1960年代学生運動の葛藤

第1点目の1960年代学生運動の葛藤とは、当時における共産主義運動の分裂及び混迷と別言できる。60年安保闘争の過程で日本の左翼陣営、とりわけ学生組織は二つに分裂した。学生運動の主導権は主流派と呼ばれる共産主義者同盟(ブント)が掌握し、主流派は日本共産党、日本社会党を、資本主義の延命に手を貸す――真の階級闘争に敵対する――反革命勢力と規定した。彼らは国会突入等の強行的運動を展開したが、警察権力、マスメディア及び日本共産党等の反暴力キャンペーンによって排除され、安保闘争も左翼総体の敗北に終わった。

60年安保闘争敗北による停滞のなか、新旧左翼が対立したままの状況を脱したのが、1967年、新左翼学生組織三派=ブント、革命的共産主義者同盟(以下「革共同」と略記)中核派、社会主義青年同盟解放派(以下社青同解放派)による第一次羽田闘争の開始だった。しかし、一見、新左翼学生運動が新たな展開を見せたように報道されたが、全国の大学における左翼運動の実態としては、60年安保闘争時の対立構造、すなわち旧左翼=日本共産党=民青⇔新左翼=ブント、各共同中核派・革マル派、社青同等の対立が内在したままだったばかりか、民青の学園支配が圧倒的だった。本書が東大闘争のアクター(主役)の一人として、新左翼と対立する民青を登場させたことは、東大闘争の検証において当然であり、必然といえる。日本共産党は、党勢維持と民青の拠点校・東京大学をあらゆる手段を講じて新左翼から守りとおしたのである。

(二)反スターリニズム――学生運動の葛藤の核心

本書が社会学者(小杉亮子)の手になるため、学生運動の葛藤の核心部分に係る記述が皆無であるという難点を有している。学生運動が新旧左翼の対立を内在させていた素因はいうまでもなく、スターリニズム(ソ連型社会主義)を容認するか否かにあった。日本の左翼陣営では、反スターリニズムの立場に基づき、日本トロツキスト連盟が結成(1957)され、すみやかに革命的共産主義者同盟(革共同)に移行している。同セクトが“1968”における新左翼学生運動の中心的勢力である中核派と革マル派を形成する。

反スターリン主義を取り上げることは、それを突き詰めるならば、政治運動、共産主義運動のイデオロギー的側面にとどまらず、人間の存在に係る自由の問題に行き着くゆえに重要である。

1956年、欧州ではハンガリー動乱へのソ連軍の弾圧があった。同年、フルシチョフの「スターリン批判」が公表されたものの、現実のソ連においては、粛清、言論弾圧、強制収容所、密告制度等が人民に対する抑圧手段として機能していた。1968年には「プラハの春(チェコスロバキアにおける反ソ運動)」に対し、ソ連軍が戦車を進軍させて弾圧をはかった。この事実は、ソ連型社会主義に対する失望と幻滅を増進させ、左翼知識人に衝撃を与えた。やがて、「反スターリニズム」は当時の国際共産主義運動の共通言語に昇華した。

前出の日本における反スターリニズム運動の開始は、世界的潮流となってきた反ソ連、反スターリニズムに同調した現象であり、1960年代中葉から1970年初頭において、それが新旧左翼を分かつ最大の争点となっていた。

(三)反スターリニズムと“1968”

“1968”のムーブメントは、学生運動に限定されるものではない。ヒッピーに代表されるコミューン運動、スピリチュアル運動、ニューエイジ運動、そして、プロテストフォークソング、ロック、ハプニング、ニューシネマなどの登場に代表されるサブカルチャーを含めた文化総体に及ぶものだった。

そのとき、学生大衆に強く意識されたのが、反管理社会、すなわち自由を希求する心的ムーブメントだった。であるから、東大闘争において(もちろん全国の学園闘争においても)、反スターリニズムを標榜する新左翼のほうが、旧左翼=民青よりも、活動家及びそのシンパのみならず、ノンポリ学生からも支持されたのである。

彼らは、フォークソングやロックを支持するように日本共産党と敵対する新左翼を支持した。彼らの心情の裏側には、前出のソ連における粛清、言論弾圧、強制収容所、密告制度といった自由を抑圧するスターリニズム及びそれと等価の資本主義国家装置への反感、嫌悪が内在していた。東大闘争(すなわち1968)を考証するに、反スターリニズムの視点なくして論じられない。本書の視点における最大の、そして致命的な欠陥は、反スターリニズムに係る記述がすっぽり欠落している点にある。

さはさりながら、そうした学生大衆の心情を内包した新左翼学生運動は、その心情ゆえに、運動の後退、敗北、組織的壊滅を余儀なくされるに至った。このことについては後述する。

(四)予示的政治と戦略的政治という異なる運動原理

予示的政治とは耳慣れない言葉である。著者(小杉亮子)は、1960年代学生運動について、「予示的政治と戦略的政治という、社会運動をつくり動かしていくさいに見られるふたつの普遍的な運動原理の対立と共存としてとらえるものである(P21)」と明示している。以下、著者(小杉亮子)によるその定義を書き抜く。
予示的政治(prefigurative politics)は、1990年代以降の反グローバル文化運動の理論的根拠とされ、注目を集めてきた。(略)予示的政治では、社会運動の実践そのもののなかで、運動が望ましいと考える社会のありかたを示すような関係性や組織形態、合意形成の方途を具現化し、維持することがめざされる。そこでは、運動がその手段となるような、いずれ到達する理想や目的は前提とされない。望ましいとされるのは、目的に向けた合理的かつ効率的な行為ではなく、参加者がみな尊重される合意形成過程をへて決定された行為の遂行である。仲間や同志との関係性やこのとき・この場での行為そのものが変革を構成していると考えられるため、結果として、国家をはじめとするマクロ的な権力にたいする挑戦という性格よりも、ひととひととの関係や共同体のありかた、文化といった、相対的にミクロな次元に見いだされる社会内権力への挑戦という性格を強くもつことになる。(P21~22)
その反対となる戦略的政治とは――
各々の社会運動はそれぞれが掲げる理想の社会を構成する論理=ロゴスに到達するための手段」(略)だと考える限り、「今ここで運動にかかわっている人の『生』のあり方そのものはカッコに入れられてしまう」(略)ことであった。(略)(戦略的政治の)具体的な例としては社会主義運動やマルクス主義運動が考えられるだろう。
(略)
戦略的政治ではマクロな社会変革がめざされ、かつ社会運動における行為は道具的なもののとして位置づけられる。予示的政治は、戦略的政治を批判するもので、社会運動における行為はそれそのものが変革を構成する自己充足的なものとしてとらえるために、よりミクロな次元での変化や創造に重要性を見出す。
(略)
結論を先取りすれば、筆者(小杉亮子)は、1960年代学生運動の過程をとおして参加者は、マルクス主義学生運動という戦略的政治志向の色濃い運動の参加者たちと、それを批判し、異なった方向の学生運動を形成しようと、すなわち予示的政治を自然と志向することになった参加者たちとに分岐していったと考えている。そして、予示的政治と戦略的政治の対立が参加者間の深刻な対立というかたちをとったことによって、1960年代学生運動参加者は予示的政治・戦略的政治いずれかへと、その志向を純化させていくことになった。(P22-23)
東大闘争における予示的政治志向と戦略的政治志向の実態

著者(小杉亮子)の区別に従って、東大闘争の主体を分類すれば、予示的政治志向者=東大全共闘を構成したノンセクトラジカル派及び全共闘シンパ学生(全共闘を心情的に支持したノンポリ学生を含む)となり、戦略的政治志向者=新左翼各党派及びそれとイデオロギー的に対立した日本共産党(民青)となる。

ところで東大闘争を激化させた主因は、学生・院生等の処分とそれに係る不明瞭な大学側の処置にあった。さらに全学的に闘争を拡大させたのが、反対派学生を弾圧するために大学当局が行った最初の機動隊導入にあった。大学当局とりわけ教授会は、処分及びその抗議行動に対する措置に無能ぶりを晒したため、全学的に反大学機運が盛り上がった。学術的に高名な教授たちの実際の姿は、政治的にも事務的処理にも無能で、そのくせ官僚的、権威主義的な俗物だった。彼らの専門バカぶりが全学生規模で明らかになってしまった。こうした大学当局に学生が反発した背景には、前出のとおり、ソ連型社会主義=スターリニズムに対する反感、粛清、言論弾圧、強制収容所を伴った権威主義体制への嫌悪があった。進歩的文化人教授(会)=スターリニスト=権威主義、官僚主義、保守的文化人教授(会)=資本家の手先、国家主義(機動隊導入)であり、どちらも自由の抑圧者であった。

東大全共闘の前身・全闘連と予示的政治

東大闘争の火付け役であり、いっとき闘争を牽引した集団が医学部インターンや各学部の助手、院生といった研究者であったことは、東大闘争が日大闘争に代表される全国的学園闘争とを分かつポイントである。彼らはアカデミズムに内在する権威主義と階層秩序に隷属する自らの地位の向上と解放を闘争の発端とし、学問とは何か、大学とは何か、研究者の倫理とは何かを問うた。彼らは東大闘争をつうじて解放大学、自主講座等を開講し、権威主義的アカデミズムに対する異議申し立てを実践した。彼らの運動は著者(小杉亮子)の先の分類に従えば、無自覚であるが、予示的政治の実践者であった。

党派が介入する前の東大闘争の本源は、1966年に理学部で結成された、べ反戦(東大ベトナム反戦会議)に求められるという。筆者はこの組織名を知らなかった。後に運動の中心的役割を担った東大全闘連のうちの4人がベ反戦のメンバーだったという。
べ反戦は、1966年9月に東大理学部・工学部・経済学部の大学院生と助手が中心になって結成された東大ベトナム反戦会議を指す。メンバーには、のちに東大全共闘代表になる山本義隆、新聞研究所研究性の所美都子などがいた。東大べ反戦の運動論にはとくに所美都子が大きな思想的影響を与えたという。山本義隆は次のように書いている。
「運動のなかでの個人と組織の関係を考えつづけていた彼女の到達した地点が、運動の組織論として上下の関係があるのではなく反戦の意思を持った個人の集まりが横に繋がっていくというものであり、その彼女の組織論に共鳴して私たちは集まっていました。組織による強制もなければ統制もなく、引き回しや代行主義もなく、一人ひとりが自分たちの責任で闘い、立ち上がった諸個人が闘いのなかで横断的に連帯を求めてゆくというもので、その後、東大闘争で実現をめざした組織論のハシリのようなものでした」本書第4章の注19(P129)
Wikipedeia――所美都子(ところ みつこ、1939年1月3日 - 1968年1月27日)は、日本の女性学者・新左翼活動家。東京都出身。トマノミミエの筆名も持つ。
お茶の水女子大学大学院・大阪大学大学院に学ぶ。在学中から学生運動に入る。1960年の羽田ロビー闘争などに参加。1966年、東京大学ベトナム反戦会議立ち上げに参画。1968年、膠原病にかかり死亡した。
〔主な論文〕
「予想される組織に寄せて」『思想の科学』
「女はどうありたいか」『思想の科学』

Wikipedeia にあるとおり、所は1968年1月に逝去している。命日は東大安田講堂攻防戦のおよそ1年前に当たる。

東大闘争参加者の分解過程と新左翼運動の衰退

東大闘争は、闘争末期から終期において、前出のとおり、戦略的政治的志向者と予示的政治のそれとに分解した。前者は全共闘の旗をすて、新左翼各党派の旗のもと、70年安保闘争を戦って敗北した。後者の一部の者は、東大闘争の分岐点であった1969年1月の安田講堂攻防戦後も学園闘争を継続しつつ、自らが専門とする社会問題に対して異議申し立てを党派と係わりなく継続した。

1970年以降、連合赤軍事件及び新左翼内部の内ゲバ闘争の激化を契機として、新左翼各党派に結集した活動家、穏健なノンセクトラジカル派及び新左翼シンパの学生大衆は“1968”のムーブメントから離脱し、新秩序派として生活過程に埋没した。

“1968”以降の世界

東大闘争(1968)が切り開いた地平とは――本書からは、予示的政治の担い手が実際に登場し、戦略的政治が陥った、イデオロギーにとらわれたヒエラルカルでリゴリスティックな政治が後退した状況をつくりだしたことだ、と読める。しかし、“1968以降”についてはもう少し厳密な検証が必要だろう。たとえば、スラヴォイ・ジジェクは『ポストモダニズムの共産主義(ちくま新書)』において、それを以下のとおり批判する。
(ポストモダン資本主義への)イデオロギーの移行は、1960年代の反乱(68年パリの5月革命からドイツの学生運動、アメリカのヒッピーに至るまで)の反動として起きた。60年代の抗議運動は、資本主義に対して、お決まりの社会・経済的搾取批判に新たな文明的な批判をつけ加えていた。日常生活における疎外、消費の商業化、「仮面をかぶって生きる」ことを強いられ、性的その他の抑圧にさらされた大衆社会のいかがわしさ、などだ。
資本主義の新たな精神は、こうした1968年の平等主義かつ反ヒエラルキー的な文言を昂然と復活させ、法人資本主義と〈現実に存在する社会主義〉の両者に共通する抑圧的な社会組織というものに対して、勝利をおさめるリバタリアンの反乱として出現した。この新たな自由至上主義精神の典型例は、マイクロソフト社のビル・ゲイツやベン&ジュリー・アイスクリームの創業者たちといった、くだけた服装の「クール」な資本家に見ることができる。・・・(略)・・・1960年代の性の解放を生き延びたものは、寛容な快楽主義だった。それは超自我の庇護のもとに成り立つ支配的なイデオロギーにたやすく組み込まれていった。・・・(略)・・・今日の「非抑圧的」な快楽主義…の超自我性は、許された享楽がいかんせん義務的な享楽に転ずることにある。こうした純粋に自閉的な享楽(ドラッグその他の恍惚感をもたらす手立てによる)への欲求は、まさしく政治的な瞬間に生じた。すなわち、1968年の解放を目指した一連の動きの潜在力が、枯渇したときだ。
この1970年代半ばの時期に、残された唯一の道は、直接的で粗暴な「行為への移行」――〈現実界〉へおしやられることだった。・・・(そして、)おもに3つの形態がとられた。まず、過激な形での性的な享楽の探求、それから、左派の政治的テロリズム(ドイツ赤軍派、イタリアの赤い旅団など)。大衆が資本主義のイデオロギーの泥沼にどっぷりつかった時代には、もはや権威あるイデオロギー批判も有効ではなく、生の〈現実界〉の直接的暴力、つまり、「直接行動」に訴えるよりほかに大衆を目覚めさせる手段はないと考え、そこに賭けた。そして、最後に、精神的経験の〈現実界〉への志向(東洋の神秘主義)。これら三つに共通していたのは、直接〈現実界〉に触れる具体的な社会・政治的企てからの逃避だった。(前掲書P99~103)   
つまり、“1968”は「ポストモダン」資本主義の出現の露払いにすぎなかったと。併せてジジェクは、「1968年の抗議行動とは、資本主義の三本柱(とされたもの)に対する闘争だった」と規定する。三本柱とは、①工場、②学校、③家庭、である。しかし、この各領域はのちに脱工業化型へ変容を遂げた。工場は外注化され、ポストフォーディズム的な非階層・双方向型共同作業に改編されている。学校は、公的義務教育に代わって私的でフレキシブルな終身教育が増え、伝統的な家庭に代わって多様な性的関係が生じている。

1968年に抗議行動を起こした新左派は、(日本の新左翼の場合は政治的に敗北したが、欧米においては、)まさに勝利の瞬間に敗北した。目前の敵は倒したものの、いっそう直接的な資本主義支配の新しい形態が出現したのである。「ポストモダン」資本主義においては市場が新たな範囲に、教育から刑務所、法と秩序などの国家の特権とされた領域にまで侵食した。社会関係を直接に生産すると称揚される「非物質的労働」(教育、セラピーなど)が、商品経済の内部で意味を持つことを忘れてはならない。これまで対象外とされていた新しい領域が商品化されつつある。日本の場合も同様に、新左翼の思想的傾向の多くが、新たなシステムや消費トレンドに包摂されていった。

そのことを踏まえ、ジジェクは、マルクスの一連の概念の大幅な修正を試みる。マルクスは「一般知性」(知識と社会協働)の社会的側面を無視したので、「一般知性」自体が私有化される可能性まで予見できなかったのだ。この枠組みのなかでは古典的マルクス理論でいう搾取はもはや存在しえないから、直接の法的措置という非経済的手段によって搾取がおこなわれていることになる。
(ポストインダストリアル資本主義では、)搾取はレント(超過利潤)の形をとる。ポストインダストリアル資本主義は「生成する超過利潤」に特徴づけられる(カルロ・ヴェルチュローネ)という。つまり、市場で「自然」発生しない条件を課すための直接権限=超過利潤を引き出す法的条件が必要になる。ここに「ポストモダン」資本主義の根本的「矛盾」がある。理論上は規制緩和や、「反国家」、ノマド的、脱領土化を志向しながらも、「生成する超過利潤」を引き出すという重要な傾向は、国家の役割が強化されることを示唆し、国家の統制機能はこれまで以上にあまねく行きわたっている。活発な脱領土化と、ますます権威主義化していく国家や法的機関の介入と共存が、依存しあっている。
したがって、現代の歴史的変化の地平に見えるものとは、個人的な自由主義と享楽主義が複雑に張り巡らされた国家規制のメカニズムと共存する(そして支えあう)社会である。現代の国家は、消滅するどころか、力を強めている。富の創出に「一般知性」(知識と社会協働)が果たす役割が重く、富の形式が「生産に要した直接労働の時間とつりあわなく」なってきたら、その結果は、マルクスが予期していた資本主義の自己解体ではなく、労働力の搾取によって生じる利潤から、この「一般知性」を私有化して盗みとる超過利潤への漸進的・相対的な変化である。(同P238~239)
そして、ジジェクは、現代の先進国に出現した、「三つの主な階級」について説明する。生産過程の三要素――①知的計画とマーケティング、②物的生産、③物的資源の供給――は独自性を強め、各領域に分かれつつある。

この分離が社会に影響した結果、現代の先進国に、(一)知的労働者、(二)昔ながらの手工業者、(三)社会からの追放者(失業者、スラムなど公共空間の空隙の住人)を形成したという。そして、(一)は普遍者に相当し、開放的な享楽主義とリベラルな多文化主義を、(二)は特殊性に相当し、ポピュリズム的原理主義を、そして、(三)は追放者として、より過激で特異なイデオロギー、をそれぞれ、もつに至るという。

そして、三分割プロセスの結果として、社会生活が、三分派の集結する公共空間が、ゆるやかに完全に解体されていく。この喪失を補完するのが各派の「アイデンティティ」政治である。集団の利益を代弁する政治は、各派ごとに特殊な形態をとる。それは、(一)知的労働者の多文化アイデンティティ政治、(二)労働者階級の退行性のポピュリズム的原理主義、(三)追放者の違法すれすれのグループ(犯罪組織、宗教セクトなど)、である。これらの共通するのは、失われた普遍的な公共空間の代わりに、特殊なアイデンティティをよりどころとしていることだ。

党を超える政治組織は可能か否か

長々とジジェクを引用したが本書に戻ろう。社会運動が、戦略的政治志向から予示的政治志向に移行すれば蘇生する、と考えるのは早計である。予示的政治志向が社会運動に新たな生命を吹き込むかについては、それが党支配を免れる運動組織を構築する契機となり得るか、という視点に立つ限りではないか。

歴史上、党支配の巨大にして完璧とも思えた体制がソ連であった。そのソ連が解体し冷戦は終わったが、党支配のシステム(体制)は、米国、日本、イギリス、ロシア、中国…すべての国家において共通している。EU加盟国においても、党の政治から自由ではない。その人類的弊害に自覚はあるものの、そこからの出口を人類はいまだ見出せていない。

2018年8月8日水曜日

本田のメルボルン移籍ーーOld soldiers never die; they just fade away

パチューカ退団後、移籍先が決まらなかった本田圭佑がオーストラリア(Aリーグ)のメルボルン・ヴィクトリーに移籍した。

武藤嘉紀のニューカスル移籍との比較

本田のメルボルンとの契約は、推定年俸(メディアによってまちまちだが)およそ3億円、1年契約らしい。移籍金はミランとの契約が満了となった時点から発生しない。もちろん、先のパチューカの移籍時も移籍金は発生していない。この年俸はAリーグでは過去最高額だという報道もある。

その一方、ドイツ一部リーグマインツ所属の武藤嘉紀は移籍金14億円、年俸4億円、4年契約(いずれも推定)でイングランド・プレミアリーグのニューカッスルへの移籍が決まった。

本田が画策したロシアでの就職活動は不発

本田の近年の動きは、ミラン(イタリア)入団を頂点にして、パチューカ(メキシコ)、そしてメルボルン(オーストラリア)と、あたかも坂道を転がる石のようだ。本田が、日本代表監督だったハリルホジッチを追放してまで得たロシア行きの切符は役に立たなかった。拙Blogで書いたように、ロシア大会で本田が画策した就職活動は残念ながら不発に終わったともいえるが、引退だけは免れた。

武藤26才、本田32才――将来性を考えれば、2人の年俸等の差異は驚くに値しないのかもしれないが、本田が年齢差を超越して「使える」選手ならば、欧州、南米からオファーがあっていいし、年俸が武藤を下回る理由がない。本田の市場価値は、彼のマーケティング価値を含めても、武藤を下回る程度だと理解していい。

W杯ロシア大会をふり返ると、本田(3試合途中出場で1得点)も武藤(1試合途中出場で0得点)も活躍したとはいいがたい。両者を比較すれば本田のほうが武藤の実績を上まわっている。にもかかわらず、武藤が本田を上回る評価を得たのは、武藤が17-18シーズンにおいて、メキシコのリーグではなく、ドイツのそれで好成績を上げたからだろう。

本田のオーストラリア行きは、欧州の有力リーグからオファーがなかったから

ではなぜ本田がオーストラリアに行くのか――その理由はシンプルで、欧州の有力リーグ(スペイン、イタリア、イングランド、ドイツ、フランス)からオファーがなかったから、と考えるのが自然だろう。オーストラリアよりは、アメリカ(MLS)、日本(Jリーグ)という選択肢もありそうだが、MLSやJリーグのクラブが本田にどれほどの年俸を支払うかは不明だし、よしんばオーストラリアより好条件で日本に復帰したとしても、イニエスタの年俸32.5億円3年契約(神戸に入団)にははるかに及ぶまい。本田が数億の単位でJ1と契約したとしたら、イニエスタ(34才)と比較され、本田のプライドは丸つぶれというわけか。しかしながら、Jリーグ活性化という観点からすれば、本田の日本復帰は悪くない選択だと勝手に思ったりもする。

本田がオーストラリアで現役を続行する狙い

オーストラリアで本田が現役サッカー選手として余生を送ることに無論、異論はない。だが本田のAリーグ入りは、FIFAクラブW杯(CWC)出場及び東京五輪オーバーエイジ(OA)枠での日本五輪代表入りを目指したものという推測も出ている。プロ選手として野望を持つことはあたりまえだけれど、最後まで目立ちたいのか、と眉をひそめる向きもある。

(一)メルボルンならCWC出場の可能性も

CWCについては、今年(2018・12月)、UAEにて開催されることが決まっている。本田が移籍したメルボルンはAリーグ(2017-18)で優勝を果たしており、ACL(アジアチャンピオンズリーグ)の出場権を獲得している。つまりメルボルンがACLに勝ち抜けば、本田がCWCに出場する可能性もなくはない。

なお、CWCはレギュレーションが変更され、これまでの年一回開催から4年に一度の開催に変更されたというから、本田がCWCに出場できる可能性が残されているのは、おそらく、今年で最後となろう。

(二)本田の東京五輪OA枠出場は五輪日本代表が目指すサッカー・スタイル次第

東京五輪については本田自身がOA枠での出場希望を明言しているから、本田のAリーグでの活躍次第及び五輪監督の森保の決断次第となる。自国の五輪開催に出場したいという気持ちはアスリートなら自然な願望だろうから、それはそれでいい。しかし、本田のOA枠出場の是非を論ずる観点は、五輪日本代表がどのようなサッカーを目指すかに係っている。

先のW杯ロシア大会からうかがえる短期戦における世界のサッカー・トレンドは、堅守、速攻、強靭なフィジカル・サッカーであった。日本のサッカーがこの潮流に乗るのか乗らないのか、あるいはそれに乗れないのか――は、2020年開催の東京五輪代表が示すサッカーのスタイルが試金石の一つとなる。

東京五輪代表は2022年カタールW杯を担う可能性の高い選手たちで構成されるはずだ。いま現在のプレイスタイルの本田が五輪に出場すれば、まわりの若い選手が本田に忖度して、「本田さん、シュートを打ってください」というサッカーをするような気がしてならない。そのようなサッカーは、前出のサッカー・トレンドから外れるし、勝機がない。本田の五輪OA枠出場は、日本のサッカーのマイナスとなる。東京五輪で闘う若い選手たちがのびのびと、前出の世界潮流に沿ったサッカーに取り組めるよう、OA枠選手の選択がなされなければならない。

Old soldiers never die; they just fade away

日本のサッカー界、現状では、本田に代わるスターが不在なのは確かだろう。サッカー界を盛り上げるため、彼を意図的に報道するという構造があるのかもしれない。世間が希望していることにメディアがこたえて何が悪い、という見方もあろう。

だが、アスリートの価値はプレーの価値だけであって、「カリスマ性」だとか「オーラ」だとか「お洒落のセンス」だとかではない。それらは日本のメディアがつくりあげた虚像にすぎない。本田の価値は、試合中、まわりのスピードに乗れず、ゴール周辺をうろうろする、「運動量の少ない」選手であり、相手から無情にもボールを奪われる「弱い」選手の一人にすぎない。Old soldiers never die; they just fade away(老兵は死なず、ただ消え去るのみ)


2018年8月3日金曜日

サッカー日本代表、鎖国状態に突入ー森保監督でいいのか

近年、サッカー日本代表におけるW杯終了後の最大の関心事の一つといえば、代表監督をだれにするかであったが、2018年はすんなり決まった。森保一だ。

森保は便利屋か?

森保の近年のキャリアを見てみよう。2017年、2020年東京オリンピックを目指す五輪代表監督に就任。ところが本年4月、ハリルホジッチ当時日本代表監督の電撃解任と西野朗の代表監督就任を受けて、急遽、日本代表コーチとして新体制に入閣。もちろん、五輪代表監督を兼任したままだ。ロシア大会では西野代表監督を補佐して、日本の16強進出に貢献したといわれている。そしてこのたび、五輪代表監督及び日本代表監督を兼任して次回W杯に向けて日本代表を指揮するという。

前出のように、森保は五輪代表監督のまま、ロシアW杯日本代表コーチに就任し、W杯終了後には、当時代表監督の西野の後任として昇格している。このような人事は国家公務員のそれにそっくりではないが似ている。事務方トップの事務次官がA代表監督、五輪代表監督はその下の官房長、総括審議官か。

なぜ森保なのかがわからない

このたびの代表監督人事の特徴は、①A代表監督と五輪代表監督を兼任すること、②W杯終了後にして日本人監督の就任は今回が初めてであること――の2点。①については、2002年日韓W杯監督のトルシエに次いで2人目。トルシエの場合は、W杯が自国開催のため予選免除、森保の場合は、五輪が自国開催で予選免除。日本サッカー協会(JFA)が人件費を節約したという見方も可能だし、予選免除であるから、若く才能のある選手をA代表に抜擢しやすいという利点が認められる。自国開催=予選免除の場合に両代表の監督を兼任することは、それなりの合理性がある。

とはいえ、なぜ森保なのか――その積極的理由がはっきりしない。JFAの説明を聞いても釈然としない。メディア報道によると、これまでのW杯優勝国はいずれも自国監督だというデータがあるという。だから、日本も日本人監督でいこうと。これはいかにももっともらしい理由のように聞こえる。

「W杯優勝=自国監督」理論がいまの実力の日本に当てはまるのか

2018ロシア大会のフランス(デシャン)、2014ブラジル大会のドイツ(レーヴ)、2010南アフリカ大会のスペイン(デル・ボスケ)、2006ドイツ大会のイタリア(リッピ)、2002日韓大会のブラジル(スコラリ)…と調べればそのことは一目瞭然なのだが、筆者には納得できない。なぜならば、日本のサッカーがW杯で優勝するレベルにあるのかという問題意識が筆者にはあるからだ。日本がフランス、ブラジル、ドイツ、スペインと同等のレベルにあるのかと。

日本のサッカーを強くするために必要なのが日本人監督なのかという観点からすれば、W杯優勝国=自国監督という論理に納得することはできない。自国開催以外で日本がベスト16を果たしたのは岡田と西野といずれも日本人監督だという見方もあろうが、データが少なすぎる。日本のW杯出場と代表監督をふり返ると、1998フランス大会(岡田監督)=予選敗退、2002日韓大会(トルシエ監督/フランス)=ベスト16、2006ドイツ大会(ジーコ/ブラジル)=予選敗退、2010南アフリカ(岡田)=ベスト16、2014ブラジル大会(ザッケローニ/イタリア)=予選敗退、2018ロシア大会(西野)=ベスト16)と、わずか6回出場にすぎないなかで、自国監督にてベスト16入りをはたしたのが岡田と西野の2回。監督の国籍とベスト16入りの関係を云々するデータとしては少なすぎる。「日本人監督=ベスト16」と確言するデータにはならない。

日本人監督だから「日本らしいサッカー」はあまりに短絡的

ロシア大会日本16入りを受けて強く張り出した世論の一つが、「日本(人)らしいサッカー」という言説。これもいかにももっともらしいのだが、「日本人らしいサッカー」を最初に提唱したのは、ボスニアヘルツェゴビナ人のイビチャ・オシムだったことはよく知られている。いまJFA及びその御用メディアが口にする「日本らしいサッカー」というのは、外国人によってもたらされたという事実。このことは、日本人監督だから「日本らしいサッカー」が可能となるわけではないことの傍証になろう。

JFAは近年、オフト(オランダ)→ファルカン(ブラジル)→トルシエ(フランス)→ジーコ(ブラジル)→オシム(ボスニアヘルツェゴビナ)→ザッケローニ(イタリア)→アギーレ(メキシコ)→ハリルホジッチ(ボスニアヘルツェゴビナ)と、監督探しの世界旅行をしてきた。ところがここにきて日本人監督を就任させたのはなぜなのか。筆者は、JFA内部の特殊な事情だと推測している。

外国人監督の系譜

そこで、外国人指導者と日本サッカーの関係について、Wikipediaを参考にしつつ、改めてふり返ってみよう。日本サッカー界が海外の指導者を求めたのはいまから半世紀以上前に遡る。

(一)デットマール・クラマー(西ドイツ、1960-1964)

代表監督ではないが、日本サッカー界に最初に貢献した外国人として、デトマール・クラマーの名前を忘れるわけにはいかない。彼は西ドイツのいくつかのクラブでプレーしていたがケガのため引退。以降、指導者の道を選んだようだ。

1960年、クラマーは1964年東京オリンピックを控えたサッカー日本代表を指導するため、その代行監督として招聘された。日本サッカー協会は代表強化のために外国人監督を招くことを検討しており、成田十次郎の仲介や会長である野津謙の決断で実現した人選だった。当時会長だった野津は、無名のクラマーを日本のコーチに招聘することについて周囲から猛反発を受けたが、クラマーの適性を見抜き、反対を押し切ってクラマーを招聘し、結果、日本サッカーの大躍進に貢献した。

なお仲介者の成田十次郎は、東京教育大学体育学部卒業(蹴球部所属)。在学中の1953年に関東大学サッカーリーグ戦で優勝、1954年に日本代表候補。東京大学大学院博士課程満期退学後、1960年にドイツ体育大学ケルン に留学する際、日本サッカー協会から戦後日本のサッカー復興のためのコーチ探しを依頼され、ドイツ国内のクラブチームから、当時ドイツでも日本でも無名であったクラマーを発掘した。1968年に東京教育大学の監督に就任し、関東大学サッカーリーグ戦で優勝。また、1969年から1972年まで読売サッカークラブの監督も兼任した。

成田が発掘したクラマーは日本サッカーの強化に尽力し、東京五輪では強豪アルゼンチンを撃破、その4年後のメキシコ大会で彼の教え子たちで構成された日本代表が銅メダルに輝いたことはよく知られている。また、そのときの監督は長沼健監督で後にJFA会長に就任した。なお、クラマーの通訳だった岡野俊一郎も長沼の後にJFA会長に就任している。

(二)ハンス・オフト(オランダ、1992-1993)


「ドーハの悲劇」のときの日本代表監督として知らない人はいない。彼は1976年にオランダユース代表(ユースサッカー育成プログラム担当)コーチに就任。その間、勝澤要(清水東高校)率いる日本高校選抜がヨーロッパ遠征をした際に紹介され日本チームの世話をしたという。

1982年杉山隆一に招かれ当時日本サッカーリーグ (JSL) 2部のヤマハ発動機(現・ジュビロ磐田)の2ヶ月間の短期コーチとしてオファーされ就任、1部昇格および天皇杯優勝に貢献。1984年に今西和男に招かれJSL2部のマツダSC(現・サンフレッチェ広島)コーチに就任。2年目の1985年にJSL1部昇格に導くと1987年には監督に就任し天皇杯決勝へ導いた。その後はオランダへ帰国し、FCユトレヒトのマネージング・ディレクターを務めていたが、1992年、外国人として初の日本代表監督に就任した。

(二)パウロ・ロベルト・ファルカン(ブラジル、1994)

ファルカンは現役時代から名選手として活躍し、引退後はブラジル代表監督にも就任した。

1994年にオフトの後任として日本代表監督に就任したものの、成績不振と指導方法への疑問から、代表戦2試合で更迭された。なお、ファルカンの招聘には、セルジオ越後の助力があったとされる。当時のJFA会長は長沼健であった。

(三)フィリップ・トルシエ(フランス、1998-2002)

1998年、初めてW杯出場(フランス大会)を果たした日本代表。その次の自国開催のW杯監督に就任したのがトルシエであった。当時のJFA会長は岡野俊一郎、代表監督選びの実務は、JFA技術部門の長であった大仁邦彌。

トルシエ就任の経緯は、ワールドカップ以後の続投を要請していた岡田武史前監督の辞任を受け、アーセン・ベンゲルに監督就任を依頼するもアーセナルFCと既に契約していることを理由に断られる。大仁によれば、その後協会は直接フランスサッカー協会と交渉し、ちょうどスケジュールの空いていたトルシエを紹介されたという。日本サッカー協会はベンゲルに彼の能力や人物像などについて相談しつつ、トルシエと契約を結ぶことに決定した。

岡野俊一郎によれば、ベンゲルに一度断られたあと、『2002年W杯の日本代表監督は貴方しかいない』と手紙を出したが再度断られ、技術委員会がベンゲルの推薦したトルシエにしたいというので、“ベンゲルの推薦なら”ということで、トルシエに決めたという。

トルシエはアフリカ各国の代表監督を歴任していて、いわばサッカー発展途上国の代表監督を専門職とするような指導者。そのかわり、彼のような者がビッグ・クラブの監督に就任することはない。

(四)ジーコ(ブラジル、2002-2006)

トルシエの後を受け、Jリーグのクラブの一つである鹿島を強豪にした実績を買われてジーコが代表監督に就任した。日本史上最強といわれた代表チームを率いたジーコだったが、ドイツ大会ではグループリーグ最下位で敗退。当時のJFA会長は川淵三郎(2002-2008)であった。

(五)イビチャ・オシム(2006-2007)

ジーコジャパンの惨敗を受けて、W杯南アフリカ大会を目指して日本代表監督に就任したのがオシム。旧ユーゴスラビアで選手・監督として大きな実績を上げた彼が日本のJリーグのクラブであるジェフ千葉監督に就任(2003)した。以降、千葉は大躍進を遂げた。オシムの指導理念とサッカーを語る言葉の力に日本のサッカーファンは多くを学んだものの、任期中に病に倒れ辞任。

Jリーグ初代チェアマンだった川淵、JFA会長の任期中、Jリーグのクラブに関係する外国人指導者を代表監督に選んだのは、偶然ではなかろう。

(六)ザッケローニ(2010-2014)~アギーレ(2014~2015)~ハリルホジッチ(2015-2018)

2009年以降、JFAにおいて外国人代表監督を探す職にあったのは、原博美(専務理事)~霜田正浩のラインだった。霜田は海外のサッカー界と幅広いパイプを持っていて、原は霜田をブレーンとしてJFAに引き入れ技術委員長にした。W杯ブラジル大会を目指してザッケローニを招聘できたのも霜田の手腕だったといわれている。ザックジャパンは、ブラジル大会直前に主力選手の一人がW杯「優勝」を宣言。日本中から期待されたものの一次リーグで敗退。実績は伴わなかった。

ブラジル大会終了後、ロシア大会に向け、原~霜田ラインによってハビエル・アギーレ(メキシコ)が日本代表監督に就任したが、八百長疑惑等で契約解除となり、その後任にハリルホジッチが代表監督に就任した。

2016年、JFA内の状況は一変する。原と田嶋幸三がJFA会長の座を争い、原が負けた。田嶋の政敵の原は新会長の田嶋によって降格人事を申し渡され、JFAからJリーグに転出した。霜田も同時にJFAから去った。そして、前出のとおり、原~霜田ラインで招聘したハリルホジッチは、W杯ロシア大会直前に田嶋により電撃解任されたことは記憶に新しい。ハリルホジッチは自身の解任理由の不透明性をめぐってJFAを提訴。いまなお裁判は継続している。

海外指導者招聘の陰にキーマンあり

こうして振り返ると、クラマーから始まったJFAの海外指導者招聘の経緯の陰には、キーマンともいうべき人物の存在が確認できる。クラマーを発掘した成田十次郎とクラマーの手腕を見抜いた野津謙(当時)JFA会長、オフトとオランダで親交を結んだ勝澤要とオフトを日本リーグに呼んだ杉山隆一、ファルカンと接触したセルジオ越後、ベンゲルと直接交渉をした岡野俊一郎(当時)会長。(結果、ベンゲルの招聘は叶わずトルシエになったが)。

その後、前出のとおり、川淵体制になってジーコ、オシムとJリーグクラブの監督経験者が二代続いたものの、原~霜田のラインの形成により、ザッケローニ、アギーレ、ハリルホジッチが日本に呼ばれている。

海外指導者とのパイプが途切れた田嶋JFA


田嶋がJFA会長に就任してからは海外にパイプをもつ人材は協会内から消えた。いまのJFAには、霜田に代わるべき海外通の人材がいない。田嶋自身にも現在の彼のブレーンにも、外国人代表監督候補を探して契約する手腕はない。霜田の後任の技術委員長は西野。そして、西野がロシア大会代表監督に就任した後釜には、海外のサッカー界と無縁の関塚隆が就任している。

JFA会長の田嶋及びその周辺は、海外サッカー界と没交渉のままロシア大会を終え、日本代表監督候補を探さなければならなかった。そこでJFA執行部が苦肉の策として編み出したのが、「代表は日本人監督」という論理。

鎖国・暗黒時代・ガラパゴス化した田嶋JFA

日本代表はもはや、暗黒時代に突入した。Jリーグがイニエスタやトーレスといった世界的名選手の加入で盛り上がりを取り戻している反面、JFAはその真逆の鎖国状態にはまった。Jリーグのサポーターがイニエスタやトーレスを支持するのは、彼らのサッカー技術・センス・姿勢に日本人選手にない、より上位のレベルのそれを認めるからであり、ビッグネームだからではない。

そのことは、次のように別言できる。サッカー先進国に選手として進出した日本人はいまでは数え切れないが、監督として進出した日本人はいないと。その実績がすべてを物語っている。森保の代表監督就任を批判したサッカーコメンテーターは、“日本サッカーのガラパゴス化の進行”と称したが、筆者もその見解に同意する。