2015年9月16日水曜日

上野公園内の許されざる景観

上野公園には国際こども図書館(旧国会図書館上野分室)と黒田清輝記念館がほぼ、隣接して建っている。

どちらも日本の近代建築黎明期に当たる建築物で、西欧建築のコピー作品だが、それなりに景観として調和している。

ところが、その間に奇妙な緑色の球形のガスタンクのような「建築物」が、
割り込むように建てられている。

芸大キャンパスの敷地であることは間違いないから、芸大が建てたのだろう。

筆者はその用途を知らない。

景観にそぐわないことは、一般国民にもわかる。

芸術?大学?

この学校の学長だれ?


右が図書館

左が黒田記念館

2015年9月9日水曜日

戦火にある国の代表に勝って、なにが嬉しい

2018年ロシアW杯アジア2次予選
▽E組第3戦 アフガニスタン0―日本6
▽9月8日、イラン・テヘラン アザディスタジアム

シリア、アフガニスタン、カンボジアと同組という悲劇

サッカー日本代表がアフガニスタンと中立国テヘラン(アフガニスタンのホーム試合)で戦い、6-0で勝利した。日本と同組のこのアフガニスタン及びいずれ対戦するシリアは戦乱に明け暮れる国家。国情を鑑みるならば、代表チームを組織することさえ困難であろう。いわんや強化はとんでもない。同情すべき相手に圧勝したからといって喜べる状況ではない。いままさに、シリアでは難民が西欧を目指して流出し、その過程で多くの人命が不条理な死を遂げている。日本と同組にシリア、アフガニスタンが入ってしまったのは籤の偶然とはいえ、やりきれない。

日本代表選手・監督の年収が国家予算の3%弱?

ちなみにアフガニスタンの国家予算のコア予算(同国政府の国庫を通る資金の流れ。援助均等を含まない)は26憶2,543万ドル(約3,413億円。1ドル=130円で換算)。先に日本(埼玉スタジアム)と対戦したカンボジアは世界の最貧国の一つといわれる。20世紀中葉~末期にかけて戦争に巻き込まれ、国内は疲弊した。同国の2015年度総予算は約39億ドル(約5,070億円。同率換算)。

日本代表選手及び代表監督等の年俸はいくらになるかわからないが、ネット情報によると、本田圭佑が約3億円、香川真司が3.4億円、長友佑都が1.7億円、ハリルホジッチ監督が2.7億円・・・年収となると、CM契約料等が加算され、各選手とも倍以上になるらしい。 ざっくり、日本代表選手25選手及びハリルホジッチ監督の一人当たり総年収を3億円と仮定すると、日本チームを構成する選手・監督の年収は78億円程度と推定できる。この額はアフガニスタンのコア予算の2.3%、カンボジアの総国家予算の1.5%程度に当たる。たかだか日本代表のサッカーチームを構成する選手・監督の年収が、対戦相手国の国家予算の1.5%~3%弱に達するという驚愕の事実をどう受け止めたらよいのだろうか。

戦火にある国の代表にリスペクトを―日本のメディアとサポーターの頭の構造は大丈夫?

日本代表は、同組のシンガポールを除いた3チームに比べて、恵まれすぎた環境にある。選手は西欧及び日本という平和な国家でサッカーに専心でき、前出のとおり高い報酬を受け、なに不自由のない生活をしている。そんな日本代表が、アジアの戦乱に明け暮れている(た)国の代表と試合をして、辛勝だ、圧勝だ、と騒いでいる。そんなマスメディア、代表サポーターの頭の構造を心配してしまう。

日本代表選手がカンボジア、アフガニスタンと対戦して、その結果について不調、復調を論ずるのは愚かな批評的姿勢だ。香川、本田、岡崎らの攻撃陣がよい得点をしたとか、守備陣が完封したとか判断すべきでない。勝利して当たり前の相手。得点して当たり前の相手。

サッカーは何があるかわからない、といわれるが、戦火にある国、貧困にあえぐ国家代表との試合は、対等な条件下の試合だと考えてはいけない。心と身体に深い傷を負った相手(人間)との戦いだと心得るべきだ。日本代表はどのように試合をしたらいいのか。それこそ、粛々とサッカーをすればいい。勝って奢らず、勝った相手国の国情に心を寄せ、そんな中でチームをつくり、スタジアムに現れた相手を心底リスペクトすればよい。

シリア戦の結果を日本のメディアはどのように伝えるつもりか

アフガニスタン戦では、得点した日本選手が派手なガッツポーズをしなかったことはせめてもの救いであった。しかるに今朝、日本の新聞やテレビの報道を眺めてみると、日本代表の復活だとか復調だとか、圧勝とやらの試合結果が“ど派手”に伝えられるばかり。日本のスポーツメディアをこれほど、愚かだと感じた日はない。日本のスポーツメディアは狂っている。国家がいままさに溶解しつつあるシリアとの試合結果を、彼らはどう受け止め、どう報道するつもりだろうか。

2015年9月2日水曜日

当事者、武藤、永井、佐野は速やかに盗作を認めベルギー側に謝罪を

東京五輪大会組織委員会(会長・森喜朗元首相)は1日、五輪公式エンブレムの使用を中止し、今後新たなデザインを公募して制定し直すと発表した。エンブレムは7月24日に発表されたが、デザインがベルギーの劇場のロゴと似ているなどとして訴訟が起こされているほか、作者が手がけたこれまでの仕事に「引き写し」「模倣」があるとの指摘が相次ぎ、組織委は「このままでは国民の理解が得られない」(武藤敏郎事務総長)と判断したという。

武藤事務総長は、「一般(素人のおろかな)国民が騒ぐから使用中止」と説明

組織委員会の会見をTV中継で見ていて驚いた。組織委員会の武藤敏郎事務総長は、▽佐野に盗作はなかった、▽デザインのプロの世界では、佐野の作品は盗作ではなくじゅうぶん容認される、ただし、▽一般国民の支持が得られない(バカな国民が大騒ぎする)から、▽佐野の要請を受けて使用を中止した――といい抜けたのだ。

会見に集まったマスメディア業界の住人達は、武藤の傲慢な説明に怒らず、はいそうですかと聞き流した。武藤も武藤だが、メディアもメディアである。五輪で潤うマスメディア業界、彼らには組織委員会を本気で批判することはできない。考えてみれば、このたびの盗作追及はマスメディアではなく、ネットユーザーの手によるものだった。もはや、この日本国においては、正義はネットにしか存在し得ない。

佐野の盗作は、数々の状況証拠から明らか

盗作問題の経緯は省略する。はっきりしているのは、使用中止を加速させたのが、公式エンブレム審査委員代表・永井一正による審査過程の公表からだったこと。それによると、コンペの審査結果では、佐野の原案が一席に入ったものの商標権登録調査の結果、類似のものがあるため登録できなかったらしい。そこで、審査委員会(=組織委員会事務局)が原案に修正を加え、修正された作品を一席にしたらしい。

ところが、原案を公表したとたん、これまた、2013年に東京で開かれた『ヤン・チョヒルト展』のポスターに似ている、との指摘があった。加えて、佐野が作成したエンブレムの展開例のパネルが明らかに盗作であることが発覚した。つまるところ、五輪エンブレムに係る佐野のデザインのどこにも、オリジナル性が認められないというわけだ。

武藤はデザイン業界の伏魔殿(審査委員会)にエンブレム審査を丸投げ

組織委員会事務総長の武藤は役所という特殊な環境で純粋培養された人間。だから、デザイン業界のことはわからない。そこで、エンブレムの決定については、五輪公式エンブレム審査委員会に丸投げしたようだ。しかし武藤が丸投げした先は、デザイン界の伏魔殿のような閉鎖的利権集団。そこで「佐野でいきましょう」という合意がなされ、今回の盗作問題の発端をなした。

審査委員会はデザイン業界の伏魔殿


永井の詭弁「コンセプト論」を丸呑みした武藤

審査委員代表の永井一正は、佐野の盗作疑惑を一貫して否定し、佐野を擁護してきた。永井の佐野擁護のロジックは、「コンセプトが違えば、表現が似ていても容認される」というもの。実は、1日の会見でも武藤はたびたび、この永井の詭弁論理を繰り返し引用していた。永井の詭弁論理を組織委員会事務局、すなわち、事務総長である武藤が信じ込んでしまったことが、今回の混乱の発端である。永井は、デザインの世界では無意識に同じようなデザインが出てくることがあり、それを否定してしまえば人材は育たないという意味で、この論理を振り回している。

武藤もそれを信じ込んだのだが、無意識による一致が許されるのはデザイン学校等のデザイン学習の場まで。デザインを学ぶ学生が無意識で起こした作品が、先人の有名な作品と類似した結果になったとしよう。デザイン科の教授等、デザインを教える側は、その結果において学生を責めることはない。むしろ誉めることもある。ただし、その作品は学生の作品として永久にとどめられ、コンクールやコンペに出展することは憚れる。

このことは何度も書くが、デザインを含めた表現行為においては、オリジナルこそが保護される。偶然、似てしまった作品は、先人の作品の存在を認めた時点で反故にされる。あたりまえではないか。

表現の世界において、先人の作品をリスペクトするという原則が貫かれれば、著作権は何の問題もなく保護される。一方の商標権には商標登録という制度があり、登録された作品は万人に開示されるから、著作権よりはわかりやすい。著作権には登録制度がない。だから佐野のように、先人の作品をコピペする輩が跋扈する。悪意ある作品の類似である。これを盗作と言う。武藤をトップとする東京五輪組織委員会事務局は、商標権さえクリアすれば問題は起こらないと早合点したのではないか。

このたびの五輪公式エンブレム作品は、デザイン科の学生の作品とは全く異なる世界に属している。公式エンブレムを使用するには、スポンサーが組織委員会に尋常でない金銭を納める。自分の作品を盗まれた側にとって、盗作を媒介にして数億円が取引される現実は容認し難い。

今回のトラブルは、プロフェッショナルな世界に、アマチュアの世界でしか通用しない永井の詭弁論理を適合させようとした、組織委員会事務局(=武藤事務総長)に責任がある。

佐野の恨み辛みは自業自得

佐野は今回の件で書面によるコメントを提出し、会見には現れなかった。「STAP細胞」問題の小保方も「STAP細胞はありまーす」と絶叫した会見を一度開いたきり、雲隠れした。佐野も小保方も、逃亡を旨とする点で同類のようだ。

さて、佐野の置かれた状況は、テレビの刑事番組によくある、状況証拠は揃っているが容疑者本人は犯行を否認しています――といったところか。前出のベルギーのデザイナーが、エンブレムデザインの使用中止が決まっても、提訴は取下げないと発言しているようなので、盗作か否かはベルギーの法廷で決着することになる。たいへん結構なことだ。ベルギーで有罪ならば、その証拠は日本でもアメリカでも、世界中どこでも認定されるらしいので、佐野の盗作疑惑はそこで決着がつく。

悲しいのは佐野のコメントである。そこには、マスメディア、ネットへの恨み辛みであふれていたが、係る事態は、そもそも疑惑発覚後、会見を開かず雲隠れした佐野自らが引き起こしたもの。佐野に適正な広報(代理人)がついていたならば避けられた。

尋常でないのが、佐野の自分が被害者であることを強調する文面。佐野がメディアやネットの追及を受けるのは、論理的な説明がなされないことに人々が苛立っているから。「盗作は絶対にしていない」といいながら、次々と佐野の盗作作品が明るみに出る。そのことを佐野はメディアやネットの問題だという。追及を終わらせるのは、追求から逃れ背を向けるのではなく、追及に真正面から対峙し、まじめに答えることだった。

武藤、永井、佐野の三者は速やかに盗作を認めベルギー側に謝罪を

佐野の盗作が法廷で認められるのは、佐野がベルギーのデザインを認知していたうえで、それを盗用した具体的証拠が示されることだという。たとえば、ベルギーサイドが、ベルギーの劇場のロゴが描かれた佐野のデザインブック等を証拠として提出することなどが考えられる。しかし、佐野が盗作を否定している現状では、事実上不可能だ。佐野の盗作の立証はできないのだから、ベルギーサイドは敗訴する――だれが考えても勝てない裁判をなぜ、ベルギー側は起こすのか――となろう。

ところがどっこい、である、佐野がたびたびにわたって盗作を繰り返していた事実があり、そのうえで佐野が劇場のデザインを知る立場にあったことが立証されれば、裁判所が佐野を「クロと判断する」可能性があるという。この2つは簡単に立証できる。前者については、有り余るほどの事例がある。後者については、佐野が、画像SNSであるピンタレスト等のネット画像をしばしば検索していたことは知られている。つまり、佐野には、ベルギーの裁判所でデザイン盗用の判決が下りる可能性が十二分にあるということだ。換言すれば、ベルギー側にとっては、勝つ見込みのない裁判ではなく、勝てる可能性が十二分にある裁判闘争というわけだ。

日本の五輪組織委員会は責任問題をうやむやにしようと図っているが、世界を舞台にすると日本的幕引きは通用しないのかもしれない。

筆者は、裁判の結果が判明する前に、武藤敏郎事務総長、永井一正五輪公式エンブレム審査委員代表、そして佐野研一郎の三者が、盗作を認めベルギー側に謝罪することが望ましいと考える。

『戦後史の正体 1945-2012』

●孫崎亨〔著〕 ●創元社 ●1500円+税


誠に示唆多き書である。著者(孫崎亨)及び矢部宏治(『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』等の著者)らの仕事はもっと評価されるべきであり、彼らの立論について、活発に議論されるべきだと思う。しかるに、彼らの仕事がマスメディア及び歴史学会等から遠ざけられるのは、彼らの立論のなかにこそ、わが国の戦後史の真実が隠されているからだと考えた方がいい。そのことは本書を一読すれば、万人が納得するところだろう。

また、日本国憲法を無視し、国民の反対を顧みず、なぜ安部内閣が安保法制(集団的自衛権の行使容認等)を強硬に推し進めようとするのか、その解は本書にあるようにも思われる。この状況のいま(2015.09)こそ、一読の機会だと思い本書を取り上げた次第である。

わが国の戦後史は米国に対する「自主路線」と「追随路線」のせめぎあい

本書の主意は、著者(孫崎亨)の以下の言説に尽くされている――“この本では、米国に対する「自主路線」と「追随路線」のせめぎあいという観点から、日本の戦後史をふり返っています”(P182)。

さて、この書きぶりに違和を覚える人は少なくないかもしれない。日本はサンフランシスコ講和条約締結により米国の占領支配から独立し、平和憲法の下、民主的選挙で選ばれた多数議員を擁する政党が政権を担当してきた。米国との協調はあっても、国民の選択の結果として、米国との関係を築いてきたではないか――と。

確かに日本の指導者である総理大臣は、選挙で多数を占めた政党の党首であり、対米関係といえども、日本国民の選択(投票)の結果のように思える。しかし、その総理大臣及び日本外交のキーマンが、米国の対日政策の都合により首をすげかえられていたとしたら、どうなのだろうか。本書は日本の戦後史の総理大臣等の交代に無視できない規則性があることを明らかにする。その規則性とは何かといえば、前出の「自主路線」と「追随路線」に対応する関係性にほかならない。

著者(孫崎亨)は本書終章(「おわりに」P367-368)において、戦後の日本の首相等について、次のような分類を示している。

(1)自主派(積極的に現状を変えようとし米国に働きかけた人たち)
  • 重光葵(降伏直後の軍事植民地政策を阻止。のちに米軍完全撤退案を米国に示す)
  • 石橋湛山(敗戦直後、膨大な米軍駐留経費の削減を求める)
  • 芦田均(外相時代、米国に対し米軍の「有事駐留」案を示す)
  • 岸信介(従属色の強い旧安保条約を改定。さらに米軍基地の治外法権を認めた行政協定の見直しを行おうと試みる)
  • 鳩山一郎(対米自主路線をとなえ、米国が敵視するソ連との国交回復を実現)
  • 佐藤栄作(ベトナム戦争で沖縄の米軍基地の価値が高まるなか、沖縄返還を実現)
  • 田中角栄(米国の強い反対を押し切って、日中国交回復を実現)
  • 福田赳夫(ASEAN外交を推進するなど、米国一辺倒でない外交を展開)
  • 宮沢喜一(基本的には対米協調。しかしクリントン大統領に対しては対等以上の態度で交渉)
  • 細川護熙(「樋口レポート」の作成を指示。「日米同盟」よりも「多角的安全保障」を重視)
  • 鳩山由紀夫(「普天間基地の県外、国外への移設」と「東アジア共同体」を提唱)
(2)対米追随派
  • 吉田茂(安全保障と経済の両面で、きわめて強い対米従属路線をとる)
  • 池田勇人(安保闘争以降、安全保障問題を封印し、経済に特化)
  • 三木武夫(米国が嫌った田中角栄を裁判で有罪にするため、特別な行動をとる)
  • 中曽根康弘(安全保障面では「日本は不沈空母になる」発言、経済面ではプラザ合意で円高基調の土台をつくる)
  • 小泉純一郎(安全保障では自衛隊の海外派遣、経済では郵政民営化など制度の米国化推進)
  • 他、海部俊樹、小渕恵三、森喜朗、安倍晋三、麻生太郎、菅直人、野田佳彦
(3)一部抵抗派
  • 鈴木善幸(米国からの防衛費増額要請を拒否。米国との軍事協力は行わないと明言)
  • 竹下登(金融面では協力。その一方、安全保障面では米国が世界規模で自衛隊が協力するよう要請してきたことに抵抗)
  • 橋本龍太郎(長野五輪中の米軍の武力行使自粛を要求。「米国債を大幅に売りたい」発言)
  • 福田康夫(アフガンへの陸上自衛隊の大規模派遣要求を拒否。破綻寸前の米金融会社への巨額融資に消極姿勢)

自主派、一部抵抗派の政治家は「政治とカネ」で東京地検特捜部の手で葬られる

この分類から多くの人が気付くことは、自主派及び一部抵抗派の政治家の失脚理由が「政治とカネ」にまつわるスキャンダルで失脚するという規則性であろう。彼らは東京地検特捜部の追及を受け、起訴、不起訴、有罪、無罪の違いはあるが、結果的には政治生命を失っている。

  • 在日米軍の「有事駐留」を主張した芦田均首相――「昭和電工事件」
  • 米国に先がけて中国との国交を回復した田中角栄首相――「ロッキード事件」
  • 自衛隊の軍事協力について米側と路線対立した竹下登首相――「リクルート事件」
  • 金融政策などで独自路線、中国に接近した橋本龍太郎首相――「日歯連事件」
  • 自主路線を強調した細川護熙首相――「佐川急便事件」
  • 鳩山由紀夫首相の時代、在日米軍は第七艦隊だけでよい発言し中国に接近した小沢一郎民主党幹事長――西松建設事件、「陸山会事件」
  • 普天間基地移転で県外を主張した鳩山由紀夫首相――実母からの資金提供に係る脱税疑惑等
  • 原発再稼働に消極的だった小渕優子経産相――政治資金規正法違反

なお、芦田は裁判で無罪、小沢は検察不起訴、強制起訴後、裁判で無罪だった。これらのスキャンダルに共通するのは、検察がマスメディアにリークし大騒ぎになり、政治家が世論に追い詰められた形で政治生命を絶たれるケースだ。またその逆のケースとしは田中角栄の場合で、雑誌がスキャンダルを報じてから検察が動き、起訴・有罪にもっていかれている。

東京地検特捜部のルーツはGHQの下僕、「隠匿蔵物資事件捜査部」

その検察であるが、本書によると、“検察は米国と密接な関係を持っていて、とりわけ特捜部はGHQの管理下でスタートした「隠匿蔵物資事件捜査部」を前身とし…その任務は、敗戦直後に旧日本軍関係者が隠した「お宝」をGHQに差しだすことだった”(P80)という。なんのことはない、検察特捜部とは、敗者(日本軍)を裏切り、戦勝国(米国)に忠誠を誓って戦勝国の言いなりに忠実に仕事をこなしてきた、進駐軍の下僕だった。

東京地検特捜部と米国との深い繋がり

東京地検特捜部と米国とのつながりを示す事例として、本書は(検察の)布施健という人物を紹介している。
彼(布施健)は戦前、ゾルゲ事件の担当検事として有名でした。私(孫崎亨)はこの事件が1941年9月に発覚し、対米戦争の回避を模索していた近衛内閣が崩壊する一因となった裏には、米国の工作があったと考えています。ゾルゲと親交のあった尾崎秀実は上海でアグネス・スメドレーと親交を結びますが、このスメドレーは1941年に米国国内で、対日戦争の呼びかけを行っていました。
いずれにせよ、G2〔注〕のウィロビーはゾルゲ事件の報告書をまとめて陸軍省に送っていますから、ウィロビーと布施には密接な関係があります。さらに布施は、一部の歴史家が米軍の関与を示唆する下山事件(国鉄総裁轢死事件)の主任検事でもあります。そして田中角栄前首相が逮捕されたロッキード事件のときは検事総長でした。ゾルゲ事件といい、下山事件といい、ロッキード事件といい、いずれも闇の世界での米国の関与がささやかれている事件です。そのすべてに布施健は関わっています。
他にも東京地検特捜部のエリートのなかには、米国とのかかわりが深い人物がいます。
ロッキード事件で米国の嘱託尋問を担当した堀田力氏は、在米日本大使館で一等書記官として勤務していました。
また、元民主党代表の小沢一郎氏とその秘書たちを対象にした「小沢事件(当初、西松建設事件、のちに陸山会事件)を担当した佐久間達哉・東京地検特捜部長(当時)も、在米日本大使館に一等書記官として勤務しています。(P85)

地検特捜部に同調するマスメディアの動き

検察特捜部とシンクロして、自主路線派政治家の失脚に手を貸してきたのがマスメディア。敗戦直後は新聞、近年はテレビの影響が大きいが、メディア・パートナー・シップ制度が堅持されている日本では、メディア総体の大本である新聞社を見ておけば事足りる。

(1)芦田首相失脚の火をつけた読売・朝日
1948年2月、退陣を表明した片山首相は、後継に芦田を指名しました。しかしそれを吉田派が「政権のたらいまわしだ」と非難し、歩調をあわせるように読売新聞、朝日新聞が芦田首相の誕生に激しく反対します。(略)・・・こうした波乱のなか、1948年3月10日に成立した芦田内閣は、わずか3カ月後に大スキャンダルにまきこまれます。昭和電工事件です。(略)実はこの事件には、GHQが深く関与していました。ウィロビーは次のように書いています。「これ〔昭電事件〕を摘発したのは、主として他ならぬG2であった。被告日野原の陳述によれば、金品の贈賄は日本の政界ばかりでなく、占領軍にも及んでおり、GS(民生局)〔注〕が主な対象だった」(『知られざる日本占領』)
民生局(GS)と参謀第2部(G2)は対立していました。これはマッカーサー自身が認めています。G2のウィロビーと吉田茂がきわめて近いことはすでにみてきたとおりです。
昭電事件とは、「G2(参謀第2部)-吉田茂―読売新聞・朝日新聞」対「GS(民生局)-芦田均-リベラル勢力」という戦いだったのです。(P77-78)
(2)原発推進に暗躍した読売新聞(正力松太郎社主、柴田秀利GHQ担当記者)

そればかりではない。本書では、日本の原発について、1950年代、被爆国日本の原子力発電所建設推進を図ったのは米国の意向を反映したもので、その推進役の一人が読売新聞社主である正力松太郎であったこと、及び、正力の懐刀として尽力したのが、柴田秀利という読売新聞のGHQ担当記者であったこと――を明らかにしている。正力は戦後、CIAのコードネームをもち、米国のために働き続けた人物であることが近年明らかになっている。また、著者(孫崎亨)は、柴田及び彼の不審死について次のように書いている。
柴田氏は、1985年11月、自叙伝を出版しました。占領下から約40年間、米国との密接な関係を活かして、日本の政財界とさまざまな交流をもった人物でした。彼は自叙伝出版の翌年、10月にゴルフに招待されているといって米国に出かけ、11月にフロリダでゴルフ中に死んでいます。(P177)

60年安保闘争における新聞の不可解な変節

1960年、日本の世論を二分した「安保反対運動」が起こった。そのときの大新聞の不審な動きについて、著者(孫崎亨)がユニークな指摘をしている。60年安保条約改定の是非及び反対運動を担った日本の左翼陣営の動向等についてはここでは触れない。当時、安保条約改定に反対する運動として、100万人を超える国民がデモに参加し世の中は騒然としたが、条約は自動延長され、岸政権は崩壊した――という事実が残っている。さて、その裏側は?

(1)岸信介は自主路線派だった?

その前に、やや横道にそれるようだが、本書では岸信介について、かなり複雑な分析を試みている。著者(孫崎亨)の「岸信介論」を簡単にみておこう。

岸信介はいま現在の日本の首相、安倍晋三の祖父。安部の言動は、当然祖父・岸と比較されることが多い。岸の一般的評価といえば、戦前は満洲国で暗躍、開戦時の大臣であり戦時中の物資動員の責任者、戦後(1945年5月)、A級戦犯容疑で逮捕され、巣鴨プリズンに拘置・・・拘置所内で極刑を覚悟していた岸だったが、冷戦の激化とともに公職復帰し、CIAから多額の資金援助を受け日本の政界に復帰を果たす。「政界の妖怪」ともいわれ、その波乱万丈の人生とともに謎の多い人物である――といったところか。

岸は前出のとおり米国(CIA)の支援を受けて首相の座に上り詰める。1957年に渡米し、当時米国大統領だったアイゼンハウアーの信任を受け、同年、安保条約の改定に取り組む。岸は同条約の改定、在日米軍の大幅撤退と併せて、不平等条約ともいえる日米行政協定(今日、日米地位協定として存続)を二段階に分けて改定を試みる「二段階論」の方針を明らかにした。ところが、である。
…池田勇人(国務大臣、副首相級)、河野一郎(総務会長)、三木武夫(経済企画庁長官)という実力者たちが、そろって「同時大幅改訂」を主張したのでした。「同時大幅改訂」は、現実問題としては実現不可能な話でした。
では、なぜ池田勇人、河野一郎、三木武夫は「同時大幅改訂」を主張したのでしょうか。池田勇人は岸首相のあと、首相になっています。その後、彼は行政協定(新安保条約の締結以後は「地位協定」)を改定する動きをしたでしょうか。まったくしていません。したがって池田勇人が「同時大幅改訂」をのべたのは、難題をふっかけ、岸政権つぶしを意図していたからだと見ることができます。(P198)
その一方、反安保闘争は学生運動を中心に国民的運動に発展する。6月15日には女子学生が警官隊との衝突で死亡する事件が起きた。その学生運動に資金援助をしたのが財界であり、CIAだったともいう。“岸政権つぶし”と“学生運動の激化”の関係について、著者(孫崎亨)は以下のように推論する。
  1. 岸首相の自主独立路線に危惧を持った米軍及びCIA関係者が、工作を行って岸政権を倒そうとした
  2. ところが岸の党内基盤および官界の掌握力は強く、政権内部から切り崩すという通常の手段が通じなかった
  3. そこで経済同友会などから資金提供をして、独裁国に対してよくもちいられる反政府デモの手法を使うことになった
  4. ところが6月15日のデモで女子東大生が死亡し、安保闘争が爆発的に盛り上がったため、岸首相の退陣の見通しが立ったこともあり、翌16日からデモを抑えこむ方向で動いた
  ということだと思います。(P206)

(2)安保反対→「岸打倒」→「暴力を排し、議会主義を守れ」(7社共同宣言)

安保闘争をめぐるマスメディアの動きは、先述した米国従属派の流れとぴったりシンクロする。新聞のとった基本的立場(社説)は、闘争が盛り上がるにつれ、安保条約反対の立場を後退させ、デモに対して批判的立場を貫くようになる。と同時に岸内閣退陣を求めるようになっていく。そして安保闘争のピークである6月17日に、きわめて異例な「7社共同宣言」が出される。この宣言は東京に本拠をもつ新聞7紙(朝日、読売、毎日、産経、東京、東京タイムズ、日本経済)が、「暴力を排し議会主義を守れ」という表題のもと、急進的学生運動、市民運動を批判する内容であった。当時、大新聞に対する幻想はいまよりずっと強く、新聞は市民の見方だという認識が強かった。その新聞がデモを批判したのだから、反安保の運動は沈静化に向かわざるを得なかった。「7社共同宣言」について著者(孫崎亨)は次のように書いている。
朝日新聞の論説主幹、笠信太朗がこの宣言を書いた中心人物です。笠信太朗はつぎのような経歴の持ち主です。 
①朝日新聞ヨーロッパ特派員としてドイツにわたる。1943年10月スイスへ移動、ベルンに滞在し、その地に滞在していたアメリカの情報機関のOSS(アメリカ戦略情報局、CIAの前身)の欧州総局長だったアレン・ダレス(安保闘争時のCIA長官で、ダレス国務長官の弟)と協力して、対米終戦工作を行う
②戦後は1948年2月に帰国。同年5月論説委員、同年12月東京本社論説主幹
米国が冷戦後、日本を「共産主義に対する防波堤」にしようというときに、東京にもどり、その年から1962年まで14年間、朝日新聞の論説主幹をつとめています。帰国当時は占領下で検閲もあります。米国との関係が密接でなければ、こうしたポストにはつけません。事実、CIA長官アレン・ダレスの伝記を書いた有馬哲夫・早稲田大学教授は、①のベルンで展開された対米終戦工作で日本人とアレン・ダレスのあいだで築かれたチャネルは、「のちにアレンがCIA副長官、次いで長官になったときに大きな役割をはたした」と書いています。(『アレン・ダレス』講談社)
シャラーの『日米関係とは何だったのか』も見てみましょう。
「マッカーサー駐日大使は日本の新聞の主筆たちに対し、大統領の訪日に対する妨害は共産主義にとっての勝利であると見なすと警告した」
「(CIAは)友好的な、あるいはCIAの支配下にある報道機関に、安保反対者を批判させ、アメリカとの結び付きの重要性を強調させた」
「三大新聞では政治報道陣の異動により、池田や安全保障条約に対する批判が姿を消した。7月4日の毎日新聞は『アメリカの援助が日本経済を支える』という見出しで、『日本の奇跡的な戦後の復興を可能にした巨大なアメリカの援助を忘れない』とのべた」
これを見れば、朝日の笠信太朗など、各新聞の主筆や論説主幹たちが、マッカーサー駐日大使やCIAの意向をうけ、途中から安保反対者を批判する側にまわったと見てよいと思います。(P209-210)
ここまでくれば、マスメディア(大新聞)の正体は明らかであり、彼らが米国の対日工作の主要な手段(世論誘導、政治家失脚)であることにだれも異論はないだろう。朝日も読売も変わりがないのである。

米国の対日政策は、米国の国益に資することで不変

では米国の対日政策とは何なのかということになる。その具体的内容は時代時代で変わっているものの、一貫しているのは、“米国の国益に資する”という一語で完結できる。米国の日本に対する姿勢とは、米国の国益にかなうよう日本をコントロールするということ以外はない。その詳細は本書に詳しいが、大雑把に整理しておこう。

太平洋戦争に勝った米国が最初に取った日本政策は、無条件降伏した日本の完全なる武装解除であり、以降の占領軍(アメリカ人)の安全確保だった。この目的は、天皇による日本国民に対する「戦争終結宣言(8.15「玉音放送」)」をもって、ほぼ完璧に全うされた。日本の無条件降伏以降、今日に至るまで、日本国民による米軍に対する武装反乱、ゲリラ戦等は確認されていない。

次のステップ(1945-1947)は、戦争犯罪人の処罰、日本の生産拠点の破壊、反軍国主義及び民主主義の移入であり、それを象徴するのが、第9条を挿入した日本国憲法の強要である。米国は、日本が米国に対抗する勢力になることをけして望んでいない。日本の軍事及び経済等の分野において、米国の脅威になるような日本の「自主性」を米国は一貫して望んでいない。そのことが、戦後から今日まで継続する、米国の日本に対する基本スタンスだ。

しかし、冷戦の激化(1947-)から、米国は日本を共産主義の脅威に対する防波堤として位置付ける。戦争犯罪者の公職復帰、日本の再軍備化、米軍による日本国内基地(沖縄、本土を問わず)の永年使用がこの時期に定められ、今日まで継続している。米軍(米兵及びその家族)は日米行政協定(後に地位協定に改名)により、治外法権化されている。

1950年には、原子力の平和利用が前出の正力松太郎及び中曽根康弘によって推進される。原発の受け入れも、原発開発者であり輸出国である米国の国益だとみなしていい。

日本国内における米軍駐留の永年化と関連するのが、米国(から見た西太平洋)の安全保障の基本的認識だ。冷戦期、日本は共産主義(ソ連、中国、北朝鮮)の脅威に対する防波堤であったが、冷戦終結後は、「対中国」「対テロとの戦い」へと目的が変わってきた。しかし、日本に米軍が常駐し、国内の基地を米軍が米国の目的のために自由に使用している状況は冷戦期となんら変わらない。近年、米国は中国と緊密な外交関係を築いているが、米国にとって脅威なのは、日本が米国の意図に反して中国と必要以上に接近することだ。つまりアメリカにとっての西太平洋で中・日が連合して米国に対抗する勢力となることを米国はもっとも恐れている。

米国の国益確保のため、日本における基地問題、原発問題、対中国問題において米国の意に反する政治姿勢を示した日本の政治家は、米国の意を受けた日本の検察及びマスメディアによって、葬られる。加えて、経済分野では、日本による、「米国債売却」についても、米国は神経をとがらせている。

安保法制と米国

今日(2015)、日本人の最重要課題の一つが安保法制問題であり、関連する基地問題(普天間基地辺野古移転問題)、加えて、原発問題であり、それらに対する反対運動が日本各所で展開されている。

一般には、安保法制を仕掛けた張本人は安倍晋三だと思われているが、筆者は、それが安倍晋三の政治信条の帰結だとは考えない。安倍晋三にとって、同法案の内容は、不満の残るものだと推測する。安保法制は米国の要請に安倍晋三がやむなく応じたものであろう。もし、安倍がそれに応じなければ、安倍晋三は首相でいられない。

安倍晋三の理想とする「日本国」の姿とは、アジア太平洋戦争敗戦前の「日本帝国」だろう。彼の理想は、敗戦後、日本がやむなく受容した平和憲法を廃棄し自主憲法を制定すること、そして、米軍の指揮のもとにある自衛隊ではなく、「安部の軍隊」として、安部が自由に使える軍隊の創設を夢想しているに違いない。しかし、米国(軍)は自主性ある日本(軍)の存在を望まない。

これまで米国は、日本国内に米軍基地を永年存続させ、費用負担を日本に求めることで満足していた。それは日本の軍事的突出を警戒するところから、やや片務的関係をよしとしていたからだろう。だがここにきて、米国が軍事おける人的、財政的負担に耐え切れなくなり、片務的関係の清算に乗り出したということだ。それが、9条を変えない集団的自衛権の行使容認という、超法規的安保法案にほかならない。それは、まともな憲法学者が「イエス」と容認できるような内容ではない。

米国の対日工作構造

本書は、戦後の米国による対日工作の実態について、政治家、外交官と少数のジャーナリストをクローズアアップしたものだ。もちろん、それ以外の分野――行政、司法、学界、法曹界、メディア業界、文化・芸術・サブカルチャー等――においても対日工作があった(ある)と想像するに難くない。むしろ、日本の権力機構の各所に米国の意向を組むシステムがビルトインされていると考えた方が自然だ。

そのような前提に立った時、今日の安部に対する個人攻撃、及び、安部批判は危うい側面がある。安部が極右的自主性という本領を発揮すれば、米国により、総理大臣の座から引きずり降ろされる。安部もまた、ぎりぎりのところに位置しているのである。

〔注〕
参謀第2部(G2)
GHQの情報(インテリジェンス)担当部局。三鷹事件や下山事件など、占領中に続発した怪事件に関与したともいわれる。反共姿勢をとる吉田茂を支持、リベラル派の多かった民生局(GS)との路線闘争に勝利した。

民生局(GS)
「非軍事化」と「民主化」を中心とする日本の戦後改革を推進。社会主義的思想の持ち主が多く、統制経済や労働組合の育成などの社会実験を行ったが、冷戦の始まりとともに占領政策においても反共路線が優勢となり、1948年以降、急速に力を失った。

2015年9月1日火曜日

9月の猫

暑い夏が急激に幕を下ろし、秋の気配が濃厚になってしまった。

さはさりながら、ここのところ、ぐずついた天候が続いていて、すっきりとした秋晴れは拝めない。

さて、月例の猫の体重測定。

Zazieが4.6kg(前月比+300g)、

NICOが6.6kg(同+100g)。

二匹とも増加傾向。

おいしい餌らしく、よく食べる。ちょっと肥満が心配。

気温が下がると胸の上で寝るようになるザジ

マイペースのニコ