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2019年8月14日水曜日

『一九八四年』

●ジョージ・オーウエル〔著〕 ●ebookjapan(新装版) ●720円(税込)

本書は1949年に書かれた近未来ディストピア小説の古典であり、数あるディストピア小説の中の最高傑作のひとつといわれている。

オーウエルが描いた「1984年」の世界

「1984年」、世界はオセアニア、ユーラシア、イースタシアと呼ばれる3つの超大国が分割統治し、それらの3国が三すくみの戦争状態にある。主人公ウインストン・スミスは、かつての英国が属するオセアニアの国民である。オセアニアは「1960年」ごろに起こった革命によって成立し、〈ビッグ・ブラザー〉と呼ばれる独裁者が支配している。その国家イデオロギーは〈イングソック〉と呼ばれる。この語はEngland Socialismを略したものだという。

オセアニアは、〈党中枢〉という上層(全人口の2%)、〈党外郭〉という中層、そして〈プロール〉と呼ばれる下層(同85%)の三層構造の階級社会である。〈プロール〉はいわば番外地であり、革命前の、すなわち現在の自由主義国家におけるような自由が許されている一方、犯罪、売春、麻薬等が横行していて人々は貧しい。

ウインストン・スミスは中層=〈党外郭〉の中の真理省記録局という官僚組織に属している。オセアニアには、愛情省、潤沢省という行政機構がある。真理省は歴史の修正、過去の変造、統計及び政治家の演説等の記録を状況変化に即して訂正・更新する事務を行っている。愛情省はスパイ活動及び反逆者の取締り、謀反、反乱等の未然防止、反逆者の拷問等で思想的矯正を行う機関であり、一度逮捕されれば、裁判抜きの強制収容所送り、処刑を命ずることができる。潤沢省は食料管理を司る。

オセアニアの社会では、〈プロール〉を除く全国民がテレスクリーン及び隠しマイクロフォンによって監視されていて、〈ビッグ・ブラザー〉に反逆するような不穏な動きを示すと、前出の愛情省によって拷問を受け、転向が強要された挙句、処刑または強制収容所送りとなって、その存在は抹消される。

そればかりではない。家族間にも密告制度が張り巡らされていて、子供が両親を密告する「スパイ団」がある。また地域には、〈地域住民センター〉〈パトロール隊〉が組織・運営されていて、それらによって、人々の一挙手一投足は監視される。男女間の恋愛、結婚、性行為等についても〈反セックス同盟〉という組織によって管理される。また、〈思考犯罪〉、すなわり〈ビッグ・ブラザー〉に対する反逆を心の中で想像するだけで、想像した者は〈思考警察〉によって取り締まられる。

こうしてみると、このディストピア小説は1949年当時、第二次大戦の戦勝国のひとつとして軍事的、政治的、経済的に著しい台頭をみせた全体主義国家で、秘密警察、密告制度、強制収容所等を統治の源泉とするソ連をイメージしたものだと考えられる。しかし、ソ連の存在なくして本書は書かれなかったと思うものの、必ずしも、ソ連型全体主義批判に一元化できるほど単純な建付けではない。その理由は後述する。

ウインストン・スミスは〈イングソック〉に疑問を持ち、〈ビッグ・ブラザー〉に謀反を企てようとしている秘密結社に近づこうとするが失敗し、捕らえられ、拷問を加えられ、恋人を裏切り、転向を……

「1984年」と2019年の日本

本書が描いた「1984年」から今年で35年が経過した。オーウエルがモデルとしたと思われる全体主義国家・ソ連はすでに消滅している。ソ連に近似した国家として北朝鮮、中国が挙げられるが、世界全体がこの2国に近づくような危機的状況にはない。だからといって、本書の歴史的使命が終わったとか、内容的に意味をなさないとかの批判は当たらない。本書のディストピアは、本書が書かれた1949年当時の状況において、オーウエルが自身の可能なかぎりの想像力を使って描き出した国家権力と個人の関係の最悪なあり方である。それはイデオロギーを超えて抽出された、権力と個人の本質的関係にほかならない。だから、それが古くなることもなければ、陳腐化することもない。

今日の日本において、安倍政権の下で行われているのは歴史の修正であり、教育の戦前回帰(全体主義化)である。モリカケ問題では、財務局の職員が記録(文書)の改竄命令に抗して自死した。外務省、厚生労働省、内閣府等では記録(文書)の廃棄、書換えが日常化している。国の統計は政権の都合のよいように書き換えられ、偽造されている。首相が「私と妻が関与していれば議員も首相も辞める・・・」というような意味の発言をしておきながら、その記録は公文書としては消去されたに等しい。もちろん関与していることが証明されているにもかかわらず、首相が辞めることはない。これらの事象は、本書の主人公・ウインストン・スミスが勤務する真理省で日々行われている「事務」と異なるところがない。権力者は、都合の悪い歴史、記録を抹消し更新し、過去と現在の整合性を図っている。
昨日を起点としてはるか昔まで続く過去が現に抹消されているんだ。(略)すでにぼくたちは、革命について、そして革命前の時代について文字どおり何の手がかりもなくなっていると言っていい。記録は一つ残らず廃棄されるか捏造され、書物も全部書き換えられ、絵も全部描き直され、銅像も街も建物もすべて新しい名前を付けられ、日付まですっかり変えられてしまった。しかもその作業は毎日、分刻みで進行している。歴史は止まってしまったんだ。果てしなく続く現在の他には何も存在しない。そしてその現在のなかで党が常に正しいんだ。(第二部5)
ディストピアというのは、過去を失うこと、現在の他になにもないという、“セラミック”のような日常の強制である。本書が書かれた時代にテレビは普及していなかったけれど、現在の日本では権力にのっとられたテレビによって過去が書き直され、テレビが写しだす現在のなかで常に安倍政権が正しいとされる。前出の〈思考犯罪〉は、安倍政権が法制化した共謀罪に似ている。
党の世界観の押し付けはそれを理解できない人の場合にもっとも成功していると言えた。どれほど現実をないがしろにしていようが、かれらなりにそれを受け容れさせることができるのだ。かれらは自分たちがどれほどひどい理不尽なことを要求されているかを十分に理解せず、また、現実に何が起こっているかに気づくほど社会の出来事に強い関心をもっていないからだ。理解を欠いていることによって、かれらは正気でいられる。かれらはただひたすらすべてを鵜呑みにするか、鵜呑みにされたものはかれらに害を及ぼさない。なぜなら鵜呑みにされたものは体内に有害なものを何も残さないからで、それは小麦の一粒が消化されないまま小鳥の身体を素通りするのと同じなのだ。(同)
もうすぐ消費税率が上がる。先の参院選で一部野党から反対の意見提出があったものの、有権者は安倍政権に対して「NO」を示さなかった。党の世界観の「押し付け」は、今日の日本の場合は、テレビに出てくる芸人、政府お抱えエコノミスト、コメンテーターらの発言に依っている。彼らが「財源が足りない」といえば、視聴者はそれを鵜呑みにする。そのほうが楽なのだ、「害が及ばない」のだ。“消費税率アップ反対”が身体の中で異化現象を起こすことが拒否され、議論や行動が大衆化することはない。日本の視聴者の脳味噌は小鳥ほどに小さい。

日本の公務員が陥っている〈二重思考〉

日本の霞が関の役人たちは、権力者の望む方向に合わせて、記録を改竄し国会で証言する。彼らに自責の念はないのか――その回答が本書に示されている。本書ではそれを〈二重思考〉と称している。「1984年」の世界では、〈ビッグ・ブラザー〉は全能であり、党は過ちを犯さない――とされる。だから、黒は白であると〈ビッグ・ブラザー〉がいえば、そのとおりになる。

2017年、モリカケ問題で国会に参考人として呼ばれた財務省の幹部職員は、事実をすべて否定した。一般には黒とされる事実を白と強弁した。故意に嘘を吐きながらしかし、その嘘を心から信じているかのようであった。都合の悪くなったことは全て忘れること、客観的現実を否定すること――「1984年」の〈二重思考〉と変わらない。いまの日本の公務員は〈ビッグ・ブラザー〉=〈安倍政権〉に屈している。

拷問と裏切りと思想的転向と

「1984年」、愛情省の一室に拉致されたウインストン・スミスが、尋問者の拷問によって3本の指を4本だといわされるシーンが執拗に描かれる。拷問の描写は緻密かつリアルであり恐ろしい。そこでは、転向の問題が提出されている。権力側は反逆者を逮捕・拉致して思想の転向を強要する。その手段が暴力、薬物、精神的圧迫を駆使した拷問である。今日、拷問は日本のみならず世界中で行われている。ナオミ・クライン著の『ショック・ドクトリン』を読めば、冷戦後の世界で拷問が日常化されていることがよくわかる。

2019年の日本では、なにもしていない人間が警察によって逮捕されたときの恐るべき体験がSNSで報じられている。警察は無実の者を逮捕し、長時間、尋問を繰り返した。逮捕された者が「尋問はいつおわるのか」と聞くと、警察は「罪を認めればおわる」と答えたという。2019年の日本は『一九八四年』となんら変わらない。

権力の暴走に対して人はいかにしてそれに抗うか

権力と人民の関係はイデオロギーの右左に関わりなく、「権力を行使する側」と「権力に抗する側」の関係に還元される。権力側は、肉体的及び精神的な拷問によって、抗する側に転向を迫る。

過酷な拷問を受けながら、ウインストン・スミスは朦朧とした頭の中で一片の真理にたどり着く。拷問で転向して生きながらえたとしても、拷問に屈せず処刑されたとしても、権力側は自分を抹殺することに変わりないのだと確信する。

権力側の拷問者は〈ビッグ・ブラザー〉と〈イングソック〉を信ずるのかと問い詰める。スミスはそれを否定し、「宇宙には何か――わたしには分かりませんが精神とか原理といったようなもので――あなた方が絶対に打ち勝つことの出来ないものがあるんです」と答える、そして、それを『人間』の精神です」といい換える。

権力はその維持のために人間の精神を否定する。権力は肉体やモノではなく、精神を含むすべてを奪う。本書が問うたのは、それにいかにして抗うか、抗い得るのか――ということである。個人が権力の暴走を阻むことは可能なのかと。

その回答を具体的に示すことは難しい。戦略・戦術として語り得ないからである。しかしながら、ウインストン・スミスが拷問のなかで思いついたもの――権力そして権力が振りかざすイデオロギーより上位にあるもの――たとえば、共同体の規範、親子の情、相互の義、精神性といったものに殉ずることは可能かもしれない。

本書が描いた「1984年」の権力、〈ビッグ・ブラザー〉はほぼ完璧で、洗練された権力維持システムを構築しているかのように見える。それはほぼ完全に社会と人民をコントロールすることに成功しているかのように見える。その姿は、今日の中国、北朝鮮、シンガポールに、あるいは新自由主義が支配する米国に代表され、日本を含む先進国に、断片的ではあるが似ている部分があるかもしれない。そのなかで人民が権力の暴虐を阻むための方策は、権力を分散化するシステムを構築するしかない。そのことが「2019年」のわれわれの喫緊の課題となる。

2019年8月6日火曜日

誕生日カラオケ

愚生の誕生日、娘と親友夫婦がお祝いカラオケ大会を開いてくれた。



カラオケの後はタイ料理

タイの不思議な飲料、「スパイ」