2006年6月22日木曜日

『三島由紀夫の最期』

●松本徹〔著〕 ●文芸春秋 ●1429円+税

三島由紀夫はなぜ自決したのか――その答は謎に包まれたままだ。本書は、生前の三島の周りに起こった事実などを取り込むことによって、自決の謎を解こうと試みる。

三島が自決直前、長編『豊饒の海』第4巻にして完結編である『天人五衰』を、大手出版社の三島担当の編集者に渡したことはよく知られている。そのため、『天人五衰』は小説として中途半端なものとなった。三島が自決とともに『豊饒の海』を終わらせたい、という願望を抱いていたことがうかがえる。『天人五衰』が小説として完成度を欠いたのは、三島が小説の完結よりも、自決の完結に意を注いだ結果だ。

本書では、三島の自決を自己劇化と呼ぶ。自己劇化の土台は、前出の『豊饒の海』の第二巻『奔馬』で出来上がっていた。同書の主人公・勲は維新直後の神風連を理想として、要人テロを企てんとする青年として設定されている。三島の自決は、勲の自決と同じように、政治結社を不要としたものだった。もちろん、三島は「盾の会」という擬似政治結社を結成して直接行動を目指したふしもあるが、本書によると、「盾の会」の政治的機能は不全であったし、自決前から、「盾の会」が政治的局面を打開する展望は閉ざされていたようだ。三島が自衛隊市谷駐屯地乱入に同伴したのは4名の「同志」であり、三島の自決に同伴したのは森田必勝ただ1人だった。その意味で、勲と三島は酷似しているように見えるが、両者には、決定的な相違点がある。それは、勲が要人テロを実行して自決したのに対し、三島はだれも傷つけていない点だ。三島はテロを実行せずに、演説も途中で切り上げ割腹・介錯により自決した。三島はただただ、己の死だけを求めている。そこに、究極の自己劇をみる。

自決するまでの間、三島は積極的に政治的発言をしていた。それを大雑把に言えば、米軍占領統治に正義があったかどうか、となる。たとえば、いまのイラクには、イラクという国家の体裁も、イラク人の文化的同一性も失われている。米軍(=占領軍)によるイラク統治が行われているためだ。米軍侵略後にイラクに制定された憲法、開催された議会、実施された選挙・・・に正義があるのか。
民主主義、自由、基本的人権の尊重は普遍的なのだから、他国の占領下において正義は貫徹するという近代主義的主張がある。占領軍による「普遍的」民主主義を信じるのか、それとも、日本(文化)すなわち日本語、古代的天皇制、古今集に代表される美意識等々を信じるのか。三島が自決前に展開した『文化防衛論』の主眼はそこにある。

本書によると、三島が自衛隊を問題にしたのは、1970年前後、このままの状況ならば、自衛隊は米軍の一部に成り果てる、という危惧からだったという。三島は軍隊(自衛隊)に武士を見ていたという。武士とは前出の日本(文化)の一部であり、「普遍的」民主主義国家の軍隊ではない。三島自決から35年近くたって、自衛隊は米軍の一部となってイラクに派兵され、いま、その役割を終えて撤退する。彼らは民主主義の軍隊だが、武士ではない。

自衛隊に限らず、日本(文化)は喪失し、すべてが米国の下にある。やがて、米軍の再編があり、自衛隊ばかりか、日本の諸機関までもが、そのコントロール下に完全に入ることになる。守るべきは普遍的民主主義なのか、それとも、日本(文化)なのか・・・

2006年6月8日木曜日

『三島由紀夫 剣と寒紅』

●福島次郎〔著〕 ●文芸春秋 ●1429円+税

著者の福島次郎は、三島由紀夫に見込まれ、一時期、三島(平岡)家に書生のような身分で住み込んでいた人物。そのため、三島の両親、夫人の人柄を知る立場にあり、また、三島の友人達とも親交があった。

本書には、そうした体験を生かして、三島由紀夫の知られざる素顔を記述した、と思われる箇所が散見する。また、三島文学の研究者らに示唆を与える部分もある。私は、三島が「神風連」の調査のため熊本を訪れたくだりについて、興味深く読んだ。「神風連」は三島の遺作『豊饒の海―奔馬』において、最も重要な位置を占めるとともに、あの自決事件に通じている。

しかし、本書が話題をさらったのは、著者が同性愛者であり、三島との関係を告白した部分からだった。三島は『仮面の告白』等で同性愛をテーマにした小説を書いたが、結婚し子供をもうけたことから、一般的には、同性愛者と思われていなかった。昭和30年代から50年代にかけての社会通念としては、同性愛者に対する偏見はいま以上だったから、メディアや出版業界は、高名な作家等が同性愛者であることを表から報道することはなかった。三島由紀夫が同性愛者であったかどうかは、私にはわからないし、どうでもいいこと。本書は小説なのだから、事実よりも創作のほうが多いに違いない。著者が話題づくりのために、三島を同性愛者に仕立て上げた可能性も否定できない。

私が本書に苛立ちを覚えるのは、〈評伝〉なのか〈小説〉なのか、はっきりしてほしいということだ。〈評伝〉ならきっちりとしたドキュメントに仕上げてほしいし、〈小説〉ならば、三島由紀夫という実名を使用しないことだ。まして、三島の親族が本名で登場するのはいかがなものか。三島が尋常でない家庭に育ち、同性愛者であったことが事実だったとしても、すべてが著者の観察記録でないのならば、実名は避けるべきだ。小説としての体裁を最低限整え、それでも、読む側が三島由紀夫をモデルにしていると感じたとしたら、それはそれで仕方がない。

本書のように、実名に頼りながら、事実と思われる記述の合間、合間に、自分の願望、幻想、想像等を織り込んでしまったら、読む側は混乱する。本書のような実名「小説」は、モデルとなった作家の実像を損ねる。そのことに無自覚な本書には、ある特定のイメージで、天才作家を括ろうとする意図が感じられる。有名になりたい著者、売らんかなの出版社――両者に三島文学を歪めようとする悪意が感じられる。特定のイメージというのは、いうまでもなく、同性愛を指す。まったくもって、興味本位にすぎない。私は本書を読んでしまったことを、後悔している。