2024年2月27日火曜日

『近代日本一五〇年――科学技術総力戦体制の破綻

 ●山本義隆〔著〕 ●岩波新書  ●1020円+税


 著者(山本義隆)は、日本の近代化(明治維新)から2015年ころまでの150年間における科学・技術のあり方について、以下の論点において批判する。

  • 明治維新から1960年代にいたる日本には、政治-官僚-産業-軍-大学(教育・研究・科学・技術)等に通貫する関係性=構造を見いだすことができる。
  • その構造は、アジア・太平洋戦争の直前(1940年代)、総力戦体制というかたちで完成をみる。
  • 戦時期、総力戦体制下、マルクス主義、自由主義に属する社会学者・文化人は転向を余儀なくされ、軍・革新官僚に追随した。その一方、科学者・技術者は軍に積極的に協力し、そして優遇された。(学徒出陣は文系学生が対象で、理系学生が召集されなかった)
  • 敗戦後の民主化にともない、前者の転向については強く反省を求められたのだが、後者は批判・非難を免れた。
  • 日本社会は敗戦の主因について、連合軍よりも科学・技術において劣っていたことだと総括した。
  • 総力戦体制は、敗戦後におけるGHQによる民主化、諸改革を官僚機構の温存というかたちでほぼ免れた。

 維新直後の建国期、新政府は「富国強兵」の名の下、産業革命をほぼ完了した欧米の科学・技術を積極的に摂取した。維新を成功させ新政府の要職に就いた主に薩長出身の政治家、官僚、知識人等は、産業政策と軍事政策が合体した、列強に植民地化されない国づくりを目指した。日本帝国は西欧の進んだ科学・技術振興が列強の植民地化の脅威を免れる絶対条件だと確信していたのだろう。維新政府の建国策は成功した。そればかりか、維新から40年弱という短期間に、近隣の清国、ロシアとの戦争に勝利し、台湾・朝鮮を植民地化し、アジア最強の帝国主義国家へと変貌を遂げた。

 その間、戦争と科学・技術は分かつことのできない密接な関係を築くことになった。日本帝国における科学者・技術者の使命は、国富の向上おおびそれを専ら軍事に注ぎ込み、専軍国家づくりに貢献することだった。大学、研究機関、学会、科学者、技術者、企業と軍部は、人事面、資金面で相互に交流し、強力な軍事国家・日本帝国をつくりあげた。

 日本帝国の野望は「大東亜共栄圏」「世界最終戦争」のスローガンの下、中国・インドシナ・西太平洋島嶼部に軍を進め、連合国(英米等)に宣戦布告し世界制覇を目指すことと相成った。そこに浮上したのが、国家・国民が総力を挙げて戦争勝利に邁進できるシスエム国家へと国を改造することだった。それを主導したのが1930年代に頭角を顕した革新官僚と呼ばれる合理主義者の官僚の一団だった。戦争勝利のためにすべてをシステムとして運営する構造に国の仕組みをつくりかえること――それが総力戦体制である。

 日本帝国の野望は連合国の前についえた。日本を占領した米国を主体とした連合軍総司令部(GHQ)は日本帝国の武装を解除し、民主主義と戦争放棄を謳った平和憲法を強制した。

 新生日本国は、米ソ冷戦を契機とした朝鮮戦争・ベトナム戦争により復興から高度成長をはたした。だが、それを支えた国家体制は、GHQが強制した戦後民主主義の成果ではなく、戦時期に構造化された総力戦体制(1940年体制)だった。官僚機構のみならず、大学機構、アカデミアもその体制に包摂されていて、科学および技術の研究のあり方は、産(資本)-官(国家)ー学(大学・研究機関)ー軍(自衛隊および米軍を含む)が相互に連動するシステムとして機能してきた。しかも、「学」は、戦後民主主義がいうところの「大学の自治、学問研究の自由」という虚構のなかで、あたかも純粋にニュートラルな世界だという幻想を社会に振りまいていた。『総力戦体制』を著わした山之内靖は同書の中で次のように書いている。

・・・戦時動員体制が日本社会の構造転換において果たした役割は大きかった。それは民族全体の生と死にかかわる危機という運命的共同性を梃子として、国民生活全体を私的な領域から公的な意味をもった社会的領域に移し換えた。そのことによって、日本社会に付きまとっていた伝統的な――あるいは近代的な――生活の格差は公開の場へと強制的に引き出され、質的に均等化されるとともに水準化された。財閥解体や農地改革は、あるいは民法による家父長制の廃棄や労働法の新設による労働組合の公認として必然化されたと見るべきである。すべての家族や世帯が生命や財産について甚大な犠牲を負わされるとき、一部のものが特権的な格差を持続することは許されなかったのである。(同書「戦時期の遺産とその両義性」P208)

 戦時期の「質的均等化」は戦後民主義の平等に接合した。戦後日本の資本主義は、《戦時動員体制が押し進め、戦後改革によって制度化されることとなったこの強制的均質化(Gleichschaltung)を前提として、その驚異的な発展を開始する(山之内/前掲書)ことになったのである。

 本書は近代日本150年にわたる科学・技術のあり方を批判すると同時に、「戦後民主主義」批判という側面をもっていることを読み落としてはならない。〔完〕

『総力戦体制』

  ●山之内靖〔著〕、伊豫谷登士翁・成田龍一・岩崎稔〔編〕●ちくま学芸文庫刊 ●1650円  

 総力戦体制という概念が日本社会で一般化したのは、1995年、元大蔵官僚だった経済学者・野口悠紀雄が著わした『1940年体制―さらば戦時経済』(東洋経済新報社)だった。同書の刊行は1990年代の日本の長期不況期にあたり、野口はその主因を日本帝国が1940年代、総力戦(日米決戦)に向けて社会各処を再編した、1940年体制または総力戦体制の非効率性に求めた。

 野口によると、敗戦から一転して高度成長をなし遂げた戦後日本の政治、行政、企業等の組織、企業経営および労使関係、さらに官民関係、金融制度などにおける日本型システムは、1940年頃に戦時体制の一環として導入された総力戦体制の延長上にあったとし、いま(1995年当時)、そのシステムが機能不全をきたしていると論じた。野口のシステム論は、のちの小泉純一郎首相による新自由主義的構造改革に大きな影響を与えた。同書は、新自由主義信奉者のバイブルと呼ばれた。 

 ちょうどそのころ、本書著者である山之内靖は1995年、「方法的序説――総力戦とシステム統合」(山之内靖、成田龍一、V・コシュマン編『総力戦と現代化』柏書房)を、続いて1997年、「総力戦の時代」を雑誌『世界』に発表した。1990年代は、日本帝国における戦時体制すなわち総力戦体制が、おおいに見直された時代だった。 

総力戦体制とは 

 山之内靖の総力戦体制論とはどのようなものなのか。同論の大筋は、二つの世界大戦が国家の構造を総力戦体制に変え、それが世界を近代から現代へと進めたというものである。

 対外戦争が総力戦という形態に変化したのは第一次世界大戦(以下「WWⅠ」)からだった。それまでの戦争が軍と軍の戦闘だったのだが、WWⅠからはタンク、航空機、潜水艦、毒ガスといった新兵器の登場により、戦争の概念を一変させ、戦争は狭義の前線の戦いでなくなり、国内の日常生活すべての領域までをも動員せざるを得ない性格のものとなった。このような変化は、それまでの職業軍人の能力の限界性を明らかにし、軍人は変化した戦争(総力戦)には適さないという結論をもたらした。総力戦の司令塔は、前線のみならず、国内戦線の諸問題――産業・交通・教育・宣伝・輸送、等等――を配慮する能力を要するようになったからだ。総力戦は軍事戦略にもとづく軍人ではなく、政府官僚によって企画され、統制されなければならない国家的事業となった。

 第二次世界大戦(以下「WWⅡ」)においては、都市の無差別攻撃による非戦闘員の大量殺戮、ナチスによるホロコースト、日本帝国による真珠湾奇襲攻撃・朝鮮人強制連行・南京虐殺、アメリカによる原爆投下はその頂点にある。

戦争は前線においてというよりも、一国全体のあらゆる資源――経済的・物質的資源のみならず、知的能力・判断力・管理能力・戦闘意欲を備えた人的資源、さらにはそうした人的資源を情報操作によって制御し得る宣伝能力という新たな資源――を動員しうる官庁組織によってこそ、遂行され得るものとなったのである。(P14)

 『総力戦体制』における山之内の核心は以下の箇所である。緊張感あふれる名文だと思われるので、長いが引用する。 

 来るべき将来の戦争(総力戦)は、前線の将軍によってではなく、今日の諸官庁のような安全で閑静な、陰気な事務所の内部から、書記たちに囲まれた「指導者」によって運営されることになる。第一次世界大戦により、戦争は、武器が高度のテクノロジーを駆使する精巧な機械へと変身したことに対応して、人間のあらゆる能力を全国民規模で動員するところの、無機質なビジネスとしての性格を完成させたのである。 

 戦争はロマンとしての一切の性格を失う。だが、それだけに却って、戦争における死をいやがうえにも栄光に包み込むイデオロギー装置が、不可欠なものとして要請されることとなる。戦争としての死が、前線だけでなく国内においても、例外なく平等に訪れる国民全体の運命となったこと、このことは、国民というフランス革命いらいの概念に、まったく新しい意味を与えることになった。国民とは、政治に参与する権利と義務をもった者たちの呼び名ではなくなり、死に向かう運命共同体に属する者たち、死を肯定するに足る情念を共有する者たちの呼び名となった。この情念を共有しえない者は、非国民として倫理的に糾弾された。国民という名称は、こうして、敵国および敵国に属するあらゆる人びとからは区別され、彼らとは絶対に相いれることのない文化的価値を有する者、戦争において死の運命を共有する者、という意味を帯びるようになる。国民のイデーは、世俗生活を統括する情念でありながら、事実上、宗教となった。「想像の共同体」(ベネディクト・アンダーソン)としての国民概念は、総力戦時代に完成する。 (中略)

 総力戦体制が社会にもたらしたもう一つの変化は、階級や身分といった国民の上下関係や差別を平準化する力学をはたらかせることだ。国家の危機が国民の運命共同体としての平等性を与え、政治的権利としてのデモクラシーという理性的要請をはるかに超えた感情的動員力を形成する。近代政治は行政(中央官庁)にたいして、議会によって決定された法案の忠実な執行者という限界をはめていた。しかし、総力戦時代の中央官庁とそのエリートたちは、死の運命共同体としての国民というイデオロギー装置を駆使することによって、こうした制約を突破するチャンスを掴みとることができた。(P14~16)

 山之内の総力戦理論のもうひとつ重要なところは、「自由の国」アメリカ合衆国にたいする論及だと思われる。日本帝国が対米戦争を前にして社会の「改革」を進めたのが革新官僚とよばれるエリートたちであり、かつ、ドイツも同様に、ナチス官僚が動員国家=行政国家へのルートを用意した。アメリカ合衆国でもWWⅠがニューディール時代の大統領府を誕生させる歴史的起点たなり、官僚がこの新政策の舵取りを担った。 

 ・・・第二次世界大戦の構図を非合理的で専制的なファシズム型(ここにはドイツ、イタリア、日本が含まれる)と、合理的で民主的なニューディール型の体制(ここにはアメリカ合衆国、イギリス、フランスが含まれる)の対決として描きだす方法である。 

 以上の見解には、今日でもそれなりの妥当性が見いだせるといってよい。しかし、こうした見解だけでは解き明かせない問題がすでに我々の周辺をとりまいているのも確かである。ニューディール型の民主主義体制ははたして我々に望ましい社会を約束したといえるであろうか。それは、確かにあらわな全体主義体制にたいしては民主的であったといえるのであるが、巨大化した国家官僚制の支配をもたらしたし、また、企業や学校や医療その他のあらゆる組織において専門家を頂点とする中央集権的なハイァラーキーを生み出したという点で、民主主義のありかたにおいて問題をはらむものであったといわねばならない。また、そこにおいては、官僚制的硬直化にたいする批判的対抗勢力として期待される労働運動さえもがすでに体制の一部として制度化されたのであった。ニューディール型の民主主義体制においても、社会のあらゆる分野は巨大化した組織へと編成されたのであり、批判的対抗運動もシステムの存続を脅かすものではなくなってしまった。その意味において、そこにもある種の全体主義と呼んでいい兆候が現れていたのである。 

 そこで忘れてはならないのは、ニューディール型の社会といえども、二つの世界大戦を経過することによって、そこから不可逆的な変化をこうむったということである。(中略)ニューディール型の社会もファシズム型の社会がそうであったのと同様に、二つの世界大戦が必須のものとして要請した総動員によって根底からの編成替えを経過したとみるべきである。とするならば、我々は、現代史をファシズム型とニューディール型の相違は、総力戦体制による社会的編成替えという視点に立って吟味しなくてはならない。ファシズム型とニューディール型の相違は、総力戦体制による社会的編成替え分析を終えた後に、その内容の下位区分として考察されるべきである。(P61~63) 

 山之内によるWWⅠ~WWⅡ後の現代史の見方について、筆者も全面的に同意する。いまだに、世界を専制的国家群(ロシア、中国、北朝鮮、イラン等)と民主主義的国家群(G7=米・英・仏・独・伊・加・日、等)の対立という虚構の構図を固定化した世界地図が描かれている。民主的といわれる国家群のリーダーともいわれるG7だが、イスラエルによるパレスチナ人虐殺を支持するばかりか、軍事援助を惜しまない。重装備のイスラエル軍が無抵抗のパレスチナ人非戦闘員を殺戮する現状に世界各国の人民が抗議のデモを繰り広げても、それをまったく無視するのが「民主主義的国家群」なのである。WWⅡが終結して80年ちかくの時が流れながら、民主主義的と言われる世界の国々も専制的といわれる国々と大差ない。 

 山之内の総力戦体制論には、システム社会という概念が登場する。システム社会とはいかなる社会をいうのであろうか。山之内は次のように説明している。 

  • 世界がふたつの世界大戦を通じて近代世界が終わり、現代社会がはじまった。
  • WWⅠにより、戦争は総力戦というかたちに転じた。総力戦とは、戦場における軍どうしの戦いではなく、国家のあらゆるパワーを賭して国民すべてがなんらかの立場で参戦する「戦争」をいう。 
  • とりわけWWⅡを特徴づける総力戦体制は、近代社会がそこに内在した資本主義が調停不可能な階級対立をはらむ「階級社会」であったものを、戦争に向けて国家すべてが総力をあげて戦争勝利にむかうために合理的に社会を再編する体制(すなわち総力戦体制)を必要としそれをつくりあげた。
  • その結果、「階級社会」から、諸利害を社会的に異なった役割へと再編成した機能主義的な「システム社会」へと移行した。  
  • この異なった役割ごとに機能主義的に再編成された社会を「システム社会」と呼ぶ。 

日本の戦後と総力戦体制の連続性 

 山之内は、経済学者大河内一男の社会政策論を援用して、戦時期と戦後の連続性を説明する。

 なるほど、1945年の敗戦とともに日本は大規模な戦後改革に取り組むことこととなったのであり、しかも、新憲法は国際紛争を解決するための軍事力行使を放棄するという、人類の歴史に前例のない決断を世界に向かって表明した。それとともに、労使関係に関する民主的法規が整備され、財閥解体や農地改革も遂行された。しかし、にもかかわらず、大河内の見るところによれば、そして現代の社会理論がその先端において展開しはじめた議論に従えば、日本のこの戦後改革も、総力戦時代に進行した社会の国民的動員と統合によって、その根本的性格を大幅に規定されていた、ということになる。平和憲法下での戦後諸改革にもかかわらず、その後に現れた日本の社会構造は、総力戦という未曽有の緊急事態に迫られて着手された社会改造によってその方向性を決定されていた。と大河内は見ているのである。(P147)

 戦後日本の民主主義社会は、戦時期の構造と無縁どころか、その延長線上にとどまっていたのである。 

 ・・・戦時動員体制が日本社会の構造転換において果たした役割は大きかった。それは民族全体の生と死にかかわる危機という運命的共同性を梃子として、国民生活全体を私的な領域から公的な意味をもった社会的領域に移し換えた。そのことによって、日本社会に付きまとっていた伝統的な――あるいは近代的な――生活の格差は公開の場へと強制的に引き出され、質的に均等化されるとともに水準化された。財閥解体や農地改革は、あるいは民法による家父長制の廃棄や労働法の新設による労働組合の公認として必然化されたと見るべきである。すべての家族や世帯が生命や財産について甚大な犠牲を負わされるとき、一部のものが特権的な格差を持続することは許されなかったのである。(P208) 

 さらに戦後日本の資本主義についても、《戦時動員体制が押し進め、戦後改革によって制度化されることとなったこの強制的均質化(Gleichschaltung)を前提としてその驚異的な発展を開始する。(P208)》とつけ加えている。 

総力戦体制と現代社会

 筆者は総力戦体制が近代から現代社会に移行させたという見解に異議を挟まない。だが、戦争の形態としての総力戦はWWⅡ以降、不可能となった、と考えている。総力戦は、アメリカによる広島・長崎への核攻撃をもって終わった。なぜならば、アメリカと対立するソ連が核を保有したことにより、双方が核を打ち合えば、米ソのみならず全世界が滅亡することになるからである。 

 総力戦体制という国家システムが世界から完全に消滅したわけではない。高度に発達した資本主義国家は、ナオミ・クラインがその著書『ショック・ドクトリン』で明らかにしたように、惨事便乗型政策を発動し、強権的政策遂行および国民の国家への忠誠を促すようになった。アメリカで起きた「9.11」同時多発テロ事件(2001)は、「テロとの戦い」というアメリカ政府のスローガンの下、国民の合衆国への再統合を促し、軍事作戦容認の世論を醸成し、二度にわたるイラク戦争への道をひらいた。 

 経済におけるニューディール批判は、市場原理主義を待望する動きとして顕在化した。フリードマンらシカゴ学派経済学の新自由主義経済論者が中心となって、自由市場に対する国家の関与を批判した。彼らに賛同して経済運営を進めたのが、冷戦終結直前、アメリカ大統領のレーガン(任期期間 1981年1月20日 – 1989年1月20日)、イギリス首相のサッチャー(在任期間 1979年5月4日 - 1990年11月28日)だった。二人はそれぞれレーガノミックス、サッチャリズムという新自由主義経済政策を行い、経済、社会の諸分野における規制緩和、福祉切捨てを押し進め、小さな政府へと邁進した。 

 だがしかし、新自由主義経済推進が、国家システムとしての総力戦体制を崩壊させ、国家の関与を完全排除したとは言い切れない。新自由主義は福祉国家という社会のセイフティーネットを漸次消失せしめる方向に舵を切り、国家による富の再配分を最小限にとどめた結果、弱者を切捨てた格差社会をつくりあげたことは確かであるが、新自由主義下の国家は、政府の内部に資本の代理人が常駐する体制へと変容したのである。 

 国家機能は、少なくとも先進産業諸社会においては、すでに完了の段階に入り、その役割を果たし終えたといってよい。ネオ・コーポラティズムの役割が終焉し、国家の果たす統制的機能が大幅に後退しつつあるかにみえるのはそのためである。(中略)この先さらに国家は後退を重ねてゆき、マルクスの予想した「国家の死滅」過程が、「無階級的」なポストモダン文化の波に乗って進行してゆくと見るならば、それは甘すぎるだろう。

 ・・・一見、国家の後退と見えるこの事態のなかに、国家の果たす役割の変化が示されていること、言いかえれば、国家が統制機能において新しい課題を担う地位に就いたということを見届けなければなるまい。世界大の規模をもつ自己組織体系として資本主義がその姿を整えるに伴い、先進産業社会の国家装置は、世界資本主義システムの安定的成長を支える下位体系として機能するようになったのである。(中略)資本主義は、世界システムとして自己維持的性格を獲得し得たのであり、それに伴って、国民国家の方が下位体系としてこの自己維持システムの成長に貢献すべく、編成替えされたのである。(P58)

 この箇所は、国家が上位体系で資本が下位体系という総力戦体制という国民国家の構造が変容したことを明言したものである。総力戦体制論の元祖とも呼ぶべき山之内靖による、総力戦体制終焉宣言であるとも思えるが、その編成替えが完了したと解釈すべきであろう。  〔完〕  

2024年2月17日土曜日

小石川植物園

 満開の梅を見に、小石川植物園へ。












2024年2月4日日曜日

梅が満開だ