2017年11月29日水曜日

相撲協会とその周辺に巣食う時代遅れの愚者たち

横綱日馬富士暴行事件については、本日(11/29)日馬富士が引退届を提出したことでヤマを越えた。そもそも日馬富士は暴行の事実を認めているのだから、警察の捜査が進み、書類送検をして、それを受けた検察が起訴、不起訴を決める。それだけのことだ。日馬富士が引退したことで、不起訴となる可能性が高まったともいう。

バンザイ・ノーテンキ横綱

事件としては単純にみえる一方、昨日、事件現場となった飲食店で加害者・被害者と同席していた横綱白鵬が警察から、7時間を超える事情聴取を受けた。白鵬の聴取時間が加害者である日馬富士より長かったとは異常だが、白鵬に共同謀議の疑いがかかったと推察すれば、納得できる。日馬富士が貴ノ岩に一方的に暴行を加えたとき、同席していた白鵬が止められなかった理由はない。白鵬が日馬富士の暴行を容認したのではないか、という素朴な疑問が払しょくされていない。

暴行を容認した疑いがあることを知ってか知らずか、白鵬は千秋楽、自らの優勝表彰後に観客に万歳を求めた、観客もそれに応じた、相撲ジャーナリストの杉山某はTVのワイドショーで白鵬を称賛した。狂っているとしかいいようがない。

おバカなのか、それともおバカを装う、公益財団法人日本相撲協会評議員会議長

相撲協会の評議委員会議長である池坊何某は、日馬富士引退についてのコメントを求められて、「残念」を連発した。この人の発言はこれまでも常軌を逸していて、自分が務める公益財団法人の不祥事(暴力事件)について反省する言葉がない。事件を公にした被害者側(貴ノ岩、貴乃花親方)を責めるばかり。池坊何某は暴力事件を協会より先に警察に届けた貴乃花親方に瑕疵があるとして、理事失格だという。困ったものだ。なぜならば、相撲協会には「蒼国来事件」という忌まわしい過去をもっているからだ。この事件のあらましは、蒼国来という中国内モンゴル出身の力士に八百長の疑いがあるという情報(デマ)を信じた協会が、独自調査の結果、蒼国来を解雇処分した。これを不服とした蒼国来側が訴訟を起こし、結果、協会は敗訴、解雇を取り消した。つまり、相撲協会は「冤罪」で蒼国来を処分した過去をもっている。

巷間言われている相撲協会の「調査力」とはしょせんこの程度、とても信用・信頼できるものではない、とこのたびの被害者側(貴ノ岩・貴乃花親方)が思ったとしても不思議はない。協会に事件を上げれば、被害者にとって不利益になる確率は高くなる、と考えるのはむしろ当然、まずは警察と考えて何が悪いのだろうか。

なお余談だが、池坊評議員会議長は、過去(2011年)に財団法人『日本漢字能力検定協会』の理事長を途中解任されたという忌まわしい過去がある。

カルト的相撲ファンの元ロックバンドヴォーカル

池坊何某、カルト的相撲ファンのお化けタレント、杉山某も被害者である貴ノ岩が説明しないのがおかしい、という趣旨のコメントを連発する。このコメントも筆者には理解できない。このたびの事件を、異国で活躍する日本人アスリートに仮構して考えてみよう。ドイツでプレーする日本人サッカー選手は14名ほどいる。彼らがオフタイム、「日本人会」と称して食事や酒を飲むため集まったとしよう。その席上、日本人選手の中でもっとも知名度の高い兄貴分の香川真司(ドルトムント)が若手の浅野拓磨(シュツットガルト)に今回と同じような暴行を加えたとしよう。シュツットガルト側が被害届を警察に提出し、捜査段階だと仮定しよう。ドイツのマスメディアがこのような事件をどのように報道するのかは想像できないが、連日連夜、TVが当事者にコメント求めることはない――周辺の者がメディアに不確実情報を流すこともない――と確信する。粛々と警察が捜査し、起訴または不起訴が決まるものと思われるし、社会も粛々とそれを見届けるだろう。

この段階で、被害者である浅野がTVに出てきて事件について語ることは絶対にない。浅野が、香川から一方的に暴行を加えられた状況をTVで語ることはあり得ない。浅野は事件を理解できないし、肉体的と同時に、いやそれ以上に心的に傷を負っているはずだからだ。同郷(日本)の先輩がなぜ、自分に暴力を振るったのだろうかと。

内面の問題にとどまらない。警察が捜査をしている段階で自分が口を開けば、警察捜査にも影響する。事件について具体的にメディアに語ることは捜査妨害にもなる。ドイツの社会が浅野に対し、メディアに出てコメントしろ、と求めることがあるだろうか――筆者は、そのようなことはあり得ないと確信する。浅野がTVに出てきて、「香川にこんなふうに殴られました、そばにいた日本人選手はだれも止めませんでした・・・」と説明することがあるはずがない。

無責任横審委員長に相撲協会御用達「ジャーナリスト」

日本のTVがこの事件を連日取り上げるのは、視聴率が稼げるからだろう。前出のとおり、捜査段階では、被害者・加害者は立場上、表に出られない。協会(及び協会と利害を一致する関係者)は、“事件はなかった、穏便に済ませたかった”から、被害者不利のデマ情報を流しまくる。公益財団法人評議員会議長という公職にある者が、“巷の相撲ファン”なみのコメントで、協会への責任追及を回避させようと誘導する。横審とかいう老人会が自分たちの任命責任を棚に上げて、協会に「厳正な処分」を求める。

こうして見てみると、TVは相撲協会とその関係者に利用されていることがわかる。コメンテーターの中に一人として、相撲協会の暴力体質を批判する者がいないことがそのことの証明となる。だれもが、被害者(貴ノ岩)と加害者(日馬富士)がなにもなかったように、初場所に出場できることを願っているかのようなコメントが平然と電波にのって日本中(いやモンゴルまで)流されていくことをだれも止められない。その代表的存在が、元NHKの相撲中継アナウンサーで、現在「相撲ジャーナリスト」である杉山某であろう。

残念なのは、暴力事件発生の根源に目を向けない相撲協会及び相撲業界

相撲協会は暴力を追放しようと努力してきたという。だがそれこそ残念ながら、その努力は足りなかったのだ。実行犯の日馬富士はもちろんだが、相撲協会こそが責任をとるべきなのだ。評議委員会議長なのか、理事長なのか、日馬富士が所属する部屋の親方なのか、横審委員長なのか、そのすべてなのか――だがここでも誠に残念ながら、いまのところ、ここに挙げたうちのだれもが責任を感じているようには見受けられない。それこそ残念きわまりない

2017年11月22日水曜日

フランスからお客様



フランスからジャンさんとアンさん(兄妹)がわが家に。


2017年11月21日火曜日

国(内閣府)は相撲協会の公益財団法人認可を取消せ――日馬富士暴行事件

横綱日馬富士の暴行問題に係る報道が混迷している。マスメディアは暴行事件の事実関係を報道するというよりも、それをひたすらわかりにくくしようとしている。どこからか、この事件の本質追及を回避させるような圧力がかかり、それを受けたメディアが謀略に加担している――そのような構図が筆者の目に浮かぶ。

相撲界に残る暴力体質

事件の概要は、酒の席で日馬富士が貴ノ岩に暴行を働いたというもののようだ。いま現在のところ明確なのは、加害者は日馬富士で被害者は貴ノ岩ということ。

暴行はもちろん犯罪になるが、そのすべてが刑事事件になるとは限らない。被害の程度にもよるし、互いの事情もある。たとえばサラリーマンの酒の席の場合、それぞれの立場が働いて、謝罪で済ますことも多いし、ことと次第では示談となる。

本件が一般の暴行事案と異なるのは、それが相撲界で起こったということだ。相撲界では過去に深刻な暴力事件があった。それが是正されなかった。相撲界には暴力を肯定する体質が根強く残っているのではないかと。

マスメディアの報道が本質(相撲界の暴力的体質)を隠蔽

ここまでのところ、本件に係るマスメディアの報道は、▽医師の作成した診断書云々、▽ビール瓶ではなく素手だった云々、▽相撲協会と貴乃花親方との確執云々、▽事件のきっかけとなった貴ノ岩の言動云々・・・と、相撲界の暴力的体質を追求する姿勢は見られない。一見すると、事件の「真相」が追及されているようにみえるが、実際は、真相は藪の中にあるかのように仕向けている。事件が内包する本質的問題(=相撲界の暴力体質)追及を回避させようとする力が働いている。

大相撲はここのところ、人気沸騰中だという。マスメディア、とりわけテレビ、スポーツ新聞にしてみれば、相撲は大切なコンテンツの一つ。ここで相撲協会の怒りを買うような番組をつくれば、今後の取材も困難になる。人気力士のメディア出演も断られる・・・と考えているのかもしれない。そこでメディアは、この事件をあやふやにする情報を繰り返し、相撲界の暴力体質への批判をかわそうという戦略に出た。本件に関する憶測、推測、伝聞、虚偽情報を乱発し、本丸である相撲界の闇に至らせないように謀っている。その結果、前出のような不確実な情報がマスメディアにあふれ出し、相撲界の暴力体質追求はどこかに忘れ去られた。

あやふやな情報の出どころは、相撲協会の意を汲む「関係者」だろう。協会幹部はうかつな発言はできない。協会幹部に代わって、元力士、部屋付き親方、相撲解説者(元相撲記者等)らの出番となる。彼らが聞いたような噂をメディアに流し、煙幕が張られる。

相撲部屋制度が暴力的体質を醸成

相撲界の暴力体質はどこからくるのか。不祥事を重ねながら、なぜ是正できないのか。相撲界が暴力体質を一掃できない主因は、親方を頂点とする相撲部屋制度にある。

相撲に限らず、格闘技の場合、格闘家が一人で技を磨くことは不可能だ。それゆえ、MMAなら「チーム○○」、プロボクシングなら「△△ジム」、空手等では「××館、◇◇道場」に所属することになるが、こうした集団は相撲界の部屋とは根本的に異なる。格闘家がそこで集団生活することはほぼない。相撲以外の格闘家の所属先は練習をする場であって、その集団のトップ(ジムの社長、道場等の館長など)に人格的に支配されることはない。ランキングの低い格闘家はジムや道場に通って練習をし、練習が終わればアルバイトをして自分の生活の糧を得る。例外として、才能を認められた若き格闘家にはスポンサーがつき、スポンサーが生活を支えてくれる(という幸運に恵まれることも稀にある)。相撲以外の格闘家は下積み時代は実社会で働きながら、下積みから這い上がろうとする。一般の人と同様に、自力で社会経験を積む。

一方の力士は、相撲部屋に閉じ込められ、練習(稽古)、礼儀(上下関係)、生計に至るまで、すべてを管理される。相撲界では年端のいかない若者が新弟子として相撲部屋に入門し、相撲部屋という閉鎖空間で生活と稽古(練習)を続ける。実社会と隔離した特殊世界で、同じような経験をした兄弟子、同期、弟弟子としか接しない。そこで培われた特異な倫理観、世界観に支配されて年を重ねる。

相撲部屋を伝統的に支配する暴力はそうした生活環境を基盤にして、力士間に共有される。相撲協会は若い力士に研修を重ね教育を怠らないというが、研修で社会性が身につくはずがない。社会経験のない(少ない)若者に対して“社会とはこんなものです”と教育してなんになる。

相撲部屋の伝統とはすなわち儒教的封建遺制

相撲部屋の伝統とは、別言すれば、封建遺制だ。親方を頂点とする儒教的家族主義だ。それは次のように説明できる。

儒教的家族主義の特徴は、構造としての円錐型、同心円型に広がる権威主義的階層型秩序である。その権威の階層性を創りだすものは「文化」(儒教思想)の体得の度合いである。そして、秩序形成における非法制性と主体の重層性である。秩序形成に関する儒教の有名な言い回しとして「修身・斎家・治国・平天下」がある。そこには各人・家・国・世界とアクターを重層的にとらえ、法や制度の体系ではなく修養、教化による秩序形成がポイントになっている。(天児彗「中国の台頭と対外戦略」、天児彗他編『膨張する中国の対外関係』勁草書房)。

相撲界の部屋制度では、新弟子は一般社会の規範となる法体系ではなく、階層性、すなわち親方を頂点とした上下関係の上位者が得ている修養、教化による秩序形成に従属し、人格形成される。そこでは、番付の上の者や年上の者(円錐形の上位者)による暴力支配が修養、教化の安易な道具として使用される。

日馬富士(横綱という上位者)が貴ノ岩(幕内という下位者)に修養、教化として暴力をふるう余地が十二分にあった。暴行の発端は、テレビによると、酒席で上位者が話しているとき、下位者がスマホをいじったことだ、と報道されている。このことは、相撲界の儒教的体質を明確にあらわしている。しかるに、テレビのコメンテーターが、日馬富士が貴ノ岩に暴力(による教化)を施したことを暗黙裡に容認するような解説をしているのを聞いて、筆者は唖然とした。相撲界(伝統社会)だから仕方がない、といいたげなことに・・・

このたびの暴力事件がモンゴル出身力士の間で起こったことは偶然ではない。モンゴル出身者は、“日本に”というよりも“相撲界=相撲部屋”に順応しなければならなかった。その風習・慣習・不文律にいやがおうでも適応することを求められた。彼らは外国人である。だから、部屋に順応することは、相撲界で成功するための最低限の条件だった。その結果、モンゴル出身力士が純粋培養的に相撲部屋の悪しき風習を忠実に実行する者となり得た。

相撲の勝敗はまさにブラックボックス

相撲は近代スポーツとは異なり、大相撲一座の見世物興行的性格をもっている。プロレスに近いが、相撲の取組みの全てがプロレスのようなショー(八百長)ではないし、筋書きがあるわけでもない。相撲は極めて短い勝負だから、ヒールとハンサムが演じ合うようなストーリー性は成り立たない。

相撲の勝負では、互助、思いやり、忖度が幅を利かしている。たとえば、▽結婚した力士を(祝福して)優勝させる、▽スター性があって将来人気が出そうな力士を勝たせる、▽負け越しが決まる相手には負けてあげる……などなど。

最近では、久々に日本出身の新横綱となったKSが横綱初の場所となった2017年3月場所、13日目に寄り倒された際に左肩を負傷。休場の可能性も囁かれたが、左肩に大きなテーピングをして強行出場。14日目は一方的に寄り切られ、この時点で1敗で並んでいたTFに逆転を許してしまう。千秋楽、KSは左の二の腕が内出血で大きく黒ずむほどけがが悪化している中で、優勝争い単独トップのTFとの直接対決を迎える。優勝決定戦と合わせて二連勝することが必要なKSの優勝はほぼ無いと思われたが、本割で左への変化から最後は突き落としで勝利、決定戦に望みをつなぐ。引き続いての優勝決定戦ではあっさりともろ差しを許して土俵際まで押されたが、体を入れ替えての発逆転の小手投げが決まって勝利し、奇跡的な逆転優勝を決めるという信じがたい相撲があった。その後、そのKSは3場所休場し、休場明けの今場所(11月場所)も負けが続き休場した。あの「逆転・奇跡の優勝」とは何だったのか――その答えは、日本出身横綱に花を持たせるため忖度が働いた、という説明でいいと思う。

相撲の「忖度」を外部の者が明らかにするのは困難だ。だれでもがわかる無気力相撲をとれば別だが、一方が勝負所で少し力を抜いたり、足を滑らしたりしても、外部者が「忖度相撲」だと証明することはまず不可能だ。

その一方、力士は鍛錬された格闘家。常人とは比べることができないパワー、忍耐力をもっている。魅せる要素、タレント性もある。実力がなければ上には上がれない。横綱になるには大変な努力がいる。それはそうなのだが、相撲界は他の近代スポーツのように、実力だけで決る世界ではない。虚と実が混在している世界なのだ。

相撲協会は特異な公益法人

日本相撲協会は公益財団法人だ。しかも、公益法人でありながら、営利的かつ職業的な相撲興行を全国規模で開催している唯一の法人だ。日本国において、暴力体質を内在する興行集団に公益性があるのだろうか。そればかりではない。この暴力集団(相撲協会)に公益法人に求められる透明性があるのだろうか。相撲協会は、このたびの暴行事件について、公益法人として、国民の前にまっとうな説明をしただろうか。怪しげな情報を意図的に流布していないだろうか。

筆者は、相撲協会は始めから、公益法人としての要件を備えていなかったと思っている。このたびの事件の発生から、今日までの協会の動向をみれば、暴力体質が一掃されていないことも、透明性が確保されていないことも、火を見るより明らかではないか。

「公益社団法人及び公益財団法人の認定等に関する法律」によれば、公益法人の認定と監督は、独立した合議制機関の答申に基づいて内閣総理大臣又は都道府県知事の権限で行われる。協会の場合は国(内閣府)の認定で、内閣府には7人の民間人委員からなる公益認定等委員会が設置され、同委員会が協会を公益法人とした。ならば、国は速やかに相撲協会の公益財団法人認可を取り消すことが妥当だ、と筆者は思うのだが、いかがであろうか。

2017年11月17日金曜日

ハリルホジッチを支持する

サッカー日本代表による欧州遠征は0勝2敗で終わった。相手はブラジル(1-3)とベルギー(0-1)。どちらもFIFAランキング一桁台の強豪だ。スコアからすると、ベルギー戦は惜敗に見えるものの、実力差が点差以上であったことにだれも異論はないはず。ベルギーがフィニッシュの精度を欠いたことが、惜敗(最小失点差敗け)の主因だった。


「主力」不在が敗戦の主因ではない

この遠征結果をもって、ハリルホジッチの手腕を云々してもはじまらない。本田、香川、岡崎といった、いわゆる「主力」を呼ばなかったことが敗因であるわけがない。スポンサーの意向を汲んだ業界内評論家諸氏がハリルホジッチ批判を展開したところで、常識的なサッカーファンならばそれが無意味であることは学習済みだ。香川のスポンサーであり、日本サッカー協会のそれであるA社への忖度は、業界人には意味があろうが、サッカーファンには一切関係ない。

敗因は“実力差”に尽きる。業界内評論家諸氏はこれまで、“日本サッカーは世界レベル”ともちあげてきたものの、このたびの遠征のような試合をみれば、彼らの見解の嘘臭さが明らかになる。ハリルホジッチを批判してベンゲルだ、モウリーニョだ、チッチだ、岡田だ…と叫んでみても、結果は変わらない。

とはいえ、サッカーに限らず、スポーツでは結果(敗戦)がすべて。その責任は監督が負わなければならない。サッカーの監督の仕事の中で最も重要なのが“首を切られること”ともいう。「負け」の責任を選手が負おうとすれば、選手は一人もいなくなってしまうからだ。

実力の差なのだから、といって放置していいわけがない。実力差を認めたうえで、世界の強豪と渉りあうために必要なものは何か。それを追求すること――それが向上につながる。ブラジルと10回試合をして1つ勝つ秘策を練らなければなるまい。「マイアミの奇跡」(1996年アトランタオリンピック・男子サッカーグループリーグD組第1戦において、日本五輪代表がブラジル五輪代表を1対0で下した試合)を忘れてはいない。

日本のW杯の歴史が示すもの

ハリルホジッチは間違っているのだろうか。筆者は、彼がW杯で戦うための原則を心得ている、という意味で評価する。その原則とは、W杯に必要な戦力は、常に新しくなければならない、というものだ。

1998年フランス大会(岡田監督)を見てみよう。前回アメリカ大会はいわゆる「ドーハの悲劇」で予選敗退し、W杯出場を逃した。フランス大会では、それまで主力だった、カズ、北沢豪、ラモスらを代表から外し、GKに川口能活、DFに秋田豊・中西永輔の2ストッパーとスイーパーの井原正巳を起用。両WBは左が相馬直樹、右が名良橋晃。2ボランチの名波浩・山口素弘と司令塔の中田英寿がゲームを組み立て、FWは中山雅史と城彰二の2トップという布陣だった。中山は「ドーハの悲劇」のとき、控え選手だった。試合途中の交代メンバーにはFWの呂比須ワグナーやMFの平野孝が起用された。結果はグループ・リーグ勝点0の最下位で予選敗退。この大会はW杯初体験ということもあり、グループ・リーグ敗退は仕方がない面もある。

2002年日韓大会(トルシエ監督)のW杯は新戦力が躍動し、W杯で成功する方策の一つを示した大会だったといえる。日韓大会のメンバーは、シドニー五輪世代で25歳の中田英寿・松田直樹・宮本恒靖らを中心に据え、22歳の小野伸二・稲本潤一・中田浩二ら「黄金世代」とも呼ばれる1979年度生まれが5人を占めており、若手が多く起用された。長く代表から離れていた中山雅史・秋田豊の両ベテランをサプライズ選出する一方、国内有数のゲームメーカーである中村俊輔を選考外にした。エースストライカーとして期待されていた高原直泰は、4月にエコノミークラス症候群(肺血栓塞栓症)を発症し出場を断念している。23名中フランス大会経験者は8名いたが、活躍したのは若手だった。その結果、グループ・リーグを勝ち抜いてベスト16入りを果たした。自国開催のアドバンテージはあるものの、日本代表がもっとも輝いた大会だったことはまちがいない。

2006年ドイツ大会(ジーコ監督)はどうだったか。メンバーは4年前の日韓大会当時20歳代前半だった選手達が中心となり、平均年齢は27.4歳と、前回よりも2歳ほど増した。23名中11名が2大会連続してメンバー入りし、川口能活・楢崎正剛・小野伸二・中田英寿は3大会連続となった。前回落選した中村俊輔・高原直泰・中澤佑二らが初出場する一方、当確と見られた久保竜彦がコンディション不良により落選し、巻誠一郎がサプライズ選出された。DFレギュラー候補だった田中誠はドイツでの直前合宿中に負傷のため離脱し、休暇中だった茂庭照幸が緊急招集された。初戦はGKに川口能活。DFは坪井慶介・宮本恒靖・中澤佑二の3バック。右WBはレギュラーの加地亮がテストマッチで負傷し、初戦のみ駒野友一が先発。左WBは三都主アレサンドロ。中盤は2ボランチの中田英寿・福西崇史と、司令塔の中村俊輔。FWは高原直泰・柳沢敦の2トップという布陣だった。第2戦と第3戦は4バックへ変更し、MFの小笠原満男・稲本潤一、FWの玉田圭司・巻誠一郎らが先発起用された。結果はグループ・リーグ勝点1で予選敗退。

2010年南アフリカ大会(岡田監督)の主力メンバーは2004年アテネ五輪世代(29歳~27歳)と2008年北京五輪世代(24~22歳)が中心となった。上の年代の黄金世代に比べると国際大会での成績が見劣りするため、「谷間の世代」「谷底の世代」と冷評されていた。ワールドカップを経験している30歳以上の選手も7名おり、ゴールキーパーの川口能活と楢崎正剛は4大会連続選出となった。候補に挙げられていた石川直宏や香川真司が最終登録から漏れる一方、岡田ジャパンでの実績が少ない矢野貴章や、大怪我により半年間実戦から遠ざかっていた川口能活がサプライズ選出された。

フォーメーションは急ごしらえの4-3-3。DFラインの前(バイタルエリア)に3人目の守備的MF(アンカー)阿部勇樹を配置。GKは楢崎正剛に代わり、川島永嗣に。右DFは駒野友一が出場。右MFは中村俊輔に代わり松井大輔。FWは岡崎慎司に代わり本田圭佑(本来はトップ下)。キャプテンはベテラン中澤佑二(32歳)に替えて、長谷部誠(26歳)が新キャプテンに。ベテランW杯経験者が多く選出されたが、攻撃陣で輝いたのは本田圭佑、遠藤保仁であった。特筆すべきはDFの中沢祐二と闘莉王のCBコンビ。結果は、グループ・リーグを突破しベスト16入り。

2014年(ザッケローニ監督)のブラジル大会は、GK川島永嗣、DF吉田麻也、今野泰幸、長友佑都、内田篤人、MFに山口蛍、長谷部誠、FWに本田圭佑、岡崎慎司、大久保嘉人を主軸とし、攻撃陣では大迫勇也、中盤では遠藤保仁らが交代要員となった。新戦力の台頭はなく、本田に依存したチームで新鮮味はなかった。結果はグループ・リーグ勝点1で敗退。

新戦力の活躍がW杯勝利の絶対条件

W杯の流れを見ると、新しい戦力が台頭し、スターが生まれたときにはベスト16入りを果たしていることがわかる。日韓大会の小野伸二・稲本潤ら、南アフリカ大会の本田、遠藤といった具合だ。その反対に、前回大会の経験者を再招集して新戦力が台頭しない大会は予選敗退している。ジーコ監督、ザッケローニ監督のように、経験者、ベテランを尊重したクラブ型代表チームをビジョンとしたチームづくりは本大会でうまくいっていない。

筆者はハリルホジッチが予選から新戦力を試してきたことを評価する。このことは日本のサッカー風土、なかんずく「日本代表」の監督としては、かなりリスクが高い。前出のように、日本代表のスポンサーからの圧力があり、その意を受けた「サッカー評論家」が批判を繰り返すからだ。このたびのアジア予選オーストラリア戦(8月31日)がその典型だった。ハリルホジッチが本田、岡崎、香川を外し、井手口陽介、乾貴士、浅野拓磨を先発起用したとき、彼らは大反発したが、結果は新戦力が大活躍。井手口、浅野が得点してオーストラリアに完勝。W杯出場を決めた。

本田、香川、岡崎がロシア大会の主軸なら日本は予選敗退確実

ハリルホジッチの次の大仕事は、W杯ロシア大会出場選手の選定だ。選手登録までの間、各国のクラブでだれがどんな活躍をしているのか、そうでないかについてはわからない。ただ繰り返せば、2002年のトルシエは中村俊輔を外し、かつ、フランス大会の主軸を清算してーーまた、2010年の岡田は本田をFWで起用するという奇策に加え、楢橋(GK)、中村俊輔を外して新戦力である川島(GK)、松井を起用、さらに新キャプテンに長谷部を指名してーーいずれも予選リーグ突破に成功した。この大会で本田、長谷部、遠藤、川島が代表の顔となった。

仮にも2018年ロシア大会に本田、香川、岡崎がW杯代表メンバーに登録され、先発起用されるようならば、日本が勝つのは難しい。それは彼らがダメということを意味せず、ただ、新戦力が台頭しなかった、というにすぎない。

2017年11月4日土曜日

モントルー・ジャズ・フェスティバル・ジャパン

ファラオ・サンダーズの招待券が入ったから行こうと、知人から電話があった。

指定された恵比寿ガーデンプレイスに行くと、モントレー・ジャズ・フェスティバル開催中だと。

懐かしい名称だ。まだやっていたのだ。しかも日本で。

一万円以上もする入場券ということ。ありがたい。持つべきものは友達である。

ファラオ・サンダーズを生で聴くのはもちろん初めて。

印象としては、エンターテインメントを心得たアーチストなんだなと感じた。

アップテンポのブルース調の曲に合わせて老体に鞭打ちながら?踊ったり歌ったり聴衆とかけあったり、サービス精神が旺盛。

かなりイメージが変わった。

なお、高額なチケットだけど、来場者は若い。しかもマナーが悪い。

途中入場、途中退場が多数。目に余る。

我々の世代では、モダンジャズのライブ演奏というと、緊張して構えていたものだ。演奏途中で席を立つなんておよそ考えられない。




2017年11月3日金曜日

破壊工作で潰された日本型人民戦線

人民戦線といえば、1930年代、イギリス、フランス、スペインなどの西欧を中心に結成された、反ファシズム、反帝国主義、反戦主義を掲げた左派による統一戦線結成の運動の総称である。

解散直後についえた日本型人民戦線

2017年総選挙前の日本、「モリカケ問題」で追い詰められた安倍政権を打倒するため、来るべき総選挙に向け、日本共産党主導による日本型人民戦線(=市民共闘・野党連合)が結成されようとしていた。小選挙区制度において、各野党がばらばらで複数の候補者を立てれば、自民党・公明党の組織票に敗退することは明白だった。

日本型人民戦線結成がほぼ煮詰まりつつある状況下、ファシスト・アベによる突然の「国難解散」が宣言されたかと思うや否や、小池百合子による「希望の党」結党宣言があり、前原誠司(当時・民進党代表)により、〈同党解党→希望合流〉が表明された。このことは日本型人民戦線の集大成かと思う間もなく、小池の「排除」発言があり、民進党左派議員は小池新党(「希望の党」)への合流を阻まれた。ここで日本型人民戦線はついえた。

小池百合子の真の顔は極右

第一の問題は、「希望の党」とは何かである。先の東京都知事選(2016/4月)に立候補した小池百合子は、都政改革を掲げて大勝利した。続く都議会選(2017/2月)においても小池が率いる「都民ファースト」と呼ばれる地方政党が大勝利をおさめた。都民はここまで、小池について、ブラックボックス化した東京都及び都議会の改革者だと見做していた。

「改革」という表現はさまざまな意味を持っている。「構造改革」といえば、新自由主義者が信奉する市場万能論と同義である。その「改革」は、社会的セーフティーネットを廃止した弱者切り捨て政策を意味する。「改革」によって市民は守られよりも切り捨てられる。小池の「改革」は新自由主義者のそれであって、市民の生活の安定や福祉を重視するものではない。

都議選までの小池の躍進を支えたのは、マスメディアであった。昨年7月の都知事選の主な候補者は増田寛也(自民・公明推薦)及び鳥越俊太郎(民進・共産ほか推薦)の2人であった。ところが、小池百合子が立候補を表明するや否や、メディアは小池を増田・鳥越と並べて「主な三人の候補者」として扱った。そのときの小池は、無党派からの出馬だった。元自民党衆議院議員で防衛大臣経験者と、政治経験は豊かだが、それならば、他の立候補者の中の一人である山口敏夫も小池と変わらぬ政治キャリアをもっていた。彼は労働大臣経験者なのだから。ところが、山口は泡沫候補としてメディアから完全に無視された。ほんらいならば、無党派で日本の主な政党と関係のない小池も泡沫候補の一人であったはずなのだが、メディア、とりわけTVは、小池を増田・鳥越と並びで扱った。誠に不自然であった。ここで推測できるのは、小池はマスメディアから特別に扱われる存在であり、マスメディアは小池を支持したこと。もちろんマスメディアの背後にはファシスト・アベがいる。

小池の政治信条は反共、日米同盟堅持(対米追従)、改憲、軍事大国化、原発推進(表向きは原発の段階的廃止)、新自由主義(構造改革)であり、ファシスト・アベと変わらない。彼女も日本会議に属していて、日本の極右と親密な関係を築いている。ところが、マスメディアの報道ではそれらのことがらは伏せられ、旧主派と戦う「改革」の旗手とされた。都知事選では自民党東京トップの古老政治家が小池によって血祭りに上げられ、政界引退に追い込まれた。

小池、前原の茶番と野党共闘潰し

小池は仮面の「政治家」であり、かつ相手によって姿を変えるカメレオン。ファシスト・アベが突然、解散に打って出るに当たって、小池による「希望の党」の立ち上げは想定外だっただろうか。マスメディアは想定外だと報道したが、筆者はそれを疑っている。小池の新党立ち上げ、前原の民進党解党宣言は権力側が周到に練り上げた、日本型人民戦線破壊工作だった、と考えている。権力側の魂胆は、共産党主導による野党共闘を阻むことだったと。

当時民進党代表だった前原は同党右派の頭目であり、小池と同じように反共、日米同盟堅持、改憲などを政治信条とする。小池と前原が合意して民進党を解体し、同党左派を排除したのは当然のことであった。前原には共産党と共闘する意志は微塵もない。前原には、希望と民進が合体し強力な野党をつくりあげ、それに共産党、自由党、社民党等の野党が候補者調整をして小選挙区でファシスト・アベ(=自民党・公明党)と戦うシナリオは最初から頭になかった。

彼が同党代表に選出されたときには、民進党解党までは考えていなかったはずだ。だが、ファシスト・アベが解散を宣言したとき、どこからか、民進解党→希望合流のオファーがあったはずだ、と筆者は推測する。前原は自身の本心を表に出す絶好の機会が訪れた、と確信したにちがいない。前原にとって、民進党左派追放は長年未解決の政治課題であり、その追放は、彼にとって政治生命を賭けるに等しいアジェンダだった。

しかし、同党左派の追放の後、前原を受け入れる場所の確保が必要だった。小池の新党立ち上げは、前原にとって渡りに船だった。同時に、このシナリオこそ、日本型人民戦線破壊の権力側の陰謀であり、前原、小池はそのコマにすぎなかったのだが。

小池百合子は野党共闘切り崩しの切り札

前出のとおり、「エセ改革者」小池の役割は「野党共闘」の切り崩しである。その構図は都知事選ですでに成功していた。先の都知事選、野党サイドでは、共産党主導で自民・公明の候補者の対抗馬をだれにするか調整が進められていた。結果、共産がおす宇都宮健児が立候補を取り止め、鳥越俊太郎への候補者一本化が実現した。増田(自公)-鳥越(野党共闘)の一騎打ちとなれば、鳥越が勝利する可能性もなくはなかった。しかし、この対立の構造を吹っ飛ばしたのが小池の立候補であり、メディアの大宣伝であった。結果として、小池が増田と鳥越を大差で破ってしまったことは記憶に新しい。

権力側は、都知事選の構造をそっくり総選挙(小選挙区・比例代表制)に応用し、野党共闘の票を分散化させることに成功した。ただし、小池は投票前、自らの「排除発言」によって有権者からの信頼を失い、都知事選で小池に投票した層(都知事選で投票できなくとも小池に同調した層)の票を自民党と立憲民主党に奪われ敗退した。

小池の敗北はファシスト・アベに有利な展開をもたらせた。今回の総選挙では、都知事選と異なり、希望の党が自民票を奪うことがなかったからである。希望の党の当選者は民進党から合流した候補者が大半を占めた。その結果、野党勢力は民進党の解体、共産党の後退、希望の党の後退と――野党勢力は分散化し、民進党左派によって急きょ結党された立憲民主党の躍進のみにとどまった。その結果として、ファシスト・アベが率いる自民党が解散前の勢力を維持したのだ。

覚えているだろうか、解散前、モリカケ問題でファシスト・アベの支持率は加速度的に落下し、アベ政権は追い詰められていた。ところが、解散を機とした小池と前原の猿芝居によって野党は混乱し、それに乗じてファシスト・アベは、解散前の勢力を維持してしまったのだ。

小池・前原の行動は日本政治史における最大の汚点の一つ

2017年総選挙を機に生じた政治の混乱は、日本政治史における汚点の一つであり、最大級のそれであった。なぜならば、日本型人民戦線の破壊工作があからさまに、白昼堂々、小池百合子と前原誠司という反共政治家によって敢行されたから。前原は党首の立場にありながら、党員の前で臆面もなく嘘をつき仲間を裏切った。小池は「排除」という言辞により左派弾圧をなそうとして失敗し、自ら墓穴を掘った。通常、裏舞台でなされる「裏切り」と「排除」という破廉恥工作が、公衆の面前、メディアの前でなされたことは、日本政治史上初めてのことかもしれない。前原と小池はそのような意味で、日本政治史における最大級の汚点である。

リベラルとは何か

民進党左派から急きょ分離して誕生した立憲民主党は、ファシスト・アベと対決する新たな政治勢力として期待されている。同党は、日本では「リベラル派」と呼ばれるが、この呼称はまったく見当違いの誤用である。リベラリズムは自由主義と訳される。新自由主義(ネオリベラリズム)といえば、経済活動において、諸々の規制を嫌う者をいい、市場原理主義と同義である。理論的指導者として、アメリカ、シカゴ学派の経済学者、ミルトン・フリードマンが代表的存在である。

20世紀末、アメリカの歴史学者、フランシス・フクヤマは、その著書、『歴史の終わり』において、ネオリベラリズムが世界を領導すると説いた。フクヤマはソ連崩壊・東欧の自由化を目の当たりにして、ネオリベラリズムの正当性を確信した。彼はコジェーブによって単純化されたヘーゲル主義を援用しつつ、人間の本質は他者に優越しようとする欲動だと主張し、経済、文化等の領域における自由な競争が世界に平和と繁栄をもたらすと説いた。永遠に平和と繁栄が続く世界――ネオリベラリズムに律せられた世界において、歴史が終わると。(もちろん、フクシマの予言は外れ、世界はそうはならなかったのだが。)

自由主義であるリベラリズムがなぜ、日本においては中道左派をさし示す用語となったのか――筆者の直観では、中道左派がマルクス主義・共産主義と対立する思想として理解されたからだと思う。共産主義は――マルクス主義哲学がそうであるか否かは別として、現実に国家として成立したソ連社会をみれば――全体主義そのものだった。個人崇拝(スターリン)、自由の抑圧、体制批判者は強制収容所送り…そのようなソ連型共産主義と一線を画し、個人の自由を尊ぶ社会民主主義思想を日本ではリベラリズムと呼んだ。

冷戦時代の日本では、アメリカを中心とした西側に属することを望んだ政治勢力を保守と呼び、ソ連東欧に属することを望んだ勢力を革新と呼んだ。そして、その中間的政治勢力――自由を第一義とし、ソ連型社共産主義を嫌いながら、その中で社会主義的政策の実現を望む勢力――がリベラル(派)となった。確かに、ソ連型共産主義の特徴である全体主義を否定することは、自由を尊重することと同義であり、それをリベラリズムと呼んだことは間違いとは言えない。

今回躍進した立憲民主党は、<保守―革新>の冷戦型対立とは位相を異にする。西欧の社会民主主義に近い。ファシスト・アベの国家主義、アメリカ追従主義と対立する自由の尊重は確かにリベラル的ではあるが、前出のとおり、本来のリベラルとは政治的立場を異にする。立憲民主党を「リベラル派」とよぶのはストライクゾーンから外れる。適切な呼称の定着を望みたい。

日本共産党への疑念

一時、日本型人民戦線を領導しかけた「日本共産党」も不思議な政党である。筆者は前原、小池、ファシスト・アベらとは異なる視点から、日本共産党に疑念を抱いている。その第一は、日本共産党は「プロレタリア独裁」を本当に放棄したのかどうか。第二は、党内民主主義が確保されているかどうか――である。前者については、近年の同党の綱領改定において、「社会主義をめざす権力」と書き換えられているようだが、きわめて曖昧な表現である。

後者についても不透明なままで、同党最高権力者及び幹部がどのような経緯・方法で選出されているかが明らかでない。同党の規定では、中央委員会総会にて委員長が選出されるらしいが、中央委員による選挙によるものなのか、それとも互選なのか、わからないまま。中央委員とは何者なのか、党官僚の別名か。日本共産党はまずもって、共産党の名称を外し、プロレタリア独裁を明確に否定することで市民権を得る。

草の根保守に対抗するには「風」頼みではだめ

日本型人民戦線が権力側の破壊工作により頓挫した経緯について、ここまで長々と書いてきたが、しかし、日本型人民戦線に内在した脆弱性もあり、それがミエミエの権力側の工作によってかんたんに崩壊した点も指摘しておかなければなるまい。

選挙後、TVでは選挙運動中の立候補者のさまざまな映像が流された。そこから推察される有権者と投票者の関係は、左派が考えるような敗因の位相ではない。与党の若いイケメン候補者をうっとりした表情で見上げる保守層のご婦人方。立候補者というよりもアイドルを見る目に近い。別な映像もある。TVニュース等でみかける大臣経験者の候補者と親しげに会話する中年男性有権者の嬉々とした表情。普段は偉そうな態度で海外の政治家と渉りあっている政治家が、自分に頭を下げ握手を求めてくる。〇〇大臣と自分の距離は限りなく近い。いや、選挙中では自分の方が「上」なのだ。頼まれたからには、こいつに投票してやってもいい。この感情は、普段「偉い政治家」に対するときに比例して高まる。

メディアに登場する回数の多い与党議員のほうが有利なのだ。選挙に強いといわれる政治家に共通するのは、ジバン、カンバンなんとやらだが、それらは組織、知名度、実績(大臣経験、メディア露出…)と換言できる。二世、三世は地元の名士の一族でもある。広大な屋敷を有し、普段見かけることはない。だがTVではよく見ることができる。なにやら偉そうだ。首相と同等だ、外国の政治家とも懇意だ・・・父親が引退したとき、(多くは)その息子が地盤を引き継ぐ。父親は息子をよろしくとお願いする。有権者の選択肢にその親、息子が属する政党の政策の良し悪しはない。自民党総裁にして総理大臣がモリカケ問題で疑惑をもたれ、かつそれに対する適切な説明を怠っても、憲法違反の安保法制を強行採決しても、有権者に影響を及ぼさない。地域社会の閉ざされた関係(=親密度)が投票行動を決定する。それが日本の選挙なのだ。

立憲民主党が期待されている理由は、いまのところ、地域社会に根を持たず、浮遊する都市民衆がSNS等を通じて、同党の立ち位置に共鳴したからだろう。だがこの現象は、筆者の直観では、一過性にとどまる。同党が自民党(=「草の根保守」)と対抗するには、バーチャルではない、リアルな生活基盤において、地道に支持者をつかむ組織づくりに励む以外にない。