2024年4月26日金曜日

『増補 ハーバマス コミュニケーション的行為』

中岡成文〔著〕 ●ちくま学芸文庫 ●1300円+税 


 ユルゲン・ハーバーマス(1929~2014)に係る秀逸なる入門書であり解説書である。本書を足掛かりとして、ハーバーマスの原書(日本語訳)に向かうべきであろう。 
 日本における「1968年革命」当時、フランクフルト第二世代の学者のなかではマルクーゼが圧倒的に支持され、偶像化されていた記憶がある一方、同世代のハーバーマスに関心を払う者は筆者を含め、周りには見当たらなかった。ハーバーマスもマルクーゼと同様、当時の(西)ドイツの学生運動に支持を表明した学者の一人だったのだが。 
 そんなハーバーマスが脚光を浴びるようになったのは、彼の社会国家(本書著者・中岡成文の訳。一般には「福祉国家」という訳で流通している)という概念が見直されたときからだった。その背景には、1990年代半ば、日本社会が長期停滞傾向に突入することが明白に意識され始めたとき、日本の戦後社会における社会・経済を1940年代に完成した総力戦体制からの連続性としてとらえ、その全面的見直しの――すなわち日本社会を構造改革する必要があるという――機運が浮上したことだった。なおそれはそれとして、ハーバマスの思想の核心をなすのは、「福祉国家」に関するものではない。そのことを本書は明らかにしてくれる。

  

「意識哲学」から「間主観性」へ 

 

 解説書に解説文を付すのはいかがなものかと思われるが、本書に従い、その核心となる部分を抜き書きしておこう。

 ハーバーマスの思想は、ハイデガーの『存在と時間』の影響からはじまる。それはデカルトから始まった「意識哲学」を「間主観性」の方向に克服する先験的試みをハイデガーに認めたからである。〔以下、本書43P~の記述〕 

 ハーバーマスがしばしば使う「意識哲学」とは、ヨーロッパの近代哲学の主流である、意識や自我を中心とする哲学のことだ。前出のデカルトは「精神」が人間の本質であると考えた。精神は思考するものであり、自分以外のすべてをカッコに入れることができる。身体や他の精神との関係はさしあたって問題にならない。カントにおいても、「自我」は世界の中に存在するのではなく、世界を超越し、自分の側から世界を「構成」するという面をもつ(超越論的自我)。「意識哲学」とは、このように、世界や他者から孤立した主観を起点とする思想である。 

 ハーバーマスはそれに対して、「間主観性」という二十世紀になってから誕生した哲学の新しい流れに注目する。それは、フッサールの現象学の創始を嚆矢とする。フッサールは、わたしたちが「生活世界」において他の人々との交流の中で生きていること、この他者との関係性がまっさきにあるのであって、わたしたちの認識はこの関係性のなかではじめて生まれ、分節化されることを指摘した。これが「間主観性」の思想である。しかし、フッサールには、超越論的主観による世界構成という発想がまだ残っていた。ハイデガーは『存在と時間』で、わたしたちは「世界内存在」であり、つねにあれこれのものに「関心」を持ちながら生きているのだと明らかにしたが、これには「間主観性」の思想を押し進める意味があった。 

 

ハイデガーを超える  

 

 ところが、ハイデガーの『存在と時間」は、他方では、むしろ人間の単独性を強調するアピールをも含んでいた。それによると、わたしたちは日常的には世界や他人の中に埋もれて「非本来的」な生き方をしているが、自分が「死への存在」であることを知り、それをばねに、他人となれあうことのない「本来性」にめざめなければならないという。第一次世界大戦の衝撃から、近代的理性の限界を思い知らされたヨーロッパの人々に、このハイデガーの実存論の哲学は、力強くアピールした。しかし、ハーバーマスは、『存在と時間』のこの部分については、後期のハイデガーの思想に対すると同じく、否定的だ。というのは、近代の疎外ないし物象化は、ハイデガーのような「本来性」へ向けての英雄的脱自の呼びかけによっては解決できないからだ。『存在と時間』は結局のところ、近代の主観主義を克服していないどころか、それが保っていた個人の「責任」の自覚を捨て去ってしまう点で、いっそう危険でさえある。 

 

コミュニケーション論の3つの主題 

 

 「間主観性」から出発し、ハイデガーを乗り越えようとしたハーバーマスは、自身の思想の集大成として、コミュニケーション論を完成させる。それは以下の3つの主題で構成されている。 


  1. 近代(モデルネ)の社会に、貨幣と権力のシステム以外のものが存在することを示すこと。 
  2. 社会を生活世界とシステムという二つの部分からなる全体として捉える、複眼的な社会理論を提示すること。 
  3. 近代につきまとう逆説(パラドックス)についての理論モデルを構築して、近代の資本主義や合理主義が生み出した陰の側面を説明すること。 

 

 そして『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』におけるウェーバーの分析に学びつつ、西欧文明の将来に関するかれの悲観的見通しを乗り越えること、またマルクスとマルクス主義の系譜の中で鍛えられた疎外論ないし物象化論に、コミュニケーション論的な修正主義を加えることを含意している。この近代把握から、ハーバーマスの同時代診断と政治的実践が出発する。 

 

討議と討議倫理学原則 


 ハーバーマスはコミュニケーション的合理性を実践する場として、討議を提案する。たとえば社会規範の正当性が疑問視されたとき、討議が開催される。討議においては、当事者すべて参加し、それまで経験的に妥当してきたものの効力を停止し、各人が妥当要求を掲げて自己主張し、より良き論拠だけを権威として認める。討議には、理論的討議、実践的討議、治療的討議の三種がある。そして、ポスト慣習的で多文化社会において、普遍性をめざす道徳は、行為規範の内容を直接的に規定することはできず、普遍の規範を決定するための手続きなど、間接的な側面についてだけかかわる。規範を決定するのは、すべての当事者が対等な立場で参加する、実践的討議においてである。最後にすべての参加者が同意しうる規範だけが、妥当なものとして認められる。 


おわりに

 

 本書には、フランクフルト学派第一世代を代表する、そして、『啓蒙の弁証法』の名著で知られるアドルノ、ホルツハイマー両人とハーバーマスとの確執や、彼の論考に対する批判、彼からの反批判、多くの思想家・学者との様々な論争の詳細の数々が紹介されていて、ドイツにおける硬質かつ重厚な哲学・社会学界の雰囲気を垣間見ることができる。 

 また、巻末の「略年譜」「主要著作ダイジェスト」「キーワード解説」「読書案内」「索引」と、筆者のような浅学の者には親切このうえない編集がなされていて、ありがたい限りである。〔完〕

2024年4月12日金曜日

「大谷翔平専属通訳違法賭場事件」の異常性


野球界の超人気者大谷翔平(MLBドジャース)の元専属通訳Mが連邦地検から追訴された。その担当者によるMに対する追訴内容の説明から、大谷が通訳の違法賭場に関与していなかったことが判明した。

そのことにより、大谷翔平を神のように崇めている〝大谷ファン”、大谷報道で視聴率を上げてきたTV、彼をCMに起用している大企業、そしてなによりも、大谷で人気回復を狙った米国MLB関係者は胸をなでおろしているに違いない。米国内では野球人気は下降線をたどっているというからだ。

この件に関する筆者の感想は次のとおり、「大谷翔平は社会人として失格だ」と。

さて筆者の周りには、イギリス、イタリア、中国(新疆、宜春、天津)、インド、韓国、ネパールからやってきて日本で生活している外国人の知り合いが十数人いる。反対に、外国で生活している日本人の知り合いがイギリス、ハワイにいる(海外旅行の際のガイド等は除く)。

彼らはもちろん、通訳なんかつけていない。前者は日本語を、後者は外国語を覚え、自力で銀行口座を開設し自分で管理している。最初は先輩達からアドバイスを受けてのことだったのかもしれないが、みなすべからく独力・自力で生活を送っている。

大谷翔平が、通訳が無断で自分の私的口座から総額数十億という巨額な金銭を違法賭場の胴元に送金していたことに気付かなかったというのは異常であり、常識では考えられない。しかもその期間は数年に及ぶというのだ。

Mのおかげで大谷は野球に専念できた、だから、あれだけの成績を上げられたのだ、という説明を筆者は肯定しない。大谷は「精神なき専門人」であり、この期に及んでまで彼を崇拝する人々は「感性なき享楽人」である(マックス・ウェーバー)。そして、筆者は大谷翔平にはこう言いたい、”野球バカから脱して、自立せよ!”と。

2024年4月9日火曜日

五島列島 巡礼の旅

 4月3~6日まで、五島列島を観光してきました。

潜伏キリシタンの里の小ぶりだけれど美しい教会群、そして海、美味しいごはんに芋焼酎と、小生の「好物」が満載でした。







2024年4月2日火曜日

文化多様性(西日暮里)

 西日暮里における文化多様性


インド料理「ダージリン」

同上

中東料理「ざくろ」

同上

美術商「あやかし堂」

西日暮里

 経王寺




本行寺


築地塀。前が駐車スペースなので普段は見えにくい