2005年1月5日水曜日

『物語 イタリアの歴史Ⅱ』

●藤沢道郎[著] ●中央公論新社 ●740円+税

本書は前書『イタリアの歴史』の続編のようなタイトルで、記述の方法も同じである。各時代の歴史のキーパーソンについて語りつつ、「イタリア」の歴史を辿る。もちろん、物語といってもフィクションではない。一見すると、直前に紹介した前著の続編のようだが、以下の点で趣を異にする。

前書は「イタリア」各地を舞台にしていたのだが、本書はローマにあるカステル・サンタンジェロ(聖天使城)を舞台とし、そこで暗躍した人物を物語る設定になっている。

トップに登場するのは、聖天使城を建造したローマ皇帝ハドリアヌス。ハドリアヌスは政治家であることはもちろんだが、建築家でもあり、ありとあらゆる芸術に通じた賢帝だったという。彼の時代、ローマは最も安定していたとも言われている一方、同性愛者として知られ、その生涯は謎に満ちている。

彼が築いたこの城がどういう目的で築かれたのか私はよく知らない。が、後世、陰謀渦まく、歴史の裏舞台となったことを知る。

さて、本書から「イタリア」通史を理解することはできない。その理由は、舞台を聖天使城に限ったため。登場する場所が限定されたため、登場人物が時間的に間が空きすぎる。同城を舞台に活躍した人物が「イタリア」の歴史に決定的な役割を果たしたとも言い難い。

加えて、出版・編集上の問題もある。登場する人物のたとえば、メディチ家については、前書と重複する記述もある。本書を読めば、「イタリア」の歴史が一部・二部で完結するという期待を抱いた読者を裏切った面も否定できない。私見では、その責任は著者にではなく、本題を『イタリアの歴史Ⅱ』と題して販売した、出版・編集サイドに帰すると思う。

出版・編集サイドが、「イタリア」の歴史の続編が読みたいという前書の読者からの希望を真摯に受け止めたのならば、こういう形の出版になるはずがない。前書が優れていただけに、本書を受け持った出版・編集サイドの歴史に対する姿勢が残念でならない。本書はあくまでも、聖天使城をめぐる歴史のサイドストーリーなのであって前書を補完・補遺するものではない。

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2005年1月1日土曜日

『物語 イタリアの歴史』

●藤沢道郎[著] ●中央公論新社 ●860円+税

強大だったさしものローマ帝国が東西に分裂。西ローマ帝国の成立をみるが、その前後、北方から、いわゆる蛮族の侵入が始まった。この混乱の時代から「イタリア」に統一勢力は存在しなくなり、分裂状態が続くことになる。

西ローマ帝国滅亡以降の「イタリア」の歴史というのは、きわめて複雑だ。本書を一読しただけでは、なにがどうなったのか、体系的に理解することが難しい。そもそも、「イタリア」という統一的な地域(国家)概念が形成されたのが、つい最近のことなのだから。

本書は、分裂した「イタリア」が国民国家として統一を迎えるまでのおよそ1500年の歴史を、各時代のキーパーソンの活動を踏まえて辿った歴史物語である。もちろん物語といっても、フィクションではない。

かの地が複雑な歴史をたどった第一の理由は、ローマ教会総本山の存在だろう。そのローマ教皇ですら、ローマに留まり続けたわけではない。一時期、南フランスのアビニヨンに移動したくらいだ。このことは、欧州列強がローマ教会に影響力発揮した結果だが、その逆も多い。

さて、蛮族の侵入後、かの地の支配者となったのはゲルマン系の東ゴート族だった。その東ゴートが東ローマ帝国に滅ぼされ、同系のランゴバルト族が支配権を確立。ところが、ランゴバルト族の支配もつかの間、フランク族のカール一世がこの地を統一する。カール一世の背後には、それを望むローマ教皇がいた。

その後、ノルマン族、イスラム勢力、マジャール族等が「イタリア」侵入を果たすが、10世紀、この地に侵入したオットー一世が神聖ローマ帝国皇帝となり、支配者となる・・・と書き続けていたのだは、書評にならない。

中世以降はフィレンツェに代表される都市が群雄割拠し、ルネサンスを迎えたことはよく知られている。その都市国家も衰亡、オスマントルコ、フランス、スペイン、ハブスブルク(墺)といった欧州各国が「イタリア」を、全域的に、そして、部分的に、かつ、直接的に、間接的に、支配することになる。

「イタリア」の歴史は、欧州諸勢力に蹂躙され続けた歴史と言える。本書を手がかりに欧州の戦争の歴史から何を学ぶべきなのか。ローマ教会とは何であったのか。

たとえば、われわれはいまの日本を独立した民主国家だと考えている。が、よく見れば、米国の軍隊が駐留し、日本は米国の圧倒的な軍事的支配下にある。この状態は「イタリア」の都市が、当時強大な軍事力を誇ったフランスの支配下にあった状況と似ている。安全保障上の対等性とは、日米双方の軍隊が双方の国家に駐留することだ考えられるが、日本の軍隊(自衛隊)が米国本土に駐留することになったならば、米国民はどのような反応を示すだろうか。

米国に「NOと言える日本」になるためには、日本のオールドライトが考える以上のリスクと、米国の抵抗を覚悟しなければいけない。彼等の勇ましい発言ほど、簡単なことではない。安全保障の名を借りた米国の支配を日本人はどう、考えるべきなのか。

国益とか国際関係の認識というのは観念的なものではなく、人々の経験から導き出されるものなのだろう。日本は国際関係において、欧州ほど経験を積んでいない。両者には、プロとアマほどの格差がある。戦後(敗戦)の総括にもそのことが現れている。だからといって、戦争の経験を積むことはできない。

歴史を学ぶことの重要性の1つとして、戦争を擬似体験することが挙げられる。たとえば、「イタリア」のシチリアはマフィア発祥の島として名高いが、この島の支配者がどれだけ交代したかを知ることは無駄ではない。ざっと数えるならば、ギリシア・ローマ・ゲルマン・ビザンチン・イスラム・ノルマン・ナポリ・フランス・スペイン・・・この島には幾重もの異なる文化の痕跡が残されているという。行って見る価値はありそうだ。