2006年5月29日月曜日

『村上春樹論「海辺のカフカ」を精読する』

●小森陽一〔著〕 ●平凡社新書 ●780円+税

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村上春樹に対する痛烈な批判の書である。その核心部分を引用しておこう。
「従軍慰安婦問題」はどこから考えても、かつての日本の侵略戦争を正当化できない、決定的な証拠でした。この問題は、「戦争」という国家が遂行する暴力の中に組み込まれた、非人間性の本質をくっきりと暴露するものでした。国家のための人殺しを正当化する考えを教育された男性たちは、そこに内在する「恐怖」の裏返しとして、女性に対する「レイプ」を欲望する心理構造をもつことが様々な角度から明らかにされ、同時代的に発生したコソボ紛争における、「民族浄化」の名による集団的な「レイプ」と同じ問題として、国連の人権委員会でも議論され、勧告が出されもしたのです。そうした一連の問題を、〈いたしかたのなかったこと〉として不問に付す枠組が、『海辺のカフカ』の中に組み込まれているのです。ここに2002年に日本で発表され、国民的な〈癒し〉を与えた小説として、ベストセラーとなった『海辺のカフカ』という犯罪的ともいえる社会的役割があることを、私は文学という言語実践にかかわる者の責任として強調しておきたいと思います(256頁)
村上春樹論には難解なものが多いが、本書もその1つ。批評者の牽強付会、我田引水の臭いがしなくもないけれど、著者の精読の成果を批判する能力が筆者にはないので、本書の感想を書くしかない。日本文学は難しい。

さて、筆者(小森陽一)が指摘する『海辺のカフカ』(以下「同書」という。)の犯罪性(=問題点)は、概ね以下の事項に整理できる。

『海辺のカフカ』は――

(1)「9.11」以降の「戦争の時代」に生きる人々の心に「癒し」をもたらしたのだが、この「癒し」は、人々が本来直視すべき時代の本質を見失なわせてしまっている。

(2)日本が起こしたアジア太平洋戦争における戦争責任を曖昧にしてしまっている。

(3)女性嫌悪(ミソジニー)で一貫している。

(4)国民国家(国民皆兵制度)における戦争とレイプの問題を不問に付してしまっている。

それぞれの事項は関連がある。特に(1)(2)(4)は同義反復かもしれない。それはそれとして、これらに関する著者(小森陽一)と村上春樹の時代認識とは、どこかどう違うのか。本書を読んで、両者の立場を突き合わせてみて、批評者(小森陽一)をとるか、作家(村上春樹)をとるかについての判断は読者次第。

対立軸を簡単に紹介しておこう。

『海辺のカフカ』は、2001年に起きた「9.11事件」後の世界に係る村上春樹のメッセージだと著者(小森陽一)は規定する。「9.11」がなければ、同書は書かれなかったはずだと。

「9.11」とは(米国の発表によると)、「イスラム過激派テロリスト」が米国の民間航空機を乗っ取り、ニューヨークのWTCビルに突っ込んだその結果、ニューヨーク市民6,000人あまりが犠牲になった事件をいう。

この事件を境にして、米国はアフガニスタン、そして、イラクに侵攻し両国を武装制圧し今日に至っている。冷戦終結後の世界は、この事件を契機として、米国(西欧圏)とイスラム圏の対立という構造に定式化された。

「9.11」には多くの疑問が投げかけられている。米国による自作自演説(陰謀説)も消えない。その根拠として、米国は20世紀初頭にファシズムの脅威を挙げ、冷戦時代に共産主義の脅威を説き、冷戦終結後は、新たにイスラム過激派のテロリズムの脅威を挙げて世界戦略を進めている。米国の世界戦略とは世界を軍事的に支配することではないのか。イラクに大量破壊兵器があるといいながら、それは嘘だったし、テロリスト集団といわれるアルカイダも、その首謀者ビンラビンも捕まらない。米国が進めた「反テロリズム」の戦争が正しい選択なのか。

著者(小森陽一)は、日本及び西欧先進国の大衆の気分は、「9.11」以降の米国の軍事行動を「いたしかたない」として消極的に肯定していることで一致していると、また、同様に、村上春樹の志向性及び同書の構成・表現は、現状を「いたしかたない」とする大衆全般の気分を代表するものであり、米軍に象徴される戦争(暴力)の本質を追求する思考回路を閉ざしてしまっている、という。

確かに1970年代前後には、ベトナム戦争反対の声が世界的に高まったのだが、いま現在は、とりわけ日本においては、米国が仕掛ける戦争に対する問題意識は失われている。

村上春樹の小説が時代の気分に迎合していることは、同書にとどまらず、村上の小説の特徴の1つである。とりわけ退潮的気分を肯定する。時代と真正面から対峙しないし、批判もしない。村上春樹は、時代状況に対して原理的に対立する姿勢をとらない。だから、小説の登場人物も時代の気分に対峙するというよりも韜晦的であり、気分(快・不快)を重視し、気分という曖昧さの中で行動する。気分のなかで、本質は常に溶解される。繰り返せば、時代の問題と原理的に対峙することなど不可能ではないのか――というのが村上春樹の小説のあり方であり特徴だと言っていい。

一方、著者(小森陽一)は、米国が今日進めている反イスラム、反テロリズムの軍事行動に批判的であり、その立場は反米、反軍、平和主義で一貫している。だから、大雑把にいって、村上の小説が反戦反米の立場をとらないことがけしからんという批評につながることになる。

村上春樹の小説を「犯罪的」だと断定することもできないと思う。今日、まともな反戦、反軍の戦略を構築できなければ、小説を書いてはいけない、という著者(小森陽一)の断定には無理がある。

退潮的気分で「9.11」を眺め、米国の戦争に反対もせず、政治には無関心で曖昧で韜晦的なのがいまの日本人および先進国の人々なのならば、そのような態度と気分の是非を決定するのは著者(小森陽一)ではない。著者(小森陽一)の政治的メッセージを信用できると確信できない人も多い。反戦、反軍、平和主義を先験的に肯定するのは、小森陽一のイデオロギーにすぎないのではないか。反戦、反軍の主張は言葉の操作ではなく、政治運動、大衆運動が担う役割であって、小説(家)にそれを求めるのはいかがなものか。著者(小森陽一)の村上批判は、文学と政治という設定に逆戻りすることのように思える。

2006年5月20日土曜日

『英霊の聲』

●三島由紀夫〔著〕 ●河出文庫 ●683円+税

FI2566211_0E.jpg 『英霊の聲』『憂国』の短編小説と戯曲『十日の菊』、そして『2.26事件と私』というエッセイが収められている。エッセイを除いた三部作が、三島の「2.26事件三部作」だ。三部作のモチーフは後年、三島の遺作『奔馬 豊饒の海(三)』に結実する。

『英霊の聲』は極めて観念的な小説だ。三島由紀夫の天皇観が直接的に披瀝されている。粗筋は、ある神帰(かんがかり)の会に参加した人物(多分、三島由紀夫だろう)が、そこで、若い盲目の神主に英霊が依り憑き、英霊が無念の心情を吐露する様子を目撃する。英霊の聲を借りて、著者(三島由紀夫)が自らの天皇論を展開したと思えばいい。

神帰った英霊は「2.26事件」で天皇に反乱軍とされ極刑に処された青年将校と、大戦末期、自爆で命を落とした若き神風特攻隊員のものだ。英霊は繰り返し、「などて天皇はひととなりたまいし」と問い続ける。

この呪詛は戦前~戦後を通じた天皇批判だ。英霊は、天皇が神でなければならないときに、人になってしまった(裏切り)ために、魂がやすらぐことがないという。自分達は天皇に裏切られたがゆえに、その霊がはるかな海上の彷徨っているという。英霊は国体が滅びることになる前、二度、天皇は神であってほしかったという。一度目は「2.26、青年将校等が決起した」ときであり、二度目は、特攻隊員が敵空母に向かって自爆した直後にやってきた占領下だ。

「事件」が起きた1936年(昭和11年)当時、不況、飢饉等で日本の都市部、農村部は共に疲弊していた。特に農村部では不作による家計の悪化から、娘を身売りする家庭も多かった。一方、財閥、官僚、華族、政治家、軍閥といった支配層は、汚職、利権等の不正を働いて私腹を肥やしていた。こうした不正を糾すため、青年将校は軍を挙げ、ときの立憲主義者政治家、財閥を殺害した。軍を挙げれば天皇がその義を認め、世の中は変わると信じた。しかし、事件直後、天皇は決起した青年将校等を逆賊と規定し、正規軍に鎮圧を命じ、彼らの処置を軍上層部に任せた。軍部官僚は「反乱軍」の首謀者を極刑、流刑等の重罪に処し、下級兵士は前線に送られた。

以降、軍部官僚は独走し、日本を無謀なアジア太平洋戦争に突入させた。もし天皇が「2.26事件」を起こした青年将校を看做さず、彼らの信ずる「至純なる天皇制国家」の誕生に向かって国家の方向を転換していれば、日本が大戦争を起こすこともなく、国体は維持されたのだと。さらに、全土が焦土と化して迎えた敗戦時、占領軍及び敗戦処理内閣の長老に促され、天皇は「人間宣言」を発したが、宣言は国際社会に配慮し、日本国民の安全を確保するためだったと言われているものの、そのときこそ、天皇は神でいてほしかったという。天皇がそのとき神であれば、敗戦後の日本がこれほどまでに混乱し無秩序で頽落した国になることはなかったと。
英霊の聲を借りた三島の「天皇制」は極めて反語的だ。現実には、どちらもあり得ない選択だったろう。
「2.26事件」を指導した青年将校は真に国を憂いていた者であり、また、呼びかけにこたえた兵士たちは、貧農出身の素朴な兵士たちで、彼らは故郷の農村の疲弊を救うことを求めていた。彼らは共に腐敗した財閥、政治家、軍部、官僚等を暴力的に一掃し、原始天皇制共産主義国家の建設を夢想した。彼らは「近代的革命=権力の交代」など構想だにしなかった。彼らは、天皇(神)が自分達の行動に触発されて、疲弊した人民(臣民)を救済してくれることを祈り信じた。彼らの決起により、天皇が神として聖断をくだすことが確認できれば、彼らは自ら命を絶つつもりだった。彼らの行動原理は、天皇への一方的な思い(恋蹶)で一貫していた――というのが三島由紀夫の歴史観だ。

二作目の『憂国』は、天皇へ恋蹶が死とエロスに近接した心情であることを伝えている。この短編は、決起するつもりだった青年将校が図らずも決起軍に参加できなくなり、彼らを討伐する側に立つこと適わず、切腹を選ぶ。

死を前にした夫婦の交情と、青年将校の切腹の場面、そして、妻の後追いの描写は迫力がある。ここに描かれた決起した青年将校の国を憂う至純な心とそれに従う妻の、これまた私心のない清純さは、自死によって保証されるというわけだ。

三作目の『十日の菊』は民衆のナショナリズムがテーマとなっている。「2.26事件」で暗殺されそうになった大蔵大臣が、女中頭の機転で決起軍から逃れ命を救われる。そのとき大蔵大臣の屋敷を襲った決起軍の中に女中頭の息子がいたのだが、女中頭は大蔵大臣と同衾中だった。息子は母親の裸を見てその裸に唾を吐きかけ去っていったものの、母親の裏切りを苦に自殺する。大蔵大臣は女中頭を故郷に帰し一生を保障したのだが、戦争が終わって、女中頭は隠居した大蔵大臣の屋敷を訪れて、過去を清算しようと試みる・・・という粗筋だ。この戯曲の登場人物は複雑な関係にあるので、詳細については省略する。

三島由紀夫の小説では、〈支配する側〉と〈される側〉が截然と分かれているものが多い。前者は華族(財閥、官僚を含む)であり、後者はその使用人、青年将校、兵士などの下層の者だ。三島由紀夫が、そういう世界で実際に暮らしていたのかどうか知らないが、身分制社会――いまの言葉で言えば格差社会――を前提にしたものが散見される。日本は、戦前までは完全な身分制社会であったことは事実らしいし、いまでもそうなのかもしれない。

底辺の生活者が支配者につくす(仕える)様相がしばしば小説の重要な要素になっている。華族の生活を知らない筆者には、三島由紀夫が描く世界になじまない。虚構であるとしても、感覚的に受けつけない。

『十月の菊』はその観念性が顕著で緊張感に乏しく、前二作に比べれば「遊び」の要素が強い。戯曲という形式だからかもしれない。いずれにしても、三島の虚構の世界では、被支配者(生活者)が支配者を理不尽なくらい助ける。本書もその不条理によって構想されている。それを負のナショナリズムというのかもしれない。

本書は、三島が「2.26事件」について、その主役たちの思想(国家観)、人格と心情、そして、民衆ナショナリズム――という3方向からアプローチしたものだ。 -->

2006年5月18日木曜日

『団塊の世代とは何だったのか』

●由紀草一〔著〕 ●洋泉社 ●740円+税

FI2559696_0E.jpg本書は、「団塊」と冠をした戦後論なのだが、著者(由紀草一氏)は団塊に対して、悪意を抱いているようだ。その理由については、本書からはうかがえない。詳細は後述するが、全共闘運動の先駆性、創造性といった肯定的評価は団塊以前に帰し、そのいい加減さなどの否定的評価については団塊世代に帰している。戦後の諸矛盾は団塊世代に責任のすべてがあるわけではない。団塊以前⇒団塊⇒団塊以降が無意識に戦後精神を継承した結果だと思える。

本書の戦後論に新鮮な切り口はない。いままで語られてきた常識的見方だ。だから、「団塊」という冠がつかなければ、出版されることはなかったかもしれない。

もちろん、団塊の世代には特徴がある。そして、もちろん、すべての世代がそれぞれ特徴をもっている。また、「団塊」の特徴といわれているものの実態は、「団塊」を含めた戦後世代に共通する場合が多い。だから、本題の<団塊の世代とは何だったのか>という問いには、ただ一言、“この世代は人口が多い”と、また、消費社会に初めて登場した世代だった、と回答できる。

人口が多く、しかも、消費社会の発展とともに日本の企業にマーケティング戦略が定着するに従い、団塊世代はマーケティング上のターゲットに設定され続けている。団塊世代を刺激しておけば、メーカー、サービス業、出版産業等の売上が上がる。メディアは団塊特集を組み、特集された団塊世代がそれを読み、新たな消費行動に至る。「団塊」が動けば、モノが売れる。いまは団塊の世代の退職金が金融業の標的になっている。旅行業者は、暇になった「団塊」の旅行需要に期待している。言うまでもなく、退職金を給付されるのは「団塊」だけではないし、リタイアの後、旅行するのも「団塊」に限ったことではないのだがしかし、メディアの反応は、“団塊は・・・”なのだ。

マーケティングが団塊の世代を照準に消費刺激策を講じ、マスメディアが騒ぎ立ててきた結果、団塊世代が自分達を特殊な世代だと思い始めてしまった。自分達は他の世代に比べて、特異な世代だと考えてしまった。そればかりではない。「団塊」が自分達を特別だと考えるにとどまらず、その前後の世代までが「団塊」を特別視してしまった。本書は管見の限りだが、その代表格だと思われる。著者(由紀草一氏)が、団塊の世代を20世紀後半、人類史上突発的に出現した新種であるかのように特別視していることに驚く。

(1)政治体験

具体的に言おう。全共闘運動は団塊世代の際立った特殊性だと言われている。ところが、その萌芽は、ほぼ10歳上の「60年安保」の世代によって担われていた。だから、安保世代の体験の方が劇的だった。反代々木(反スターリニズム)の「発見」は、全共闘のものではなく、「60年安保」のものだし、学園封鎖(バリケード)も全共闘以前の政治戦術だった。火炎瓶闘争、非合法闘争は1950年代の日本共産党が最初に行った。

著者(由紀草一氏)は、団塊の世代の学生運動(67年の第一次羽田闘争~73年の連合赤軍事件)を特別視しているけれど、その前の(「60年安保」)世代の延長上にある。言うまでもなく、「60年安保闘争」があって「全共闘運動」が起きた。

著者(由紀草一氏)が一生懸命調べた、全共闘運動(家)もしくは新左翼運動(家)の特徴については、団塊の世代に限った特徴もあるし、前衛党(政治結社)一般に見られる特徴もある。全共闘運動の特徴の1つだと言われる「暴力性」に関しては、アジア太平洋戦争直後、日本共産党が起こした「血のメーデー事件」等の前例がある。リンチ事件も戦時中、日本共産党が起こしている。

そればかりではない。過激な政治集団の叛乱を近代以降に尋ねれば、三島由紀夫が『奔馬』で取り上げた、維新直後の「神風連」の叛乱などがあり、その数を数えればきりがない。20世紀に入っては「5.15事件」「2.26事件」もそうした脈略にあるし、戦前は過激な民族派政治結社がいくつかの事件を起こしている。もちろん、イデオロギーはその時代(世代)、その時代(世代)ごとに異なっているが。

グローバルにみれば、今年(2006年)になって、フランスの若者が雇用法を巡って直接行動を起こしているし、米国でもほぼ同時期に移民問題で大規模な街頭闘争が繰り広げられた。このように、全共闘運動は、近代・現代における大衆の「異議申し立て」という視点からすれば、恒常的社会現象であって、類似の運動はいくらでも挙げられる。

ベトナム戦争に対する反戦運動のあり方については、日本と欧米の反応は似ていた。その理由は東西冷戦だけで済ますことができないだろう。しかも、終息の仕方までが似ていたことについては、「団塊」というキーワードだけで説明しきれる問題でない。

政治(革命)運動の不完全性、いい加減さ、その不幸な結末については、これも「団塊」というキーワードでは説明できない。人類史上初のプロレタリア革命といわれる「ロシア革命」は不完全極まりないし、革命後のスターリン主義の粛清で殺されたロシア人の数は、連合赤軍の犠牲者の比ではない。ワイマール共和国のもと、「ドイツ革命」の失敗がナチズムの台頭を招いた。全共闘、新左翼運動の限界性については、著者(由紀草一氏)のご指摘のとおりだが、それを団塊の特徴に還元することは不可能だ。

日本の革命運動の顛末を言えば、「血のメーデー事件」「60年安保」といった闘争後の日本共産党員や結党間近で敗北した新左翼活動家の多くが「挫折」を経験した。彼らは団塊前の世代だが、「団塊」とほぼ同じ体験を共有している。両者とも、路線上の対立から死者(自殺者・他殺者)を出している。80年代、政治結社を舞台とした内ゲバ・リンチ事件は終息したが、90年代に入ってオウム真理教がより過激なテロ事件を起こし、教団内部でリンチ殺人事件を起こしている。

革命運動と呼ばないが、特異な政治体験の極限が戦争体験ではないか。「団塊」より前の世代の戦争(戦時)体験と言えば、青春時代に従軍し、アジア・太平洋の各地に赴任し、挙句、同世代の大量の死を目撃した「昭和ヒトケタ」と呼ばれる世代、あるいはその上の世代には、ファシズム、思想弾圧、従軍、焦土、占領、飢えといった、極めて重い体験をしている。その重さは全共闘運動体験の比ではない。

団塊以降の世代には政治体験がないが、ないほうがむしろ異常なのだ。反語的に言えば、団塊以降の世代には政治運動をしていないという特徴をもっている。その一方で、政治体験に代わって「バブル経済体験」「平成不況」「就職難」「フリーター」「いじめ」「ひきこもり」などの困難な「世代体験」をもっている。

(2)歌ったのは「団塊」だけではない

著者(由紀草一氏)は、団塊の世代の文化的特徴として、フォークソング(プロテストソング)を挙げているが、これも特別な現象ではない。60年安保の時代には「歌声喫茶」が流行り、そこで労働歌、ロシア民謡が歌われた。1950年代~60年代初頭には、日本ではシンガーソングライターが存在しなかったので、民謡等の愛唱歌がその代役を果たした。その前は軍歌、寮歌等が青春の歌だった。旧制高校生はヒッピーではないけれど、破帽・高下駄等で自分達の存在を誇示した。著者は触れていないけれど、青春の歌として忘れてならないのは「艶歌」「猥歌」だ。

形式論で言えば、フォークソング誕生前に青春の抒情を代表するのは短歌だった。60年安保を代表する歌人が岸上大作だし、それ以降が福島泰樹。団塊は道浦母都子だ。

団塊以前の「青春の歌」が団塊世代と様相を異にするのは、▽ボリューム(人口=消費者数)の違い、▽マスメディアの発達度合の違い、▽マーケティングの発展具合の違い――からだ。前述したように、団塊の世代はマーケットとして有望だから、彼らの「青春」が企業により商品化され、現にそれが売れた。企業(音楽産業)が「団塊」を意識して商品化した楽曲としては、『翼を下さい』『学生街の喫茶店』『バラが咲いた』『白いブランコ』などがあり、これらは「団塊」より年上のプロの作詞家・作曲家(すぎやま・こういち、浜口庫之助、山上路夫・・・)らの手になった。これらフォークソング(ニューミュージック)もその時代を代表したものであり、かつ、いまなお歌い継がれている。音楽産業が当時の若者の抒情性に依拠してマーチャンダイジングしたものなのだが、今日まで、世代を超えて歌い継がれているのはなぜか。

(3)世代批判の不毛性

繰り返すが、それぞれの世代に特異な「世代体験」があり、「団塊」の体験をことさら問題にしても不毛だ。「団塊」が他の世代と唯一異なる点は、人口が多いということだけだ。人口が多いことが特異な体験を生むこともある。

たとえば、団塊の世代の小学生時代、教室が足りなくて「二部授業」を体験した。「団塊」といえば「二部授業」だ。しかし、戦時中の小学生の体験はもっと強烈だったに違いない。国旗掲揚、ご真影への敬礼、軍事教練などは、「団塊」の比ではない。疎開体験も聞く。戦中世代の特異な小学生体験に比べれば、「団塊」の「二部授業体験」など取るに足らない。

何度も言うように、団塊の世代はマーケティング上、有望な消費群であり、「団塊」を刺激することが消費喚起に直結する。メディアはそれを狙っている。「団塊」はメディアのキャンペーンによって、自分達を特殊な世代だと勘違いするようになった。だから、本書の団塊年譜を眺めてみても、特段な感慨はない。確かに先駆的な特徴も認められるけれど、それだけの話だ。先駆性なんてものは、最初の珍しさ以外でしかない。

「団塊」を批判することはかまわない。かつて、団塊の世代は両親をつかまえて、“なぜ戦争に反対しなかったのか?”と詰問した。両親の世代が答えられるはずもない。同じように、若い世代から、“なぜ団塊は政治運動から召還したのか”、と問われても、回答できないし、“マルクス主義を信じているのか”と問われても、明確な回答が出せない。

団塊が回答を出せないまま40年が、やがて半世紀が過ぎるだろう。若い世代から、団塊が犯した罪障の数々について償えといわれれば戸惑うばかりだ。著者(由紀草一氏)のような「明晰」な人間から見れば、団塊の世代は愚かで、お調子もので、思慮が浅く、反省のない世代に見えるのかもしれない。しかし、著者(由紀草一氏)のように他世代のことを批判的な目で見たことがないのでわからないが、その前後の世代も同じようなものなのではないのか。世代の行動に反省を示さないのは、団塊だけなのだろうか。各世代も同じように、自分たちの行動を説明できないのではないか。

メディアは「団塊」という幻想を生み出し、それによって消費を喚起しようとする。この現象は団塊が墓場に行くまで持続される。団塊がその寿命を全うするまで、葬式やお墓の需要が見込まれるからだ。

2006年5月6日土曜日

『天人五衰』

●三島由紀夫〔著〕 ●新潮文庫 ●514円(+税)

FI2536045_0E.jpg 最終4巻目だ。「4」は、起承転結の「結」に当たる。

まず、本題の“天人五衰”の意味だが、本文中に詳細な解説があるので引用する。天人とは、仏話にある欲界六天ならびに色界諸天に住する有情、つまり、天子、天女に仕える人、動物のような存在のことか。五衰とは天人が命終の時に現れる五種の衰相だ。五衰を大雑把にいえば、▽天人は身に備えた楽から発する美しい声をもっているが、死期が近づくと楽が衰え、声がかすれてしまう。▽天人には光がさしているが、死期が近づくと、失せて影につつまれる。▽天人の肌はすべすべで水をはじくが、死期が近づくと水が着くようになる。▽天人は本来すばしっこく移動するのが常だが、死期が近づくと一箇所に低迷して抜け出せなくなる。▽天人の身には力がみち溢れているが、死期が近づくと力が衰え、しきりに目ばたきするようになる。

粗筋をおさえておこう。時代はさらにくだって、本多・76歳のときに物語が始まる。妻に先立たれた本多は、同性愛者である慶子と友達同士の関係を続け、共に国内外を旅するまでになっている。2人が三保の松原を訪れた際、静岡のある海岸に建っている帝国通信所の船舶監視小屋を見学する。小屋には透という通信員が働いている。透はIQ159の秀才でありながら、両親に先立たれ、中学卒業後、通信員の職を得ていた。友人はなく、毎日孤独な生活を送っているが、絹代という精神病を患う少女にだけ心を許している。本多と慶子が通信室を見学するうち、偶然、透の体に清顕、勲、ジン・ジャンと同じ3つの黒子があることを発見する。本多は早速、透を養子にする。透は本多の屋敷に引き取られ、高校受験のための勉強ばかりか、エスタブリッシュメントとなるためのマナー、会話、思考方法を本多から教育される。本多は透が清顕、勲、ジン・ジャンのように夭逝することを望まず、成人してその命を全うすることを祈る。

本多には不安があった。透を清顕の生まれ変わりだと確信して養子にしたものの、ジン・ジャンの命日が不明なため、透が本当に清顕の生まれ変わりかどうかの確証がない。ジン・ジャンが亡くなる前に透が生まれていたのでは転生が成立しないからだ。透の生年月日はわかっても、ジン・ジャンの命日は、本多の力をもってしても判明しないままだった。透は高校、大学の試験を順次パスし、20歳の青年となる。しかしその間、新左翼の活動家であることを隠して本多家に入り込んだ家庭教師をクビにし、透との結婚を前提に交際を始めた百子を裏切り、絹代を東京に呼び寄せ、さらに、本多に暴力を振るうようにまでなっていた。透の本多に対する肉体的・精神的迫害は日々激しくなる。

そんななか、本多は、透が清顕の生まれ変わりなら満21歳の誕生日の前まで(20歳)に命を落とすはずだし、贋物ならその後も生き続けると思うに至る。透の21歳の誕生日の半年前のある夜突然、本多は性癖だった“のぞき”の色情に駆られる。彼は絵画館前に一人出かけ、“のぞき”をしようと徘徊しているとき、偶然起きた傷害事件に巻き込まれ警察に事情聴取される。警察は本多の“のぞき”を週刊誌にリークし、彼は「のぞき屋、元判事」と書き立てられ、その名声を失う。

これを機に、透は本多を禁治産者に仕立て上げ、その遺産を奪おうと画策する。本多に同情した慶子は、クリスマスの夜、透を慶子の自宅に一人招き、透が養子に引き取られた秘密を話す。慶子は透に、「あなたが清顕の生まれ変わりなら、21歳の誕生日までに殺されるでしょう、でも、あなたは贋物だから殺されない」と告げ、清顕、勲、ジン・ジャンの死の物語を透に聞かせる。「あなたが本物なら、あと半年で殺される・・・」。透はそんな呪いのような言葉を発する慶子に殺意を抱くが、彼女を殺すことができないまま、慶子の屋敷を後にする。

その数日後、透は自殺を図り、一命は取り留めたものの失明する。本多が透の自殺の原因を慶子に尋ねると、慶子は自分がクリスマスにすべてを透に話した、と告白する。それを聞いた本多は、慶子と絶交する。透は結局21歳を過ぎても生き続ける。清顕~勲~ジン・ジャンと続いた輪廻転生の物語は透の代で途絶える。

81歳になり死期の訪れを自覚した本多は、清顕の恋人・聡子との再会を決意し、一人、奈良の山寺(月修寺)に向かう。聡子は存命で月修寺の門跡となっている。山道を登る本多に老いと持病からくる苦痛が襲う。休み休み悶絶しながら本多は月修寺にたどりつき、念願の聡子との再会を果たす。本多はそこで聡子に、清顕のことをどう思っているか尋ねると、聡子は意外な回答をする。聡子は「松枝清顕さんという方は、どういうお人やした?」――聡子は清顕のことを知らないというのだ。本多がしつこく問い詰めても、聡子は「知らない」と言い張る。「その清顕という方には、本多さん、あなたはほんまにこの世でお会いにならしゃったのですか?・・・」

印象を書きとめておこう。

起承転結の「結」は意外だった。私を含めた読者の多くは、三島が、『豊饒の海』全編にわたり撒き散らしてきた仏教の教義で煙に巻かれ、輪廻転生を基に物語は進み終わるものと確信していたに違いない。ところが、最終巻の主人公・透が贋物であり、さらに、物語の原点となっている清顕と聡子の恋愛事件すら、聡子にあっさりと否定されてしまう。清顕の存在そのものが本多の夢ではないのか、といわれれば、輪廻転生などあり得ないという近代科学主義の常識が目を覚ます。清顕と聡子が本多の夢ならば、勲もジン・ジャンも透も、この物語すべてが夢だ。

『豊饒の海』の物語の進行は、輪廻転生が基盤となっていることは何度も書いた。また、それと同じくらい重要な基盤が夢である。夢が現実を先取りしている。夢が物語に重要な役割・機能を果たすのは、ファンタジー文学の常套だ。『豊饒の海』もその形式をとっている。

本書が三島由紀夫の遺作であることはよく知られている。本書を上梓して間もなく、三島は自衛隊市谷駐屯地に「同志」数名と押し入り、檄文のビラを捲き、演説をし、割腹自殺を遂げた。享年45歳だった。本書では老いが詳細に書かれている。老いの記述は生前の三島由紀夫の想像だけれど、老いにかなり自覚的だったことは確かだ。三島が老いを忌避して自殺したとは言えないけれど。

『豊饒の海』は若さを讃える書だ。『春の雪』では、青年の反語的恋愛を通して若者がもつ一途な恋愛のパッションが描かれ、『奔馬』では思想、信条に対する純粋な使命観を讃え、『暁の寺』では青年の身体(肉体)がもつ美を、ジン・ジャンというタイの王女の姿を借りて描いている。だが、最終章『天人五衰』では、若さの対極にある老い、その“醜さ”が執拗に書き込まれる。若さは美しいが限定的であり、時間の制約下にある。それだけではない。若さは、過剰な自意識、猜疑心、残酷さを併せ持っている。クリスマスの夜、老いた慶子が透を贋物だといって断罪する表現の数々がそれに当たる。人は青春期、天人のごとく光り輝くが、死期が近づくと五衰が現れ、死を迎える。いかに生きるかよりも、いかに死ぬかの方が問題だ。(※後日改めて、『豊饒の海』全編について書いてみたい)

2006年5月4日木曜日

『暁の寺 豊饒の海3』

●三島由紀夫〔著〕 ●新潮文庫 ●620円(+税)

FI2529724_0E.jpg物語は勲が蔵原武介を殺害し自刃してから8年後、昭和15年(1940年)のバンコクで始まる。この年に日独伊三国同盟が締結されている。日本は連合国を相手に、アジア・太平洋戦争開始に向けて、破滅の道をまさに歩まんとしていた。本書では、これまで傍観者であった本多が主人公になる。

勲の事件で裁判官の職を投げ打ち弁護士となった本多は、五井財閥等の有力財閥を顧客とする辣腕弁護士となっている。彼は五井財閥から依頼された案件でタイに滞在することになり、そこで清顕(=勲)がタイの「月光姫=ジン・ジャン」に転生したことを知る。ジン・ジャンの父・パッタナディットは、青年時代、日本の学習院に留学中、松枝家に一時期寄宿したこともあり、清顕・本多と親交があったことが第一巻(『春の雪』)にある。本多はジン・ジャンに謁見の機会を得、そのとき、ジン・ジャンが清顕と勲の二人の記憶を併せもっていることに驚くが、ジン・ジャンの体に転生の印(3つの黒子)が認められないことに苛立つ。本多はタイに滞在中、足を伸ばしてインドのヒンドゥー教の聖地ベナレス(バナラシー)を訪れ、深い感動を覚える。

ところで筆者は、このインドの聖地の描写の箇所に違和を覚えた。なぜなら、三島由紀夫は一貫して、日本の宗教(古神道)の佇まい(=簡素さ)と古代天皇制が生み出した「雅」を賞賛していたからだ。それらと比較するならば、ベナレスというヒンドゥー教の巨大な宗教装置で展開される情景はそれらと対極的だ。私は3年前の冬、ベナレスを訪れ、本多(=三島由紀夫)と同じようにボートに乗ってガンジス川を漂った。船着場までは、喧騒のベナレス市街からリクシャで10分ほど。ボートに乗り、ガンジス川を行き来する。船着場から数分のところに火葬場があり、ボートから火葬を見る。あたりは火葬用木材が集積され、川の色は黒く無音にちかい。寂寥というよりは、一切が遮断された異界のようだが、そこはあまりにも無造作、表現は悪いが、無人のゴミ焼却場のような佇まいだ。ヒンドゥー教の死の観念は、日本人のそれとは異なる。ベナレスでは死によって人が無に帰すはずでありながら、混沌としている。

ベナレスから日本に戻った本多(三島由紀夫)は、古今東西の宗教の成り立ちを調べ、大乗仏教の輪廻転生の妥当性に行き着く。三島が展開する仏教論は、私の理解を超えているのでここでは省略する。

時代は下って日本中が米軍の爆撃で焦土と化した1944年、本多は東京・渋谷の松枝邸跡地近くで、かつて綾倉公爵家で聡子に仕えていた蓼科に遭遇する。本多は戦時下の困窮にあえぐ蓼科を見て、たまたま土産にもらった卵を与える。蓼科は80歳を超える老女だったが、本多のことを覚えていて、聡子の近況を伝えると共に、古い仏典を「お守り」だといって、本多に与える。ここで本書の第一部が終わる。

第二部は、戦後、昭和27年に始まる。第一部と第二部はまったく異なる小説といっていい。戦中から戦後、つまり、第二部では、本多が国の土地収用に係る法律の抜け道を潜り抜け、巨大な財を築き上げた成功者で、しかも、覗き趣味をもつ初老の男として登場する。本多が成人したジン・ジャンに寄せる恋心は、ヴィスコンティの映画『ヴェニスに死す』のグスタフ老人が美少年タジオを思う心に似ている。本多を取り巻く登場人物もみな、隠微な性倒錯者ばかり。

本多は財の一部で富士山麓の御殿場に別荘地を買い、隣の別荘オーナー・慶子と親しくなる。慶子は政界・財界及び米国(占領軍)にまでコネクションをもつ謎の女性。本多は戦後没落した洞院宮が開業した骨董品店でエメラルドの指輪を購入している。その指輪はパッタナディットが学習院に留学したときに無くしたものだった。本多はその指輪を娘ジン・ジャンに返そうと考える。本多は一計を案じ、別荘の新築記念パーティーを開き、日本を訪れているジン・ジャンを招く。本多は書斎の本棚にのぞき穴をつくり、その部屋の隣にジン・ジャンを泊めてのぞくことを企む。のぞき穴からみたジン・ジャンの体にはまちがいなく、清顕・勲とおなじ印があった。

このパーティーには、本多夫妻がホストを務め、慶子がヘルプを勤める一方、かつて勲の決起を密告した鬼頭中将の娘・槙子(有名な歌人となっている)とその弟子の椿原夫人、性倒錯傾向をもつ知識人・今西らを招待客として呼ぶ。このパーティーの招待者たち、本多、ジン・ジャン、慶子らの性的関係と屈折した恋愛感情が以降、延々と展開されていく。

本多は書斎のぞき穴から、椿原夫人と今西が肉体関係を結んだこと、本多が恋したジン・ジャンがレズで慶子と関係していることなどを知る。ことほどさように、『暁の寺』は、かなりドロドロした男女関係がこれでもかというくらい、書き込まれたている。

結末は昭和27年、本多の別荘の全焼で訪れる。本多は、御殿場の別荘地で日本初のプールをつくったことを記念するパーティーを開き、ジン・ジャン、今西と椿原夫人、慶子らを招待する。その夜、宿泊した今西と椿原夫人の部屋から出火し二人は焼死、もちろん、本多の別荘も焼け落ちる。この火事をもって本多の人間関係は清算される。そして、昭和42年、ジン・ジャンの双子の姉妹が日本を訪れたとき、本多はジン・ジャンがタイでコプラに咬まれて死んだことを聞く。