2016年8月17日水曜日

『日本はなぜ、「戦争ができる国」になったのか』

●矢部宏治〔著〕 ●集英社インターナショナル ●1200円+税

「アーミテージ・レポート」と安保法制

本書を読み始めてすぐに頭をよぎったのが、2012年8月に発表された「第3次アーミテージ・レポート」だった。このレポートはジャパン・ハンドラー(米国の対日政策に大きな影響力をもつ知日派知識人)として知られる、アーミテージ(Richard L. Armitage)、ナイ( Joseph S. Nye)によってまとめられたもの。発表時は、3.11発生からそんなに時間はたっていない。

震災直後、日本のマスメディアが米軍による支援活動「トモダチ作戦」を大々的に報道していた。同レポートはこの作戦をとりあげ、日米の今後の在り方を象徴する「作戦」と称賛していた。同作戦が被災地にどれほどの支援になったかはわからないが、ともかく、米軍のPR臭を強く感じたことを覚えている。

同レポートの柱は以下のとおり。
(1)原発推進
(2)日韓関係の安定化
(3)TPP推進
(4)日本の集団的防衛の禁止に関する改変

同レポート発表後、日本政府(安倍政権)はこれらの柱に基づき、関連諸政策を策定、推進、法制化した。前出のとおり、日本が大震災にみまわれた直後、米軍は「トモダチ作戦」を展開して日米の「絆」をPRしたように見えたのだが、それが日本の安保法制(集団的自衛権行使容認)の露払い的示威行動だったことを知った。日本が危ないときは米国が助け、米国が危ないときは日本が助けると。「トモダチ作戦」は日本国民に対する印象操作だった可能性もある。

それだけではない。同レポート発表後の日本政府の対応は奇異なものがあった。とりわけ安保法制は憲法改正にかかわる大問題。憲法改正は時間がかかるし、民意に反する。しかしながら安倍政権はそれを解釈改憲で押しきった。大多数の憲法学者が「違憲」と発言しながら、あっというまに法制化してしまったのだ。

米軍に日本が従属する法的根拠とシステム

いったいなぜ、ジャパン・ハンドラーとよばれる民間人(元軍人と国際政治学者)になるレポートが日本政府の政策を決定づけてしまうのか、日本政府と彼らの関係はどのようなものなのか。もしかしたら、日米間には、米国(軍)主導で日本の政策を決定できるシステムがあるのではないか。その決定システムは、両国政府間において法的に担保されているのではないか。

本書は筆者が抱いていた素朴な疑問に極めて適正に答えてくれた。前作『日本はなぜ、「基地と原発」を止められないのか』(以下「前作」と略記)につぐ労作だ。読後、毒が回って無力感にとらわれる。日本(人)にとって、日米間の絶望的なシステムの存在を知り、虚脱感にさいなまれる。戦後70年余り、日本は米国(軍)に完全に隷属し、コントロールされてきたことがわかる。1945年の日本の敗戦時から今日まで、米軍主導のシステムが日本の深部にしっかりとビルトインされていたのだ。

朝鮮戦争と米国の対日政策の大転換

日本の無条件降伏後のいわゆる米国による戦後処理は、朝鮮戦争(1950-53)前と後で、大転換をとげた。〈1945-49〉までは日本の武装解除及び戦争犯罪人追及、平和国家への改変に力点が置かれた。GHQは、東京裁判(1946-48)、天皇の人間宣言(1946)、平和憲法(1947施行)等の施策を矢継ぎ早に実行し、日本を二度と戦争ができない国にするための大改造が試みられた。

ところが、冷戦の深刻化と朝鮮半島の緊張化を契機として、GHQは対日姿勢を180度転換する。朝鮮戦争勃発とともに、それまでの「日本平和国家構想」を放棄し、日本を戦争の兵站拠点として位置づけるとともに、日本人の警察予備隊7万5千人を急きょ徴兵する。警察予備隊創設の目的は、朝鮮に派兵して空になった米軍基地の防衛だ。そればかりか、海上保安庁職員を8千人増員し、海上保安庁掃海艇部隊が朝鮮における米軍の軍事行動に友軍として参加したという(本書P203)。日本国憲法は施行後わずか3年にして、その実効性を喪失した。

日本はサンフランシスコ講和条約(1951年調印)によって、連合軍の占領が終了し、主権を回復したと、日本の教科書にはある。ところが、講和条約と抱き合わせで、日米安保条約、日米行政協定が締結され、かつ、日米の首脳及び行政官どうしによる密約によって、米国(軍)は日本にある米軍基地の永年自由使用権を手に入れるとともに、のちに警察予備隊から軍隊と化した自衛隊の指揮権も確保したという。在日(=極東)米軍の利権の貫徹だ。この間の日米間の交渉過程等については、本書に詳しい。

米軍の意思を日本で実現するシステム=日米合同委員会

ここで再び安保法制だ。集団的自衛権の行使容認とは、米軍の戦争に自衛隊が米軍の指揮の下、参戦すること。もちろん、日本にある米軍基地は米軍が放棄しない限り永遠に日本には戻らない。その最先端に位置するのが沖縄――普天間であり辺野古であり高江…だ。

米軍の意思を日本政府が無条件で受け入れるための、日本国民にとって絶望的な「システム」とは、著者が前書でもふれていた、「日米合同委員会」。同委員会の米側の出席者は、米側代表=在日米軍司令部副司令官、代表代理=在日米大使館公使。以下出席者=在日米軍司令部第五部長、同陸軍司令部参謀長、同空軍司令部副司令官、同海軍司令部参謀長、同海兵隊基地司令部参謀長。日本側の出席者は、日本側代表=外務省北米局長、代表代理=法務省大臣官房長。以下出席者=農林水産省経営局長、防衛省地方協力局長、外務省北米局参事官、財務省大臣官房審議官。そして、その下に35ある部会で構成されている。(詳細は本書33P)

著者はこう指摘する――
…おかしいですよね。どんな国でも外務官僚が協議するのは、相手国の外務官僚のはずです。そして外務官僚どうしが合意した内容は、もちろん軍の司令官の行動を規制する。これが「シビリアン・コントロール」と呼ばれる民主主義国家の大原則なはずです。(略)
この日米合同委員会というシステムがきわめて異常なのは、日本の超エリート官僚が、アメリカの外務官僚や大使館員ではなく、在日米軍のエリート軍人と直接協議するシステムになっているとところなのです(P36-37)

これが「日本の実像」なのか。おそらく安保法制は、軍の利益を代表するジャパン・ハンドラーの手によって、「アーミテージ・レポート」という風船が上げられ(世に出て)、日米合同委員会において、米軍と日本の行政機関の専門家の手によって、日本の法体系の中に落とし込まれ(法制化され)、安倍政権によって閣議決定され、国会を通過したのではないか。

安保法制は米軍のためのもの

安保法制はいまから66年前、米軍の要請により、在日米軍基地防衛のために警察予備隊が創設されたごとく、米軍の戦争遂行の兵力の穴埋めのためだ。米軍の「テロとの戦い」は泥沼化している。この戦いに必要な武器、兵員、物資を米軍単独では賄いきれない状況にある。そこで自衛隊だ。自衛隊は世界的に見て、米軍の指揮権が可能で、かつ、強力な軍隊の一つ。その存在は韓国軍に次ぐ。しかも前出のとおり、他国の軍隊でありながら、米国(軍)が法的にも軍事的にも、ほぼ完璧にコントロールできる。

日本国憲法を真剣に問わなければ、米軍従属が続くだけ

日本国民の総意として、憲法9条2項を改正することが現実的だというのならば、それもあり得る。自衛のための武力保持を現憲法に加筆するという選択もあるかもしれない。そのことと引き換えに、在日米軍基地、横田空域、米軍関連施設の返還という選択肢も外交課題となろう。

だが、米軍の戦争継続のために憲法の空洞・空文化が加速し、自衛隊が米軍の指揮下で戦争をすることは耐えられない。それは、ローマ帝国に征服された被支配民が、ローマの軍人となって、ローマの新たな征服に駆り出される姿と同じもの。ローマ帝国=米国(軍)の戦争に追随するのか、新しい道を選ぶのか――いよいよ、国民一人一人が選択しなければならなくなった。

2016年8月12日金曜日

『21世紀の戦争と平和 きみが知るべき日米関係の真実』

●孫崎享〔著〕 ●徳間書店(Yahoo!ブックストア)●1400円+税

冷戦後、米国が準備した「新しい戦争の時代」

冷戦後、世界はどう変わったのか――という基本的認識から、いまの世界と日本を考える必要がある。冷戦が終わり、いわゆる共産主義勢力が退場したのだから、世界平和の時代が到来した――わけではない。米国は冷戦終結後、すなわち平和な時代が構築できるという選択肢をもちながらそれを手放し、冷戦に代わる「新たな戦争の時代」の準備にとりかかった。

「悪の枢軸」「自由と民主主義を守る戦い」「テロとの戦い」・・・美辞麗句に彩られた米国が掲げた戦争スローガン。日本はその流れに徐々に巻き込まれ、いまや日本は、“戦争のできる国”にまでその姿を変えてしまった。米国とそれに追随する日本国内の勢力にとって、いまはその総仕上げの段階にある。本書はそれに抗す小石ほどの投擲にすぎないかもしれないがしかし、その流れを止める可能性を秘めている。その意味で、本書は国際情勢、日米関係、防衛問題等を考えるうえで必読の書だといえる。理由は後述する。

今日、米国の戦争に巻き込まれてゆく日本(人)の姿形は、いまから75年ほど前、米国との無謀な戦争(アジア太平洋戦争)に突入したころの姿形に近い。米国により操作された国際情勢分析、それを受け入れて訳知り顔でTV解説する日本人の御用学者、自称ジャーナリストら。彼らにかかれば、ナイーブ(うぶ)な日本国民の洗脳は難しいことではない。日本が集団的自衛権行使容認を合憲として立法化したのは、米国の働きかけを受け入れた、それら日本国内の諸勢力の骨折りの結果でもある。

「米国の核の傘、米軍の抑止力=平和」という思考停止

日本の防衛に係る言説は、原発安全神話に酷似している。原発は事故を起こさないという思考停止と、米国の核の傘、米軍の抑止力により日本は守られているという思考停止。両者は相似形をなしている。敗戦から70年余り、日本国憲法、日米関係、日本の外交防衛問題、核武装等の最重要課題については、日本ではまともに議論することが避けられてきた。なぜか。それにふれれば、ふれたほうが選挙に負けるからだ。本年(2016)行われた参議院選挙においても与党は改憲を視野に入れながら、アベノミックス(経済)を選挙の争点に絞ってそれを避け、マスメディアも追及を避けた。しかし日米間の秘密裏の合意に基づき、内外のメディア、アカデミズム、シンクタンク…らが流す情報により、日本はじょじょに姿を変えつつある。

神話にしたまま触れなければ波風が起きない。日本の外交防衛は米国の指示どおり。憲法改正はしないで解釈改憲すればいい。それが与党の唯一の「戦略」であり、野党もそれに対抗できない。原発は3.11によって、その神話が崩壊したものの、政府とマスメディアが共同でそれを“なかったこと”にしようと謀っている。歴史修正主義。9条が代表するた日本人の反戦・平和主義はいま、日本人の意識から消去させられようとしている。

米国人の防衛意識と強迫観念

『レッドドーン』(原題:Red Dawn/2012年公開/ダン・ブラッドリー監督/カール・エルスワール脚色)という米国映画がある。この映画は1984年公開された『若き勇者たち(原題:Red Dawn)』のリメークだ。アメリカが共産主義国(北朝鮮)に突如占領される。占領軍に抵抗するため、海兵隊を除隊して故郷に帰っていた兄をリーダーにして、若い兄弟とその友人たちが占領者に抵抗ゲリラ戦を展開するという荒唐無稽の物語。

なぜこんなB級映画が2度も映画化されたのか。それはそのときの米国の情況に求められる。最初の映画化は1980年代初頭、レーガン政権下の冷戦末期、83年にはレーガンが「悪の帝国発言」を行っている。同年には大韓航空機撃墜事件を筆頭に、凶悪なテロ事件が多発していた。そしてリメーク公開された2012年といえば、第二次イラク戦争が終わったばかりのころ。その前前年、オバマ大統領がイラク戦争終結を宣言している。

どちらも米国にとってきな臭い、戦争が身近な情況において、同映画は公開されている。筋書きは、前出のとおり米国本土が敵対する共産主義勢力に突如、侵略されるというもの。そこに、米国人の強迫観念が滲んでいるように思える。米国人には、いつかだれかに侵略されるという恐怖が潜在しているように感じる。

米国はいうまでもなく、大西洋を渡ってきたヨーロッパ移民が開拓した国。彼らは先住民にとって侵略者であり、その一方、英国との独立戦争では敵(英国軍)は大西洋を越えてやってきた。侵略者でありながら、侵略される側でもあった米国人の原体験は、“いずれ侵略される”という恐怖となって、米国人に潜在しているのではないか。「やられる前にやれ」となる。いま米国国内で多発している警官による黒人無差別射殺事件の原因の説明にも、彼らが潜在的恐怖からいまだ解放されていないという理由づけが有効かもしれない。

米国の安全保障の地勢的要諦

米国における安全保障の地勢的要諦を大雑把に見ておこう。防衛ラインは、(1)米国東=北大西洋、(2)同西=(米国にとっての)西太平洋、南は、(3)メキシコ国境、(4)キューバを臨むフロリダ湾、(5)北=ロシアと接するベーリング海、(6)米国の中東地域の飛び地=イスラエル周囲=エジプト、シリア、ヨルダン、レバノン、サウジアラビアであり、この地域がもっとも不安定。

(1)の防衛体制はNATO。冷戦時代はソ連圏と対峙。現在はロシアに代わっている。(2)は中国、北朝鮮の西進を阻む目的で、韓国、日本、東南アジア諸国が中国北朝鮮に対する「蓋」の役割を担っている。75年前、日本の西進により、米国はハワイ真珠湾を攻撃された経験を持っている。(3)(4)はキューバ革命(1953-1959)以降、ゲバラによる革命輸出と、南中米に社会主義政権国家が誕生した1970年代が米国にとって最も不安定な時期となっていた。米国はゲバラを殺害し、CIAを使って軍事クーデターを起こし、親米(軍事)政権を樹立させ、安定化を図った。

日米関係と中国

さて、日米関係である。日米関係はいうまでもなく、米国における(2)の防衛ラインに属す。米国の脅威は、中国-日本の親密な関係構築にある。最悪のシナリオは日中が共同で米国と敵対し、戦争になること。だがそうはならない。その説明については本書に詳しい。

米国にとって現実的な脅威とは、日本~中国・北朝鮮が互いに敵対せず、安定すること。そうなれば、日本、韓国、台湾はもとより、北東アジア、東南アジアが安定し、米軍は存在意義を失う。その結果、米国の武器輸出は漸次低減する。米国にとって日本に親中国政権ができることは、なにがなんでも避けたいところ。いま現在、日中間における尖閣列島を巡る緊張は、日本がそれまで中国と合意していた「棚上げ」を無視して国有化を図ったことに起因する。このことの詳細も本書にある。それだけではない。日本の政治家のなかで中国と親和的関係を築いた者の多くが、「政治とカネ」等のスキャンダルで失脚している。

2度のイラク戦争は米国による侵略戦争

第一次及び第二次イラク戦争については、米国によるイラク侵攻の正当性がなかったことが今日わかっている。しかし、日本では前者における130億ドルの資金協力の評価すら正確でなく、後者における自衛隊イラク派兵の是非すら論じられることがない。それどころか、米国側による戦闘協力の要請に従おうとしている。それが、集団的自衛権行使容認の経験的根拠にすらなっている。その経緯についても本書に詳しい。

日本の外交防衛路線はすべからく米国の指示に基づく

本書が提供する日米の関係に関する情報を読み通したうえで総じていえるのは、戦後の日本の外交防衛路線は、すべからく米国の要請(命令?圧力?)に従っているという事実。敗戦(1945)による武装解除、以降(1947~)、開始された再軍備、日米安全保障条約締結、基地提供、地位協定、米国製武器輸入、原発建設、イラク派兵、特定秘密保護法、集団的自衛権行使容認(安保法制)に至るまで、日本は米国(軍)に引っ張られてきた、という事実が確認できる。

「1%」のための戦争

日本のみならず世界中を紛争の渦に巻き込む米国(軍)の原動力はなにかといえば、米国における“産軍共同体”の存在。世界中が平和になって戦争がなくなってしまえば、米国(軍)の経済は立ち行かなくなる。米国の軍需産業がだめになるだけではなく、金融、商業、運輸、IT…すべてがだめになる。とはいっても、それは米国が特別でなくなるだけのこと。もっといえば、米国の“1%”がだめになるにすぎないのだが――

本書は著者(孫崎享)の専門とする外交防衛に特化した日米関係の書。だが現実には、経済、メディア、文化、学界等々の各分野において、米国による日本への圧力が認められるはずだ。だから、日本国内の米国追従者の動向にも目を光らせておく必要がある。彼らは米国の指示に忠実に反応しているはずだから。

テレビに代表されるマスメディアは、既に米国とそれに従属する側の手にある。それだけに、心配なのが著者(孫崎享)の身辺だ。日米関係のタブーに触れた者に多くの不審死が出ていること。そうでなくとも、万一孫崎に何か起きた後、彼の仕事を引き継ぐ勇気ある人材はいるのだろうか。

2016年8月10日水曜日

8月の猫

しばらく猫の写真を上げていなかった。

結論をいえば、相変わらず2匹とも元気。

ときどき喧嘩もするが、仲は悪くない。

写真を撮ろうとしても、なかなかツーショットの機会がない。

この日はタイミングがよかった。




2016年8月7日日曜日

『政府は必ず嘘をつく 増補版』

●堤未果〔著〕 ●角川新書(Yahoo!ブックストア) ●800円+税

政府の嘘が常態化する今日の状況

政府が嘘をつくことはいまに始まったことではない。たとえば、1940年代の日本。アジア太平洋戦争末期、日本軍の敗色が濃厚となった時点においても、日本帝国軍の戦勝報道が「大本営発表」の下、続けられていた。当時の日本国民は(TVはなかったものの)、大新聞、ラジオ、雑誌、ニュース映像による偽の「戦勝シーン」を見聞きすることによって、戦争勝利を確信していた。都合の悪い事実を隠したい政府、その政府に屈服し従属するメディア、信じたいものを信じる国民――という三者の構造的関係は、戦争から70年以上が経過した今日の日本において変化ない。

いや、変化ないどころか、状況はより深刻度を増している。今日の政府の嘘は、戦時、非常時下におけるものではない。言論の自由、表現の自由、基本的人権が憲法によって保障され、ジャーナリストが自由に取材、執筆することができるはずの世の中において、マスメディアから出てくる情報が、政府によって“検閲済”なものばかりか、隠蔽、操作されることが常態化しているという意味において、より深刻化している。国民は先の戦時下から何も学ばず、マスメディアは「大本営発表」を教訓とせず、戦後70年余りにわたり、政府の嘘を許容し続けている。

そればかりではない。政府による嘘の技術向上、巧妙さ、その連続性と増大という傾向は、政府が国民にとって不利益な体制の構築を着々と準備している予兆だと換言できる。本書は、政府~マスメディアが共同して国民に情報を隠すことの危うさを読者(=国民)に伝えなければという強い使命感に貫かれている。その意味において、著者(堤未果)は、まことに稀有なジャーナリストの一人だといえよう。

世界規模で常態化する嘘

政府の嘘はもちろん、日本に限定されていない。情報隠蔽、情報操作をモデル化したのはナチスドイツかもしれないが、米国によって、より緻密に方法化されたと思われる。前出の日本が負けた戦争の末期、広島、長崎に投下された原子爆弾二発も米国政府の嘘に依っている。当時、米軍幹部は原爆投下がなくとも日本は無条件降伏すると確信していたという。ところが原爆を投下したいトルーマン大統領(当時)らは、“上陸作戦が敢行されれば、多数の米軍兵士が犠牲になる”という嘘情報を流し、原爆投下を正当化した。その結果、広島、長崎の一般市民が大量虐殺された。

今日のアラブ世界の危機的状況も嘘が招いた

9.11をはさんで二度にわたった対イラク戦争、アフガン侵攻、リビア侵攻、シリア内戦、エジプト政変等にアメリカが関わっていたことは明白だ。介入の表向きの看板は「反独裁」「自由と民主主義を守る」「対テロ戦争」といったもの。イラクが保有しているはずの大量殺戮兵器は第二次イラク戦争後、存在しなかったことが判明した。米国のイラク侵攻は「嘘」を大義として敢行されたのだが、そのことを咎める国際世論は存在しないに等しい。日本はイラクに自衛隊を派遣したのだが、それが米国の嘘によるものだったことの反省・検証を促す政治勢力も日本に存在しないに等しい。

リビアの指導者・カダフィ大佐については、「アラブの狂犬」「非情な独裁者」というレッテルが米国及びその追随勢力によって貼られた。「リビア国民に対し非情な弾圧を行っている」というのも彼らのでっち上げ。カダフィは豊富な地下資源を背景にして、国内的には国民にやさしい福祉国家をつくりあげるとともに、対外的には大量に保有していた金を原資に、アフリカ・アラブ統一通貨「ディナ」の発行を計画していたことがわかっている。ドル・ユーロの価値低下をおそれた西側が、カダフィ暗殺を企てた。シリアのアサド大統領もカダフィの場合に酷似している。

エジプトでは「アラブの春」の直後、ムスリム同胞団主導のムルシー政権が成立したが、米国に支援された軍部中心のクーデターがおこり、シーシー政権が成立。そのとき、米国は「ムスリム同胞団はテロ組織支援政党だ」というキャンペーンをはった。シーシー政権によってムスリム同胞団はいまなお、弾圧を受けている。

イラク、シリア、リビア、エジプトといった、アラブの安定国家が米国等によって侵略される背景には、アラブをアメリカ化したいイスラエル・アメリカ両国の思惑が働いている。その第一は、イスラエルの安全保障。アラブ各国が安定して成長を続けることはイスラエルにとって最大の危機の到来という認識。アラブ各国が崩壊し、国力を低下すればするだけ、イスラエルの安全が高まると。

戦争は米国の主力産業

その第二は米国の戦争願望。戦争こそが米国の経済成長戦略だからだ。武器輸出はもちろんだが、産軍複合体による開発武器の実験場、戦争の民営化、セキュリティーシステムの販売(イスラエルの輸出主力商品はセキュリティーシステムである)…内戦状態のアラブ各国において、死の商人が暗躍する。その副産物がテロ集団ISであることに異論はあるまい。

原発報道は嘘のかたまり

最近の日本政府による積極的な嘘といえば、原発事故に係るもの。事故前は原発の「安全神話」という嘘が報道され、事故直後(菅政権)から終息宣言(野田政権)までの事故の実態についての嘘は、民主党政権下においてだった。以降、今日までの嘘は自公アベ政権によるもの。最近では、アベの「アンダーコントロール」が耳から離れない。「原子力村」は国家(行政)・産業・メディア・学界が複合化したコーポラティズムの典型にほかならない。

TPPは情報隠蔽

経済分野ではTPP。その内容はもちろん、交渉過程まで一切、情報開示されていない。著者(堤未果)が繰り返し警鐘を発するISD条項(投資家対国家間の紛争解決条項。Investor State Dispute Settlement)や医療・保険(国民健康保険)分野において予想されるリスクについて、日本のマスメディアは政府の嘘しか報道しない。

こうした傾向は日本だけではない。先進国の新聞・テレビ等、いわゆるマスコミはすべからく、投資会社やメディア事業者に買収されている。“ジャーナリズム”は既に死後である。日本のマスメディアは新聞社系に系列化されているが、株主構成をみると外資が過半を占めるという。日本のマスメディアは自らを「ジャーナリズム」、その従事者を「ジャーナリスト」と僭称するが、これも立派な嘘。彼らはメディア事業者、メディア事業従業者にすぎない。彼らが流す「情報」は政府及びスポンサーの主意に沿っているものばかり。

嘘の根源はコーポラティズム

著者(堤未果)は政府の嘘が常態化する主因をコーポラティズムに求める。コーポラティズムとは大企業(グローバル企業)が政府と一体化して、企業利益を追求するシステム(体制)のことだ。政府の政策は国民のためと謳われながら、実は企業の利益追求を手段化したものという具合だ。

近年の日本におけるわかりやすい事例は、国民総背番号制(マイナンバー)だろう。マイナンバーが立法化される前、マスメディアは海外先進国では当たり前――といった報道をしたが、海外では事故続きで、どこも行き詰まり状態だという。マイナンバーはだれのためかといえば、大手の通信事業者、ソフトウエア会社、プロバイダー等のIT企業だ。政府は彼らに対し、予算(税金)から莫大な事業費を支払ったばかりか、ほぼ永遠にかつ定期的に維持費、運営費、メンテナンス費用を支払い続ける。国民がマイナンバーから受ける恩恵はいまのところ皆無に近いし、将来的にないに等しいだろう。

TPPはアメリカ政府を使ったグローバル企業による市場開拓であり、グローバル企業がより自由に企業活動を展開するため、各国に具備された法律、規制等を無効化することが目的だ。たとえば、日本の地方自治体が地元産業に助成する制度をもっていたとしよう。TPP加盟国は、日本の地方自治体が行う助成制度について、フェアトレードを阻害するとクレームをつけることができる。TPPが発効すれば、助成を受けてなんとかやっている日本の地場産業、中小企業、農業等は壊滅する。

国家はどうあるべきかが重要

その背景には、新自由主義があり市場原理主義がある。ただ、剥き出しの新自由主義をいま現在、瀬戸際で阻んでいるのも国家にほかならない。資本主義国家群がロシア革命以降誕生した社会主義国家群(スターリン主義国家群もしくは阻害された労働者国家群)に対抗するため、労働者を保護し、市場の無秩序を経済政策でコントロールしようとした遺産(社会民主主義)が、西欧、日本にはまだ残っているからだ。福祉国家という概念もその一つだ。それらを規制緩和という名目で一掃しようと図るのが構造改革主義。構造改革を掲げる政治集団には注意を要する。

国家の支援を受けて世界中に吹き荒れるコーポラティズムの暴力から国民を守ることができるのは、実は自国政府(=国家)しかない。国家をどうするのかについては、国民が決めなければいけない。そのためには国家を制御する憲法をどうするかを考えなければいけない。

日本版『デモクラシー・ナウ!』を立ち上げよ

政府は嘘をつく。しかも政府の嘘は、メディアを媒介にして国民に伝えられる。ならば、国民が信頼できる新しいメディアをつくりあげることが急務となる。たとえば筆者の数少ない情報からえられるイメージとしては、米国で立ち上げられた、『デモクラシー・ナウ!』(Democracy Now!)のようなものだ。著者(堤未果)はエイミー・グッドマンになれるだろうか。


2016年8月5日金曜日

テレビが当選させた都知事、小池百合子

東京都知事選が終わった。投票日の午前中、筆者はあるSNSのダイレクトにおいて、仕事を一緒にしたことのあるZ子ちゃんとメッセージ交換をしていた。Z子が「今日は都知事選ですよ!」と話題を振ってきた。以下、そのやりとり。

筆者:Z子ちゃんは都民じゃないでしょう。これから鳥越さんに投票してきます
Z子:そう、神奈川県民なので。鳥越さんなんですね!!
筆者:もちろんですよ。参考までに、Z子ちゃんがまだ都民だったとしたら、だれにしますか?マック赤坂?
Z子:笑 マック赤坂 私は小池さんかな~

Z子は最近結婚して、東京から神奈川に転居したばかり。政治に興味のない、サーフィン好きのアラフォー女性。彼女の「小池さんかな」という呟きに、筆者は鳥越当選の最後の望みを絶たれたようにすら感じた。やっぱりだめか、と。

その予感はあっという間に現実となる。筆者の願望叶わず、鳥越は落選。超右派(改憲・軍事オタク)の小池百合子が当選した。改めて得票結果を見てみよう。小池百合子=2,912,628票、増田寛也=1,793,453票、鳥越俊太郎=1,346,103票、上杉隆=179,631票(以下略)。小池の圧勝だ。

立候補者を巡る混乱?

都知事選の経緯を簡単に振り返ってみよう。あの舛添前知事の騒動のあと、自民党・公明党は人気のあるジャニタレの父で元総務省の役人トップを候補者と目論んだが断られた。有力な代替候補がみつからないうちに小池が自公の公認を得ずに立候補を表明。慌てたように見えた自公はとりあえず増田を公認候補とし、保守分裂の様相を呈した。

一方の野党共闘(民進・共産等)は、先に立候補を表明していた宇都宮健児を下ろし、土壇場で自ら立候補を表明した鳥越俊太郎の推薦を決めた。

保守分裂、野党共闘は候補者の一本化に成功――この状況を受けて、筆者は都知事選における野党共闘の勝利を確信した。

テレビと小池

「東京都知事」については、ここのところ格好のテレビコンテンツとなり、猪瀬辞任騒動、舛添騒動と、朝から晩まで都知事関連報道がなされるのが定番となった。すっかりアベ政権のポチとなったテレビ局が自由に取材放映できる数少ない政治的題材。国政とは関係ないため、比較的自由に扱える。製作コストは安価だし視聴率も悪くない。視聴者側も都知事選ともなれば各候補者の品定め――と、お茶の間のかっこうな暇つぶしだ。

しかし、テレビ局というのはそれほど頭が悪いわけではない。都知事選の報道には巧妙な罠が仕掛けられている。前出のとおり、小池はいわゆる先出し立候補表明。思い付きではない。舛添辞任を見越して、都知事選にむけて準備をしていたと思われる。

自民党・公明党は前出のとおり、総務省の役人に断られた時点で、この選挙を諦めていたと推測できる。野党連合も候補者選びに難儀し、準備不足のまま鳥越に決まった。「後出し」有利という風評を流したのはテレビであり、野党連合もそれを信じた感がある。

小池当選はテレビの誘導の結果

このたびの都知事選は、テレビ局が小池当選に向けて暗躍した結果である。都知事選立候補者は、小池、増田、鳥越を含めて全部で21名いた。増田及び鳥越は政党の推薦者であるから有力な候補者であるという理屈はとおる。ところが小池は表向き、組織の支援を受けないと自ら表明していた。小池は元防衛大臣だから有力候補者として増田と鳥越と同格だという論理は成立しない。テレビ局が報道に値する候補者として増田、鳥越、小池を選び、3人に報道を集中させた根拠は理論的には存在しない。各テレビ局が恣意的にこの3人を「有力候補者」として選んだにすぎない。政党推薦なしの候補者は小池だけではない。小池の候補者としての格付けは、今回得票数4位(179,631)に終わった上杉隆と同程度。にもかかわらず、上杉に関するテレビ報道は皆無に近かった。小池を有力候補者の一人に加えたのはテレビなのである。

それだけではない。極めて興味深い分析がある。小池百合子のテレビ露出時間が他の候補者に比べて圧倒的に長いというデータ(「テレビ放映時間から見る都知事選」)である。小池が立候補表明を他の2人より早く行ったから露出時間が長かったという事実を考慮しても、小池がテレビによって、立候補者21名のなかで特別扱いを受けていたことが明らかだ。

三択の罠

三択から何を選ぶか――消費者が3ランクに格付けされた商品を選択するパターンである。「赤・白・ピンク」なら「ピンク」、「松竹梅」なら「竹」、「上中下」なら「中」、が選ばれる。政党色を嫌う東京人の過半は、冴えない風体の増田(白)及びオールドレフトの鳥越(赤)を嫌って、ピンクの小池を選択する。与党の増田(松または上)、野党の鳥越(梅または下)にも嫌気を感じ、推薦なしの竹または中(=小池)を選ぶ。

テレビに細断された情報の「かけら」

テレビが増田・鳥越・小池の3者を恣意的に選択し、報道を3人に集中した結果、イメージとして優れていたのは残念ながら小池だった。そのことを的確に評したのが、次のツイート。

@C4Dbeginner: 小池百合子候補は高齢世代からは穏健なリベラルに見え、ネット世代からは石原的な強硬派に見え、女性からは高学歴キャリア女性の象徴に見え、都議会に反発 する人には小泉的改革者に見える。無知や無関心ではなく、メディアに細断された「情報のかけら」の集合が生む鵺(ぬえ)のような怪物だと思う。

では小池の政治家としての本質はどのようなものなのか。金子勝のツイートが的確だろう。

masaru_kaneko: 【首都の死3】軍事オタクの核武装論者で移民排斥の新自由主義者の小池百合子氏が勝った。これから首都でトランプやボリス・ジョンソン並みのワイドショー型扇動政治が始まるだろう。だが、アベノミクスは日本経済と社会を破壊していく。

孫崎亨は小池を「アメリカがつくった政治家」だと評した。アメリカも小池の当選を喜んでいるとも。




地上戦の戦闘員

小池はメディア(主にテレビ)の援助を得て、いわゆる空中戦で他候補を圧倒した。では地上戦ではどんな戦いが展開されたのだろうか。小池の選挙戦の深層については報道がないからわからない。筆者も取材していない。だからここから先は推測になる。小池の選挙戦を支えたのはおそらく日本会議のメンバーではなかろうか。街頭への動員、シンボルカラーのグリーンの着装、選挙運動員の派遣、資金の捻出については、それこそブラックボックスである。政党推薦のない小池がその個人資産で賄ったとは思えない。

都民無党派層の傾向

今回の都知事選は1999年の選挙とまったく同じというわけではないが、保守が統一候補を絞り切れなかったという意味で共通していた。99年の当選者は石原慎太郎で推薦政党なし。石原の得票数は1,664,558、民主が推薦した鳩山邦夫が2位で石原の半分強の851,130、3位が推薦政党なしの舛添要一(836,104)、自公推薦の明石康は690,308で自公惨敗となった。今回と重なるのは、自公が明石、民主が鳩山、政党推薦なしが石原及び舛添で4名が有力候補者として注目された点。結果も今回の小池と同様、無党派の石原が圧勝した。ちなみに石原と舛添を足すとおよそ250万票で、小池の獲得票に近づく。

99年の自公の明石候補が今回の増田候補に、同じく民主の鳩山が今回の鳥越に、同じく石原が今回の小池に該当する。99年は無党派どうしの舛添と石原が票を食いあったため、石原得票数は今回の小池に遠く及ばなかったが、政党推薦なしが圧勝するパターンは99年に既に確立されていたのだ。今回は舛添のような「不純分子」が立候補しなかったため、表向き政党推薦なしの小池が圧勝という形をとった。今回の自公推薦の増田はタマとして最悪で、99年の明石と似たタイプ。鳩山と鳥越はタイプ的に異なるが、野党推薦で勝てるパワーはともになかったことが共通項。石原と小池はよく似た者同士で、無党派層の厚い支持を受ける要素を具備していた。

全政治過程における野党の怠慢

建前としての無党派(候補)が、実態と異なることはよくあること。だからといって、テレビがつくりだしたイメージに簡単に騙されてしまう都民は愚かだと嘆いてみても始まらない。都民の皮膚感覚的投票行動を都会人の軽薄さと侮蔑することもできない。有権者がどうだこうだ、と嘆いてみても得るものはない。「劇場型」「先出し後出し」「知名度」とマスメディアが流した都知事選のイメージにたやすく便乗しようとした野党側にすべての責任がある。

野党連合は、たとえばこのたびの主戦場である東京都において、戦後71年間、いったいどれだけの確固たる支持者を獲得し得ていたのか。民進党は、頼みの連合ですら反原発を踏み絵にして、鳥越支持の一本化を取り付けられなかったし、共産党も、党員数及びそのシンパ数は一貫して減少もしくは横ばいである。特定秘密保護法、原発、安保法制、TPP、改憲・・・と、政権を追い込む政治課題が山積していながら、しかも、甘利問題はじめ自公側にオウンゴールがありながら、勝ちきれない。相変わらずの「風」だのみ、若者団体「SEALDs(シールズ)」に尻を叩かれるありさまだ。経済危機がやってきて、プロレタリアートが一斉蜂起する夢を彼らは見続ける気なのか。党が「風」や「劇場」という自然発生性に拝跪したままならば、政権奪取(変革)は永遠にやってこない。「野党」が強い党をつくるために努力するしかないのだ。