来月からの海外旅行の中継地点はロシアの首都モスクワ。
アルメニアからの帰路、およそ10時間のトランジットがある。
空港で待つか、出国するか迷った挙句、出国することに。
そこで、ロシア大使館にトランジットビザを申請しに行ってきた。
大使館前はものものしい警戒で、機動隊員が入口を固めている。
査証の事務は、正面入口から右に進んだ領事部。
入口がわからなくって行き過ぎてしまった。
中に入ると、銀行にあるような受付順番カードの機械が置いてある。
パスポートを何十冊も抱えた、旅行代理店の人が数人と、在日ロシア人らしき人が2~3人。
カードをとって待つこと数十分、書類審査はあっという間に完了。
交付希望日を聞かれて、出発前の日付を言うと、運よく2週間前だったので、申請費用もかからない。
無料というのは良心的。
2010年7月26日月曜日
2010年7月19日月曜日
ワールドカップ考現学――南アフリカ大会私的総括
2010年、南アフリカで開催されたワールドカップは、その変容を明確に世界中の人々に示した大会だった。今日、大会参加国民の関心のあり方及び国家の思惑に規定され、代表サッカーは、その戦略・戦術を転換せざるを得なくなった。代表チームは“なによりも負けないサッカー”をすることが重要となった。
経済のグローバル化の進行と、その裏腹に惹起する世界金融危機が断続的に人々の暮らしを襲っている。そうした状況下、国別に戦われるワールドカップは、国民国家の擬似的復権を表象しているかのようだ。ワールドカップとは、失われた国家と国民の一体感を再び獲得する、疑似イベントとなったようだ。
(1)国家的プロジェクトとしての代表チームづくり
ワールドカップを巡って、世界のサッカー界は、2つの異なる立場を明らかにした。1つは、ワールドカップを国家的プロジェクトとしてとらえるものであり、一方は、旧来どおり、スターの寄せ集めチームとして大会に臨む立場だ。前者は、ワールドカップでの好成績がサッカー協会の利益のみならず、国家・国民・政府の利益に通じることを理解している。たとえば、南ア大会途中に崩壊したフランスチームの代表監督は、フランス大統領に、直接、電話で代表チームの混乱状況を説明しなければならなかった。また、今大会中、ドイツの首相、オランダ王室、アメリカの元大統領等の要人が、スタジアムに散見された。国家とワールドカップが一体であることは、このようなことから説明できる。
(2)代表強化を為し得ない国家事情
ワールドカップにおける代表チームの成功は、その国家の成功に通じている――サッカーは政治(統治)の一手段になった。もちろん、そのようなレベルに至らない国家もある。アフリカ勢がその代表的存在だ。とりわけ、ブラックアフリカ諸国は、国内リーグの基盤が脆弱であり、かつ、ナショナルチームづくりに必要なノウハウ、資金、システムが整備されていない。国民が自国代表チームのワールドカップにおける活躍を望みながら、国家がそれを支援するパワーを持っていない。
先進国の中で、国家と代表が一体化しえない事例として、英国の事情を挙げておく。英国は、イングランド、スコットランド、ウエールズ、北アイルランドと、代表権が分散している。イングランドは英国の代表ではない。イングランドの成功を望むのは、英国民の一部にすぎない。
もちろん、イングランドのプレミアは、英国内の他のリーグを、その規模、選手層、チームの実力において、大きく上回っている。中村俊輔がプレーしたスコットランドリーグの実力は、イングランドのプレミアリーグと比較すれば、はるかに下のレベルにある。
イングランドのプレミアが英国最強リーグであり、イングランド代表は英国内の他の代表の実力を大きく上回っている。だが、過去のワールドカップにおいて、イングランドが優勝したのは1966年のイングランド開催のみであることに注目していい。イングランド代表はローカル代表であり、国家を背負っていない、というよりも、国家を背負いきれない国情にある。
(3)代表チームを支援するのは民力
ここでいう国家とは、政府という意味ではない。行政を含めた経済力、生活レベル、情報整備網、地域の統合の具合、スポーツ文化等を総合したもの――民力をいう。であるから、ここでいう国家的プロジェクトとは、かつての社会主義国家群が行ったステートアマチュアとは異なる。代表選手を育成するのは私的所有のクラブであり、それを束ねるのは民間のサッカー協会であり、資金は企業が提供するスポンサー契約が土台となる。加えて、代表チームに対して国民的支援を募り、かつ、それを増幅するのは国家のプロパガンダによるものではなく、民間のスポーツ情報産業(メディア)が担う。アフリカ勢は、以上の要素のいずれもが自国内に構築できていない。
(4)ワールドカップの転換点――21世紀最初の日韓大会がもたらしたもの
サッカーが国家的プロジェクトへと成長したのはいつごろなのか。筆者の直感ではかなり最近のことで、21世紀から(2002年の日韓大会)だと思う。20世紀最後の1998年フランス大会では、フランスが優勝しながら、同国内の右派が移民を主体とした自国ナショナルチームに不当な批判を加えた。このことは、ワールドカップの(フランス)代表チームは、国民(国家)から、完全な負託を得ていないことを象徴する。20世紀末、ワールドカップは、サッカーの国際大会の域を脱していなかった。
21世紀最初の日韓大会のいくつかの成功のうち、特筆すべきは、日韓両国民の親和性の獲得だろう。日韓大会以降、両国の文化レベルの交流が急激に進み、両国民の間のわだかまりは緩和された。日韓の相互理解は、ワールドカップ日韓大会の媒介なくしてはあり得なかった。
(5)ナチズムの呪縛からの解放――ドイツ大会
続く2006年ドイツ大会は、東西ドイツの統合をいっそう進めた。74年の西ドイツ大会は東西の融合の阻害要因ではなかったが、ドイツ統合の契機とはならなかった。
こんなエピソードがある。南アフリカ大会開催直前、TVのワールドカップ特集番組に出演したドイツ人女性は、次のような意味の発言をした。「(ワールドカップのすばらしさはいろいろあるけれど、)ドイツ大会の成功により、わたしたちドイツ国民が旗を振って集まっても、ヨーロッパの人から不審な目でみられなくなったのよね」。日本語堪能なドイツ人女性のこのコメントに、筆者は、目から鱗が落ちる思いがした。
アジアに住む人間には理解しにくいコメントだが、ヨーロッパ諸国におけるナチズムの記憶は、2006年(ワールドカップドイツ大会)をもって、ほぼ消滅したといっても過言でない。また、別言すれば、2006年、ヨーロッパの人々がナチズムの記憶を消し去ったというよりも、ドイツ人自身がナチスの呪縛から解放されたといったほうがいいのかもしれない。
そして南アフリカ大会である。この大会の政治的成功については、言うまでもない。第二次世界大戦以降、この国が行ってきた人種隔離政策に代表される同国に係るマイナスイメージは、本大会の成功をもって、ほぼ、表層的には国際的レベルで払拭された。ワールドカップの成功が、南アフリカに対して、国際舞台における一定の地位を約束したはずだ。
(6)政治的・国家的に勝利を求められる代表チーム
■スーパースター依存は失敗のもと
これほどまでのサクセスストーリーを提供するワールドカップ。代表チームには勝利が求められる。ワールドカップに出場する各国代表チームは、必勝という重荷を背負い、これまでの牧歌的戦術――顔見世興行――を変更せざるを得なくなった。必勝に向け、戦略・戦術の転換を強いられた。
必勝のための戦略転換とは、組織・規律・チームプレーの徹底だ。スーパースターに依存するだけの代表チームでは勝てなくなった。代表チーム=寄せ集め集団を、短期間に強いチーム(組織)として機能させるノウハウ(をもった指揮官)が、求められるようになった。40年以上も優勝から遠ざかっているイングランド(サッカー協会)が、カッペロというイタリア人に指揮を託した理由の1つもそこにある(結果は失敗に終わったが)。こうして、メッシ、カカ、C・ロナウドらの現代のスーパースターたちは、マラドーナ、クライフ、ベッケンバウアーといった、過去のワールドカップ英雄伝説の再現を為し得なかった。むしろ、スーパースター依存が勝負にはマイナスとなったのだ。
■スペイン方式――最強クラブ依存型の台頭
今回優勝したスペイン代表は、前出のイングランド代表と似たような環境におかれていた。スペインという国民国家がもちろん存在していて、マドリードを首都とする。しかし、マドリードに対して、バルセロナを首都とするカタルーニャ(という国家)があり、東部山岳地帯にはバスク(という国家内国家)がある。彼らはスペインからの独立をいまなお、強く望んでいる。そのため、これまで、スペインは優勝する実力がありながら、統一チームとしては脆弱だった。それを克服したのが南ア大会のスペイン代表チームだった。
スペインは、(カタルーニャという国内国家の首都に設立された)FCバルセロナという世界で最強の1つのクラブチームに所属する選手を中心にして、代表チームを組成した。オランダとの決勝戦に先発出場した選手のうち、FCバルセロナ以外の選手は、レアルマドリード所属のGKカシージャス、DFラモス、MFのXアロンソの3人と、ビジャレアル所属のDFカプデビラ、バレンシア所属のビリャの5人だった。
それ以外、DFピケ、DFプジョール、MFブスケッツ、MFペドロ、MFシャビ、MFイニエスタがバルセロナFC所属である。
スペイン代表の主力を構成するクラブは、FCバルセロナ(6名)、レアルマドリード(3名)、ビジャレアル・バレンシア(各1名)の4クラブで、FCバルセロナという単一クラブに完全に依存した代表チームであったことは容易に理解できる。
■イングランド方式の失敗――ドリームチームをつくったから勝てるとは限らない
その一方、相変わらずのビッグネームの集積がイングランドだった。ラウンド16でイングランドがドイツに負けた試合の先発メンバーをおさらいしておこう。GKジェームス(ポーツマス)、DFコール(チェルシー)、DFテリー(チェルシー)、DFアッブソン(ウエストハム)、DFジョンソン(リヴァプール)、MFジェラード(リヴァプール)、MFバリー(マンチェスターユナイテッド)、MFランパート(チェルシー)、MFミルナー(アストンビラ)、FWルーニー(マンチェスターユナイテッド)、デフォー(トッテナム)。イングランドも先発全員が自国リーグ(イングランドプレミア)で、他国リーグでプレーする代表選手はいない。しかし、クラブ別に見ると、チェルシー3人、リヴァプール2人、マンチェスターユナイテッド2人、ポーツマス・ウエストハム・マンチェスターシティー・アストンビラ・トッテナム各1人と、完全な分散化傾向を示している。
そればかりではない。イングランドプレミアが、そのローカル性ゆえ、無原則的コスモポリタン性へと進化し(国民国家の制約をうけにくいがゆえに)、同リーグの有力クラブでは、外国人選手ばかりが試合に出場するという、珍現象が生じている。欧州最強リーグの1つであるイングランドプレミアにイングランド人がいないというわけだ。それゆえ、イングランドは代表試合で勝てない、という指摘もある。
しかも、ヨーロッパの各国リーグ最終節は、概ね5月中旬(イングランドプレミアの場合、たとえば、チェルシーの最終節は5月10日、FAカップのチェルシーとポーツマスの対戦が5月15日)であった。ワールドカップ開催日(グループリーグ第1試合開催を起算日として)が6月10日だったから、準備期間は1ヶ月を切っている。イングランドの場合は、寄せ集めのチームにして、代表チームとしての準備期間は1月弱と短い。
そこで思いだされるのが、イングランド―日本の強化試合(5月30日/オーストリア、グラーツ)だ。筆者は、5月31日付の別コラムにおいて、「いまのイングランドなら韓国のほうが強い」を書いた。強化試合の結果は、日本代表のオウンゴールでイングランドが逆転勝ちしたが、イングランドの内容は悪かった。いまにして思えば、イングランドの調整はあのとき、筆者が受けた印象のとおり、けして万全ではなかったのだ。
ワールドカップ出場国には、スペイン方式とイングランド方式があり、両者の比較においては、イングランド方式ではワールドカップに勝てないことがわかってきた。といよりも、イングランドサッカー界は、グローバルスタンダードとかけ離れすぎている。
さりとて、スペイン方式とは、自国リーグが世界最高レベルの1つであるという条件により成り立つ。しかも、その中の最強クラブの1つFCバルセロナに依存したものだ。この方式はむしろ、例外だといえるかもしれない。
(7)ドイツはブラジルと互角の実力者
今回のワールドカップでは、優勝したスペインと並んで、オランダ、ドイツが優秀な成績をおさめた。この2国は、スペイン、イングランドの2方式とは異なる代表強化を行った。オランダの場合は、突出した攻撃陣のタレント(ロッベン、ファンペルシー、カイト、スナイデル等)を擁しており、しかも、戦術として、古典的分業制を貫き、それが結果として、好成績につながった。オランダには代表チームづくりのフォーミュラーがない、と確言できないものの、今大会の強さの継続性は乏しかろう。あれほどのタレントが代表チームに結集することは、そう何度もあることではない。オランダは、今世紀最大のチャンスを逃した。
ドイツは今大会、オランダより下位に甘んじたものの、ドイツこそが、ワールドカップ最強国の1つなのだ。第二次大戦後、ワールドカップは14回開催されたが、ドイツは、うち(西ドイツ時代を含めて)、優勝3回、準優勝4回、3位3回、4位1回という、驚異的成績をあげている。ベスト4をカウントすると、大会14回のうち11回だ。サッカー王国ブラジルは優勝5回、準優勝2回、3位1回、4位1回となり、ベスト4の合計は9回と、ドイツを下回る。ドイツは優勝回数でこそブラジルを下回るが、決勝進出回数で互角、ベスト4進出回数ならば、ドイツのほうがブラジルより2回多い。つまり、ワールドカップの主役はブラジルとドイツなのだ。日本がナショナルチームをつくるうえでの指針とすべきは、ドイツかブラジルかと問われれば、当然のことながら、ドイツだと回答すべきだ。ブラジルはなんといっても、天才の国なのだから、どこも真似できない。
(8)ドイツに肩を並べた日本型システム
今大会優勝国のスペインだが、日本は、スペイン方式を真似したくても真似できない。そのことは、既に見たとおり。Jリーグがスペインリーグと同じレベルに到達するには、まだまだかなりの時間を要する。今回準優勝のオランダもスペインとは違った意味において、日本から遠い。イングランドは環境が違いすぎる。国家組成の歴史的規定により、ワールドカップがナショナルプロジェクトになりにくい。
となると、ヨーロッパから1国を選べば、フォーミュラーとして学ぶべきはドイツということになる。もちろん、ドイツと日本とでは、身長・体重等の体格の面の差があり、戦術的共有はあり得ない。しかし、代表チームの組成技術という面においては、ドイツこそが日本の指針であり、しかも、今大会、日本がベスト16入りを果たせたということは、組織づくりという側面で、日本がドイツに近いレベルに到達したことを証明している。
世界、とりわけ欧州が日本のグループリーグ(E組)突破を驚きをもって迎えたのは、理由がある。日本という個の力量に乏しいチームが、日本を上回る戦力をもったカメルーン、デンマークに勝ったことに驚いたのだ。欧州各国は、100年以上の歴史をもつプロのサッカーリーグを有している。サッカーを見る目は肥えているはずなのだが、近年、欧州サッカーがビッグクラブ中心に回っているため、欧州のメディア及びサポーターがサッカーの本質を忘れかけてしまったようだ。リーグ戦が一流クラブのスター選手を中心に展開しているため、ワールドカップもそのように見てしまったのだ。そのため、サッカーが本来もっている、組織性、集団性、規律、統一された戦術眼の有無等に配慮しなくなったのだ。いや、クラブ戦では、厳しく組織性・集団性に目配りしながら、ワールドカップでは、その視点を曇らせた。
その間隙をついて、グループリーグを勝ち上がったのが、南米の中堅国(ウルグアイ、パラグアイ、チリ)であり、欧州の小国(スロベニア、スロバキア)であり、アジアの日韓であった。
(9)より強化されると予想される、世界各国の代表チームづくり
フランス、イタリアの敗退を含めて、世界各国は、ワールドカップへの取組み方について、根本的見直しを始めることだろう。リーグ戦を縮減してまでワールドカップを支援するかどうかまでは判然としないものの、ワールドカップへのマイナス要素を、いくらかでも排除しようと努めるだろう。その結果として、2014年には、日本が南アフリカで勝ち取った「ベスト16」に至るシナリオが時代遅れになる可能性も十二分にあり得る。日本が南アフリカの成功事例に固執する限り、4年後のブラジルでは、地獄に堕ちる。南アフリカの実績は、ブラジルにおける成功の条件の阻害物になるとも限らない。
日本がブラジルで成功するためには、もてる情報を駆使して、最高の指揮官を探すことだ。オシムを日本に連れてきたのは、日本のサッカー協会ではなく、ジェフユナイテッド千葉というクラブチームだった。2002年日韓大会終了後、日本サッカー協会幹部の頭の中には、オシムの「オ」の字もなかった。2002~2006年までのジーコ監督の時代は、「失われた4年」という表現こそが相応しい。2010年以後――ポスト岡田をだれにするか――代表監督次第で、2014年の結果が左右される。
経済のグローバル化の進行と、その裏腹に惹起する世界金融危機が断続的に人々の暮らしを襲っている。そうした状況下、国別に戦われるワールドカップは、国民国家の擬似的復権を表象しているかのようだ。ワールドカップとは、失われた国家と国民の一体感を再び獲得する、疑似イベントとなったようだ。
(1)国家的プロジェクトとしての代表チームづくり
ワールドカップを巡って、世界のサッカー界は、2つの異なる立場を明らかにした。1つは、ワールドカップを国家的プロジェクトとしてとらえるものであり、一方は、旧来どおり、スターの寄せ集めチームとして大会に臨む立場だ。前者は、ワールドカップでの好成績がサッカー協会の利益のみならず、国家・国民・政府の利益に通じることを理解している。たとえば、南ア大会途中に崩壊したフランスチームの代表監督は、フランス大統領に、直接、電話で代表チームの混乱状況を説明しなければならなかった。また、今大会中、ドイツの首相、オランダ王室、アメリカの元大統領等の要人が、スタジアムに散見された。国家とワールドカップが一体であることは、このようなことから説明できる。
(2)代表強化を為し得ない国家事情
ワールドカップにおける代表チームの成功は、その国家の成功に通じている――サッカーは政治(統治)の一手段になった。もちろん、そのようなレベルに至らない国家もある。アフリカ勢がその代表的存在だ。とりわけ、ブラックアフリカ諸国は、国内リーグの基盤が脆弱であり、かつ、ナショナルチームづくりに必要なノウハウ、資金、システムが整備されていない。国民が自国代表チームのワールドカップにおける活躍を望みながら、国家がそれを支援するパワーを持っていない。
先進国の中で、国家と代表が一体化しえない事例として、英国の事情を挙げておく。英国は、イングランド、スコットランド、ウエールズ、北アイルランドと、代表権が分散している。イングランドは英国の代表ではない。イングランドの成功を望むのは、英国民の一部にすぎない。
もちろん、イングランドのプレミアは、英国内の他のリーグを、その規模、選手層、チームの実力において、大きく上回っている。中村俊輔がプレーしたスコットランドリーグの実力は、イングランドのプレミアリーグと比較すれば、はるかに下のレベルにある。
イングランドのプレミアが英国最強リーグであり、イングランド代表は英国内の他の代表の実力を大きく上回っている。だが、過去のワールドカップにおいて、イングランドが優勝したのは1966年のイングランド開催のみであることに注目していい。イングランド代表はローカル代表であり、国家を背負っていない、というよりも、国家を背負いきれない国情にある。
(3)代表チームを支援するのは民力
ここでいう国家とは、政府という意味ではない。行政を含めた経済力、生活レベル、情報整備網、地域の統合の具合、スポーツ文化等を総合したもの――民力をいう。であるから、ここでいう国家的プロジェクトとは、かつての社会主義国家群が行ったステートアマチュアとは異なる。代表選手を育成するのは私的所有のクラブであり、それを束ねるのは民間のサッカー協会であり、資金は企業が提供するスポンサー契約が土台となる。加えて、代表チームに対して国民的支援を募り、かつ、それを増幅するのは国家のプロパガンダによるものではなく、民間のスポーツ情報産業(メディア)が担う。アフリカ勢は、以上の要素のいずれもが自国内に構築できていない。
(4)ワールドカップの転換点――21世紀最初の日韓大会がもたらしたもの
サッカーが国家的プロジェクトへと成長したのはいつごろなのか。筆者の直感ではかなり最近のことで、21世紀から(2002年の日韓大会)だと思う。20世紀最後の1998年フランス大会では、フランスが優勝しながら、同国内の右派が移民を主体とした自国ナショナルチームに不当な批判を加えた。このことは、ワールドカップの(フランス)代表チームは、国民(国家)から、完全な負託を得ていないことを象徴する。20世紀末、ワールドカップは、サッカーの国際大会の域を脱していなかった。
21世紀最初の日韓大会のいくつかの成功のうち、特筆すべきは、日韓両国民の親和性の獲得だろう。日韓大会以降、両国の文化レベルの交流が急激に進み、両国民の間のわだかまりは緩和された。日韓の相互理解は、ワールドカップ日韓大会の媒介なくしてはあり得なかった。
(5)ナチズムの呪縛からの解放――ドイツ大会
続く2006年ドイツ大会は、東西ドイツの統合をいっそう進めた。74年の西ドイツ大会は東西の融合の阻害要因ではなかったが、ドイツ統合の契機とはならなかった。
こんなエピソードがある。南アフリカ大会開催直前、TVのワールドカップ特集番組に出演したドイツ人女性は、次のような意味の発言をした。「(ワールドカップのすばらしさはいろいろあるけれど、)ドイツ大会の成功により、わたしたちドイツ国民が旗を振って集まっても、ヨーロッパの人から不審な目でみられなくなったのよね」。日本語堪能なドイツ人女性のこのコメントに、筆者は、目から鱗が落ちる思いがした。
アジアに住む人間には理解しにくいコメントだが、ヨーロッパ諸国におけるナチズムの記憶は、2006年(ワールドカップドイツ大会)をもって、ほぼ消滅したといっても過言でない。また、別言すれば、2006年、ヨーロッパの人々がナチズムの記憶を消し去ったというよりも、ドイツ人自身がナチスの呪縛から解放されたといったほうがいいのかもしれない。
そして南アフリカ大会である。この大会の政治的成功については、言うまでもない。第二次世界大戦以降、この国が行ってきた人種隔離政策に代表される同国に係るマイナスイメージは、本大会の成功をもって、ほぼ、表層的には国際的レベルで払拭された。ワールドカップの成功が、南アフリカに対して、国際舞台における一定の地位を約束したはずだ。
(6)政治的・国家的に勝利を求められる代表チーム
■スーパースター依存は失敗のもと
これほどまでのサクセスストーリーを提供するワールドカップ。代表チームには勝利が求められる。ワールドカップに出場する各国代表チームは、必勝という重荷を背負い、これまでの牧歌的戦術――顔見世興行――を変更せざるを得なくなった。必勝に向け、戦略・戦術の転換を強いられた。
必勝のための戦略転換とは、組織・規律・チームプレーの徹底だ。スーパースターに依存するだけの代表チームでは勝てなくなった。代表チーム=寄せ集め集団を、短期間に強いチーム(組織)として機能させるノウハウ(をもった指揮官)が、求められるようになった。40年以上も優勝から遠ざかっているイングランド(サッカー協会)が、カッペロというイタリア人に指揮を託した理由の1つもそこにある(結果は失敗に終わったが)。こうして、メッシ、カカ、C・ロナウドらの現代のスーパースターたちは、マラドーナ、クライフ、ベッケンバウアーといった、過去のワールドカップ英雄伝説の再現を為し得なかった。むしろ、スーパースター依存が勝負にはマイナスとなったのだ。
■スペイン方式――最強クラブ依存型の台頭
今回優勝したスペイン代表は、前出のイングランド代表と似たような環境におかれていた。スペインという国民国家がもちろん存在していて、マドリードを首都とする。しかし、マドリードに対して、バルセロナを首都とするカタルーニャ(という国家)があり、東部山岳地帯にはバスク(という国家内国家)がある。彼らはスペインからの独立をいまなお、強く望んでいる。そのため、これまで、スペインは優勝する実力がありながら、統一チームとしては脆弱だった。それを克服したのが南ア大会のスペイン代表チームだった。
スペインは、(カタルーニャという国内国家の首都に設立された)FCバルセロナという世界で最強の1つのクラブチームに所属する選手を中心にして、代表チームを組成した。オランダとの決勝戦に先発出場した選手のうち、FCバルセロナ以外の選手は、レアルマドリード所属のGKカシージャス、DFラモス、MFのXアロンソの3人と、ビジャレアル所属のDFカプデビラ、バレンシア所属のビリャの5人だった。
それ以外、DFピケ、DFプジョール、MFブスケッツ、MFペドロ、MFシャビ、MFイニエスタがバルセロナFC所属である。
スペイン代表の主力を構成するクラブは、FCバルセロナ(6名)、レアルマドリード(3名)、ビジャレアル・バレンシア(各1名)の4クラブで、FCバルセロナという単一クラブに完全に依存した代表チームであったことは容易に理解できる。
■イングランド方式の失敗――ドリームチームをつくったから勝てるとは限らない
その一方、相変わらずのビッグネームの集積がイングランドだった。ラウンド16でイングランドがドイツに負けた試合の先発メンバーをおさらいしておこう。GKジェームス(ポーツマス)、DFコール(チェルシー)、DFテリー(チェルシー)、DFアッブソン(ウエストハム)、DFジョンソン(リヴァプール)、MFジェラード(リヴァプール)、MFバリー(マンチェスターユナイテッド)、MFランパート(チェルシー)、MFミルナー(アストンビラ)、FWルーニー(マンチェスターユナイテッド)、デフォー(トッテナム)。イングランドも先発全員が自国リーグ(イングランドプレミア)で、他国リーグでプレーする代表選手はいない。しかし、クラブ別に見ると、チェルシー3人、リヴァプール2人、マンチェスターユナイテッド2人、ポーツマス・ウエストハム・マンチェスターシティー・アストンビラ・トッテナム各1人と、完全な分散化傾向を示している。
そればかりではない。イングランドプレミアが、そのローカル性ゆえ、無原則的コスモポリタン性へと進化し(国民国家の制約をうけにくいがゆえに)、同リーグの有力クラブでは、外国人選手ばかりが試合に出場するという、珍現象が生じている。欧州最強リーグの1つであるイングランドプレミアにイングランド人がいないというわけだ。それゆえ、イングランドは代表試合で勝てない、という指摘もある。
しかも、ヨーロッパの各国リーグ最終節は、概ね5月中旬(イングランドプレミアの場合、たとえば、チェルシーの最終節は5月10日、FAカップのチェルシーとポーツマスの対戦が5月15日)であった。ワールドカップ開催日(グループリーグ第1試合開催を起算日として)が6月10日だったから、準備期間は1ヶ月を切っている。イングランドの場合は、寄せ集めのチームにして、代表チームとしての準備期間は1月弱と短い。
そこで思いだされるのが、イングランド―日本の強化試合(5月30日/オーストリア、グラーツ)だ。筆者は、5月31日付の別コラムにおいて、「いまのイングランドなら韓国のほうが強い」を書いた。強化試合の結果は、日本代表のオウンゴールでイングランドが逆転勝ちしたが、イングランドの内容は悪かった。いまにして思えば、イングランドの調整はあのとき、筆者が受けた印象のとおり、けして万全ではなかったのだ。
ワールドカップ出場国には、スペイン方式とイングランド方式があり、両者の比較においては、イングランド方式ではワールドカップに勝てないことがわかってきた。といよりも、イングランドサッカー界は、グローバルスタンダードとかけ離れすぎている。
さりとて、スペイン方式とは、自国リーグが世界最高レベルの1つであるという条件により成り立つ。しかも、その中の最強クラブの1つFCバルセロナに依存したものだ。この方式はむしろ、例外だといえるかもしれない。
(7)ドイツはブラジルと互角の実力者
今回のワールドカップでは、優勝したスペインと並んで、オランダ、ドイツが優秀な成績をおさめた。この2国は、スペイン、イングランドの2方式とは異なる代表強化を行った。オランダの場合は、突出した攻撃陣のタレント(ロッベン、ファンペルシー、カイト、スナイデル等)を擁しており、しかも、戦術として、古典的分業制を貫き、それが結果として、好成績につながった。オランダには代表チームづくりのフォーミュラーがない、と確言できないものの、今大会の強さの継続性は乏しかろう。あれほどのタレントが代表チームに結集することは、そう何度もあることではない。オランダは、今世紀最大のチャンスを逃した。
ドイツは今大会、オランダより下位に甘んじたものの、ドイツこそが、ワールドカップ最強国の1つなのだ。第二次大戦後、ワールドカップは14回開催されたが、ドイツは、うち(西ドイツ時代を含めて)、優勝3回、準優勝4回、3位3回、4位1回という、驚異的成績をあげている。ベスト4をカウントすると、大会14回のうち11回だ。サッカー王国ブラジルは優勝5回、準優勝2回、3位1回、4位1回となり、ベスト4の合計は9回と、ドイツを下回る。ドイツは優勝回数でこそブラジルを下回るが、決勝進出回数で互角、ベスト4進出回数ならば、ドイツのほうがブラジルより2回多い。つまり、ワールドカップの主役はブラジルとドイツなのだ。日本がナショナルチームをつくるうえでの指針とすべきは、ドイツかブラジルかと問われれば、当然のことながら、ドイツだと回答すべきだ。ブラジルはなんといっても、天才の国なのだから、どこも真似できない。
(8)ドイツに肩を並べた日本型システム
今大会優勝国のスペインだが、日本は、スペイン方式を真似したくても真似できない。そのことは、既に見たとおり。Jリーグがスペインリーグと同じレベルに到達するには、まだまだかなりの時間を要する。今回準優勝のオランダもスペインとは違った意味において、日本から遠い。イングランドは環境が違いすぎる。国家組成の歴史的規定により、ワールドカップがナショナルプロジェクトになりにくい。
となると、ヨーロッパから1国を選べば、フォーミュラーとして学ぶべきはドイツということになる。もちろん、ドイツと日本とでは、身長・体重等の体格の面の差があり、戦術的共有はあり得ない。しかし、代表チームの組成技術という面においては、ドイツこそが日本の指針であり、しかも、今大会、日本がベスト16入りを果たせたということは、組織づくりという側面で、日本がドイツに近いレベルに到達したことを証明している。
世界、とりわけ欧州が日本のグループリーグ(E組)突破を驚きをもって迎えたのは、理由がある。日本という個の力量に乏しいチームが、日本を上回る戦力をもったカメルーン、デンマークに勝ったことに驚いたのだ。欧州各国は、100年以上の歴史をもつプロのサッカーリーグを有している。サッカーを見る目は肥えているはずなのだが、近年、欧州サッカーがビッグクラブ中心に回っているため、欧州のメディア及びサポーターがサッカーの本質を忘れかけてしまったようだ。リーグ戦が一流クラブのスター選手を中心に展開しているため、ワールドカップもそのように見てしまったのだ。そのため、サッカーが本来もっている、組織性、集団性、規律、統一された戦術眼の有無等に配慮しなくなったのだ。いや、クラブ戦では、厳しく組織性・集団性に目配りしながら、ワールドカップでは、その視点を曇らせた。
その間隙をついて、グループリーグを勝ち上がったのが、南米の中堅国(ウルグアイ、パラグアイ、チリ)であり、欧州の小国(スロベニア、スロバキア)であり、アジアの日韓であった。
(9)より強化されると予想される、世界各国の代表チームづくり
フランス、イタリアの敗退を含めて、世界各国は、ワールドカップへの取組み方について、根本的見直しを始めることだろう。リーグ戦を縮減してまでワールドカップを支援するかどうかまでは判然としないものの、ワールドカップへのマイナス要素を、いくらかでも排除しようと努めるだろう。その結果として、2014年には、日本が南アフリカで勝ち取った「ベスト16」に至るシナリオが時代遅れになる可能性も十二分にあり得る。日本が南アフリカの成功事例に固執する限り、4年後のブラジルでは、地獄に堕ちる。南アフリカの実績は、ブラジルにおける成功の条件の阻害物になるとも限らない。
日本がブラジルで成功するためには、もてる情報を駆使して、最高の指揮官を探すことだ。オシムを日本に連れてきたのは、日本のサッカー協会ではなく、ジェフユナイテッド千葉というクラブチームだった。2002年日韓大会終了後、日本サッカー協会幹部の頭の中には、オシムの「オ」の字もなかった。2002~2006年までのジーコ監督の時代は、「失われた4年」という表現こそが相応しい。2010年以後――ポスト岡田をだれにするか――代表監督次第で、2014年の結果が左右される。
2010年7月13日火曜日
『隼人世界の島々(「海と列島文化」第5巻)』
●大林太良ほか[著] ●小学館 ●6311円(税別)
本書にて扱われる地域は九州南部の日向・大隈(宮崎県)、薩摩(鹿児島県)、そして、薩南諸島の島々――甑島、種子島、屋久島、トカラ列島の口之島、臥蛇島、宝島等までで、奄美大島以南は含まれない。
■西海大海島帯
本題にあるとおり、列島の神話時代、同地域は隼人(=クマソ)の勢力圏にあって、後代、大和朝廷勢力が、同勢力を服属させたことになっている。しかしながら、日本神話においては日向こそが大和朝廷勢力の本貫(籍)であったことがうかがえる。また、いくつかの神話の意味するものは、日向に起った一部族(=後に大和朝廷勢力に成長)が、九州南部の先住的勢力と合体し、東征して大和に入った、もしくは、先住勢力の支援を受け、大和へ勢力を伸張させた、と推測されている。
九州南部の先住勢力は、「西海大海島帯」と呼ばれる圏域に属していて、南から、台湾~琉球諸島~南西諸島~奄美諸島~トカラ列島~大隈諸島~甑島~大隈半島~五島列島~壱岐~対馬を経て、朝鮮半島南部に至る島と半島で構成される。その距離は、本州南部から北部までに相当する。隼人=クマソは、「西海大海島帯」に発達した南方海洋起源の勢力の北部住民の別称であろうか。ちなみに、大和朝廷勢力は、この勢力のことを征服前は「クマソ」と、また、征服後は「隼人」と呼んだ。
■種子島に伝わる赤米と踏耕(ホイトウ)
日本列島の水田から姿を消した赤米が、「西海大海島帯」の種子島の宝満神社と、もう一箇所、対馬の多久頭魂神社において、いまなお、栽培され続けている。赤米は、アジア各地で栽培されている「インディカ」、また、日本で一般的な「ジャポニカ」とは種を異にし、「ジャパニカ」に近いとされる。「ジャパニカ」は、その名のとおり、中部ジャワ、さらに東方のインドネシア島嶼域にかけて分布する「ブル」の仲間である。赤米は、ラオス(ビエンチャン)北東部、インド東北部アッサム地方に分布する陸稲兼用種にも近いという。
このことから、種子島に伝えられた赤米が、インド東北部、東南アジアもしくはインドネシアを起源とする種類の稲であり、前出の「西海大海島帯」を北上して、日本にもたらされた可能性を否定できない。「稲の道」の1つ、南方ルートである。
種子島には明治時代まで、踏耕(ホイトウ)と呼ばれる農耕技術が残されていた。「ホイトウ」とは一般には、踏耕(とうこう)、蹄耕(ていこう)といい、何頭かの馬または牛を水を入れた田に追い込んで踏ませ、水田の土を柔らかくし、また床締めをする作業のこと。東南アジアの観光写真等ではおなじみの風景だが、こうした技術が南方を起源として、日本列島にもたらされたと考えるほうが自然である。
ブルの米と踏耕(ホイトウ)は、西はマダガスカルからスリランカ、タイ、マレー、インドネシア島嶼地域、フィリピン、そして「西海大海島帯」(前出のとおり日本では琉球諸島から奄美、トカラ、九州南部を経て日本列島を北上)につながっている。その風景を、マレー・ポリネシア語族の生活空間としてくくり、「オーストロネシア的稲作」と呼ぶ。
■薩南諸島の仮面文化
薩南諸島の仮面文化としては、甑島南部の「トシドン」、トカラ列島・悪石島の「ボゼ」種子島の「トシトイドン」、屋久島の「トシノカンサマ」、三島・竹島の「タカメン」「カズラメン」硫黄島の「メンドン」などがよく知られている。いずれも異形の仮面の来訪神で、長い鼻をもち、蓑で体を覆っている。これらの仮面のデザイン上のルーツについてはよく、分かっていない。また、南九州の海沿い各地には、草被り神、竜神信仰=綱引きが盛んである。
■大和と琉球の境界という概念は危険
本書が扱う圏域を「大和文化圏」、その南側、すなわち、奄美諸島以南を「琉球文化圏」とする認識は、正確ではない。日本列島に特徴的な文化の基層に「西海大海島帯」の文化があり、そこから後年、「大和文化圏」と「琉球文化圏」に分離、発展した時代が続いたまでである。その結果として、奄美諸島以南は琉球的発展を示し、トカラ列島以北は大和的発展をみせた。そのため、トカラ列島、奄美諸島には、双方の融合が見られることもあるし、島内のある地域は大和的であったり、琉球的であったりすることもあり得た。
日本神話(記紀等)にある南方的・海洋的要素を読み解く努力が必要である。
本書にて扱われる地域は九州南部の日向・大隈(宮崎県)、薩摩(鹿児島県)、そして、薩南諸島の島々――甑島、種子島、屋久島、トカラ列島の口之島、臥蛇島、宝島等までで、奄美大島以南は含まれない。
■西海大海島帯
本題にあるとおり、列島の神話時代、同地域は隼人(=クマソ)の勢力圏にあって、後代、大和朝廷勢力が、同勢力を服属させたことになっている。しかしながら、日本神話においては日向こそが大和朝廷勢力の本貫(籍)であったことがうかがえる。また、いくつかの神話の意味するものは、日向に起った一部族(=後に大和朝廷勢力に成長)が、九州南部の先住的勢力と合体し、東征して大和に入った、もしくは、先住勢力の支援を受け、大和へ勢力を伸張させた、と推測されている。
九州南部の先住勢力は、「西海大海島帯」と呼ばれる圏域に属していて、南から、台湾~琉球諸島~南西諸島~奄美諸島~トカラ列島~大隈諸島~甑島~大隈半島~五島列島~壱岐~対馬を経て、朝鮮半島南部に至る島と半島で構成される。その距離は、本州南部から北部までに相当する。隼人=クマソは、「西海大海島帯」に発達した南方海洋起源の勢力の北部住民の別称であろうか。ちなみに、大和朝廷勢力は、この勢力のことを征服前は「クマソ」と、また、征服後は「隼人」と呼んだ。
■種子島に伝わる赤米と踏耕(ホイトウ)
日本列島の水田から姿を消した赤米が、「西海大海島帯」の種子島の宝満神社と、もう一箇所、対馬の多久頭魂神社において、いまなお、栽培され続けている。赤米は、アジア各地で栽培されている「インディカ」、また、日本で一般的な「ジャポニカ」とは種を異にし、「ジャパニカ」に近いとされる。「ジャパニカ」は、その名のとおり、中部ジャワ、さらに東方のインドネシア島嶼域にかけて分布する「ブル」の仲間である。赤米は、ラオス(ビエンチャン)北東部、インド東北部アッサム地方に分布する陸稲兼用種にも近いという。
このことから、種子島に伝えられた赤米が、インド東北部、東南アジアもしくはインドネシアを起源とする種類の稲であり、前出の「西海大海島帯」を北上して、日本にもたらされた可能性を否定できない。「稲の道」の1つ、南方ルートである。
種子島には明治時代まで、踏耕(ホイトウ)と呼ばれる農耕技術が残されていた。「ホイトウ」とは一般には、踏耕(とうこう)、蹄耕(ていこう)といい、何頭かの馬または牛を水を入れた田に追い込んで踏ませ、水田の土を柔らかくし、また床締めをする作業のこと。東南アジアの観光写真等ではおなじみの風景だが、こうした技術が南方を起源として、日本列島にもたらされたと考えるほうが自然である。
ブルの米と踏耕(ホイトウ)は、西はマダガスカルからスリランカ、タイ、マレー、インドネシア島嶼地域、フィリピン、そして「西海大海島帯」(前出のとおり日本では琉球諸島から奄美、トカラ、九州南部を経て日本列島を北上)につながっている。その風景を、マレー・ポリネシア語族の生活空間としてくくり、「オーストロネシア的稲作」と呼ぶ。
■薩南諸島の仮面文化
薩南諸島の仮面文化としては、甑島南部の「トシドン」、トカラ列島・悪石島の「ボゼ」種子島の「トシトイドン」、屋久島の「トシノカンサマ」、三島・竹島の「タカメン」「カズラメン」硫黄島の「メンドン」などがよく知られている。いずれも異形の仮面の来訪神で、長い鼻をもち、蓑で体を覆っている。これらの仮面のデザイン上のルーツについてはよく、分かっていない。また、南九州の海沿い各地には、草被り神、竜神信仰=綱引きが盛んである。
■大和と琉球の境界という概念は危険
本書が扱う圏域を「大和文化圏」、その南側、すなわち、奄美諸島以南を「琉球文化圏」とする認識は、正確ではない。日本列島に特徴的な文化の基層に「西海大海島帯」の文化があり、そこから後年、「大和文化圏」と「琉球文化圏」に分離、発展した時代が続いたまでである。その結果として、奄美諸島以南は琉球的発展を示し、トカラ列島以北は大和的発展をみせた。そのため、トカラ列島、奄美諸島には、双方の融合が見られることもあるし、島内のある地域は大和的であったり、琉球的であったりすることもあり得た。
日本神話(記紀等)にある南方的・海洋的要素を読み解く努力が必要である。
2010年7月12日月曜日
W杯決勝と参院選
午前2時すぎに目が覚め、テレビの前へ。すでにW杯中継が始まっていた。現地のスタジオのゲストがヒデ、日本のスタジオのゲストが岡崎。引退した者、現役という立場の違いはあるものの、話し方、内容、表現力において、両者の頭の中の差異が明白。サッカーにはフィジカル以外にセンスだとかコミュニケーション能力も必要なはず。それがプレーやリーダーシップの差となることもある。だれにどうしろとは言わないけれど、身体だけでなく脳も鍛えなければ一流選手にはなれない。
決勝戦は90分で終わらずに延長戦へ。勝負がついたときには、明るくなっていた。オランダは汚いファウルが多い。身体はでかいけれど、サッカーは上手くない。スペインはパスがつながるが、フィニッシュが弱い。一進一退が繰り返され、なんとかスペインが勝った。サッカー中継のあいだいは、参院選の結果に関心が向かわない。
仮眠して目覚めるも、風の強い、曇天は変わらないまま。昨日は、投票に行ったけれど、何かが起るという期待感はない。前日までのマスコミ調査では、民主党が負けると報道されていた。前の衆院選でも調査結果どおりの投票結果となっていたので、今回も臨場感がわかない。
朝刊を見ると、調査結果どおり。こうなると、投票するのが面倒くさい。調査結果どおりになるのは、投票率が5割程度と低いからだろう。投票率が7~8割に達すれば、調査結果と投票結果が異なることも起り得るのではないか。選挙の専門家がいろいろ講釈を垂れるけど、投票率を高くする方法を提案してほしい。国民の半分の半分強、つまり全体の4分の1強の負託しか得ていない者が、国を動かす結果になっている。
決勝戦は90分で終わらずに延長戦へ。勝負がついたときには、明るくなっていた。オランダは汚いファウルが多い。身体はでかいけれど、サッカーは上手くない。スペインはパスがつながるが、フィニッシュが弱い。一進一退が繰り返され、なんとかスペインが勝った。サッカー中継のあいだいは、参院選の結果に関心が向かわない。
仮眠して目覚めるも、風の強い、曇天は変わらないまま。昨日は、投票に行ったけれど、何かが起るという期待感はない。前日までのマスコミ調査では、民主党が負けると報道されていた。前の衆院選でも調査結果どおりの投票結果となっていたので、今回も臨場感がわかない。
朝刊を見ると、調査結果どおり。こうなると、投票するのが面倒くさい。調査結果どおりになるのは、投票率が5割程度と低いからだろう。投票率が7~8割に達すれば、調査結果と投票結果が異なることも起り得るのではないか。選挙の専門家がいろいろ講釈を垂れるけど、投票率を高くする方法を提案してほしい。国民の半分の半分強、つまり全体の4分の1強の負託しか得ていない者が、国を動かす結果になっている。
2010年7月9日金曜日
オレンジ軍団は敗北する
(1)決勝の予想はタコに聞け
W杯はいよいよ決勝戦。オランダ-スペインの欧州勢の対決となった。どちらが勝つのかは、まったく分からない。開催前、筆者が優勝候補に上げたのがイタリア。グループリーグで敗退してしまった。準準決勝のオランダ―ブラジル戦もブラジルの勝ちを予想していた。そればかりではない。いまでは遠い昔のような話になってしまったけれど、グループリーグE組では、日本の敗退を予想していた。
そんなわけで、決勝戦の展開もわからない。ドイツの水族館で飼われているタコの「パオロ」に聞いたほうがいい。それでも敢えて邪推を繰り返せば、オランダが負ける(スペインが勝つのではなく)と思う。その根拠は、オランダと南アフリカの歴史的関係を振り返るが故である。
(2)オランダ人の南ア入植
ご承知のように、南アフリカは、大航海時代(1482)、ポルトガル人バーソロミュー・ディアスにより欧州世界から「発見」され、以降、欧州からの入植が開始された。17世紀、最初に海岸沿いに入植を開始したのがオランダ人で、アフリカ系先住民から土地を奪った。彼らは「アフリカーナー」「ボーア人」と呼ばれた。
次にやってきたのがフランス人(ユグノー)だった。ところが、南アの地勢的重要性に気づいた大英帝国が南ア進出を企てる。大英帝国は先に入植した「アフリカーナー」(オランダ人)を追いたて、追い立てられた「アフリカーナー」は内陸部に進出し、アフリカ系先住民から土地を奪い取った。そして、1852年「アフリカーナー」が内陸部(現在の南アフリカ共和国の首都プレトリアの周辺)に「トランスヴァール共和国(首都プレトリア)」を、1854年「オレンジ自由国(首都ブルームフォンテーン)」を建国した。
(3)オランダの後退と大英帝国の進出
1869年、「オレンジ自由国」の首都ブルームスフォンテーンの北、キンバリーでダイヤモンドの採掘(さいくつ)が開始され、1872年、トランスヴァール東部で金が発見される。そこに生まれた町がヨハネスブルグである。
1880~1881年、第一次ボーア戦争が大英帝国と「アフリカーナー」との間で戦われた。大英帝国が「トランスヴァール共和国」を併合しようとしたのだ。ボーアとは農民の意味で、南アに最初に入植したオランダ人「アフリカーナー」と同じ意味だ。そのためトランスヴァール戦争とも呼ばれる。大英帝国はまず、ケープを占領。本国オランダより植民地譲渡を勝ち取る。その結果、東部海岸沿いのナタール地方が正式に大英帝国の植民地となった。つまりナタール地方とケープ地方は大英帝国系白人が支配し、「トランスヴァール共和国」と「オレンジ自由国」は「アフリカーナー」が支配することになった。
1899年~1902年、大英帝国は、ダイヤモンドと金の採掘権を奪い取ろうと、「オレンジ自由国」および「トランスヴァール共和国」の2つの共和国に侵略する。長い激戦の末、2つの共和国は敗北し、大英帝国に吸収される。この戦争が第二次ボーア戦争である。
(4)血塗られた植民地戦争――大英帝国がオランダ系南ア人を大量殺戮
南アを植民地化してアフリカ系先住民から土地を奪ったオランダ、そして、金、ダイヤモンドの採掘権を奪取しようとしてボーア戦争を仕掛けたイギリス。南アの近世・近代史は、血塗られた歴史にほかならない。なかでも大英帝国側が行ったボーア人殺戮は現代のホロコーストの原型ともいわれている。1900年、英軍司令官のホレイショ・キッチナーは、ゲリラとなったボーア軍支配地域で強制収容所(矯正キャンプ)戦略を展開しはじめる。これによって12万人のボーア人が強制収容所に入れられ、さらに焦土作戦を敢行。広大な農地と農家が焼き払らわれた。この収容所では2万人が死亡したとされる。
(5)オランダ系南ア人の復権と人種隔離政策
第二次世界大戦後、南アの支配はイギリスから「アフリカーナー」勢力に移行し始め、イギリスと強い結びつきを持つイギリス連邦から脱退(1960年)して、国名を「南アフリカ連邦」から「南アフリカ共和国」に変えた。白人政府は、人間を肌の色で区別し、人種ごとに異なる権利と義務を定める人種隔離政策(アパルトヘイト)をおし進めた。
(6)アパルトヘイト政策の撤廃
今日、アパルトヘイト政策は撤廃(1994年)され、すべての南ア人に自由と平等が保障されるようになった、といわれているが、実態はどうなのか。
そんなわけで、南アとオランダは深い結びつきがあり、南アにおけるオランダ系住民の歴史は複雑なものがある。二度のボーア戦争でイギリスに敗れ、南アの支配権を奪われたものの、第二次大戦後に復権、南アに過酷な人種隔離政策を進めたのがオランダ系南ア人である。オランダ系南ア人と現在のオランダ人とは関係がないともいえるし、同胞だともいえる。南アはいってみれば、オランダの“準ホーム”と言えるかもしれない。(筆者としては、植民地を宗主国の“ホーム”と呼ぶことは憚れるが)
(7)オレンジ軍団の敗北――決勝の地は滅亡した「トランスヴァール共和国」
W杯南アフリカ大会決勝は、同国ハウテン州ヨハネスブルグ市にある「サッカーシティースタジアム」で行われる。ヨハネスブルグといえば、前出のとおり、第二次ボーア戦争によって、「アフリカーナー(オランダ系南ア人)」が大英帝国に奪われたトランスヴァール地方に位置する。オランダは再びこの地で「敗北」する(と筆者は思っている)。相手は大英帝国ではなく、スペインではあるが。
なお、オランダ代表のナショナルカラー「オレンジ色」の由来は、オランダ王家の名前(オラニエ=ナッサウ家といい、かつてフランスのオランジュ領主だった)にあるといわれている。ただ、オラニエ、オランジュに「オレンジ色」の意味があるかどうかは、筆者にはわからない。
W杯はいよいよ決勝戦。オランダ-スペインの欧州勢の対決となった。どちらが勝つのかは、まったく分からない。開催前、筆者が優勝候補に上げたのがイタリア。グループリーグで敗退してしまった。準準決勝のオランダ―ブラジル戦もブラジルの勝ちを予想していた。そればかりではない。いまでは遠い昔のような話になってしまったけれど、グループリーグE組では、日本の敗退を予想していた。
そんなわけで、決勝戦の展開もわからない。ドイツの水族館で飼われているタコの「パオロ」に聞いたほうがいい。それでも敢えて邪推を繰り返せば、オランダが負ける(スペインが勝つのではなく)と思う。その根拠は、オランダと南アフリカの歴史的関係を振り返るが故である。
(2)オランダ人の南ア入植
ご承知のように、南アフリカは、大航海時代(1482)、ポルトガル人バーソロミュー・ディアスにより欧州世界から「発見」され、以降、欧州からの入植が開始された。17世紀、最初に海岸沿いに入植を開始したのがオランダ人で、アフリカ系先住民から土地を奪った。彼らは「アフリカーナー」「ボーア人」と呼ばれた。
次にやってきたのがフランス人(ユグノー)だった。ところが、南アの地勢的重要性に気づいた大英帝国が南ア進出を企てる。大英帝国は先に入植した「アフリカーナー」(オランダ人)を追いたて、追い立てられた「アフリカーナー」は内陸部に進出し、アフリカ系先住民から土地を奪い取った。そして、1852年「アフリカーナー」が内陸部(現在の南アフリカ共和国の首都プレトリアの周辺)に「トランスヴァール共和国(首都プレトリア)」を、1854年「オレンジ自由国(首都ブルームフォンテーン)」を建国した。
(3)オランダの後退と大英帝国の進出
1869年、「オレンジ自由国」の首都ブルームスフォンテーンの北、キンバリーでダイヤモンドの採掘(さいくつ)が開始され、1872年、トランスヴァール東部で金が発見される。そこに生まれた町がヨハネスブルグである。
1880~1881年、第一次ボーア戦争が大英帝国と「アフリカーナー」との間で戦われた。大英帝国が「トランスヴァール共和国」を併合しようとしたのだ。ボーアとは農民の意味で、南アに最初に入植したオランダ人「アフリカーナー」と同じ意味だ。そのためトランスヴァール戦争とも呼ばれる。大英帝国はまず、ケープを占領。本国オランダより植民地譲渡を勝ち取る。その結果、東部海岸沿いのナタール地方が正式に大英帝国の植民地となった。つまりナタール地方とケープ地方は大英帝国系白人が支配し、「トランスヴァール共和国」と「オレンジ自由国」は「アフリカーナー」が支配することになった。
1899年~1902年、大英帝国は、ダイヤモンドと金の採掘権を奪い取ろうと、「オレンジ自由国」および「トランスヴァール共和国」の2つの共和国に侵略する。長い激戦の末、2つの共和国は敗北し、大英帝国に吸収される。この戦争が第二次ボーア戦争である。
(4)血塗られた植民地戦争――大英帝国がオランダ系南ア人を大量殺戮
南アを植民地化してアフリカ系先住民から土地を奪ったオランダ、そして、金、ダイヤモンドの採掘権を奪取しようとしてボーア戦争を仕掛けたイギリス。南アの近世・近代史は、血塗られた歴史にほかならない。なかでも大英帝国側が行ったボーア人殺戮は現代のホロコーストの原型ともいわれている。1900年、英軍司令官のホレイショ・キッチナーは、ゲリラとなったボーア軍支配地域で強制収容所(矯正キャンプ)戦略を展開しはじめる。これによって12万人のボーア人が強制収容所に入れられ、さらに焦土作戦を敢行。広大な農地と農家が焼き払らわれた。この収容所では2万人が死亡したとされる。
(5)オランダ系南ア人の復権と人種隔離政策
第二次世界大戦後、南アの支配はイギリスから「アフリカーナー」勢力に移行し始め、イギリスと強い結びつきを持つイギリス連邦から脱退(1960年)して、国名を「南アフリカ連邦」から「南アフリカ共和国」に変えた。白人政府は、人間を肌の色で区別し、人種ごとに異なる権利と義務を定める人種隔離政策(アパルトヘイト)をおし進めた。
(6)アパルトヘイト政策の撤廃
今日、アパルトヘイト政策は撤廃(1994年)され、すべての南ア人に自由と平等が保障されるようになった、といわれているが、実態はどうなのか。
そんなわけで、南アとオランダは深い結びつきがあり、南アにおけるオランダ系住民の歴史は複雑なものがある。二度のボーア戦争でイギリスに敗れ、南アの支配権を奪われたものの、第二次大戦後に復権、南アに過酷な人種隔離政策を進めたのがオランダ系南ア人である。オランダ系南ア人と現在のオランダ人とは関係がないともいえるし、同胞だともいえる。南アはいってみれば、オランダの“準ホーム”と言えるかもしれない。(筆者としては、植民地を宗主国の“ホーム”と呼ぶことは憚れるが)
(7)オレンジ軍団の敗北――決勝の地は滅亡した「トランスヴァール共和国」
W杯南アフリカ大会決勝は、同国ハウテン州ヨハネスブルグ市にある「サッカーシティースタジアム」で行われる。ヨハネスブルグといえば、前出のとおり、第二次ボーア戦争によって、「アフリカーナー(オランダ系南ア人)」が大英帝国に奪われたトランスヴァール地方に位置する。オランダは再びこの地で「敗北」する(と筆者は思っている)。相手は大英帝国ではなく、スペインではあるが。
なお、オランダ代表のナショナルカラー「オレンジ色」の由来は、オランダ王家の名前(オラニエ=ナッサウ家といい、かつてフランスのオランジュ領主だった)にあるといわれている。ただ、オラニエ、オランジュに「オレンジ色」の意味があるかどうかは、筆者にはわからない。
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