2021年4月30日金曜日

やちむんで沖縄時間

 沖縄の民藝 やちむん市(やちむんで沖縄時間)に行ってきた。

やちむんは、素朴だけどモダン、お料理を盛り付けると器も料理も引き立つ不思議な焼きもの。これぞ民藝の底知れぬパワー。

「やちむんで沖縄時間」

日時:2021年4月29日(木)~5月5日(水)13:00~19:00

   ※最終日は17時迄

場所:谷中かなかな(東京都台東区谷中3-2-9)






ゲットした茶碗と中皿


2021年4月26日月曜日

猫は箱で眠る

 しかも、気持ちよさそうに。



2021年4月21日水曜日

映画『きみが死んだあとで』


この映画は、山崎博昭(1948-1967)の短い生涯が閉ざされた1967年10月8日の〈前〉〈当日〉〈それ以降〉ーー別言すれば、戦後、最も高揚した日本の新左翼学生運動の発生、発展、衰退ーーを追ったドキュメンタリーである。私見では忠実にその全貌を描くことに成功している作品だと思われる。ただし、彼が大阪府立大手前高校卒業後、京都大学に進学し、マル学同中核派に入党したことから、関西中核派という党派的特殊性に規定されたところも見受けられる。そのことは後に詳述する。まずはこの映画によって新たに知ったことについて列記していく。

(一)10.8前夜の内ゲバ

全国動員された中核派学生が泊まり込んだ法政大学に向けて、社学同・社青同解放派連合がゲバルトを仕掛けたが未遂に終わった。同連合が押し掛けたのは、その前日(10.6)に中核派と同連合の小競り合いがあったからだという。内ゲバの原因は語られていない。当時は「三派系全学連」とメディアにて報道され、三派は一枚岩のような印象を受けたが、実態としては、10.8から新左翼学生運動が内ゲバを内包していたことに驚いた。

(二)山崎博昭の高校同窓生

佐々木幹郎(詩人・中原中也研究など)、三田誠広(芥川賞作家)、北本修二(弁護士、反橋下徹運動の支援者)、岡龍二(舞踏家)らがいた。なかで佐々木幹朗が新左翼運動体験の詩の作品を残していたことは発見であった。なお映画では、彼らほどの知名度はないが、大手前高校社研の仲間、中核派同志、救援関係者が出演していて、当時の中核派の運動実態に係る貴重な証言を残している。

(三)反原発運動先駆者、水戸巌父子の不審死(1986年)

1970年代初頭からはじまった日本の反原発運動を核物理学者という立場から支援した水戸巌と2人の息子の謎の死である。水戸巌の妻である喜世子が救援対策事務局を務めていて、負傷した学生らの実態を語るインタビューの延長で、夫と2人の息子が冬山で遭難死したことが語られた。巌が反原発運動に係わりだした途端、水戸の家には不審電話が一日何本もかかってきたばかりか、巌と喜代子には不気味な尾行が着くのが日常茶飯事だったという。水戸一家は幾度か引越しをして用心を重ねたが・・・

残された喜代子は、遭難現場は3人揃って滑落等の遭難を起こす場所ではないこと、息子2人も原子物理学を志し、反原発運動に参加をしていたこと、冬山登山には、富山県警に登山計画書を事前に提出すること――などから、原発推進派が巌父子の行動を把握したうえで刺客を送ったことを示唆していた。この証言は衝撃的で、水戸巌という反原発運動の先駆者がいたことも、父子ともども怪死をとげたことも知らなかった。新左翼運動とは直接の関係はないが、原発の深い闇のひとつだろう。真相を知りたいものだ。

(四)関西中核派の特殊性について

山崎博昭の高校の先輩で、10.8羽田闘争の同派リーダー、かつ、1993年まで革共同中核派に属していた赤松英一、岡山大学の同派リーダーであった島元健作、高校同期で浪人して山崎より1年遅れで同志社大学に進学した前出の佐々木幹郎、社研の仲間であった岩脇正人らの証言で、当時の関西中核派がおかれた特殊な状況が明らかにされている。特殊性とは、中央(東京の革共同執行部)との距離的乖離からくる辺境性である。関西中核派は、山崎博昭の殉死を受けて、以降の闘争に対して弔い合戦の意識の下、積極果敢な姿勢を見せた。68年1月佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争では、赤松英一ほか数名がなんと、米軍基地に侵入して逮捕されている。米軍基地ではカービン銃をもった米兵が警備をしているにもかかわらず。

証言者は次のような意味のことを発言している。「中央(革共同中核派執行部)にとって、ぼくら関西の活動家は、道具、使いやすい道具だったんだ。次から次へとあれしろ、これしろ、どこへいけ・・・もうしんどいわけ」と。中央の命令絶対、活動家を逮捕要員・消耗品としかみない官僚体質が露骨に関西の活動家を圧迫し始める。そして佐々木らは、山崎の一周忌を待たず、マル学同脱退を決意する。

(五)革共同の内ゲバの凄惨さ

1971.2.4、関西中核派の武闘派中の武闘派、辻敏明(京大)、正田三郎(同志社大)が革マル派のテロで惨殺される。この件については、赤松英一が言葉を一語一句、慎重に選びながら苦渋に満ちた表情で「2人の死の責任は自分にある」と、絞るように発した。インタビューの要点を整理すると、革マル派のテロは周到に準備計画されたものであったこと、最初から2人の命を狙ったものであったこと。すなわち、敵対する党派同士がぶつかって角材で殴りあうとか、拉致して自己批判を迫りリンチを加えるといった性格の内ゲバではなく、計画的な殺人、つまりそれを実行できる専門家(=殺し屋)の仕業であることが示唆された。

(六)暗黒舞踏家、岡龍二の生き方

岡は山崎博昭と高校の同期で京大に進学。中核派で活動したが、山崎の死、前出の辻敏明、正田三郎の暗殺、機動隊に頭を割られて重症化した活動家学生を目の当たりにして、精神に支障をきたし京都から逃亡。しばらくして京都に戻ることを決意し、京都大学近くに居住するが、再び亡霊に悩まされ続けられながら、瞑想と舞踏による身体精神回復運動で正常を取り戻す。いま現在は、インド・ダラムサラで舞踏学校「サブボディ共振塾」を主宰している。インタビュー中も身体を小刻みに揺らしながら独特な風貌で断片的言語を発する。このような生き方もあるのかと。