筆者はいまだ、旧統一教会問題の全体像を見通せる地点に到達していない。マスメディア(東京新聞「こちら特報部」など)及びインターネットに掲載されている関連記事などを参考として読みつつ、その全体像に迫ろうと情報収集を続けている。
そんな中、筆者なりの視点として、①日本人の宗教観、②洗脳ーーという二本を柱として、なにかまとまりそうな段階にたどりついた。拙稿は論考途上のものであって、その後の状況次第では変更もありうる。よって、断片的メモとして読みとばしていただけれと思う次第である。
〔第一部〕旧統一教会と日本人の宗教観
日本の旧統一教会信者はなぜ、教団が提供する壺、絵画、印鑑等を法外の価格で購入してしまうのか。あるいは、多額の献金をするのか、その理由を求めるための前提を整理する。
旧統一教会はなぜ、日本(人)を集金ターゲットに定めたのか
旧統一教会はその勢力を世界に広げているが、彼らが回収する献金額は日本からがダントツでトップであるということ、換言すれば、日本以外の地域 (その本貫地である韓国を含めて)においては、信者を獲得することはできても、カネは獲得できていないと報道されている。日本人が元来ナイーブ(うぶ)な国民(性善説、他人を疑わない善良さ)なので、教団の口車に乗せられやすいのか。
その一方で、教団の献金獲得ノウハウ(洗脳技術)がCIA~KCIA伝授のものなので、それに日本人信者が抗しきれない、という説もある。だがそれほど彼らの洗脳技術が強力なものならば、世界中の人間を洗脳することができるはずだし、世界中からより多額の献金が集まるはずなのだが、日本以外ではその洗脳技術とやらが効果を発揮していないように見える。日本以外の国では、彼らの洗脳技術が功を奏しない、つまり、日本人が洗脳されやすいファクターXがあるのかどうか。
いや、教団が洗脳技術を日本以外の地域では意図的に用いない、という推論もあり得る。つまり、教団は日本を戦略的に集金地域と定めた、という推論である。その根拠は、前出のアダム国=韓国、イブ国=日本という旧統一教会の教義に求められる。日本は韓国に貢ぐ使命を帯びているということの立証として、つまり教義の正当性を立証するため、日本を戦略的に集金地域として定め、信者を集金活動に集中させたと言えるかもしれない。日本から多額の献金が集まっている事実をつきつけ、旧統一教会の教義は正しいでしょう、世界中の(日本人信者も含めた)信者に、イブ国の実在を証明してみせた、という見方も成り立つ。
霊感商法
一般に、市場におけるモノの値段は決まっていない。買う側がその価値を認めれば、たとえば、女子高生の着古した制服を信じられない価格で買う人もいる。違法ではない。買う側と売る側に合意が成立していれば、価格は統制されない。だから、鑑定価値、市場価値がない壺や印鑑、絵画を何億円で売ろうと買おうと自由である。霊感商法の違法性を証明することはだから、そう簡単ではない。要はそこにどのような説明がなされていたかに係る。
たとえば、「これを買えばご先祖様の霊が慰められますよ」というくらいのセールストークであれば、それが違法だと証明することは難しい。「先祖の霊」の存在、非存在をだれも確認できない。先祖がそのような感情を抱くかも同様に確認できない。買う側がそれを信じるかぎり、自由な取引になる。似たような事例は無数にある。印刷で複製された一見美しい、無名の外国人作家(その人物が実在していることが前提)の作品 を5万円くらいのお手頃値段で販売している業者はあまた存在する。買う側が気に入ればそれまで。骨董屋にいけば、一見、高名な作家の贋作がおいてある。店主がなにもいわないかぎり、客が気に入れば店頭の価格で売っても問題はない。
旧統一教会が霊感商法で世間を騒がせたのは1980年代のことであった。以来、対策弁護団の奮闘もあり、2018年6月8日に消費者契約法改正案が成立し、「消費者は事業者が消費者契約の締結について勧誘をするに際し、当該消費者に対して霊感その他の合理的に実証することが困難な特別な能力による知見として、そのままでは当該消費者に重大な不利益を与える事態が生ずる旨を示してその不安をあおり、当該消費者契約を締結することにより確実にその重大な不利益を回避することができる旨を告げるにより困惑し、それによって当該消費者契約の申込み又はその承諾の意思表示をしたときは、これを取り消すことができる」(法第4条第3項第6号)ようになった。これは霊感商法が禁止されたわけではなく、霊感商法について消費者は消費者契約を取り消すことができると規定されたにすぎない(取消権の期限は法7条により、追認をすることができる時から1年以内又は該消費者契約の締結の時から5年以内)とされた。(同法施行は2019年6月15日)
繰り返せば、上記のような状況において、宗教団体等が勧めてきた霊感商品の契約を取り消すことができる、つまり、状況によっては、商品の返品⇔返金が可能となったにとどまる。だから前出のように「これを買えばご先祖様の霊が慰められますよ」というくらいのセールストークが禁止されたわけではない。神社で「破魔矢」が売られているが、その効用が証明されないからといって、販売禁止にいたるわけではない。
献金と違法集金
近年、旧統一教会による霊感商法は減少しているとの報道がある。世間の警戒感が強まったからだろう。教団は路線を変更し、「物販」から「献金」に切り替えたようだ。献金の違法性の立証はさらに難しいのだが、教団の献金の一部が返金された事例もある。
このケースは、妻が夫に内緒で、旧統一教会に1億円を献金していたとして、夫が妻(正確には裁判を契機として離婚が成立していたので元夫、元妻であるが)を訴えた裁判で、東京地裁は旧統一教会の不法行為を認定し、約3400万円の支払い(夫への返金)を命じたというもの。判決は「被告(旧統一教会)においては、組織的活動として、これまで、信者の財産状態を把握した上で、特に壮婦(献金した妻)の場合、献金によって夫を救い、夫の家系を救うことこそが信者の使命であるとして、夫や他の家族の金を拠出するように指示をし、夫の財産を夫の意思に反して内緒で献金する等の名目で交付させていたと言うことができる」と教団の計画性を認定し、「被告(旧統一教会)においては、専業主婦である妻が行った献金等について、その原資が原告(夫)の財産であり、原告の意思に反して出捐(寄付)されたことを認識していたと認められるから、上記出捐について、組織的な不法行為として原告に対して存在賠償責任を追うべきである」とつけくわえた。
旧統一教会が献金を強要したわけではないが、①献金者(妻)の家族(夫)の財産状況等を把握していたこと(→計画性)と、②夫に内緒で夫の財産を献金させたこと(→夫の不同意)の二点がポイント。判決は、旧統一教会にたいし、献金されたうちの何割かを夫に返金させたにすぎない。夫が資産家であることを調べ上げて、妻に夫に内緒で献金を仕向けたことが明らかだから、教団が受け取った妻からの献金を夫に(一部)返しなさいよ、と裁判所が命じたものだ。安部を暗殺した男性の母親が全財産を献金してしまったというが、献金を法的には止められない。献金する者が納得のうえならば、金額の上限も下限もない。そこでこの問題の原点ともいえる洗脳の問題が立ちあがるが、そのことについては第二部で詳述する。
日本における、あるプロテスタント教会の実態
筆者の知人の一人に東京・下町の教会の牧師さんがいる。彼は国際基督教大学を卒業後、有名な公益法人に就職して、定年近くで退職、牧師の道を選び、現在の教会に赴任した。その教会は日本基督教団に属する。日本基督教団は公会主義、つまり、いかなるキリスト教の教派にも属さないキリスト教無教派の理念、理想を旨とする。日本基督教団は公会主義を継承する唯一の団体でもある。
プロテスタントの教会の維持はたいへんだが、信者に献金を強要することはない。建物も設備も老朽化しているがそのままだ。もちろん、宗教グッズを売ることもない。信者やその周囲の人からの献金で運営しているが、おそらく持ち出しだろう。サラリーマン時代の貯えと退職金で賄っているのだと思う。本部からの資金援助という話は聞いたことがない。カトリックは金持ちで、余裕があると聞いたことがあるが、それでも信者から財産を奪うような献金をしているという話を聞いたことがない。
Donation,Charity、利他
キリスト教にかぎらず、献金は英語ではcontribution、donationという。それと似た概念にcharity=慈善(行為)がある。charityは、慈愛、思いやり、聖書に説かれたキリスト教的愛、同胞愛、博愛、慈善の心、寛容、寛大さも意味する。たとえば、She donates to her favorite charity every month.(彼女は気に入った慈善(事業)に毎月献金をする)と使われる。つまり、献金は自分のためではなく、困っている他者に向けた行為であって、祖先の霊を鎮めるためだとか、自分のいまの困難さを取り除くためなどで行うものではない。いまの自分を救済する方法は唯一、神を信じること、祈ることだ。
教会に献金箱がおいてあるが、日本の神社にある賽銭箱とは異なる。献金箱に入れられたカネは教会を媒介して、貧者等にまわる。もちろん教会の建立、再建、保全のために献金が使われることがあるが、それで献金者が救われることにはならない。教会という公共物(信者=他者が使うための施設であり神の家)を維持するための行為である。キリスト教とて時代とともに変節し、権力者が「聖者」になるために多額の献金をしたり教会や聖堂を寄進するようになった。カトリックの総本山バチカンが、マネーロンダリングとして利用されているという報道もある。しかし、キリスト教の献金の本来のあり方は、利他の精神にある。仏教も利他の精神を基盤とする宗教である。
賽銭が意味するもの
日本土着の原始宗教を母体として発展した神社神道はどうなのか。日本人は新年になると神社に参拝する。子供のころは神社で七五三という通過儀礼を行う。受験等の合格祈願も神社でする。神前の結婚式を挙げる者も多い。観光旅行やまちあるきの途上、通りすがりの神社に参拝することもしばしばである。その際、神社の賽銭箱に小銭を投げいれ、自分と家族の今年一年の健康、幸せを祈る。
その賽銭であるが、賽銭とは祈願成就のお礼として、神や仏に奉納する金銭のことだった。貨幣経済が発展していなかった近代以前は、金銭ではなく幣帛・米などを供えた。「賽」は「神から福を受けたのに感謝して祭る」の意味。「祭る・祀る」の語義は「飲食物などを供えたりして儀式を行い、神を招き、慰めたり祈願したりする」ことだという。だから神社で賽銭を投げて神に祈るのは、神から恩恵を受けるための前払いの儀式なのだ。本来は、神様のおかげでいいことがありました、ありがとうございました、とお礼の意味で賽銭を投げたのであるが、こんにち、あとさきが逆転し定着してしまった。そのため、祈願成就の「お礼」が標準的であった「賽」が遠のき、「お礼参り」といわれて、特別な儀礼に逆転してしまった。あとさきはともかく、賽銭は利他でなく、「利自」つまり自己を利する願いの代償であることは変わらない。賽銭に投げいれる金額が大きければ、それだけ自己を(神が)利してくれる確率が高まると考えられるようになった。
旧統一教会はおそらく、日本人特有の祈りと賽銭の関係を理解していたのだろう。日本人にとっての献金=賽銭は、自己の願いとその成就を神に頼み込む日常的な行為(儀式)である。だからこそ、日本人信者は、教団による献金の要請に応じ続け、破綻の泥沼にはまりやすかった。だからといって、日本人信者にたいして、「自己責任」と切り捨てるわけではない。日本人の信仰のあり方を旧統一教会が巧みに付け込んだという仮説を立ててみたい。
日本人の祖霊信仰と旧統一教会
日本では、故人の葬式を終えたのち、初七日・四十九日、一周忌、三回忌、七回忌と法要を重ねる。その後、おおむね三十三回忌を迎えると、「弔い上げ」といって、法要を打ち切る。以降、死者の供養は仏教的要素を離れ、「故人の霊」から「先祖の霊」となる。これを祖霊という。祖霊は、先祖の霊として、家の屋敷内や近くの山などに祀られ、その家を守護し、繁栄をもたらす神として敬われる。先祖の霊は「ホトケ様」「カミ様」「ご先祖様」と呼ばれるようになる。しかし、仏式で死者を弔ってから三十三回忌以降に、祖霊信仰へと変容するわけではない。死後、すでに故人の霊は祖霊として遺族に意識されている。仏式の法事と日本の土着宗教である祖霊信仰は、遺族等の内面で同時並行していると考えられる。
祖霊信仰のポイント、すなわち、日本人の死後の理想は、死後、先祖の霊となり現世の者から祀られ、敬われたいというところにある。もちろん自分が死んだあと、残してきた家族などに繫栄や安全を齎す使命を帯びているとはいえ、子孫が自分を崇めてくれることに重きがおかれているのであり、死後に係る利他と利自(己)はトレードオフの関係にある。
故人を見送った側においては、残された側が祖霊に少なからず瑕疵を与えているのであれば、祖霊からの恩恵を受けられないと考える。お盆、正月において現世に降りてくる祖霊を迎え入れ、酒や御馳走で歓待する。祖霊がもてなしに満足し、喜んで帰っていただければ、自分たちに途切れることなく幸いが齎されると考える。このような現世の者と祖霊との関係の儀式化がお盆や正月の家族など小さな単位で行われる宗教行事であり、やや広い関係(共同体)の内部で行われるのが、神社(氏神)における祭礼であり、明治維新以降は、国家神道へと拡大した。いずれも、祖霊から繁栄・安全(時に戦争勝利)を期待するものであることに変わりない。前者では神社の賽銭箱に小銭を投げ入れ、後者では資産家・国家までが神社を保護し、なにがしかの寄進、寄附、献灯等を行っている。
旧統一教会の献金勧誘トーク
旧統一教会が信者にたいして献金を募るときの勧誘トークは概ねこんなものであろう。
〔事例1〕入信から2年、今度は三男の自殺で精神的に不安定な状態に陥っていたというAさん。それを知った教会の関係者はAさんにこう話したといいます。
(元信者のAさん)「息子さんの霊が降りてこられて『自分の生命保険のお金を献金してくれ』と言われてましたと。心身ともに弱っていますよね。だから言われる一言一言を信じてしまいました」。
冷静な判断がつかなかったAさんは言われるがまま、三男の生命保険金から1200万円を献金したといいます。
(元信者のAさん)「(旧旧統一教会では)お金は俗世界のものと最初からうたっていますので、生きている人間にいろんな災いが起きるということを折に触れて説く」。
このほかにも、ネックレスや壺などを購入させられ、計3000万円近い金額を旧統一教会に献金したといいます。(ABC/関西ニュース)〔事例2〕きっかけは当時小学生だった息子の野球少年団。同じ団に所属する母親に誘われ、風水関係の即売会に出かけたことだった。「あなたの家系には女の人の失敗がある」。店長を名乗る人物にこう指摘され、300万円の「水晶」の購入を促された。「人生の曲がり角。今この時を逃しては駄目」「先祖が地獄で苦しんでいる」。説得を受けること5時間ほど。「もともと家系図とかに興味があった。先祖を助けられるのは私しかいないと思った」。ためらいつつも保険の解約金を充てた。
その半年ほど後、「世話係」とされる人から「生まれ直すため」などとして380万円の献金を求められた。一度は断ったが、今度は「子孫に災いがかかる」などと畳みかけられた。「何としても自分がやらなきゃ、と思ったんでしょうね」。当時38歳だったことにちなむ380万円の請求を受け入れ、まず100万円を支払った。残額は月10万円ずつ支払い続けた。(岐阜新聞Web)
2例を挙げたにすぎないが、〈息子さんの(自殺の)霊が〉〈家系〉〈先祖が地獄で〉〈先祖を助ける〉〈子孫に災いが〉といった語彙に気づく。旧統一教会の霊感商法や献金要請のトークは、日本人固有の祖霊信仰に付け込んだものだと推測できる。
なお、日本のその他もろもろの新旧宗教の実態についても調べなければいけないが、今回は前出の日本基督団のみとした。旧統一教会に近い事例としては、明覚寺(本覚寺)グループによる「霊視商法」が名高い。明覚寺には解散命令が出た。
〝騙される者が悪い”は解決策にならない
日本人は、生きる者と死んだ者が交流し合うことを通じて、前者は後者がもつ超越的パワーにより、幸福、繁栄、無病息災……が齎されることを願う。そのために、カネ・モノを献上し、後者にたいして、祈願成就のお礼をする。このことを非科学的だと非難することはできない。日本人の信仰が利他ではないから野蛮だと批判することもできない。自然宗教は、自然に抗う人間の営みから紡ぎ出されたものなのだから。また、日本人が啓蒙思想を通過していないから、〈祖霊〉というインチキトークに騙されるのだ、という批判もあり得るかもしれないが、筆者はそのような近代的批判に与したくない。
旧統一教会の勧誘にのってしまう者は不幸な、あるいは、疎外された者である。そのような者に手を差し伸べられる社会が形成されない限り、霊感商法や詐欺まがいの献金を社会から一掃することは困難だろう。(第一部/完)
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第二部は『閉ざされた言語空間』(江藤淳)及び『ショック・ドクトリン』(ナオミ・クライン)を検討図書として用い、洗脳について考える。これら二書は国家・国民規模の洗脳の実態を詳述したものである。不可視の、そして、自覚なき洗脳の実態を知るところから、洗脳問題へのアプローチを開始する所存である。
〔追記〕第二部は『洗脳』(その1)(その2)の構成で note に投稿(2022/11/20)