●福島次郎〔著〕 ●文芸春秋 ●1429円+税
著者の福島次郎は、三島由紀夫に見込まれ、一時期、三島(平岡)家に書生のような身分で住み込んでいた人物。そのため、三島の両親、夫人の人柄を知る立場にあり、また、三島の友人達とも親交があった。
本書には、そうした体験を生かして、三島由紀夫の知られざる素顔を記述した、と思われる箇所が散見する。また、三島文学の研究者らに示唆を与える部分もある。私は、三島が「神風連」の調査のため熊本を訪れたくだりについて、興味深く読んだ。「神風連」は三島の遺作『豊饒の海―奔馬』において、最も重要な位置を占めるとともに、あの自決事件に通じている。
しかし、本書が話題をさらったのは、著者が同性愛者であり、三島との関係を告白した部分からだった。三島は『仮面の告白』等で同性愛をテーマにした小説を書いたが、結婚し子供をもうけたことから、一般的には、同性愛者と思われていなかった。昭和30年代から50年代にかけての社会通念としては、同性愛者に対する偏見はいま以上だったから、メディアや出版業界は、高名な作家等が同性愛者であることを表から報道することはなかった。三島由紀夫が同性愛者であったかどうかは、私にはわからないし、どうでもいいこと。本書は小説なのだから、事実よりも創作のほうが多いに違いない。著者が話題づくりのために、三島を同性愛者に仕立て上げた可能性も否定できない。
私が本書に苛立ちを覚えるのは、〈評伝〉なのか〈小説〉なのか、はっきりしてほしいということだ。〈評伝〉ならきっちりとしたドキュメントに仕上げてほしいし、〈小説〉ならば、三島由紀夫という実名を使用しないことだ。まして、三島の親族が本名で登場するのはいかがなものか。三島が尋常でない家庭に育ち、同性愛者であったことが事実だったとしても、すべてが著者の観察記録でないのならば、実名は避けるべきだ。小説としての体裁を最低限整え、それでも、読む側が三島由紀夫をモデルにしていると感じたとしたら、それはそれで仕方がない。
本書のように、実名に頼りながら、事実と思われる記述の合間、合間に、自分の願望、幻想、想像等を織り込んでしまったら、読む側は混乱する。本書のような実名「小説」は、モデルとなった作家の実像を損ねる。そのことに無自覚な本書には、ある特定のイメージで、天才作家を括ろうとする意図が感じられる。有名になりたい著者、売らんかなの出版社――両者に三島文学を歪めようとする悪意が感じられる。特定のイメージというのは、いうまでもなく、同性愛を指す。まったくもって、興味本位にすぎない。私は本書を読んでしまったことを、後悔している。