2008年3月31日月曜日

『帝国―グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性―』

●アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート〔著〕 ●以文社 ●5600円+税

<帝国>という言葉は古くて新しく、<帝国主義>という言葉が新しいようでいて古い。後者については、左翼、マルクス主義陣営では、レーニンの『帝国主義論』に規定され、20世紀初期から中葉までの間、たとえば、“○○帝国主義粉砕”というスローガンで広く流通してきた。ここでいう「帝国主義」とは、国民国家成立前からの欧米列強による第三世界への侵略・植民地主義、国民国家成立以降は、資本主義国家による発展途上国の属領化をいう。大航海時代から第二次世界大戦の終わりまでは、スペイン、ポルトガル、欄、英、仏等の西欧列強が、そして、ベトナム戦争までは、米国が帝国主義国家を代表してきた。さらに、社会主義革命後のスターリン主義国家であるソ連、中国を赤色帝国主義国家と呼ぶこともあった。

前者の代表はなんといってもローマ帝国であろうが、最後の帝国としては、第一次世界大戦後滅亡した、オーストリー=ハンガリー帝国(ハプスブルグ帝国)、オスマン帝国が挙げられるものの、帝国は国民国家成立後の近代以降には、地球上に存在していないというのが常識的認識だろう。

では、なぜ、いま(ポストモダンの時代)において、<帝国>なのか。

冷戦終結後、アメリカの一極支配といわれる。だから、いまはアメリカ帝国が世界を支配していると考えるのは早計である。<帝国>をアメリカのヘゲモニー抜きで語ることは不可能だが、アメリカを頂点とした帝国が世界を支配しているわけではなく、帝国は、グローバルなネットワークによって形成されている。帝国はだから、アメリカであり、日本であり、ロシア、英、仏、中国、インド・・・である。

帝国を牽引するアメリカは、英仏等から遅れて帝国主義国家として、アジア(フィリッピン等)の一部を支配していたのだが、帝国主義としてのアメリカの終わりは、1968年、ベトナム戦争で軍事的な敗北が決定した時点だった、と著者は言う。乱暴に言えば。1968年をポストモダンの開始年だと言っていい。

帝国の時代すなわちポストモダンの時代とはどんな時代なのか。

生権力が人びと(マルチチュード)を支配する時代だ。帝国主義の時代の社会は、規律社会と呼ばれる。人びとは、工場、監獄、病院等諸施設に従属することによって、身体的、精神的に馴致させられ生きている。だから、たとえば、労働者が工場を自主的に管理すれば、革命が成就されるという考え方もできた。

一方、ポストモダンの社会は、管理社会と呼ばれる。人びとは生そのものを権力によって管理される。規律社会の産業労働者はフォード主義、テーラー主義に基づき、一定時間で繰り返しの労働に従事し、高い生産性を上げることを強いられた。一方の管理社会における労働者は、時間(オフとオンの差異がない)に縛られず、情動的、情報的な労働――物質的生産に限定されることがない労働に従事する。管理社会は、柔軟で絶えず変化するネットワークにより、マルチチュードの脳を直接的に組織化する。それが、生権力(生政治的支配)の大きな特徴である。ポストモダンの世界を変革する主体は、プロレタリアート(規律社会の産業労働者)から、マルチチュード(生権力に管理された多数者)に変容したというわけだ。

《今日のポストフォード主義的な、情報化した生産体制に対応する労働者の闘いの局面において出現しているのは、社会労働者という形象である。社会労働者という形象には、非物質的労働者の多様な糸が編み込まれている。社会的協働という闘技場は柔軟かつノマド的に生産を行う場であるが、この闘技場にあって、大衆的知性と自己価値性とを結び付けている構成的権力こそが、今日において基調となっているものなのである。言いかえれば、社会労働者の行動目標は、構成を企図することなのである。今日の生産の母体のなかで、労働の構成的権力は以下のものとして自らを表現することができる。すなわち、人間の自己価値化(世界市場全域での万人に対する平等な市民権)として、協働(コミュニケートし、言語を構築し、コミュニケーション・ネットワークを管理する権利)として、そして政治的権力、つまり権力の基礎が万人の欲求の表現によって規定されるような社会の構成として、である。労働の構成的権力は、社会労働者や非物質的労働を組織化するものであり、マルチチュードによって指揮される生政治的統一体としての生産的かつ政治的な権力を組織化するものである――一言でいえばそれは、活動状態にある絶対的デモクラシーのことである。(P.508)》

これが、ポストモダンの革命のイメージというわけか。 (2008/03/31)

『月蝕書簡 寺山修司未発表歌集』

●寺山修司[著] ●岩波書店 ●1,800円+税



60~70年代、疾風怒濤のごとく駆け抜けた寺山修司(1935~1983)――彼の仕事は文学・演劇・映画といった、芸術の各ジャンルを超えた巨大なものだった。既存のアカデミズム・文壇を超えた“アンダーグラウンド”という寺山の仕事場は、時代状況を投影した鏡のようなものであって、特定のジャンルに拘って積み上げられた既存芸術とは大きく異なっていた。

<私>の寺山体験を僭越にも書かせていただければ、寺山の登場~最盛期~晩年に居合わせながら、寺山に関心を示すに至らなかった。彼の詩・評論等については、通俗ぶりが鼻について好きになれなかったし、実験的演劇・映画についても趣味に合わず、それを忌避した。寺山への無関心は、<私>の人生における最大の後悔の1つと言って過言でない。

<私>から遠い存在であった前衛・寺山だったが、唯一の例外が短歌だった。現代短歌の豊饒さを<私>に教えてくれたのは、寺山であった。沖積舎版『寺山修司全歌集』(以下『全歌集』という。)は<私>の愛読書の1つであり、齋藤史、村上一郎、岸上大作、福島泰樹、道浦母都子といった現代歌人の作品を読むきっかけになったのも、『全歌集』の影響だった。

さて、寺山は全歌集発刊を最後に、表向きは短歌創作を休止した。短歌創作休止の理由は、前衛の旗手である寺山が日本の伝統的韻文を創作し続けることは、自身の売り出し戦略にそぐわないという判断が働いたものかもしれないし、短歌という表現形式に限界を感じたからかもしれない。しかし、そのような愚かな推測に反して、寺山が全歌集刊行以降も、短歌創作を続けていたということは、寺山研究では定説であったらしい。

2008年初頭、あまりにも唐突に、『月蝕書簡-寺山修司未発表歌集』(以下「本書」という。)が発刊された。このことは、寺山が短歌を清算しなかったということ――定説の正しさを証明したことになる。

本書についての最大の興味は、寺山が全歌集以降、短歌に新しい企てを持ち込んだか否か――ではなかろうか。本書から、寺山の短歌に対する実験、試行、錯誤、断念、撤退のプロセスを読み取れるならば、という期待はだれもが抱くに違いない。

本書がそのような期待にこたえているかといえば、「ノー」だと思う。本書に掲載された作品の基本モチーフは、全歌集の域を越えない。それゆえ、寺山が未完として、封印した可能性もある。ただ、寺山が短歌創作を継続していたということは、短歌に描かれた世界が彼のアイデンティティであったことの傍証になるかもしれない。

ならば、そこから分岐した寺山の前衛とは何だったのか・・・という問いが、<私>の中で循環する。 (2008/03/31)