2008年5月25日日曜日

『新左翼とは何だったのか』

●荒 岱介[著] ●幻冬舎新書 ●740円+税


このような本が書かれ、売られ、世に出たことを悲しく思うし、また、残念でならない。その理由から記す。

(1)新左翼運動とは多数の死者を出した、日本政治史おける特異な運動

まず、確認しなければならないのは、およそ半世紀わたる新左翼運動というものが、日本の近代政治運動史上、他に例を見ないほどの、夥しい死を伴った政治過程であったことだ。著者(荒岱介)が新左翼運動における死者の存在を深く自覚しているのならば、本書のような、軽く、表面的かつ安易な新左翼論が書けるはずがない。「売らんかな」の編集者にそそのかされたとはいえ、かつてブントの機関誌『理論戦線』に多数の「革命論文」を執筆した著者(荒岱介)は、本書を世に出したことにより、その晩節を汚した。

出版社にしてみれば、「新左翼」という本題でこの価格ならば、団塊世代が買うだろうというマーケティングのもと出版したのだろうが、本書のような記述はジャーナリストには許されても、運動家だった著者(荒岱介)には許されない。

本書によると、新左翼運動の内ゲバで命を落とした活動家の数は113人だという。さらに、自殺者、社会復帰不可能な重傷者等を含めれば、犠牲者の数はもっと多い。内ゲバによる多数の死者に、リンチ殺人、国家権力との実力闘争による犠牲者を加えれば、新左翼運動というのは、日本の政治史において、極めて特異な位置を占めることに気づかなければ嘘だ。本書に限らず、新左翼・全共闘関連で出版される書物の多くが、そのことに無自覚である理由がわからない。

(2)若者が新左翼運動に参加した理由が不明確

次に、なぜ多くの若者が新左翼運動に参加したのか、という解明が本書では不十分すぎることだ。新左翼運動の最高揚期である1960年代後半から1970年の初めまで、全共闘を中心に、東京で開催された数回の政治集会には常に5万人近くが結集し、封鎖された学園(大学・高校)は112校にも達したという。

本書では、新左翼運動高揚の理由を、60年安保闘争で既成左翼政党(社共)の限界が露呈したこと、ベトナム戦争の激化、沖縄問題、日米安保条約、公害問題・・・といった政治課題が山積したことと説明しているが、本当なのだろうか。

著者(荒岱介)の分析は、いってみれば、“風が左に吹いたから、若者が左にいった”という説明に過ぎない。ベトナム戦争の悲惨さをテレビ映像で見て反戦に目覚めた若者も多かろう。反戦が良心に基づくものである以上、良心が新左翼運動の出発点だった、という説明は有効だ。

だが、当時の新左翼の指導者は、良心的反戦運動を反革命的と規定していたはずだ。つまり、かつて著者(荒岱介)らが提唱したレーニン主義に基づく新左翼的運動理論からすれば、反戦で目覚めた大衆を世界革命に領導することが前衛党の役割だったはずだ。

だから、“新左翼運動とは何だったのか”という説明については、左に吹いた風を、新左翼前衛党が利用して一時期高揚を見たものの、新左翼各派の前衛党指導者の理論と運動方針が誤ったため多くの犠牲者を出して消滅(自滅)した、ラディカルな政治現象だった――と説明すべきなのであり、それ以外の物言いはまったく不要だ。

余談だけれど、「良心」というものについても懐疑が必要だ。「良心」は左にも右にも振れる。新左翼運動という不幸な政治過程を真に反省する気があるのならば、世の中に吹く風に靡けば、その先に不幸が招来することが大いにあり得る、という結論が導き出されるはずだ。新左翼運動が反省すべきは、世の中の風に靡かずに将来を見通すにはどうすればいいのかを自らといまの若者に問うことだ。これから吹く風は、左へと向かうとは限らない。たとえば、良心に基づき、右に向かわないためにはどうしたらいいのか。その回答の1つが、吉本隆明が指摘した自立であり、北川透が提唱した生活者の思想だった。この2つの提起がいまなお有効かどうかは議論の余地があるものの、当時の新左翼運動批判の代表例として、いまの若い読者にそれらの存在くらいは知ってほしい。

(3)新左翼政党とその「理論家」の罪と罰

著者(荒岱介)のようなかつての新左翼の「理論家」にいま求められるのは、新左翼運動がそのとき吹いた風に靡き、若者に誤った未来を提示したこと、及び、新左翼各派の政党指導者がそのとき提唱した(革命的)世界観、(革命的)運動論、(革命的)人間論、(革命的)未来論のすべてがでたらめだったこと――について懺悔することではなかろうか。

ところが、著者(荒岱介)の書きぶりからは、三派系全学連の運動(10.8羽田、佐世保、王子、第一次三里塚、10.21国際反戦デー)から、全共闘運動までの新左翼運動は正しかったが、それ以降の日本赤軍、爆弾闘争、連合赤軍、革共同の内ゲバは正しくないかのようなニュアンスが伝わる。がしかし、このような書きぶりは、自己正当化にすぎない。三派系全学連の運動と、連合赤軍事件の根は同じものだ。その根とは、新左翼各派の前衛党が内包した病理であり、先述したとおり、新左翼各派の前衛党が提唱した、(革命的)世界観、(革命的)運動論、(革命的)人間論、(革命的)未来論の誤謬に他ならない。

万が一にも、かつての新左翼運動家及びそのシンパが、本書を読んで当時を懐かしみ、本書に書かれた諸々の政治運動に自らが参加したことを誇らしく感じたとしたら、それこそが、本書が世に出たことの大きな罪の一つといわなければならない。新左翼運動は、全共闘運動を含めて、そのすべてが反省の対象となる。新左翼運動が獲得した地平は何もない。新左翼運動の罪を連合赤軍、革共同の内ゲバ、爆弾闘争・・・に転嫁するのではなく、新左翼全体がその生成から発展過程において、共通に内在していたところの誤りを解明しなければ、本題の「新左翼とは何だったのか」という問いに答えたことにならない。

新左翼の当事者が、新左翼に関する、「売れる本」を書いてはいけない。(2008/05/25)