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『新左翼とロスジェネ』
●鈴木英生[著] ●700円+税 ●集英社新書
著者(鈴木英生)は1975年生まれと若い。ちょうど、新左翼運動が最も高揚した全共闘世代の子供たちにあたる。そんな世代が、「自分さがし」というキーワードのもと、1960年代から高揚した日本の新左翼について読み解こう、というのが本書の意図の1つとなっている。
さて、「自分さがし」というキーワードだが、全共闘世代からすれば、およそなじまない言いまわしであると思う。ストライクゾーンに入っているのかどうかといえば、おおいに迷う。審判次第では、「ストライク」のコールをしないだろう。その理由については後述する。
本書にはそれとは別に、新左翼運動を若い世代に伝えるという意図もあり、こちらのほうは、十分とはいえないものの、入門書としての機能は果たしている。年代別に7分割した新左翼の歴史は大筋では正しいし、引用した新左翼関係の文献も適正である。文献一覧を見て、懐かしさを覚えた人も多いのではないか。
だが、不満も残る。「新左翼と~」という本題に則するならば、初期マルクスの『経済学哲学草稿』『ドイツイデオロギー』、レーニンの『帝国主義論』『国家と革命』といった論考に触れてもらいたかった。往時、初期マルクスの「疎外された意識」「存在が意識を決定する」「哲学者たちは世界を解釈してきたが、必要なことは世界を変更することだ」、レーニンの「帝国主義戦争を革命へ」といったフレーズが新左翼世代を呪縛した。自己否定の論理が全共闘運動の核であったことも事実だが、新左翼運動に靡いた学生大衆の思想的基盤の1つが初期マルクスの論稿であったことを伝えてほしかった。新左翼に属する学生の多くが『資本論』を読んでいないという事実は隠しようもないのだが、その反面、自分と社会の関係を初期マルクスによって規定しようとしていたことも事実なのである。
たとえば、『ドイツイデオロギー』の中のあまりにも有名な部分を以下に引用しておこう。
共産主義社会では、各人が一定の専属の活動範囲をもたずにどんな任意の部門においても修業をつむことができ、社会が全般の生産を規制する。そしてまたそれゆえに私はまったく気の向くままに今日はこれをし、明日はあれをし、朝には狩りをし、午後には魚をとり、夕には家畜を飼い、食後には批判をすることができるようになり、しかも、猟師や漁夫や牧人または批判家になることはない。(岩波文庫版/P44)
もうひとつの不満は、往時の国際的な反スターリン主義の潮流についての記述が弱い点である。著者は、新左翼運動が日本共産党に対するアンチテーゼであることを何度も強調している。この指摘はもちろん正しいのだが、新左翼運動参加者が旧ソ連に代表される社会主義国家群を否定する、という共通の世界観をもっていたことをもう少し強調しないと、新左翼が結んだ世界像が浮かび上がってこないのではないか。
新左翼党派の1つである革共同(革命的共産主義者同盟)は“反帝・反スタ”(=反帝国主義・反スターリン主義)を綱領としていた(る?)し、共産同(共産主義者同盟)戦旗派が提唱した「過渡期世界論」も、旧ソ連・中国等を疎外された労働者国家群と規定した。新左翼は、当時、世界のおよそ半分を占めた社会主義国家群を否定したのである。反スターリン主義こそが、新左翼と旧左翼(日本共産党・日本社会党)とを峻別する指標であった。
若い世代が当時の新左翼運動を理解しにくいのは、実はこの部分なのではないか。ベルリンの壁崩壊(1989年11月9日)は、著者(鈴木英生)14歳のときだから、ソ連の消滅も認識されているとは思うものの、当時の旧左翼にとっては、ソ連の消滅など思いもよらなかったのであり、「スターリン批判」という形でスターリン個人を批判することはあっても、旧ソ連を筆頭とする社会主義国家群を打倒の対象とすることなど考えもしなかったのである。
新左翼の出発点は、反スターリン主義である。60年安保闘争前後、ロシア革命後のソ連(スターリン政権)が、同志トロツキーを暗殺し、多くの共産党員を大量粛清し、反政府運動参加者を強制収容所に放り込み、ソ連在住のユダヤ人等を虐殺した事実が日本の学生レベルにまで周知され始めたのである。「ハンガリー事件」「プラハの春」といった東欧における社会主義体制の亀裂も伝えられた。当時の世界は、米国に代表される帝国主義国家群と、ソ連に代表される抑圧体制国家群によって構成されている――当時の学生大衆にとっての世界――観念的なそれ――は、閉塞状態、完全な手詰まり状態のように思えたのである。
今日、ブームといわれる『蟹工船』はいうまでもなく、日本のプロレタリア文学の代表作の1つだが、同書がスターリン主義文学かどうかの検証はここではしないものの、全共闘世代が『蟹工船』を愛読書の1つに挙げることはあり得なかった。全共闘世代にとっては、今日の『蟹工船』ブームはむしろ理解しがたいものである。大雑把に言えば、プロレタリア文学は旧左翼の側に属する“文化”であり、それは“反スターリン主義”を党是とする新左翼系学生からすれば、あり得なかったからである。
帝国主義とスターリン主義という両極から抑圧された世界をいかに解放するか――こそが、日本の若者(学生)だけでなく、世界の若者(学生)にとって、共通の危機意識であった。新左翼運動は日本の左翼運動の変遷というドメスティック(国内)な動向に規定された部分もあるが、むしろ、20世紀中葉まで「希望」であったロシア革命が、実は失敗であったことが国際的に検証され、その結果としての「絶望」に規定されたものでもあった。
全共闘運動を含めた新左翼運動の高揚は、第一次ブンドの60年安保闘争敗北を受けて醸成された反スターリン主義を梃子としてもたらされた。だがしかし、反スターリン主義を掲げた新左翼がスターリニズムを克服し得たのかといえば、答えは「ノー」である。新左翼は、谷川雁の言葉を借りれば、小パルタイにすぎなかった。新左翼が批判され続けなければならない体質の1つに内ゲバ闘争(山岳アジトを志向した毛沢東主義者の連合赤軍の総括殺人もそこに含めて)がある。内ゲバやリンチ事件を招いてしまった新左翼の悲劇は、新左翼が旧左翼以上のスターリニズムを内在させていたが故であり、スターリニズムの克服は、新左翼によってなされなかった深刻な問題なのである。だから、若い新左翼研究者が留意していただきたいのは、新左翼の失敗=スターリニズム克服の困難性なのである。
今日の若い世代が全共闘世代以上の閉塞状態におかれ、孤立を強いられていることはまちがいない。がしかし、その突破の環として、新左翼の運動原理を選択肢に求めることは危険この上ない。なぜならば、新左翼がスターリニズムを克服し得なかったからである。貧困という深刻な問題に対して、連帯を求めることが誤りであるはずがないのだが、連帯のモデルとして、「新左翼」を借用することはあってはならないと思う。
スターリニズムとは何かをここで詳論することはできないが、大雑把に言えば、それは集団において発生する権力と、それに対立する個人の自由の問題であり、党と個人のそれであり、個人の想像力の自由と、集団におけるその抑圧の問題である。
では、全共闘運動はどうなのか――本書に限らずこのような類書においては、往時の新左翼運動と全共闘運動の関係をいかに整理するか――が課題となっている。新左翼運動体験者の多くは、<新左翼=党派(反日本共産党系)><全共闘=戦闘的学生大衆>と分類し、党派のオルグ(組織者)が全共闘の指導者となっていて、全共闘学生を党派に勧誘していた事実を指摘するはずだ。また一方、全共闘学生の中には、党派に属することを拒否し、ノンセクトラディカルと称して、全共闘運動だけを運動目的とした者が存在していたことも指摘するはずだ。
党派は、全共闘運動を経済闘争として位置づけた。新左翼各派は、全共闘が掲げた、たとえば、教育環境改善要求、学費値上げ反対、学生会館自主管理要求等々の盛り上がりを、労働運動における組合運動に見立て、そこに結集した学生に対し、政治的(革命的)思想を外部注入し、革命戦士として取り込もうと目論んだ。また、党派の体質は禁欲的であり、密教的集団性を有していた。
しかも党派は、学生が納める自治会費の獲得、学生生協運営がもたらす利潤=利権にも、資金源として執着した。それらが学内における内ゲバ闘争発生の主因でもあった。
前出のとおり、新左翼といえども世俗的な党派に反発する全共闘学生がノンセクトラディカルである。彼らは学内闘争における党派的締付け、内ゲバ闘争、党派間の革命論にかかわるスコラ的議論を拒否した。彼らはロックやアングラ演劇等々のサブカルチャーを運動に同伴させており、そういう意味で、現代の若者に近かった。ノンセクトラディカルの全共闘運動は、個人の倫理・良心のレベルにおける反権力闘争・良心的反戦運動、文化運動――本書に従えば実存主義的な雰囲気をもった社会的集団、という性格が強かった。だが、倫理・良心のレベルを極北において換言すれば、自己否定論に行き着くのである。
新左翼党派は、スターリニズムの克服を結党のコアに掲げながら、旧左翼以上のスターリニズムを内在させ自壊した。ならば、今日の若者は、貧困、失業、格差といった今日的問題に対し、かつて党派を拒否したノンセクトラディカル全共闘運動の組織論・運動論を援用して取り込めるかどうか――ということになるのではないか。本書の意味も、そのあたりにあるような気がする。
ノンセクトラディカルについては、幻想をもちがちである。当時の各大学には、東大全共闘議長の山本義隆、日大全共闘委員長の秋田明大をはじめ、人格的にもすぐれた指導者が数多く存在したであろう。多くの指導者が倫理的・良心的で高潔であったであろう。しかし、その極北としての自己否定論は、閉ざされた思想である。
誤解を解くことから始めなければならない。60年代後半、全国の大学で高揚した全共闘運動は、そのとき初めてつくられたものではなかった。全共闘は、本書に2度ほど紹介されている谷川雁の思想にその始原が求められる。谷川雁についてはまた別の機会に詳論を展開するつもりだが、全共闘運動は谷川が展開したサークル運動と大正行動隊にそのモデルが求められる。サークル運動とは、日本共産党が山村工作隊(=情宣部隊)を使って、文化活動を通じて地域社会に浸透し、共産党員を獲得する運動だった。谷川は山村工作隊員としての活動から自らの思想を獲得し、評論・詩作の基盤を築いた。
後者の大正行動隊とは、北九州における大規模炭鉱・三池炭鉱闘争が敗北したのち、谷川雁がその周辺の中規模炭鉱である大正炭鉱を闘争の場に求めたとき、谷川が組織した闘争集団の名称である。この闘争において谷川は既成左翼の介入を退け、炭坑労働者に対して、独自の組織論の下に自由な運動参加を呼びかけ、資本側と激烈な闘争を展開したのである。
谷川雁が示した2つの先駆的運動は、1960年のはじめにおいて敗北し、谷川は以降沈黙した。党派を離れた個人の自由な集合体が階級闘争を行った結果の敗北である。闘争は敗北したが、しかし、個人の思想性、倫理性は貫徹できた。革命的敗北主義である。大正行動隊の終わりとともに、谷川雁は思想家として第一線から退却し、生活者として、東京、長野にひっそりと住み続けた。しばしば類書にも引用されるように、全共闘運動のスローガン「連帯を求めて孤立を恐れず」とは、谷川雁の言葉である。もしかりに、当時の全共闘学生が谷川雁の運動と沈黙を理解し正しく総括していたならば、全共闘運動は持続的に発展していたかもしれない。しかし、当時の全共闘学生は、谷川雁の二番煎じ=革命的敗北主義で終わってしまったのである。そういう意味での後悔は、いましてもいい。
「自分さがし」という観点から新左翼運動を眺めることの違和感については、以上のとおりである。蛇足で言えば、谷川の沈黙は、実践者としての死の代替である。全共闘運動経験者の多くが、体験の多くを語らない事実、あるいは、匿名で語る事実は、自己否定の論理が極北として<死>をもたらすからである。爆弾闘争、アラブゲリラ、山岳ゲリラと銃撃戦・・・は、本書も指摘するように、新左翼各党派の闘争戦略の帰結ではなく、むしろ、ノンセクトラディカルの倫理性=自己否定論からくる決意主義の帰結である。決意においてあちら側に飛び移った活動家は、死、長期の獄中生活、不自由な海外生活等を強いられた。決意に至らなかった無数の無名の全共闘学生はこちら側にとどまり、生活者として沈黙した。生きている死者として、である。その間、三島由紀夫の自裁を伴った決意主義が、生きている死者に対して、過酷な告発を行った。1970年以降今日までのおよそ40年間は、自己否定を唱えた全共闘学生にとって、辛い残余の年月である。時効はない。
(2009/05/10)
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