●フランシス フクヤマ (著) ●三笠書房 ●2100円(各)
いまから20年ほど前、世界を揺るがす大変動が起った。第二次世界大戦後(1945年)、米国と世界を二分して支配してきた超大国=ソ連邦が崩壊したのだった。それに伴い、東欧の社会主義国家群も崩壊し、東西ドイツが統一された。本年(2010年)は東西ドイツの統一20周年に当たる。
○リベラルな民主主義体制の実現で「歴史は終わる」
東側世界の崩壊により、先進諸国の知識人を呪縛していたマルクスの予言――歴史は社会主義革命~共産主義革命の全世界化によって終わる――が、現実をもって解き放たれた。そしてそのころ、超大国のもうひとつである米国において、本書が衝撃を持って受け止められた。本書が、ソ連・東欧における社会主義国家群の消滅をもって、世界はリベラルな民主主義体制の実現に向けて、その歴史を終えると予言していたからだ。第二次世界大戦後から半世紀近くにわたり、東側(ソ連)と厳しい冷戦を戦ってきた欧米西側諸国にとって、本書は、自らの陣営――自由と民主主義及び資本主義経済体制の勝利を宣するものにほかならなかった。
本書の要旨を大雑把にまとめてみよう。
・歴史は意味=方向をもって進む。
・歴史を進める動因は、「経済的なもの」と「人間が抱く気概」である。前者は、近代自然科学を土台にした資本主義経済体制として結実した。一方、後者は、長らく、人々が抱いてきた「認知を求める闘争=優越願望」を意味する。
・これまで積み重ねてきた人類の経験において、人々はこれまでのなかでもっともよい社会体制として、リベラルな民主主義社会を選択する。
・リベラルな民主主義社会とは、生命の維持、財産の獲得と保持であり、加えて、各人の尊厳及び自由を保証する社会にほかならない。
・近い将来、世界は、歴史を脱した地域(脱歴史世界)といまだに歴史にしがみついている世界(歴史世界)に分けられるはずだ。
・そして、リベラルな民主主義が、「人類のイデオロギー上の終点」および「人類の統治の最終の形」になるかもしれない。
高校で習う「倫理・社会」の教科書並みの平易さで記述された本書であるが、わかりにくい面も多い。著者(フクヤマ)は、自身の歴史観を次のようにまとめている。
■ホッブスやロック、そして合衆国憲法や独立宣言を起草した後継者たちにとってリベラルな社会とは、特定の自然権、なかんずく生命の権利――つまり自己保存の権利――や財産獲得の権利として一般に理解されている幸福追求の権利を有する個人のあいだの一つの社会契約だった。つまり、互いに生活や財産に干渉しないという、市民間の相互的かつ対等な合意であった。これに対してヘーゲルにとってのリベラルな社会とは、市民が互いに認め合うという相互的かつ対等な合意のことであった。ホッブスやロックのいう自由主義が理にかなった私利私欲の追求であるなら、ヘーゲル流の「自由主義(リベラリズム)」は理にかなった認知、つまり、各人が自律的な人間として万人に認められるという普遍的な基盤の上に成り立つ認知の追及と解釈できる。■(下巻・P57)
○歴史は終わらなかった
それに対して、エマニュエル・トッドは、2002年に本書を次のように批判している。
■1989年から1992年に発表されたこの理論(=『歴史の終り』)は、パリの知識人を面白がらせた。フクヤマはヘーゲルを単純化して用いたが、その用い方が高度な消費にも耐えたことに、パリの知識人は驚いたのである。歴史は意味=方向を持つが、その到達点は自由主義的民主主義の全世界化である。共産主義の崩壊は人間の自由のこの歩みの一段階に他ならず、これに先立って、ポルトガル、スペイン、あるいはギリシャの、南欧の独裁政権の瓦解というもう一つの段階があった。トルコでの民主化の出現は、この動きの一環をなし、ラテンアメリカの民主主義の強化も同様である。以上のような説明モデルが、ソヴィエト体制の崩壊と時を同じく提案されたわけだが、フランスでは全体として、アメリカ的なおめでたさと楽観論の典型的な例と受け止められた。現実のヘーゲル、すなわちプロイセンに服従し、ルター派の権威主義を尊重し、国家を崇敬したあのヘーゲルを知っている者にとって、個人主義的民主主義者としてのヘーゲルというイメージは、大いに笑えるものだった。フクヤマがわれわれに提案したのは、ディズニーのスタジオでほんわかと仕上げられたヘーゲルなのである。それにヘーゲルは歴史の中における精神の前進に関心を寄せたが、フクヤマの方は、教育に触れることがあっても、常に経済的ファクターを最も重要と扱っており、しばしばマルクスの方により近いように見えるのである。マルクスと彼とは全く別の歴史の終りを予告したのだったが、そのモデルの中では、教育的・文化的発展は副次的なものにすぎない。それゆえにフクヤマはまことに奇妙なヘーゲル学徒になっているのである。きっとアメリカの知的生活の常軌を逸した経済主義に感染したに違いない。(P30)・・・(略)・・・フクヤマは、自由主義的民主主義国家には戦争は不可能であると結論するマイケル・ドイル(プリンストン大学国際関係研究所所長)の法則を、自分のモデルの中に組み込んでいる。ドイルはヘーゲルではくむしろカントにヒントを得て、80年代の初めにこの法則を導き出した。ドイルというのもわれわれにとっては、見た目はおめでたく見えるけれど、実践的には生産性に富んだ、アングロ・サクソン経験主義の二つ目のケースである。戦争は民主主義国同士では不可能であるということが、具体的な歴史の検討によって検証される。具体的歴史は、自由主義的民主主義国はそれに敵対する体制との戦争は免れないとしても、互いに戦うことはないことを証明しているのである。■(『帝国以降』P30)
また、スラヴォイ・ジジェクは、「9.11同時多発テロに先立つこと12年、1989年11月9日に、ベルリンの壁が崩壊した。この事件は「幸せな90年代」の始まりを告げ、フランシス・フクヤマのいう「歴史の終り」のユートピアの幕開けを告げたかに見えた。リベラルな民主主義が大筋で勝利をおさめた、グローバルなリベラル共同体の到来が間近に迫っている、そして、このハリウッド風のエンディングに向けての障害となるのは実験的で偶発的なもの(指導者がもう自分の出る幕でないことを悟っていない各地の抵抗勢力など)にすぎない――誰もがそう信じかけていた。これと対照的に9.11は、クリントン時代の終りを象徴し、新たな壁が現れる時代の訪れを告げた。・・・(略)・・・かくして、1990年代にフクヤマが示したユートピアは二度死ななければならなかったようだ。つまり9.11によって、リベラル民主主義の政治ユートピアは崩壊したが、グローバル資本主義の経済ユートピアは揺るぎはしなかった。2008年の金融大崩壊に歴史的な意味があるとすれば、それはフクヤマが夢見た経済ユートピアの終焉のしるしであるということだ。」(『ポストモダンの共産主義――はじめは悲劇として、二度目は笑劇として』P14:2009年刊)
○米国はどこに向かうのか
今日、フランシス・フクヤマがいう「歴史の終り」を信じる人は少なくなってしまった。20世紀末――つかの間に現出したリベラル民主主義の勝利と繁栄するグローバル経済――は、幻影以外のなにものでもなかったからだ。
本書刊行後、わずか20年の現実世界によって塗り変えられてしまった「歴史」であるが、本書(=『歴史の終り』)の意義をどこに求めるべきなのかといえば、超大国米国について、今後、どのように考えていくかという点に求める以外になさそうだ。フクヤマは米国中心の世界認識の下で本書を着想し、世に問うた。そして、今日、米国及び米国を取り巻く世界の現実により、本書は嘲笑の的となってしまった。
いささか陳腐化した本書の歴史観だが、それでも本書に注目すべき箇所があるとすれば、著者(フランシス・フクヤマ)が、対等と平等を実現したことが人類の到達点ではなく(それだけであれば、奴隷の社会になってしまう)、加えて、「優越願望」という非合理的な人間の心の動きを対置したことを挙げるべきかもしれない。
フクヤマは、「優越願望」は理性によって支配されるべきだとするプラトンを援用しつつ、人間社会には、「優越願望」が適正な制御を条件として必要だという。フクヤマは、合理的な欲望と合理的な認知という二本柱がバランスを保った社会=リベラル民主主義を希求している。
ところが、フクヤマがリベラル民主主義を実現したと看做した米国の真実の貌は、優越願望どころか、支配願望を越えた支配者と、私利私欲の底なしの追求者の巣窟であったばかりか、対等と平等は名ばかりの格差、貧困、暴力が支配する階級社会そのものだった。
前出のトッドは前掲書において、「……2050年前後にはアメリカ帝国は存在しないだろうと、確実に予言することができる」とまでいっている。「歴史の終り」ならぬ、「米国の終り」である。