“猫ひろし”という日本人のお笑い芸人が、国籍をカンボジアに変更して、マラソン競技の五輪代表を目指している。一部には、カンボジアの代表権を得たという報道もあったようだが、マラソン選手の五輪出場を認可する立場にある国際陸上競技連盟は、国籍を変更した選手の国際大会出場に条件を設けており、猫はそれらをクリアしていないという見解を示したという。猫が五輪出場の代表権を得られる最後の可能性は、「国際陸連理事会による特例承認」が得られるかどうかだというが、国際陸連によると、この規定は戦争や亡命などの特殊な事情でやむなく自国を離れた場合を想定していて、国際陸連の担当者は「われわれが知る限り、猫は(単に)国籍を変えただけで、特例には当てはまらない」と明言したという。
この段階で、猫がマラソン競技のカンボジア代表として、ロンドン五輪に出場する可能性は限りなく低くなったように思える。そもそも、猫が目指している五輪出場にどういう意味や意義があるのかが、よくわからない。筆者の推測にすぎないが、このような仕掛け=企画は、テレビ局もしくは芸能プロダクションによるものだと思う。
スポーツ選手の国籍変更はグローバルにみて、珍しくない。日本においても、ブラジル人だったラモス瑠偉が1989年に日本国籍を取得。W杯米国大会(1994)出場を目指してアジア予選に臨んだが、「ドーハの悲劇」で予選敗退し、W杯出場を果たせなかったことは記憶に新しい。
以下、ラモスの例に倣い、呂比須ワグナーが1997年に日本へ帰化し、日本とブラジルの二重国籍者となり、W杯フランス大会(1998)に日本代表として出場した。また、現在、名古屋グランパス所属の三都主アレサンドロは、日本の明徳義塾高等学校留学を経て、2001年、ブラジル国籍から日本国籍へ帰化。日韓大会(2002)及びドイツ大会(2006)の日本代表に選ばれている。先の南アフリカ大会(2010)では、闘莉王が日本代表に選ばれている。田中マルクス闘莉王は、日系人の父親と、イタリア系ブラジル人の母親を持ち、日本の渋谷幕張高校留学を経て、2003年に日本国籍を取得。現在も、名古屋グランパスで活躍中だ。
二重国籍の呂比須ワグナーを除いて、ラモス瑠偉、三都主アレサンドロ、田中マルクス闘莉王の3人は、生活の基盤を日本に置き、日本人と変わらない生活をしているように思える。もちろん、日本語をしゃべっている。将来、彼らがブラジルに戻るのかどうかはわからないが、いまのところ、彼らはW杯出場のためだけで国籍を変更したようには思えない。
一方の猫の場合、生活基盤はカンボジアにはなく、彼がカンボジア語を話すのかどうかはわからないが、彼の生計は、日本における芸能活動が基盤になっているように見える。猫のカンボジアへの国籍変更は、五輪出場に限定したものだと筆者も推測する。猫は、五輪出場というネタで、いまも、そしてこれからも、日本の芸能界で生きていこうとしている。「国籍」を弄ぶとはこのことだ。
猫のマラソン記録は、もちろん、日本における代表記録に遠く及ばない。だから、レベルの低いカンボジア国籍を得た。猫の目的は、先述したように、彼がカンボジアではなく、日本の芸能界で、「五輪ネタ」で生きていくためだ。
その一方、日本では、地方公務員生活を送りながら、五輪代表権を得ようとして得られなかった、川内優輝というランナーを知っている。川内は猫のこのたびの試みについてコメントしていないが、内心では、猫の不自然さに怒りを覚えているのではないか。芸能ネタのために国籍を変更し、五輪出場を果たそうという猫の、いや、猫を利用しようとする芸能プロ、その上にいるテレビ局の――不純さを軽蔑しているのではないか。筆者が川内の立場であったら、猫をめぐるこのたびの「国籍変更企画」を軽蔑する。
さて、五輪のスポーツにおける意味や意義を改めて問うてみよう。記録、実力を競うという位相では、五輪はスポーツにおける最高レベルの大会ではない。国別に出場選手が制限された五輪では、レベルの高い国に所属する選手は、国内予選で敗退すれば出場できないからだ。この間隙を縫って国籍変更を企んだのが、このたびの猫のカンボジア国籍取得であった。このことは、ブラジル国籍から日本国籍に変更した前出の4人についても同じことのように、一見すると、見える。
日本国籍に帰化したラモスら4人がサッカー最強国の1つである祖国ブラジルの代表選手となって、W杯に出場できる可能性は限りなく低かった。だから、彼らは日本に国籍変更をしたのかというと、実はそうではないように筆者には思える。ラモスを除く3人がW杯日本代表に選ばれたのは結果だった。国籍変更をしても、日本代表がアジア予選で敗退してしまえば、それまでであった。W杯に出られなくても、彼らは日本において、日本人のサッカー選手として、サッカー人生を続けていっただろう。ラモスが、いままさに、そうであるように・・・
猫ひろしを五輪に出場させない旨の判断をくだしたと言われる国際陸上競技連盟の判断は正当だ。彼らはスポーツの団体であって、芸能人のネタを助成する団体ではない。
最後に、カンボジア人は猫のことをどう考えるのだろうか。世界最貧国の1つであるといわれるカンボジアでは、だれが五輪代表になろうと関心を示さないかもしれない。
では、こう考えてみたらどうだろうか。アジア太平洋戦争敗戦後の日本が五輪出場を果たしたのが、第15回ヘルシンキ大会(フィンランド) <1952年7月19日~8月3>だった。そのとき、レスリングの「フリー・バンタム級」の石井庄八選手が唯一の金メダルを獲得。「フジヤマのトビウオ」という異名をとった、33回も世界記録を更新して期待された水泳の古橋廣之進選手は400メートル自由形決勝で無念の8位。
敗戦により焦土と化した日本国であったが、敗戦から7年後の五輪で、日本人選手が大活躍をしたのである。そのことが、すべての日本人に勇気と誇りを与えたはずだ。もしかりにも、どこかの外国人が日本国籍に帰化して、ヘルシンキ大会に出場したとしたら、日本人はどんな思いを抱いたであろうか。
カンボジアは第二次大戦終結後も、内戦に明け暮れた悲劇の国であり、いま復興の途上にある。彼らは彼らなりの方法で国づくりに励んでいる。五輪参加も、かつて日本がそうであったように、国づくりのプログラムの一部である可能性が高い。カンボジアのマラソン競技のレベルは低いけれど、カンボジア人が国家を代表するマラソン選手として、ロンドンの街中を疾走するならば、その姿を通じて、カンボジア国民が勇気を得ることは大いにあり得る。その姿が「猫ひろし」であっていいはずがない。