2012年6月24日日曜日
Zazie, Nico
二匹の猫のうち、Zazie(黒っぽい)はひっそりと、部屋の隅とか物陰で寝ることが多い。
一番下の写真は、珍しく、テーブルの上のクリアファイルの上で寝ているZazie。
一方のNico(白)はだいたんで、どこでも寝てしまう。
ただし、来客があってドアホーンが鳴ると、Nicoは一目散に隠れてしまう。
知らない人が部屋に入ってくると、けっして近づこうとはしない。
その反対にZazieのほうは、人懐っこく、だれにでも近づいてきて触られたりするのが好きだ。
ただし、二匹とも苦手なのが子供。
2012年6月18日月曜日
状況論
ここのところ、日本国の劣化がはなはだしい。民主党政権だからではない。長年の自民党政権が溜め込んだ膿が政権交代後に噴出しているのだ。弱小・軟弱な書生集団・民主党政権、とりわけ選挙屋・松下政経塾出身者には手におえない。
(1)オウム「逃亡犯」――なぜいま逮捕なのか
ワイドショーは多くの時間をオウム真理教の逃亡犯逮捕のニュースに充てている。筆者の素人判断にすぎないが、当局は、オウム事件で潜伏したという複数の被疑者を敢えて逮捕しなかったとのだと思っている。当局は、「逃亡犯」を何かの時の手駒として、持っておきたかったのだと思う。当局=体制にとって、都合の良いタイミングで「逮捕」したかったのではないか。
ではなぜ、いま逮捕なのか――消費税増税問題で国会が煮詰まっているときだからだろう。与野党ともに消費税率アップで合意していながら、国民は増税を望まない。その反発をまともに受けたくなかったのだ。そのようなとき、「逮捕」への指揮系統が働いたのではないか。与野党談合の隠れ蓑として、「逃亡犯逮捕劇」が利用されたのではないか。
当局にとっては、監視カメラ増設予算を大幅に増額できるという二次的効果もある。テレビが「公開捜査」で情報を流し続け、それを受けて国民が監視の目を光らせ、“怪しい奴”を通報するという社会システムの構築も期待できる。密告社会の実現だ。当局は、旧ソ連、東ドイツをはじめとするスターリニズム国家を日本に再現しようというわけだ。
(2)オウム事件、真相解明委員会
ワイドショーに出演した弁護士が素晴らしい発言をしていたので紹介しておく。その弁護士は、“オウム真理教事件は、なにひとつ解決していない”という意味の発言をした。当局は複数の事件に関与した教団幹部を全員逮捕したというけれど、なぜ、彼らがあれだけの事件を起こしたのかは、裁判でも一切解明されていないと。
その弁護士は、「原発事故の事故調査委員会」のようなものを立ち上げ、そこで、事件の全容を解明すべきだと主張した。まったくそのとおりだと思う。▽オウムとロシアとの関係、▽サリン製造のノウハウはどこから?▽地下鉄サリンの前の松本サリン事件でなぜ、誤認逮捕があったのか、▽教団幹部・村井殺害の真相は、▽国松長官狙撃事件の犯人は・・・思いつくだけでも、これだけの関連事項の真相が解明されないままなのだ。とりわけ、教団の資金の流れだ。
(3)「東電OL殺人事件」の深い闇
いわゆる「東電OL 殺人事件」で、犯人とされたネパール人が強制退去で帰国した。事実上の無罪放免である。彼は罪を犯していないにもかかわらず、15年近くも入獄していた。彼が欧米国籍の外国人だったら、こんなことにならなかったのではないか、と筆者は思い続けてきた、と同時に、日本の当局に対する嫌悪感で胸がいっぱいなっていた。オーバーステイのアジアの小国の弱者を生贄にする、日本の当局の「やり方」が汚い。
(4)原発再稼働の無責任さ
原発再稼働宣言については、NO-DAの愚挙の極みだ。再稼働派は、3・11を忘却の彼方に押しやりたいのだ。なにもなかった、3・11は悪夢だったと。だが、3・11こそが現実なのだ。日本の原発は不良品。しかも、それに携わる者(設計者、ゼネコン、電力事業者、政治家、役人、学者、マスコミ人・・・)のヒューマンスキルが低すぎた。事故後の対応力にいたっては、どうしようもない。事故直後、「安全、安全」と言い続けてきた当時・官房長官の政治生命は絶たれておかしくない。にもかかわらず、3・11後に原発を監督する経産大臣に就任したのは、ブラックジョークを通り越している。
NO-DAが「責任をとる」といったって、事故があった後、彼が壊れた原発を修理できるわけでもないし、補償を支払えるわけでもない。事故で死亡者が出たら、NO-DAが生き返らせることができるのか。拡散する放射線を止められるのか。NO-DAに、どういう責任がとれるのか。“引責辞任”なんて、責任をとったことにならない。NO-DAの「はったり」には頭にくる。言葉の「軽さ」にイライラする。
(1)オウム「逃亡犯」――なぜいま逮捕なのか
ワイドショーは多くの時間をオウム真理教の逃亡犯逮捕のニュースに充てている。筆者の素人判断にすぎないが、当局は、オウム事件で潜伏したという複数の被疑者を敢えて逮捕しなかったとのだと思っている。当局は、「逃亡犯」を何かの時の手駒として、持っておきたかったのだと思う。当局=体制にとって、都合の良いタイミングで「逮捕」したかったのではないか。
ではなぜ、いま逮捕なのか――消費税増税問題で国会が煮詰まっているときだからだろう。与野党ともに消費税率アップで合意していながら、国民は増税を望まない。その反発をまともに受けたくなかったのだ。そのようなとき、「逮捕」への指揮系統が働いたのではないか。与野党談合の隠れ蓑として、「逃亡犯逮捕劇」が利用されたのではないか。
当局にとっては、監視カメラ増設予算を大幅に増額できるという二次的効果もある。テレビが「公開捜査」で情報を流し続け、それを受けて国民が監視の目を光らせ、“怪しい奴”を通報するという社会システムの構築も期待できる。密告社会の実現だ。当局は、旧ソ連、東ドイツをはじめとするスターリニズム国家を日本に再現しようというわけだ。
(2)オウム事件、真相解明委員会
ワイドショーに出演した弁護士が素晴らしい発言をしていたので紹介しておく。その弁護士は、“オウム真理教事件は、なにひとつ解決していない”という意味の発言をした。当局は複数の事件に関与した教団幹部を全員逮捕したというけれど、なぜ、彼らがあれだけの事件を起こしたのかは、裁判でも一切解明されていないと。
その弁護士は、「原発事故の事故調査委員会」のようなものを立ち上げ、そこで、事件の全容を解明すべきだと主張した。まったくそのとおりだと思う。▽オウムとロシアとの関係、▽サリン製造のノウハウはどこから?▽地下鉄サリンの前の松本サリン事件でなぜ、誤認逮捕があったのか、▽教団幹部・村井殺害の真相は、▽国松長官狙撃事件の犯人は・・・思いつくだけでも、これだけの関連事項の真相が解明されないままなのだ。とりわけ、教団の資金の流れだ。
(3)「東電OL殺人事件」の深い闇
いわゆる「東電OL 殺人事件」で、犯人とされたネパール人が強制退去で帰国した。事実上の無罪放免である。彼は罪を犯していないにもかかわらず、15年近くも入獄していた。彼が欧米国籍の外国人だったら、こんなことにならなかったのではないか、と筆者は思い続けてきた、と同時に、日本の当局に対する嫌悪感で胸がいっぱいなっていた。オーバーステイのアジアの小国の弱者を生贄にする、日本の当局の「やり方」が汚い。
(4)原発再稼働の無責任さ
原発再稼働宣言については、NO-DAの愚挙の極みだ。再稼働派は、3・11を忘却の彼方に押しやりたいのだ。なにもなかった、3・11は悪夢だったと。だが、3・11こそが現実なのだ。日本の原発は不良品。しかも、それに携わる者(設計者、ゼネコン、電力事業者、政治家、役人、学者、マスコミ人・・・)のヒューマンスキルが低すぎた。事故後の対応力にいたっては、どうしようもない。事故直後、「安全、安全」と言い続けてきた当時・官房長官の政治生命は絶たれておかしくない。にもかかわらず、3・11後に原発を監督する経産大臣に就任したのは、ブラックジョークを通り越している。
NO-DAが「責任をとる」といったって、事故があった後、彼が壊れた原発を修理できるわけでもないし、補償を支払えるわけでもない。事故で死亡者が出たら、NO-DAが生き返らせることができるのか。拡散する放射線を止められるのか。NO-DAに、どういう責任がとれるのか。“引責辞任”なんて、責任をとったことにならない。NO-DAの「はったり」には頭にくる。言葉の「軽さ」にイライラする。
2012年6月10日日曜日
2012年6月4日月曜日
『現代社会のカルト運動―ネオゲルマン異教』
●S・ フォン・シュヌーアバイン (著) ●恒星社厚生閣 ●5460円
4 反原発の思想的位置
中沢新一の反原発の「思想的位置」は、ニュー・エイジ運動(自然崇拝、縄文、東北、農民・農村、多神教主義、反ユダヤ=一神教主義)にほかならない。それが飛び出してきた背景には、3・11以降の日本の混乱と危機意識の高まりがある。中沢のグリーンアクティブの思想は、原子力エネルギーを太陽圏という神秘的世界に追いやり、それ以外のエネルギーを生態圏という「優しい世界」にとどめようとする。
しかし、考えてみれば、生態圏を代表する化石エネルギーをめぐって、世界は血みどろの闘争を繰り広げてきた(いる)のではないか。生態圏だから制御できる、太陽圏だから制御できない――ではすまされない。人類は、原子力エネルギーも化石エネルギーも、制御しなければいけないのである。
3・11以降、日本において求められる反原発の取り組みは、わが国の原発に関わる政治、行政、事業者、産業技術、関連学界、ジャーナリズム、地域社会等を革新・刷新する以外に方法はない。原発が抱える諸問題の根本的解決に地道に向かう以外にない。福島原発の事故発生は、日本の原子力発電に係る技術水準が低いうえに、それを監視するシステムに問題があったからである。原子力発電に携わる事業者の運営管理能力が未熟なうえに、それを監理・監視・監督すべき政治、行政、学界のレベルがあまりにも低すぎたからである。原子力を所管すべき官庁のトップが原子力の素人であった現実、それを知りながら放置しておいた政治家、ジャーナリズム、原子力発電のリスクを説明しない行政、学者等々の責任は限りなく重い。原発を受け入れてきた自治体に対し、リスクを説明しない政府、学界に責任がある。
さらに、日本が地震国であることは、原発事業にとって、あまりにも大きなリスクである。今現在の日本の原発建設技術は、地震・津波の脅威を克服しえないのではないか。このような具体的条件のもと、この先、原子力発電を続けていくことが良い選択なのか、悪い選択なのかを考えればいい。
反原発を自然崇拝や多神教、自然宗教へ回帰する方向で考えようとする傾向は、ニュー・エイジ運動、ネオゲルマン異教の理念と選ぶところがない。中沢新一のグリーンアクティブはいずれ、ネオゲルマン異教の「アーリア人至上主義」「血と大地」「反ユダヤ主義」「反国際主義」に相応する、「東北」主義、「縄文」主義、“始原の日本人”を至上のものとする民族主義・人種主義と混交するに違いない。
本書を読むきっかけは、大田俊寛のtweet、「中沢新一のグリーンアクティブの思想的位置がよく分からないという人は、翻訳が杜撰で残念なのだが、シュヌーアバイン著『現代社会のカルト運動──ネオゲルマン異教』を読まれると良いと思う。世界各国の環境政党が、無数のロマン主義・排外主義カルトに支えられているということが書かれている。」という呟からだった。
1 中沢新一の「反」原発運動(グリーンアクティブ)
大田は『オウム真理教の精神史』を上梓した宗教学者。いま現在、反原発運動の理論的指導者の一人・中沢新一批判の急先鋒に立っている。その理由は、中沢が当初オウム真理教に肯定的にコミットしておきながら、事件後、その態度を変節したことにある。中沢のオウム真理教に対する変化には、彼自身の思想の総括がまったくなされていない、というのが大田による中沢批判の主意である。
さて、中沢新一の“グリーンアクティブの思想的位置”については、中沢の反原発運動のマニフェスト『日本の大転換』(集英社新書)に記されていると考えていい。それを大雑把に示せば、以下のとおりとなろう。
▽原子力エネルギー(原子炉)というものは太陽圏に属するもので、石油・石炭とは異なり、生態圏との間に形成されるべき媒介を、いっさい経ることなしに、生態圏の外部に属する現象を生態圏のなかに持ち込む技術であること。
▽ユダヤ・キリスト教といった一神教は、西欧においてキリスト教の衰退後に覇権を握った世俗的な科学技術文明の深層構造にも決定的影響を及ぼしていて、一神教が思考の生態圏に「外部」を持ち込んだやり方は、原子核技術が物質的現実の生態圏にほんらいそこに所属しない太陽圏の現象をもちこんだやり方と、きわめて強く似ていること。つまり、原発は、一神教がもたらした科学技術であること。
▽資本主義以前の世界では、人間と生態圏の間にもキアスム(交差の)構造が貫かれていて、そのことは農民の示す土地や自然に対する深い共感情を思い浮かべればすぐわかること。
▽キアスムの働きによってつくられていたのが、ほかならぬ東北の世界であること。
▽東北内陸部での稲作農業の発達は遅く、その文化はむしろ、縄文文化の基礎の上に築かれていたこと。
2 『日本の大転換』はニュー・エイジ運動の書
中沢のこのような論法は、いわゆる1970年代以降、世界的に普及し今日に至る「ニュー・エイジ運動」の思想にきわめて近いものがある。ニュー・エイジ運動を、本書(『現代社会のカルト運動―ネオゲルマン異教』 )の記述から定義づけてみよう。
1 中沢新一の「反」原発運動(グリーンアクティブ)
大田は『オウム真理教の精神史』を上梓した宗教学者。いま現在、反原発運動の理論的指導者の一人・中沢新一批判の急先鋒に立っている。その理由は、中沢が当初オウム真理教に肯定的にコミットしておきながら、事件後、その態度を変節したことにある。中沢のオウム真理教に対する変化には、彼自身の思想の総括がまったくなされていない、というのが大田による中沢批判の主意である。
さて、中沢新一の“グリーンアクティブの思想的位置”については、中沢の反原発運動のマニフェスト『日本の大転換』(集英社新書)に記されていると考えていい。それを大雑把に示せば、以下のとおりとなろう。
▽原子力エネルギー(原子炉)というものは太陽圏に属するもので、石油・石炭とは異なり、生態圏との間に形成されるべき媒介を、いっさい経ることなしに、生態圏の外部に属する現象を生態圏のなかに持ち込む技術であること。
▽ユダヤ・キリスト教といった一神教は、西欧においてキリスト教の衰退後に覇権を握った世俗的な科学技術文明の深層構造にも決定的影響を及ぼしていて、一神教が思考の生態圏に「外部」を持ち込んだやり方は、原子核技術が物質的現実の生態圏にほんらいそこに所属しない太陽圏の現象をもちこんだやり方と、きわめて強く似ていること。つまり、原発は、一神教がもたらした科学技術であること。
▽資本主義以前の世界では、人間と生態圏の間にもキアスム(交差の)構造が貫かれていて、そのことは農民の示す土地や自然に対する深い共感情を思い浮かべればすぐわかること。
▽キアスムの働きによってつくられていたのが、ほかならぬ東北の世界であること。
▽東北内陸部での稲作農業の発達は遅く、その文化はむしろ、縄文文化の基礎の上に築かれていたこと。
……私たちは原子核技術の思考のなかに、ユダヤ思想が生み出した一神教と、まったく同型の考え方を見出した。どのエネルギー革命も、それに対応する宗教的思想や新しい芸術をもっているものである。……来たるべきエネルギー革命については、……誤解を恐れずに宗教的思想とのアナロジーを用いてみよう。すると、8次エネルギー革命は、一神教から仏教への転回として理解することができる。仏教は一神教の思考を否定する。一神教は、人類の思考の生態圏にとっての外部を自立させて、そこに超越的な神を考え、その神が無媒介的に生態圏に介入することによって、歴史が展開していくという考え方を発達させた。このような超越論的な歴史主義の思考から、モダニズムの技術化思考が生まれた。仏教はこのような思考法を、ラジカルに否定するのである。(中沢新一著『日本の大転換』P66)
2 『日本の大転換』はニュー・エイジ運動の書
中沢のこのような論法は、いわゆる1970年代以降、世界的に普及し今日に至る「ニュー・エイジ運動」の思想にきわめて近いものがある。ニュー・エイジ運動を、本書(『現代社会のカルト運動―ネオゲルマン異教』 )の記述から定義づけてみよう。
ニュー・エイジ運動とは、……神秘主義、秘教、オカルティズム、現代の西欧自然科学、すなわち心理学(とくにW・ライヒとC・G・ユングのそれ)の諸要素、心理療法のさまざまな流れ、ある種の再生思想という西洋宗教の概念装置、それに前キリスト教、あるいは、非キリスト教の種族宗教もしくは自然宗教のインパクトがある。とくに後者には「シャマニズム」「新魔女」それにケルトとゲルマンの「叡智の教え」がある。(P3)
この運動は、現代世界が生存の危機に陥り、破滅の淵に瀕している、という意識をもち、調和に満ちた、新しくより高度な時代――ニュー・エイジの名称も、ここに由来するのだが――の到来に備えて、「転換期」に生きる思想に革新する。(P3)
中沢の反原発運動のマニフェスト(=『日本の大転換』)の本題に「転換」とあるのは、それがニュー・エイジ運動の一類型であることをいかにも象徴している。さらに、3・11による福島第一原発事故という深刻な、いわば生存の危機、破滅の淵に瀕した日本の状況を克服する道が、“調和に満ちた”、“新しくより高度な時代”、すなわち中沢にあっては一神教を否定し、仏教的世界の実現に向けられていることも、ニュー・エイジ運動の範疇にあることをよく示すものである。
そればかりではない。中沢が、被災地・東北を日本の古層文化であるとされる縄文文化と強引に結びつけていることも、ニュー・エイジ運動の特徴と類似する。
西欧におけるニュー・エイジ運動の理念は、キリスト教(=一神教)伝来以前の自分たちの祖先であるゲルマン・ケルトの自然宗教、そしてアジアの宗教であるヒンドゥー教、仏教、日本仏教(禅)、占星術等を含めたオカルトに求めているが、オウム真理教及び中沢のグリーンアクティブ運動を含めた日本のニュー・エイジ運動は、ポストモダン社会の諸矛盾の解決の方法として、「縄文」「沖縄」「東北」、パワースポットと呼ばれる神社、密教、山岳仏教、チベット仏教、ヨーガ等にそれを求める場合が多い。このことこが、まさに本書の中心テーマであり、肝にも当たる。
また先述のとおり、中沢の一神教(ユダヤ・キリスト教)を排斥する姿勢は、ニュー・エイジ運動の起源となった、19世紀末から20世紀初頭の神智学、アリオゾフィーの理念の延長線上に成立した、ナチズムの反ユダヤ主義が投影されている。このことについては後述する。
3 ネオゲルマン異教とは何か
(1)ネオゲルマン異教の歴史的起源
そればかりではない。中沢が、被災地・東北を日本の古層文化であるとされる縄文文化と強引に結びつけていることも、ニュー・エイジ運動の特徴と類似する。
西欧におけるニュー・エイジ運動の理念は、キリスト教(=一神教)伝来以前の自分たちの祖先であるゲルマン・ケルトの自然宗教、そしてアジアの宗教であるヒンドゥー教、仏教、日本仏教(禅)、占星術等を含めたオカルトに求めているが、オウム真理教及び中沢のグリーンアクティブ運動を含めた日本のニュー・エイジ運動は、ポストモダン社会の諸矛盾の解決の方法として、「縄文」「沖縄」「東北」、パワースポットと呼ばれる神社、密教、山岳仏教、チベット仏教、ヨーガ等にそれを求める場合が多い。このことこが、まさに本書の中心テーマであり、肝にも当たる。
また先述のとおり、中沢の一神教(ユダヤ・キリスト教)を排斥する姿勢は、ニュー・エイジ運動の起源となった、19世紀末から20世紀初頭の神智学、アリオゾフィーの理念の延長線上に成立した、ナチズムの反ユダヤ主義が投影されている。このことについては後述する。
3 ネオゲルマン異教とは何か
(1)ネオゲルマン異教の歴史的起源
自分の時代と社会を批判する場合、人びとは、繰り返し、それぞれの時代に望まれ多分に想定される健全な過去に肯定的な対立像を求めるようになる。そのさい、ドイツ語圏と北ヨーロッパでは、「自分の祖先」、つまりゲルマンが、とりわけ民俗学的、文献学的学問の視点から取り上げられている。(P212)
古代ゲルマンの文化と宗教を学問的かつイデオロギー的に考察しようとする始まりは、宗教的動機に基づいているのではない。むしろ、それは、ドイツ文献学と新しく登場した古代学の発展と結びついている。ゲルマンの宗教を受容する最初のきっかけとなったのは、初期ロマン派であるが、このロマン派は、「新しい神話学」を求め、ゲルマンの神的世界の要素を強調した。(P212)
ネオゲルマン異教の理念を説明する場合、今日のニュー・エイジ運動の前身となる19世紀末のドイツ、オーストリアの学問、思想に遡及しなければならない。その第一が、19世紀末に成立した神智学である。神智学は、オカルティズム、仏教、ヒンドゥー教の歴史的装置と、当時流行していた自然科学理論、とくにダーウィン主義・ヘッケルの一元論を、ニュー・エイジ運動と似たようなやり方で綜合していた。
神智学を代表する思想家の一人が、ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー(1831~1891)。ブラヴァツキーは、ダーウィン進化論と宇宙的領域が階統制に関するオカルト的教義の結びつきから、人類は「起源人種」から発展するという思想を生み出した。ブラヴァツキーによれば、今日の第五起源人種はアトランティス大陸で発生し、さらに5つの亜人種に分かれている。これら亜人種はさまざまの発展段階を経て進化し、「アーリア人」にまで達しているという。人種のオカルト的起源説と選ばれた民族という理念は、神智学の内部でしだいに大きな役割を演ずるようになった。
もう一つが、20世紀初頭に活動した、アリオゾフィーと呼ばれるオカルトグループの存在である。「アリオゾフィー」とは、アーリアのArio+叡智Sohiaの合成語で、神智学と密接な関係をもっていた。彼らは、とくに神智学が主張するような当代のオカルト思想と民族主義的イデオロギーを綜合しようとした。さらに、彼らは、この綜合にさいし、自分たちの思想構成物に歴史的正当性を付与するにふさわしいと思えた理想化されたゲルマンの原古代を投影させていた。
その代表的思想家の一人・ギィド・フォン・リスト(1848~1919)は、説話や神話に伝承されているアリオ・ゲルマンの多神教的宗教を「ヴォーダン主義」と呼び、神智学のオカルト思想と民族主義的イデオロギー、すなわち、ゲルマン人=アーリア人至上主義を綜合化しようとした。ヴォーダン神とは、ゲルマン民族全体の神とみなされている(オーディン神とも呼ばれる)。
また、イエルク・ランツ・フォン・リーベンフォルト(1874~1954)は、新聖堂騎士団を設立し、「退廃と原人種性に対し学問的戦いを挑み、純粋交配によってヨーロッパの貴族的人種を没落から守るため、人類学の成果を実践的に応用しようとする、唯一にして最初の人種経済学の雑誌『オスタラ』を発行した。オスタラとは古代ゲルマンの祭礼の一つである復活祭の民会のことを意味している。
さてここで、“アーリア人”と“ゲルマン人”について簡単に整理しておこう。ゲルマン人というのは、ローマ帝国がヨーロッパを支配する前に古代ヨーロッパに先住していた北方民族の総称。ローマ帝国の衰退期、北方から移動してきたゲルマン人諸族がローマ帝国内に侵入し、ローマ帝国滅亡の主因の一つとなったことは、高校の世界史で学習したとおりだ。なお、今日のニュー・エイジ運動では、ゲルマン人と並んでケルト人も同類に扱われていて、ゲルマン=ケルトがキリスト教伝来以前の自分たちの真の祖先だと考えられている。
神智学、ネオゲルマン異教においては(学術的検証とはまったく別だが)、ゲルマン人=ケルト人=現在の北方ヨーロッパ人がアーリア人の末裔ということになる。アリオゾーフの代表的存在であるリストは、ヴォーダン主義の使命がアーリア人種を維持し、「高貴な人種」を育成することであるとしていた。また、リストは人種混合を阻止し、「神々の後裔」からなる新しいエリートを育て、エリートたる「純粋人種」のアーリア人だけが、市民的権利や自由を享受しうる唯一の人々であるとした。
今日、一般的には、アーリア人とは次のように考えられている――
紀元前3000年頃、印欧語を話すある部族が、中央アジアで牧畜生活を営んでいたことが認められ、彼らのうち、ヨーロッパに向かう集団と、中央アジアに残った集団とに、分岐した。このとき中央アジアに残った集団をアーリア人と称した。紀元前1500年頃、そのアーリア人のうち、インド亜大陸へ進出し定住民となった集団と、イラン高原へ進出して定住民となった集団、中央アジアに残ってオアシス都市の定住民となった集団、中央アジアに残ってステップの騎馬遊牧民となった集団、に分かれた。そして、それぞれの地域の先住民と融合し定住した者と、遊牧を続けた者がいた、ことがわかっている。つまり、中央アジア、インド亜大陸、アフガニスタン、イラン高原、ヨーロッパ等の人々の多くは、アーリア人と関係があると考えてもいい。
ところが、神智学、アリオゾフィー、ナチズム、そして現代のネオゲルマン異教は、ヨーロッパに向かった部族だけを「アーリア人」と呼び、北方ヨーロッパ人であるゲルマン人、ケルト人だけを取り上げて、その末裔だと解釈していることになる。
(2)ナチズムと神智学・アリオゾフィー
神智学、アリオゾフィーの理念は、ゲルマン人の宗教である多神教にそのよりどころを求める以上、オリエント起源の宗教で、一神教であるユダヤ・キリスト教は排斥されることになる。彼らにしてみれば、ユダヤ・キリスト教こそが、ヨーロッパ退廃の主因となる。また、前出のとおり、神智学、アリオゾフィーは、ゲルマン民族=アーリア人至上主義を打ち出していた。
1920年代におけるアリオゾフィー団体としては、エッダ協会、ギィド・フォン・リスト協会、ゲルマン教団、帝国ハンマー同盟、トゥーレ協会などが挙げられる。こうした考え方は、ナチストの思想と多くの共通項が認められる。ナチスは神智学、アリオゾフィーの理念を綜合化し、アーリア人至上主義、ユダヤ人排斥、古代ゲルマンの宗教の復活を掲げて、それを第三帝国のアイデンティティとして取り込んだ。ところが、第二次世界大戦でナチスドイツが敗戦国となって以来、神智学、アリオゾフィーは急速に衰退してしまった。それが世界的に復活をみせたのは、ニュー・エイジ運動の興隆からだった。
(3)現在のネオゲルマン異教
オカルト思想と過激なゲルマン民族至上主義的イデオロギーが混交した「ネオゲルマン異教」として復活したのは、前出のとおり、ニュー・エイジ運動の影響の下であった。ネオゲルマン異教とは、神智学、アリオゾフィー、民族主義的イデオロギーを綜合化した概念であり、キリスト教伝来前にヨーロッパにあった古代アイスランド文学、とくにエッダ文学、ゲルマン的多神教を復活させようとする運動だ。また、「ヴォッカ(魔女)」運動、エコロジー運動、シャマニズムの尊重、「母権尊重=女性に優しい宗教としての異教」、という側面もある。
今日、ネオゲルマン異教のグループは、北部・中部ヨーロッパ並びにアメリカ地域にみられる。アメリカにはアサ神信仰自由会議、オーディン協会、異教徒の道、フラフニールなどが、イギリスには、オーディンの儀式、槌の位階、オーディンの庭などが、スカンディナヴィアにはアサ神信者、ニアルシンナ(以上、アイスランド)、スヴィトヨーズ・アサ・ギルド、ユグドラシルが(以上、スウェーデン)がある。
ドイツでは、異教共同体、ゲルマン信仰共同体、アルマーネン教団などの存在が知られているが、アルマーネン教団がその代表的存在であり、本書では、アルマーネン教団を詳細に論じている。同教団の指導者はアドルフ・シュライバー、ジグルーン・シュライバー夫妻。この教団はもちろん、神智学、アリオゾフィーが掲げたアーリア人至上主義、古代ゲルマンの多神教の復活、反ユダヤ・キリスト教を基本的立場としている。
また、世界中のネオゲルマン異教の諸グループは互いに良好な関係をもっていて、ネットワークで結ばれている。また、その一部は他の宗教的・政治的集団と活発に結びついている。ネオゲルマン異教の各グループのうち、あるものは極右(ネオナチ)グループであるギルフリーテン、アスガルト同盟など――とも親和的である。
ネオゲルマン異教のグループは、第一に、前・非キリスト教への回帰、種族宗教、すなわち、民族主義としてのゲルマン宗教を尊重するところから、ネオ原始主義の枠組みにあるオカルト的伝統への回帰という傾向をもつ。第二に、それは人種主義、民族主義的世界像を極右集団と共有する。第三に、それがニュー・エイジ運動と同調してきたところから、文化ペシミズム、文明批判として、アメリカ先住民(インディアン)文化に象徴的なシャマニズムや自然崇拝の傾向をもち、アナーキズム的価値、エコロジー的価値を強調するところから、左翼にも根を下ろした立場に立つ。
(4)ネオゲルマン異教とエコロジー的社会主義
20世紀、緑派はニュー・エイジ運動の興隆に呼応しつつ、政治的勢力として成長していった。またその一方で、エコロジーとネオゲルマン異教が密かに結びつくことにもなった。その役割を果たしたのが、1980年代、エコロジー志向をもつ教会批判の神学者・フーベルトゥス・ミュナーレク。彼の汎神論と、緑派の対抗思想、ニュー・エイジ運動、そして民族主義的宗教世界が接触を深めた。彼らは、現代社会の諸矛盾を「ユダヤ的思考」に負わせようとした。つまり、ヨーロッパのキリスト教化がその起源だと。
ミュナーレクの周辺で活動していたペーター・バーンは、「ヨーロッパ人には異質で、オリエントに起源のある教義の多くの強制的伝播」が現代社会の諸矛盾の原因の第一だとし、「ユダヤ教的かつキリスト教的二元論は、神と世界、人間と環境の関係を引き裂いた」と主張した。この思考は、中沢の「私たちは原子核技術の思考のなかに、ユダヤ思想が生み出した一神教と、まったく同型の考え方を見出した。」と寸分たがわぬものである。
(5)右翼と「緑派」
エコロジー運動(環境保護、自然保護、自然食志向、循環型社会志向等)は、日本では市民運動、左翼運動の分派のように考えられている。中沢新一のグリーンアクティブもその一派であろうと。こうした傾向は、エコロジー運動の先駆者であるドイツでも同様のように思える。がしかし、実際には、ドイツにおいては、むしろ両義的であるという。
このような思考の代表的存在であるヘンニング・アイヒベルクは「ヨーロッパ世界の産業体制が産業システムを政治的、経済的には拡大傾向にある大規模な構造に組み入れることで、地域の諸民族から文化的、国家的アイデンティティを奪っている」と主張している。これを解決するには、「より小規模の社会単位を創造し強大な権力からの解放と地方主義的運動を支援することだ」という。そこに登場するのが、ゲルマン主義の受容であり、ユダヤ‐キリスト教を排して、ネオ異教的宗教を形成することだと。
神智学を代表する思想家の一人が、ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー(1831~1891)。ブラヴァツキーは、ダーウィン進化論と宇宙的領域が階統制に関するオカルト的教義の結びつきから、人類は「起源人種」から発展するという思想を生み出した。ブラヴァツキーによれば、今日の第五起源人種はアトランティス大陸で発生し、さらに5つの亜人種に分かれている。これら亜人種はさまざまの発展段階を経て進化し、「アーリア人」にまで達しているという。人種のオカルト的起源説と選ばれた民族という理念は、神智学の内部でしだいに大きな役割を演ずるようになった。
もう一つが、20世紀初頭に活動した、アリオゾフィーと呼ばれるオカルトグループの存在である。「アリオゾフィー」とは、アーリアのArio+叡智Sohiaの合成語で、神智学と密接な関係をもっていた。彼らは、とくに神智学が主張するような当代のオカルト思想と民族主義的イデオロギーを綜合しようとした。さらに、彼らは、この綜合にさいし、自分たちの思想構成物に歴史的正当性を付与するにふさわしいと思えた理想化されたゲルマンの原古代を投影させていた。
その代表的思想家の一人・ギィド・フォン・リスト(1848~1919)は、説話や神話に伝承されているアリオ・ゲルマンの多神教的宗教を「ヴォーダン主義」と呼び、神智学のオカルト思想と民族主義的イデオロギー、すなわち、ゲルマン人=アーリア人至上主義を綜合化しようとした。ヴォーダン神とは、ゲルマン民族全体の神とみなされている(オーディン神とも呼ばれる)。
また、イエルク・ランツ・フォン・リーベンフォルト(1874~1954)は、新聖堂騎士団を設立し、「退廃と原人種性に対し学問的戦いを挑み、純粋交配によってヨーロッパの貴族的人種を没落から守るため、人類学の成果を実践的に応用しようとする、唯一にして最初の人種経済学の雑誌『オスタラ』を発行した。オスタラとは古代ゲルマンの祭礼の一つである復活祭の民会のことを意味している。
さてここで、“アーリア人”と“ゲルマン人”について簡単に整理しておこう。ゲルマン人というのは、ローマ帝国がヨーロッパを支配する前に古代ヨーロッパに先住していた北方民族の総称。ローマ帝国の衰退期、北方から移動してきたゲルマン人諸族がローマ帝国内に侵入し、ローマ帝国滅亡の主因の一つとなったことは、高校の世界史で学習したとおりだ。なお、今日のニュー・エイジ運動では、ゲルマン人と並んでケルト人も同類に扱われていて、ゲルマン=ケルトがキリスト教伝来以前の自分たちの真の祖先だと考えられている。
神智学、ネオゲルマン異教においては(学術的検証とはまったく別だが)、ゲルマン人=ケルト人=現在の北方ヨーロッパ人がアーリア人の末裔ということになる。アリオゾーフの代表的存在であるリストは、ヴォーダン主義の使命がアーリア人種を維持し、「高貴な人種」を育成することであるとしていた。また、リストは人種混合を阻止し、「神々の後裔」からなる新しいエリートを育て、エリートたる「純粋人種」のアーリア人だけが、市民的権利や自由を享受しうる唯一の人々であるとした。
今日、一般的には、アーリア人とは次のように考えられている――
紀元前3000年頃、印欧語を話すある部族が、中央アジアで牧畜生活を営んでいたことが認められ、彼らのうち、ヨーロッパに向かう集団と、中央アジアに残った集団とに、分岐した。このとき中央アジアに残った集団をアーリア人と称した。紀元前1500年頃、そのアーリア人のうち、インド亜大陸へ進出し定住民となった集団と、イラン高原へ進出して定住民となった集団、中央アジアに残ってオアシス都市の定住民となった集団、中央アジアに残ってステップの騎馬遊牧民となった集団、に分かれた。そして、それぞれの地域の先住民と融合し定住した者と、遊牧を続けた者がいた、ことがわかっている。つまり、中央アジア、インド亜大陸、アフガニスタン、イラン高原、ヨーロッパ等の人々の多くは、アーリア人と関係があると考えてもいい。
ところが、神智学、アリオゾフィー、ナチズム、そして現代のネオゲルマン異教は、ヨーロッパに向かった部族だけを「アーリア人」と呼び、北方ヨーロッパ人であるゲルマン人、ケルト人だけを取り上げて、その末裔だと解釈していることになる。
(2)ナチズムと神智学・アリオゾフィー
神智学、アリオゾフィーの理念は、ゲルマン人の宗教である多神教にそのよりどころを求める以上、オリエント起源の宗教で、一神教であるユダヤ・キリスト教は排斥されることになる。彼らにしてみれば、ユダヤ・キリスト教こそが、ヨーロッパ退廃の主因となる。また、前出のとおり、神智学、アリオゾフィーは、ゲルマン民族=アーリア人至上主義を打ち出していた。
1920年代におけるアリオゾフィー団体としては、エッダ協会、ギィド・フォン・リスト協会、ゲルマン教団、帝国ハンマー同盟、トゥーレ協会などが挙げられる。こうした考え方は、ナチストの思想と多くの共通項が認められる。ナチスは神智学、アリオゾフィーの理念を綜合化し、アーリア人至上主義、ユダヤ人排斥、古代ゲルマンの宗教の復活を掲げて、それを第三帝国のアイデンティティとして取り込んだ。ところが、第二次世界大戦でナチスドイツが敗戦国となって以来、神智学、アリオゾフィーは急速に衰退してしまった。それが世界的に復活をみせたのは、ニュー・エイジ運動の興隆からだった。
(3)現在のネオゲルマン異教
オカルト思想と過激なゲルマン民族至上主義的イデオロギーが混交した「ネオゲルマン異教」として復活したのは、前出のとおり、ニュー・エイジ運動の影響の下であった。ネオゲルマン異教とは、神智学、アリオゾフィー、民族主義的イデオロギーを綜合化した概念であり、キリスト教伝来前にヨーロッパにあった古代アイスランド文学、とくにエッダ文学、ゲルマン的多神教を復活させようとする運動だ。また、「ヴォッカ(魔女)」運動、エコロジー運動、シャマニズムの尊重、「母権尊重=女性に優しい宗教としての異教」、という側面もある。
今日、ネオゲルマン異教のグループは、北部・中部ヨーロッパ並びにアメリカ地域にみられる。アメリカにはアサ神信仰自由会議、オーディン協会、異教徒の道、フラフニールなどが、イギリスには、オーディンの儀式、槌の位階、オーディンの庭などが、スカンディナヴィアにはアサ神信者、ニアルシンナ(以上、アイスランド)、スヴィトヨーズ・アサ・ギルド、ユグドラシルが(以上、スウェーデン)がある。
ドイツでは、異教共同体、ゲルマン信仰共同体、アルマーネン教団などの存在が知られているが、アルマーネン教団がその代表的存在であり、本書では、アルマーネン教団を詳細に論じている。同教団の指導者はアドルフ・シュライバー、ジグルーン・シュライバー夫妻。この教団はもちろん、神智学、アリオゾフィーが掲げたアーリア人至上主義、古代ゲルマンの多神教の復活、反ユダヤ・キリスト教を基本的立場としている。
また、世界中のネオゲルマン異教の諸グループは互いに良好な関係をもっていて、ネットワークで結ばれている。また、その一部は他の宗教的・政治的集団と活発に結びついている。ネオゲルマン異教の各グループのうち、あるものは極右(ネオナチ)グループであるギルフリーテン、アスガルト同盟など――とも親和的である。
ネオゲルマン異教のグループは、第一に、前・非キリスト教への回帰、種族宗教、すなわち、民族主義としてのゲルマン宗教を尊重するところから、ネオ原始主義の枠組みにあるオカルト的伝統への回帰という傾向をもつ。第二に、それは人種主義、民族主義的世界像を極右集団と共有する。第三に、それがニュー・エイジ運動と同調してきたところから、文化ペシミズム、文明批判として、アメリカ先住民(インディアン)文化に象徴的なシャマニズムや自然崇拝の傾向をもち、アナーキズム的価値、エコロジー的価値を強調するところから、左翼にも根を下ろした立場に立つ。
(4)ネオゲルマン異教とエコロジー的社会主義
1900年から今日に亘るネオゲルマン宗教運動を述べたことから明らかになってきたように、古代ゲルマンの神々の宗教を信ずる中心的動機は、文化ペシミズム的、文明批判的信念である。この古代ゲルマン宗教は、自らの伝統や文化、自らの民族に最も近い宗教として理解されていただけでなく、自然を敬うことであり、エコロジーに志向する宗教としても理解されている。(P226)反原発運動の理論的指導者のひとり中沢新一が、運動体としてグリーンアクティブを立ち上げたことは冒頭に記した。中沢が指導する運動体が「グリーン」を名乗ることは、彼らが筋金入りの日本版緑派であることは間違いなかろう。もちろん、中沢が自然、農業、農民、生態圏、光合成といった「自然」に全面的に拝跪する記述が『日本の大転換』のなかに散逸していることから、グリーンアクティブはエコロジー系運動組織であろう。中沢における日本の「縄文」「東北」「農業」は、欧米における「ネオゲルマン異教」に相当する。
文化ペシミズムと「緑派」の思想は、すでに19世紀半ばに反大都市的、農業ロマン主義的イデオロギーの点で結びついている。(P227)この方面の先駆者のひとりが、ヴィルヘルム・リール(1832~1897)。彼は「非自然的病的な都市」に対し地方住民の健康で生気に溢れた生活を対抗させた。彼は産業化、技術革新を否定し、農民気質や無辜の自然を賛美し、国民主義の諸観念と結びつけた。この運動は後に、アリオゾーフであるリストの人種主義と反ユダヤ主義と結合することとなる。また、この時代、ドイツでは「青年運動」「郷土保護運動」が盛んとなり、「自由農民の中心的意義」が尊重されるようになっていた。
20世紀、緑派はニュー・エイジ運動の興隆に呼応しつつ、政治的勢力として成長していった。またその一方で、エコロジーとネオゲルマン異教が密かに結びつくことにもなった。その役割を果たしたのが、1980年代、エコロジー志向をもつ教会批判の神学者・フーベルトゥス・ミュナーレク。彼の汎神論と、緑派の対抗思想、ニュー・エイジ運動、そして民族主義的宗教世界が接触を深めた。彼らは、現代社会の諸矛盾を「ユダヤ的思考」に負わせようとした。つまり、ヨーロッパのキリスト教化がその起源だと。
ミュナーレクの周辺で活動していたペーター・バーンは、「ヨーロッパ人には異質で、オリエントに起源のある教義の多くの強制的伝播」が現代社会の諸矛盾の原因の第一だとし、「ユダヤ教的かつキリスト教的二元論は、神と世界、人間と環境の関係を引き裂いた」と主張した。この思考は、中沢の「私たちは原子核技術の思考のなかに、ユダヤ思想が生み出した一神教と、まったく同型の考え方を見出した。」と寸分たがわぬものである。
(5)右翼と「緑派」
エコロジー運動(環境保護、自然保護、自然食志向、循環型社会志向等)は、日本では市民運動、左翼運動の分派のように考えられている。中沢新一のグリーンアクティブもその一派であろうと。こうした傾向は、エコロジー運動の先駆者であるドイツでも同様のように思える。がしかし、実際には、ドイツにおいては、むしろ両義的であるという。
……前・非キリスト教の諸宗教に「原爆保有国、資本主義、産業主義、植民的キリスト教」の対抗運動を求めようとする希望は、今世紀(20世紀)初頭のエコロジー運動の思想と同じく、政治的には両義的である。確かに、今日の[緑の党]は、主として学生の反乱という特徴をもち、それとともに急進民主主義的理念から左翼急進主義理念まで信奉し、反権威的スタイルを好んでいる。一方、[緑の党]には、はじめから右翼保守的伝統から極右的伝統まで流れており、とりわけ、[緑の党]設立にさいし参与したアウグスト・ハウスライターの国家革命的「独立ドイツの活動共同体」もある。(P241)
エコロジーからみて、ふさわしい自然宗教と考えられる前キリスト教の諸宗教に遡及してみようとする傾向は、緑派‐対抗の陣営、秘教陣営、極右の人種主義陣営に広くみられる。(P246)そればかりではない。エコロジーを生物学的かつ人種主義的思考モデルと関連付け、同時に「国家主義的アイデンティティ」「解放の国家主義」「民族多元主義」「ヨーロッパ・ナショナリズム」などの一般原理と結びつけ、エコロジーの危機を、民族とは本来的にそぐわない普遍的かつ自然に反するイデオロギー、すなわち、ユダヤ‐キリスト教によって、疎外された結果だと考えるグループが内在している。
このような思考の代表的存在であるヘンニング・アイヒベルクは「ヨーロッパ世界の産業体制が産業システムを政治的、経済的には拡大傾向にある大規模な構造に組み入れることで、地域の諸民族から文化的、国家的アイデンティティを奪っている」と主張している。これを解決するには、「より小規模の社会単位を創造し強大な権力からの解放と地方主義的運動を支援することだ」という。そこに登場するのが、ゲルマン主義の受容であり、ユダヤ‐キリスト教を排して、ネオ異教的宗教を形成することだと。
思考のモデルとして考えられているものに、エコロジーからみて適切で、したがって「より自然に適っている」より小さな単位、つまり地方の人間らしい社会組織がある。これは、「左翼的」緑派と「右翼的」それ、また伝統的種族宗教に志向しようとするニュー・エイジ運動の諸々の潮流を相互に結びつける。これが「新思惟」と「新心霊」を必要とするさいに、この両者を結び付ける方向は、宗教線上にある。(P245)
4 反原発の思想的位置
中沢新一の反原発の「思想的位置」は、ニュー・エイジ運動(自然崇拝、縄文、東北、農民・農村、多神教主義、反ユダヤ=一神教主義)にほかならない。それが飛び出してきた背景には、3・11以降の日本の混乱と危機意識の高まりがある。中沢のグリーンアクティブの思想は、原子力エネルギーを太陽圏という神秘的世界に追いやり、それ以外のエネルギーを生態圏という「優しい世界」にとどめようとする。
しかし、考えてみれば、生態圏を代表する化石エネルギーをめぐって、世界は血みどろの闘争を繰り広げてきた(いる)のではないか。生態圏だから制御できる、太陽圏だから制御できない――ではすまされない。人類は、原子力エネルギーも化石エネルギーも、制御しなければいけないのである。
3・11以降、日本において求められる反原発の取り組みは、わが国の原発に関わる政治、行政、事業者、産業技術、関連学界、ジャーナリズム、地域社会等を革新・刷新する以外に方法はない。原発が抱える諸問題の根本的解決に地道に向かう以外にない。福島原発の事故発生は、日本の原子力発電に係る技術水準が低いうえに、それを監視するシステムに問題があったからである。原子力発電に携わる事業者の運営管理能力が未熟なうえに、それを監理・監視・監督すべき政治、行政、学界のレベルがあまりにも低すぎたからである。原子力を所管すべき官庁のトップが原子力の素人であった現実、それを知りながら放置しておいた政治家、ジャーナリズム、原子力発電のリスクを説明しない行政、学者等々の責任は限りなく重い。原発を受け入れてきた自治体に対し、リスクを説明しない政府、学界に責任がある。
さらに、日本が地震国であることは、原発事業にとって、あまりにも大きなリスクである。今現在の日本の原発建設技術は、地震・津波の脅威を克服しえないのではないか。このような具体的条件のもと、この先、原子力発電を続けていくことが良い選択なのか、悪い選択なのかを考えればいい。
反原発を自然崇拝や多神教、自然宗教へ回帰する方向で考えようとする傾向は、ニュー・エイジ運動、ネオゲルマン異教の理念と選ぶところがない。中沢新一のグリーンアクティブはいずれ、ネオゲルマン異教の「アーリア人至上主義」「血と大地」「反ユダヤ主義」「反国際主義」に相応する、「東北」主義、「縄文」主義、“始原の日本人”を至上のものとする民族主義・人種主義と混交するに違いない。
2012年6月1日金曜日
Zazie, Nico(6月)
生まれたのはその2カ月ほど前なので、誕生日は過ぎている。
Nicoは7月にやってきたのでまだ、1年を経過していない。
二匹とも病気もせず、順調に生育しているようにみえる。
さて、 今月の体重は、Zazieが3.0㎏で前月より0.2㎏の増、
Nicoが5.9㎏で同じく0.4㎏の増だ。
ところで、今朝、Nicoがベランダに出て、フェンスの縁に飛び乗るという事件を起こした。
拙宅はマンションの5階なので、外側に落下したら・・・
幸い、危機一髪のところで内側に降りて、大惨事を免れた。
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