●ミルトン・フリードマン〔著〕 ●日経BP社 ●2400円+税
“世界の構造改革のバイブル”と帯にうたってあるとおり、ネオリベラリズム、自由市場経済を是とする勢力にとって、本書は聖典のひとつになっている。大胆な規制緩和(レーガノミックス)を掲げた、レーガン大統領が本書を抱えているTVニュース映像がしばしば世界中に流れたことから、大統領の愛読書とも言われた。
本書の刊行は1962年。世界は社会主義圏と自由主義圏が厳しく拮抗する冷戦下だった。著者ミルトン・フリードマン(1912-2006)の詳細なプロフィール等は省略するが、彼はもちろん資本主義、自由主義圏のリーダーである米国の経済学者。シカゴ大学で師ハイエクに学び、やがて、ネオリベラリズム、自由市場経済を唱える「シカゴ学派」の頭首として、世界の経済(学)をリードした、いやいまもリードしている。
フリードマンの経済学を一言で言えば、反ケインズ主義(反ニューディール政策)――自由な経済活動を第一義とする自由市場原理主義――だ。国家の役割を否定はしないが、国家権力をできるだけ分散、制限し、市場の調整機能に無条件に信をおく。またそのイデオロギーは自由主義思想を第一とし、全体主義思想批判、集産主義思想批判で貫かれている。
自由主義思想の根本にあるのは、個人の自由の尊重である。自由主義では、各自が自分の考えに従ってその能力と機会を最大限に生かす自由を尊重し、このとき、他人が同じことをする自由を阻害しないことだけを条件とする。このことは、ある点では平等を、ある点では不平等を支持することを意味する。人は等しく自由権を持っている。この権利がきわめて重要な基本的権利なのは、人間一人ひとりみな違うからであり、自分の自由でもって人と違うことをしようとするからだ。そして人と違うことをする過程で、大勢が暮らす社会のあり方に、一層多くの貢献をする可能性がある。(P352~353)
フリードマンの説く小さな政府、自由市場原理主義には明快・痛快な一面があり、たとえば霞が関の肥大化や地方における無駄な公共事業に嫌気がさしている都会派納税者に受けがいい。もちろん、競争を勝ち抜いて富を得た成功者、資産家、富者は、自分たちの富が国家権力による強制的徴税と再配分により、貧者、弱者に行きわたることに否定的だから、フリードマンを支持する。さらに、日本の戦後民主主義者からも支持される。なぜならば、彼らは超国家主義、官僚的スターリン主義特有の強大化した国家権力による個人の自由束縛を忌み嫌うからだ。
フリードマンの思想を凝縮したと思われる個所を引用しよう。フリードマンは年金の強制加入に反対して、こう言及する。
(年金加入の)強制を正当化する理由として一つ考えられるのは、例の温情主義である。いまは法律で全員加入が義務づけられているが、任意加入に決めたければそうできたはずだ。だが国民は放っておくと得てして近視眼的で先のことを考えない。誰でもある程度は老後に備えようとするはずだろうが、もっと周到に準備する方が身のためだと政府はよく知っている。政府として一人ひとりを説得して回るのは不可能だが、何と言っても国民のためなのだから、過半数を説得して全員に強制しよう……。断っておくが、これは、れっきとした大人のための配慮である。だから、自分で責任のとれない狂人や子供のための温情的配慮だという正当化はできない。
この言い分はそれとして完結しており、論理的破綻はない。したがって筋金入りの温情主義者がこう言い出したら、論理の誤りをついて意見を変えさせるのは不可能である。このような主張をする人は、すこしばかり勘違いをした善意の友ではなく、共に天を戴かざる敵である。なぜ敵なのかと言えば、独裁主義に与しているからだ。たとえ慈悲深く、多数決を重んじるとしても、彼らは根本的には独裁主義者である。(P337~338)
フリードマンは、老後の年金に国民全員が加入することを強制する政府を「独裁主義者」だと断言しているのである。
自由を信奉するならば、過ちを犯す自由も認めなければならない。刹那的な生き方を確信犯的に選んで今日の楽しみのために気前よく使い果たし、貧しい老後をわざわざ選択する人がいたら、どんな権利でもってそれをやめさせることができようか。この人を説得し、その生き方はけしからぬと説得するのはよかろう。だが、人が自ら選んだことを強制的にやめさせる権利はどこにもない。あちらが正しくてこちらがまちがっている可能性はゼロではないのだ。自由主義者は謙虚を身上とする。傲慢は温情主義者にゆずろう。
(略)
自由主義の原則から年金の強制加入を正当化し得る唯一可能な論拠は、将来の備えを怠る人は自らの行動の結果を引き受けずに他人に負担を強いるというものである。まさか困窮した老人を見過ごすこともできまい。したがって身銭を切って、あるいは公的資金を投じて、救いの手を差し伸べることになる。よって、自分の老後に備えなかった人は社会の負担になる。だから年金に強制加入させるのは、本人のためではなく他の大勢のために必要だ、というわけだ。
この議論の重みは、事実如何によって変わってくる。強制加入の年金がない場合、65歳人口の90%が社会の負担になるのだとすれば、この議論には説得力がある。だがもし1%しかそうならないとすれば、説得力はない。1%のコストを防ぐために、なぜ99%の自由を制限しなければならないのか。(P338~339)
フリードマンは以下、年金強制加入があたりまえだと人々が思うようになったのは、老齢・遺族年金制度が発足した当時が大恐慌だったためだと説明する。そして、年金の強制加入は、コストばかりが大きく、得るところがほとんどない制度であると結論づける。そして――
・・・強制加入制度のために、国民全員が所得のかなりの割合について自由に使う権利を奪われ、退職年金の購入という特定目的、それも政府から買うという特定のやり方に従うことを要求されている。年金商品の販売では競争が禁じられ、さまざまな選択肢の発展が妨げられてきた。そして年金を扱う巨大な官僚組織を生み出し、この組織は自己増殖的に拡大し、国民の生活のさまざまな面へと触手を伸ばす兆しを示している。それもこれも、ごくわずかな人々が社会の負担になるかもしれない危険性を避けるためなのだ。(P341)
残念ながら、日本の強制加入型年金制度は、フリードマンの予言通り、年金を扱う巨大な官僚組織を生み出し、担当官僚が年金資金を浪費・流用(グリーンピア事業等)するという、まさに犯罪的行為を招いてしまった。だから、フリードマンの言うことは正しい、彼は日本の年金問題を予言していたではないか、と考えがちだが果たしてそうだろうか。
“刹那的な生き方を確信犯的に選んで今日の楽しみのために気前よく使い果たし、貧しい老後をわざわざ選択する人がいたら、どんな権利でもってそれをやめさせることができようか。この人を説得し、その生き方はけしからぬと説得するのはよかろう。だが、人が自ら選んだことを強制的にやめさせる権利はどこにもない”――この箇所こそ、自由主義者フリードマンの真骨頂ともいえる。寓話「アリとキリギリス」を思い出す人も多かろう。寓話ではキリギリスは野垂れ死にすることが暗示されているものの、そのさまは詳しく書かれていない。フリードマンは、今日(1960年代のアメリカ)、アリは絶対多数であり、キリギリスは絶対少数だと断言するが、これが怪しい。たとえば、21世紀の日本の国民年金納付率は59%。つまり強制加入の国民年金でありながら、加入者の4割は保険料を納付していない。
このような現状を踏まえるならば、フリードマンの言う自由加入制度にしたとしたらどうなるのか、選択型年金に加入する者は2~3割にまで低下するのではないか。日本の年金制度の保険料徴収方法に問題があるという指摘はそれとして、強制型で4割が保険料を納めない現実から想像する限り、自由加入制度の下で、年金加入者率が9割以上に達することはあり得ない。
フリードマンが思い描く年金制度の誤りはそれだけではない。国民の所得には格差がある。低所得者が支払える年金額は自ずと低いから、民間企業が運営する年金であれば、低所得者の納付額に応じて受取額が必然的に下がる。しかも、その下げ幅は企業の自由裁量だから、経済情勢や経営の変化次第では、加入者が老後の生活を維持できなくなる可能性もある。その一方で、高額所得者は年金制度そのものに関心がないから、年金会社は高額所得者の多くが年金加入することに期待できない。
さらに、年金会社が運営を誤れば、破綻するリスクもある。国家が強制加入型年金から手を引いたとしたら、年金企業の倒産リスクによって、年金を受け取れない者が出てくる可能性も高まる。いや、フリードマンならば、そのリスクは低いと確言するだろうし、年金会社の一つや二つが競争に負けて破綻することは自由市場であるかぎり避けられないと言うにちがいない。あるいは、年金会社を選ぶのも個人の自由なのだから、破綻しても文句は言うなとなる。
言うまでもなく、強制加入型年金制度というのは、高額所得者から相当の納付金を徴収し、それを原資として、低所得者の年金支払いにまわすという相互扶助によって成り立っている。そうやって、等しく老後の最低限の生活を保障するものだ。年金を必要としない富者にも年金が支払われるが、富者の加入が年金原資を保証する。フリードマンには、そのような所得の再配分システム自体に我慢ならないのだ。
ついでに、フリードマンが本書で廃止を提言した政策を掲げておく。これは本書の帯にも載っているものだ。
- 農産品の買い取り保証価格(バリティ価格)制度
- 輸入関税または輸出制限
- 家賃統制、全面的な物価・賃金統制
- 法定の最低賃金や価格上限
- 細部にわたる産業規制
- 連邦通信委員会によるラジオとテレビの規制
- 現行の社会保障制度
- 事業・職業の免許制度
- 公営住宅
- 平時の徴兵制
- 国立公園
- 営利目的での郵便事業の法的廃止
- 公有公営の有料道路
フリードマンのような底なしの自由主義が社会を動かすようになったら(いや、現実は、ネオリベラリズムが世界を席巻しつつあるのだが)、ナオミ・クラインが『ショック・ドクトリン』でリポートしたように、貧者は「貧者の世界」に閉じ込められ、富者は「富者の世界」を謳歌するような、分断型社会が到来することになる。富者の居場所は、高い壁とハイテクのセキュリティーに守られた、贅を尽くした「グリーンゾーン」。一方の貧者は、その外側の「レッドゾーン」。そこは安全も公共サービス(年金、医療、教育)もない、暴力と略奪が支配する殺伐とした社会だ。
そして、そのことがすでに世界各所で起こっている。アメリカジョージア州に民間企業が運営する、金持ちだけが住めるまち(自治体)、サンディ・スプリングスが誕生した。財政破綻したデトロイトの市街地は警察官不在で暴力が支配する荒廃した地域となっていく一方で、金持ちは郊外に転出して、別世界を形成している。イラクのバクダッドでは、マッド・ディモン主演で映画化されたような、石油支配を企む多国籍企業の社員やアメリカ政府関係者が居住する、まさに「グリーンゾーン」が存在し、その外側はテロと略奪が横行する無政府地帯の「レッドゾーン」が広がっている。西欧でも貧しい移民が暮らす特区がつくられ、中国、東南アジア、ロシア、南米南部地域、南アフリカでも、富者と貧者の居住地が明確に区別されるようになっている。それがフリードマンがリードしてきた世界(経済)の確かな現実のようだ。