著者(吉本隆明・1924-2012)は、戦後のある時期、もっとも強い影響力をもった思想家の一人であった。と同時に、大の猫好きであったことが知られている。本書は吉本が聞き手(岡田幸文、山本かずこ)の質問に回答する箇所と、その内容にほぼ重複する短文(『猫の部分』・月刊ねこ新聞)とで構成されている。
ばなな曰く、盛り上がらないこの本
本題からすると、大思想家が、人類にとってもっとも不可思議な存在の一つである猫について、真正面から挑んだものではないかと期待を覚えるのだが、読後、それはみごとに裏切られる。吉本ばなな(隆明の次女)が、あとがきで次のように書いている。
それにしても、この本の、なんとなく盛り上がらないというか、無理がある感じが、なんとも間が抜けていてよく、妙な味が出ていますね。作っている人たち全員(父を含む)の困った気持ちが伝わってくるようだ。(P205)
このことは、前出の聞き手の力量不足もしくは吉本の手抜きによるものではもちろんない。おそらく、吉本が猫についての過剰な思い入れや擬人化を意識的に排したためだろう。読者であるわれわれは、本書を読む前、吉本から猫が“革命の象徴である”とか、“自立を体現するもの”とかの言説を無意識に期待していた。だが、最後までそのような言葉は吉本から聞かれない。
猫とはどんな存在なのか――についての吉本の回答は平凡だ。おそらく、吉本は自分が生物学者、動物行動学者等の猫の専門家ではなく、一介の飼育者である分をわきまえたのだ。今日、およそ巷に大量に出回っている“猫情報”のたぐいは科学的根拠の薄いもの、限られた経験に基づくもの、類推に当たるもが大半を占めているに違いない。猫の心はだれも知ることはできないのだから。
動物の行動を人間の道徳規準で評価しようとする社会
猫ブームの背景にある猫の物心化にいたっては、現代人の思い入れにすぎない。そもそも猫に限らず、人間が動物の行動に共感・共鳴する尺度は、人間の道徳規範に規定されている。
そのことを代表するのが「忠犬ハチ公」の物語だ。Wikipediaによると、主人公となったハチと呼ばれる犬は、死去した飼い主の帰りを東京・渋谷駅の前で10年間ものあいだ待ち続けたとされる。
ハチが飼い主である上野英三郎(大学教授)に飼われたのが1924年、そして英三郎は翌年(1925年)に急死した。その後、1934年に渋谷駅前にハチの銅像が建てられ、同年にハチの話は、尋常小学校の修身の教科書に採用されるようになった。1934年といえば、日本が天皇制軍国ファシズム体制に突き進んでいった時代、翌年には「国体明徴の宣言」が発せられている。国民よ、忠犬となって国に仕えよと教えられたわけだ。動物の行動がときの天皇制軍国ファシズム政権にとって有益な「道徳」規準に叶ったということになる。
一方、猫が反権力や実存主義、自由の象徴となったのは、『老人と猫』の著者、ニルス・ヴッデンベリによると、「ジャンコクトーが犬より猫のほうが好きなのは警察猫というものがないからにすぎない」といったことを嚆矢とするらしい。コクトーは、「人間に嬉々として従う犬の忠実さはまさに悲劇だ」ともいったようだが、その真偽のほどは定かではない。
とまれ、猫型人間という概念が定着し、猫は、組織に対する帰属意識を嫌うタイプの人々から圧倒的支持を受けるようになり、今日に至っている。コクトーの“警察猫”発言がいつ発せられたのは不明だが、彼が活躍しだしたのは20世紀初頭からだから、そう遠い昔のことではない。
筆者を含めた吉本支持者は、すくなくともコクトーなみの猫賛美を本書(の吉本の発言)に期待していた。しかし、吉本は慎重に言葉を選びつつ、「猫は(犬にくらべたら)、横に生活している」と断言するにとどめる。また、猫について、「最後の一点で猫は・・・個々の人間に絶対の信頼感をもって関係を結ぶというふうにおもっていないところがある・・・」(P163)と距離を置く。猫に対する過剰な思い込みを自ら戒めようとしているかのように。
猫から教訓をえようとは考えたことがない
吉本は猫に愛情をもっていないのかというと、そんなことはない。本題にあるように、“なぜ猫を飼うのか”と問われて、「こっちの勝手でもって親密関係を結べるみたいなところがいちばんいいような気がします。猫のことを察してやらなくても親愛感というのは結べるというのが、いちばん猫を飼っている意味みたいな気がします」と答えている。そして加えて、「猫から何か教訓を得るみたいなところまでかんがえたことないんです」とも。
また、短文のなかでは、「おまえはなぜ猫を飼うのかと質問をうけるとすると…子どものときは父母が猫好きでいつも家のなかに居たから、ひとりでに親密となったということだと答える…」ともいっている。吉本隆明はあくまで、猫に対して自然体を崩さない。
外猫と内猫の相違
さて、筆者も猫を飼っているのだが、猫に対する感じ方は吉本のそれといささか異なる。その相違は、猫の飼育環境の相違に起因すると思われる。吉本の猫たちは、家の外と内を行き来する「外猫」と呼ばれるものだが、筆者の飼い方は家の外に一切出さず、家のなかだけで飼う「内猫」と呼ばれるもの。前者は行動範囲が広く、野良猫や犬等の動物と接触するし、自動車、自転車等の危険にさらされる。また、高い建物の屋根や塀などに昇り降りをするし、植物、異物と接する。後者は狭い室内でほぼ、飼い主としか接触しない生活を送っている。そのため、病気やけがの心配がなく、清潔である。吉本は、庭のある戸建て住宅で猫を飼っていたのだろうが、筆者はマンションで猫を飼っている。その相違だ。
外猫は野生を色濃く残す一方、内猫は人間との接触しかないから、人間化が進む。両者のおかれた環境の相違が、猫の性格や行動の相違となってあらわれる。内猫は外猫に比べて人間に対する信頼度は高いだろうし、外敵から守られているから、おとなしい性格になりやすい。だから、前出の吉本の「最後の一点で猫は・・・個々の人間に絶対の信頼感をもって関係を結ぶというふうにおもっていないところがある・・・」とは、筆者には思えないような気がする。もちろん、筆者の思い込みで、猫から裏切られる可能性も否定できないのだが。