多数刊行されているという“日本会議もの”を取り上げるのは、『日本会議の研究』(菅野完著)に次ぐ。両書を比較すると、日本会議とは何か、かれらが何を目指すかという記述内容において差異はない。本書の特徴を敢えて挙げるならば、日本会議の思想的背景となる国家神道に注目している点。ゆえに、国家神道の復活を図る団体(=神社本庁)が日本会議と並行して論じられている。もちろん両者は親密不可分な関係にある。
日本会議は戦後社会を否定する
日本会議が何を目指すのかといえば、本題にもあるように、戦前・戦中の日本社会への回帰となる。彼らは日本の戦後社会に否定的だ。
日本会議は戦後日本について、GHQの指導の結果、日本の「伝統」を逸脱したがゆえに堕落し退廃したと考える。当然、戦後精神を代表する日本国憲法を否定し、明治憲法に回帰しようとする。戦後憲法の真髄は、反戦平和主義、基本的人権の尊重、象徴天皇制であるから、それが戦後社会の堕落頽廃の根源だと考える。彼らが望む「日本の伝統」に立脚した国家の再建というのは、天皇を頂点とした神国日本(国家神道)の復活だから、日本会議と神社本庁の共闘は必然である。
宗教界にかぎらず、現政権(安倍政権)の閣僚は日本会議メンバーで占められている。また、国会議員にとどまらず、地方議会においても、日本会議メンバーの議員が増加しているし、言論界、文化領域においても、「日本会議文化人」が発言力を強め、各方面に影響力を与えるようになってきた。その反面、政権批判をする知識人、ジャーナリスト等は、メディア業界から追放されているともいう。
日本会議のいう「日本の伝統」は維新政府の創作にすぎない
日本会議が評価する戦前戦中の日本社会とは、「日本の伝統」とは縁もゆかりもない。1868年(明治維新)から1945年(アジア太平洋戦争敗戦)までの77年間の国家体制を大雑把にいえば、西欧に成立した立憲君主制を模倣した、維新政府創作になる宗教的国家だといえる。西欧を模倣しつつ、「日本の伝統」のメッキをはった付け焼刃の「近代国家」だ。
明治維新で新たに権力奪取した薩長勢力は、西欧の立憲君主制の王権に天皇を代替的に挿入し、かつ、帝国議会開設によって「立憲」の体裁を繕った。維新国家が近代国家の要件を整えていることを列強に示したのだ。
ところが、以降、軍部、国粋主義者の台頭によって、維新国家は天皇制ファシズム国家へ変質した。それは「国体明徴宣言」を機に、一気に、土着的宗教(国家神道)と軍国主義が融合した全体主義国家化する。
真に戦後の日本社会の堕落頽廃を象徴するもの――米軍基地と化した祖国の姿
かくしてその帰結は、320万近くの日本国民の犠牲を伴った敗戦(国家の危機)であり、その後今日まで続く、米軍による祖国占領状態だ。戦後日本の堕落頽廃をもっともよく象徴するのは、祖国が米軍基地となり、わが国の政権が米国の指示の下、あれこれ走り回る嘆かわしい姿ではないのだろうか。
竹島奪還、尖閣防衛と日本会議は叫ぶけれど、日本が奪還すべきは沖縄、横須賀、佐世保、岩国、横田…ではないのか。そればかりではない。日本人の堕落頽廃は、先の大戦末期、日本に原子爆弾を投下し、およそ60万人が無差別殺害された米軍の戦争犯罪を告発しない政治状況ではないのだろうか。
「日本の伝統」復活は日本会議の偽看板
日本会議が戦後を頽廃堕落した社会とするのならば、その是正は、多数の国民を犠牲にしたうえで敗戦を招いた戦争責任者の追及から始めなければなるまい。加えて、日本の占領状態を放置し続ける戦後の保守(自民党)政権打倒こそがテーマとならなければいけない。日本会議がそれをしないのは、かれらのいう「日本の伝統」への回帰が偽看板にすぎないからだ。かれらの本質は、▽現政権に反対する勢力の抑圧、▽自由な言論の弾圧、▽米軍の補助となって自由に戦争できる日本軍の創設――つまりは、日本国憲法が保障する、自由な言論と基本的人権を尊重する戦後社会の破壊にある。
国家神道国家の復活を夢想する自由
日本が天皇を頂点とする神の国であり、世界に例をみない理想郷だとする観念(思想、宗教)をだれも排除できない。ヘブライ(ユダヤ)人の神話(旧約聖書)を信ずる人が世界に何億人いることか。思想信条の自由、信仰の自由は全世界的に保障されている。欧米にはいまなお、白人至上主義を是とする団体がいくらでもある。アーリア同胞団、KKK、神聖十字団、アーリア=ゲルマン協会・・・それらの多くはナチズムといまなお親和的関係にある。しかしながらそれらが合法的に活動し、入会者がいかなる神を信仰しようとも、それを禁止することはできない。
同じように、日本会議の活動、綱領、国家観、宗教性を弾圧することはできない。日本人の多くが、日本会議が標榜する国家神道に基づく天皇制全体主義国家体制を支持するのならば、日本は戦前回帰する。民主主義(多数決原理)が民主的国家を破壊する。いま現在の情況は瀬戸際にある。
観念の相対性
そんな危機感に抱かれながら、頭の中をよぎったのは、吉本隆明が『マチウス試論』のなかで用いた〈関係の絶対性〉だった。
秩序にたいする反逆、それへの加担というものを、倫理に結びつけ得るのは、ただ関係の絶対性という視点を導入することによってのみ可能である。(『芸術的抵抗と挫折』「マチウ書試論」)
〈関係の絶対性〉を一言で説明するのは難しい。が、谷川雁が「庶民・吉本隆明」の中で用いた説明がわかりやすい。雁は〈関係の絶対性〉について次のように書いている。
・・・それ(関係の絶対性)は観念の相対性と同義語にすぎないが、にもかかわらず・・・関係の絶対性とよぶか、観念の相対性と表現するかには微妙なちがいがあるのだ。
それは紙一重というよりもさらに薄い皮膜の表裏であろうけれども、形式論理が弁証法へ、観念論が唯物論へと回転してゆく過程のもっとも内密な移行の段階がかくされている。観念の相対性というばあい、それは唯物論へ移行しきった直後の完了した視覚があるのにたいして、関係の絶対性とよぶかぎりにおいてなお関係それ自身の物心化という主観性がぬぐいさられていない前唯物論的な匂いを漂わせているからだ。(『汝、尾をふらざるか』「庶民・吉本隆明」)
雁のこの評論は、吉本隆明について「彼は唯物論に膚接する観念論の壁に沿って動きつづけ、記録と意識にたどりつき、群衆と存在の側へはがんとして移ろうとしない」(前掲書)として、吉本批判に終始する。
なお雁は、前掲書前段で、「関係の絶対性という概念・・・はフォイエルバッハがヘーゲルにたいして加えた修正とどんなにちがうのであろうか。関係の絶対性は必然に意識にたいする存在の優位に達するはずだ。しかし彼(吉本)はそのような認識の冷静さに頼ってはいない。彼は唯物論の第一命題にすわりこもうとはしない。」と、吉本を称賛しておきながら。
わたしも〈関係の絶対性〉という概念をつかって、(フォイエルバッハがヘーゲルを批判したような)宗教(=日本会議)批判を展開するつもりはない。運動と倫理の関係に深入りする気もない。それよりも、観念の相対性批判の根拠となる唯物論に依拠するとはどういうことなのか、唯物論とはなにか――という問題意識に立ち帰る。
唯物論(意識に対する存在の優位)とは
唯物論とはなにかを簡単に説明することは難しい。だがそれを大雑把にいえば、人間の営み(存在)とはなにかというところに行き着き、それを別言すれば、人間の本質は労働となる。狩猟、採集、農耕、遊牧、生産、製造、交換、流通、交通…それを経済過程といってもいい。そしてそのときどきの支配的な生産様式に規定された変化が歴史(史的唯物論)である。いま現在支配的な生産様式は資本主義であり、そのときの支配層が政治的ヘゲモニーを握っていると。
日本会議のイデオロギーは先述のとおり、神の国の再建であるが、実質は現政権が推進しようと図る、基本的人権の制限、米国に追随する戦争国家構築に与するもの。戦前回帰は偽の看板にすぎない。「日本の伝統」という仮面をかぶった、米国追随の非民主主義的国家構築という安直で危険な政治運動である。
だが、〈観念の相対性〉という自由、思想信条の、そして信仰の自由という先験性によって、かれらもわれわれもいま守られている。ならばそのような均衡状態を突破するためにはどうしたらいいのか――
第一に、徹底した理論闘争の開始である。日本会議の「伝統」が日本歴史のごく限られた、しかももっとも悲劇的な時代の産物にすぎないことをかれらとの論争を通じて明らかにすることだ。
同時に、かれらを公開の場に引きずり出して、メディアの力によって、彼らの本意を糺すことだ。日本会議の得意技は、光の当たらない地道な市民運動の積み重ねにある。その継続性によって、政権与党に接近することができた。その一方、彼らは反対勢力を一方的に批判するが、理論的ではない。彼らの弱点は抒情的であり情念的であるが理論性を欠くところだ。
彼らに対する公開の理論闘争をいま以上に活性化し、観念に対する存在の優位性を確信する者がいま以上に結集すること、そのような「われ」が多数派となる以外、日本会議の台頭を封ずるみちはない。