2018年1月5日金曜日

『ソビエト連邦史』1917-1991

●下斗米伸夫 ●講談社学術文庫 ●980円(税別)

本書はビャチェスラフ・モロトフ(1890-1986)という人物を通して、ソビエト連邦の歴史を見直すというもの。モロトフについては、浅学の筆者の知るところではなかった。彼はロシア革命時のボルシェビキ党の一員だったが、それほどの活動家ではない。彼が政治的手腕を発揮したのは、レーニン亡き後、スターリンが権力を掌握した後のことだ。彼はスターリンの忠実な腹心として、スターリンの政敵を粛清する任務を着実に実行し、革命後のソ連のナンバー2に上り詰めた政治家だった。


本書の構成は、「序章 党が国家であった世紀」のなかの“案内”(P17~22)において簡潔にまとめられているので、以下に要約しておこう。

第1章 ロシア革命、ソビエト国家成立
第2章 ロシア共産党の組織
第3章 「新経済政策(ネップ)」
第4章 スターリン体制と大粛清
第5章 モロトフ外相就任から第二次大戦終結までの戦争と外交
第6章 ソ連の超大国化と冷戦の時代
第7章 スターリンの死とモロトフの失脚
第8章 フルシチョフ~チェルネンコ時代
第9章(終章) ゴルバチョフ書記長のペレストロイカ(91年の崩壊、ソ連邦の最後)

ロシア革命はプロレタリア革命だったのか

20世紀中葉、時の思想潮流を席巻したマルクス主義の洗礼を受けた世代にとって、ソビエト史のなかでどうしても注目してしまうのは、〈ロシア革命→スターリン体制と大粛清〉までの前半であろう。本書のロシア革命に係る考察は、連邦崩壊後の情報公開の影響もあって、当時とは異なる視点が散見される。革命から100年が過ぎたいま、ロシア革命の見直しという視点からも本書は必読だと思われる。

20世紀中葉の政治状況を体験した者にあって、ロシア革命は神聖な政治的インシデントにほかならなかった。当時のソ連邦に係る評価は以下のような感じだった――ロシア革命はレーニンを指導者としたボルシェビキ(共産党)がツアー専制のロシア帝国を打倒し、世界で初めて労働者国家(ソ連邦)を樹立した。

ところがレーニン死後、スターリンがロシア共産党のトップになったところで、レーニンが確立した革命思想(マルクス=レーニン主義及び世界革命戦略)に著しい修正が加えられ、同時にトロツキーに代表される革命的マルクス主義者が粛清されることにより、ソ連邦は官僚専制国家に変容した。ソ連邦はマルクス主義国家ではなく、スターリニズム国家であるから、帝国主義と同様に打倒すべきであると。大雑把にいえば、ロシア革命は神聖であったが、革命後、スターリンによって世界の共産主義化が妨げられた。その結果、資本主義が延命していると。

革命の主役――最も西欧的急進派と伝統的農村

それでも当時、ロシア革命がプロレタリア革命であったかどうか、素朴な疑問がなかったわけではない。まず、帝政ロシア下においてブルジョア階級及びプロレタリア階級が十分に形成されていたのかどうか。本書によれば、ロシア革命当時の帝政ロシアにおけるプロレタリア人口は、全人口の3%にすぎなかったという。

本書ではそのことについて、実に端的な言説を導き出している。「革命は既成秩序からはずれた異質なものどうしを瞬時に媒介する。最も西欧派的な急進派の潮流が、レーニンを媒介にして、革命化した伝統的農村と融合する」(P46)。

著者(下斗米伸夫)のこの言説は、二月革命によってもたらされた混乱、すなわち、二重権力の下、レーニンが革命の主導権を掌握しつつ、十月革命を準備し決起し革命を成し遂げるに至る過程を新たに表現したものだと思われる。混乱と呼ばれる二月革命なくして十月革命はなく、その二月革命が階級を超えた多数者(農民、兵士、労働者…)の自然発生的蜂起だったのならば、それをプロレタリア革命と呼ぶべきなのか。

本書では、ロシア革命が組織されたプロレタリア革命でなかったことが結論づけられる。ロシア革命が労農統一によって成し遂げられたというのは常識だが、本書はそれとは異なる視点から踏み込んでいる。この結論は、ロシア革命を輝かしいプロレタリア革命だと神聖視していた世代を落胆させるものでもある。

レーニン指導後の革命=十月革命は、レーニンというキャラクターが国民の大多数を占める農民(兵士)を惹きつけた結果なされた。そのことは、「第3章 新経済政策(ネップ)」に記述された「農村戦争」により逆証明される。革命政府が仕掛けた「農村戦争」こそ、ロシア革命の複合性及び特異性の証明であり、同時に、革命の一方の主役「農民」が切り捨てられる過程であった。前出の、革命時、レーニンを媒介に融合した異質なものの片方=伝統的農村が、革命新政府によって消去される。

ロシア革命を担ったロシア正教の古儀式派

ロシア革命を成し遂げた革命勢力の多様性については、革命の三番目の主役であるロシア正教古儀式派の登場で明らかになる。

レーニンの革命的スローガンが「全権力をソビエトに」であったことはよく知られている。20世紀中葉に青春時代を過ごした者にとってこのスローガンは、労働者が地域ごとにソビエトを形成し、プロレタリア権力を地域的に成立させる政治過程を明示するものと理解して当然だった。ところが、本書ではソビエトを構成した多数派として、ロシア正教の古儀式派という信仰者集団の存在が明らかにされる。プロレタリア革命で形成されたはずの〈権力機関=ソビエト〉にロシア正教の一分派が出てくるのは違和感がある。しかし、浅学の筆者には著者(下斗米伸夫)の言説を検証する力がない。よってそれを受け入れるしかない。各地につくられたソビエトの内実が古儀式派の組織を母体としていた、という結論は驚きだ。
古儀式派とは17世紀のロシア正教会での論争で異端とされた古い信仰者集団である。古儀式派は「モスクワは第三のローマ」と信じ、ロシア帝国と一体化した正教主流派を「アンチ・クリスト」と批判、このため正教会を追放された。
この流れの信徒数はこれまで想定された以上であり、また定義にもよるが人口のかなりの多数をしめたと思われるものの確たる人口調査はない。主として拠点のモスクワをふくめ、ボルガやウラル、シベリアにまで広がった。いな、中国や日本もふくめた海外でも知られていた…しかしロシア革命後、とくにスターリン体制の下で抑圧される。
(略)
ロシア正教におけるプロテスタントとして禁欲的なこの人々は、しかし19世紀後半までに繊維工業の大半を支配する生産者階級となっていた。無神論者であったモロトフをふくめ、ボリシェビキ党などにもこの流れの環境で育った人々が入り込んだ。この古儀式派の理解なくしてはいまや正確なロシア史、ソビエト史は考えられないほどだ。(P17)
ソビエト連邦とはなにか

革命から崩壊までのソ連邦について、本書は「党が国家であった時代」と集約する。党とはもちろん共産党のことだが、それがイデオロギー的共同性だけで団結していたわけではなかった。革命直後は、革命の指導者集団という画一性はあったが、スターリンが権力を掌握し大粛清を行い、戦時下共産主義(スターリニズム)を確立した後から、イデオロギー論争が党内から消滅する。党幹部、党員、官僚、民衆…だれもがスターリンの暴圧を恐れ、指導層批判を忌避した。

党内では、それぞれの属性によって、それぞれの集団が信用できる要素に基づきつつ微妙にグループ化を進める。その一つが前出の古儀式派であり、出身地であり、民族であったりする。ユダヤ系であるがゆえに指導層に上り詰めたかと思えば、それゆえに排除されたりもした。それぞれの属性がパワーエリートを形成し、党幹部の座を狙い、利権獲得に奔走する。そしてそれぞれが、ネポティズムによって絡み合い、党を蝕んでいく。

ソ連邦の崩壊

スターリン死後、フルシチョフのスターリン批判から「世界の超大国ソ連」の時代を経て、停滞の時代、ソ連邦の崩壊までの後半は、その腐敗と堕落のひどさに読むに堪えなくなる。西側との宥和とその反動としての締め付け――の繰り返し。変わらぬ弾圧・強制収容所送り、強制移民…世界で初めて誕生したはずの「プロレタリア国家」の惨めな腐敗・崩壊過程が記述される。党が国家であろうとする悪足掻き、党が国家であるために、国民が犠牲になるさまともいえる。
ソ連時代を通じて、政治的要因によって法的根拠なく処断された者は、1150万人に及ぶ、と法律家のクドリャツェフは指摘する。ただしそれは公式に登録された数字だけであって、この体制の犠牲者は全体で8000万人という数字をあげる学者もないわけではない。筆者(下斗米伸夫)は、この数字は過剰だと考えるが、まだ、どのような検証可能な数字も提出されていない。(P267)
ロシア革命とソ連邦については、まだまだ分からないことだらけというわけだ。