読書中及び読後にも苛立ちを覚えた。その理由は、著者(栗原康)がアナキズム研究家なのかアナキズム運動家(アナキスト)なのかが、最後まで分からなかったことによる。
前者ならば、俗語、ネット用語、擬音語等を交えた文体は全く不要である。若い世代に馴染んでもらおうという編集業者の配慮であれ、そのことでアナーキーな感覚を読者に与えたいという本人の積極的意図であれ、これらの雑音・夾雑物は本書を読みにくくしている。
後者ならば、こうした解説書を資本(出版社)の下で市場に出し、印税で稼ぐことはその主義に反するばかりか、アナキストにあるまじき行為とも思う。
アナキズムとは何か?
アナキズムとは一般に無政府主義と訳される。この訳に対して著者(栗原康)は、アナキズムがanarchosというギリシア語からきていて、それは「anアン(~がない)という接頭語)」と「archêアルケー(支配、統治)」の合成を語源とすることから、「統治されない生き方」としたほうが意味に忠実だという。とはいえ今日、人間存在に対して、支配・統治を総合的に貫徹する装置が、国家すなわち政府である以上、それを認めない者がアナキスト(無政府主義者)であり、それを認めない「生き方」をアナキズム(無政府主義)としても誤りではないともいう。
しこうして著者(栗原康)は、前出の「アルケー」のもともとの意味(哲学用語)である「万物の始原」「根源的原理」すなわち「はじまり」「根拠」に着目する。それが前出の「アン」で否定された「アナキズム」とは、「はじまりのない生をいきる」「根拠のないことをやる」ことだと定義する。(P8~9)
アナキズムの定義に係るこのような二面性は、アナキズムへの係わり方、立場の相違を表している。国家あるいは組織のトップ、すなわち支配する者にとってのアナキズムは、法・秩序を認めない思想であるから無政府主義と訳す。一方の既存の支配システムを認めない者であるアナキストにとっては、アナキズムとはすなわち自らの生き方を主軸とするがゆえに、それに「はじまりのない生をいきる」という訳を与える。
著者(栗原康)のこのアナキズム定義はきわめて重要で、本書全般の基調になっているばかりか、アナキズムを現代に呼び戻したい(と思われる)著者(栗原康)の願望を表すキーワードとなっているように思える。そのことについては後述する。
アナキズムのいろいろ
本書はアナキズムの入門書、解説書として書かれていて、第1章:エコ・アナキズム、第2章:アナルコ・キャピタリズム、第3章:アナルコ・サンディカリズム、第4章:アナルコ・フェミニズム、第5章:アナルコ・コミュニズムという章立てで構成されている。各章に掲げられたアナキズムを代表するアナキストの思想、運動が詳述されていて、たいへんわかりやすく、解説書として秀逸である。
著者(栗原康)は観念的「アナキスト」か?
著者(栗原康)が勘違いをしていると思われる箇所があるので指摘しておく。第1章において、三里塚闘争における農民の闘争のようすを記述した箇所である。著者(栗原康)は、自ら糞尿にまみれ、かつ、糞尿を投げつけて警察官に立ち向かう三里塚農民の抵抗をエコ・アナキズムの実の姿であるかのように称賛する。(P54)
もう一つは第4章。東京山谷、大阪釜ヶ崎において日雇い労働者の運動を指導した船本洲治に関する記述である。日雇い労働者が寝泊まりする宿は極めて劣悪で、トイレットペーパーすらおかれていなかった。そこで船本が改善闘争に採用した戦術が、新聞紙や雑誌の用紙をトイレに流して詰まらせるというものだった(P170)。ここで著者(栗原康)は、船本の闘争をアナーキーなものとして称賛する。つまり、三里塚農民及び寄せ場の日雇い労働者が糞尿にまみれた闘争であることをもってアナーキーなのだと。
これらの事例とアナキズムとの関係づけは、著者(栗原康)の思い違いによるものだと筆者は確信する。三里塚農民が糞尿を武器として使用したのは、彼らの理性的判断からである。当時、三里塚闘争に新左翼各派が参入することにより、空港建設反対派の運動は、鉄パイプ、火炎瓶、投石器…の使用へと、武装がエスカレートした。そんな中、農民は敵対する警察官・機動隊員を殺傷せずに撃退する武器として、糞尿を理性的に選択したと筆者は考える。三里塚農民はときに新左翼各派と共闘したが、おそらく、闘争戦術、革命論において彼らと一線を画していたと思われる。鉄パイプ、火炎瓶等は三里塚農民のモラルに合致しなかったのだと。農民がアナーキーだからではない。
船本洲治の闘争戦術も同様である。寄せ場において、日雇い労働者を「管理」するのは武装した暴力団である。船本らの寄せ場の闘争は、合法的治安部隊と対峙する前に、非合法武装組織と対峙しなければならなかった。安易に武装闘争に走れば、多くの労働者の死を招く。だから、船本は周到な闘争戦術を練り上げていた。それが本書でも紹介されているので、書き抜いておこう。
①労働組合は広範な労働者に呼びかけ、代表団を結成し、会社側と交渉し要求を受け入れてもらう。②戦闘的青年労働者は闘争委員会を結成し、暴動を起こすぐらいの実力闘争をやり、会社側を屈服させ、要求を呑ませる、③ある労働者は新聞紙等の固い紙でトイレをつまらせる。(船本洲治「現闘委の任務を立派に遂行するために」『新版 黙って野たれ死ぬな』共和国/本書P171)
船本の闘争方針はアナキズムとは似ても似つかぬ組織された暴力であり、労働運動の本道である。アナキズムとは無縁な、正統的組合運動の戦術の一環である。トイレをつまらせる行為は、組織的運動方針に基づき展開されたとみるべきである。
二つの事例から明らかなのは、著者(栗原康)が糞尿やトイレを用いた闘争を即座にアナキズムだと観念的に反応することである。著者(栗原康)には、農民や日雇い労働者の行為は無条件に非理性的で自然的、本能的だと考えてしまう傾向が認められる。彼は、いわゆる観念的インテリの範疇に属するのかもしれない。
アナキズムの今日的意義
アナキズムの復活が海外から伝えられている。フランスの「黄色いベスト運動」に紛れて繁華街の店舗等を襲撃する全身黒づくめの「ブラックブロック」という集団の活動である。筆者は「ブラックブロック」について情報を持っていないので、実態について論じられない。報道によれば、過激な無政府主義者の一団だという。
もう一つは、鎮圧されたといわれているIS(イスラミックステイト)である。彼らは「イスラム国」の建設を目的としていたので無政府主義者とはいえないかもしれないが、彼らの行為を報道で見る限り、アナーキーそのものである。法秩序・道徳を逸脱した残虐行為の数々、奴隷制の採用、レイプ、拉致、誘拐、自爆テロ…あらゆる制約から解き放たれた自分の赴くままに、コーランの教えすら無視した「イスラム国」とはなんなのだと。はたして「イスラム教徒」の集団なのかと。
その兵士たちはアラブ人はもちろんのこと、欧州、北米、オセアニアに移民で渡った者をルーツとする者や、アジア、アフリカから新天地を求めてやってきた者で構成されていたという。疎外された彼らの心にアナキズムが宿っていた可能性もある。
アナキズムが世界を変える可能性を秘めているかといえば、それは大いに疑問である。歴史のなかにその答えは認められる。と同時に、自己の生の無限の拡充、即ち自己の全面的肯定は他者の全否定であり、別言すれば相対主義、脱構築であり、弁証法の否定である。
とはいえ、今日、自身の生き方すらマニュアル化されてしまった日本の若者たちが、祖国日本から逸脱する糸口として、新しい自己の可能性を見出そうとする方法の一つとして――換言すれば、自己解放、自由な生の探求、新たな選択の探求の仕方として――、アナキズムを学習するための読書は無駄ではない。そのような意味で、「じぶんさがし」の手がかりを探るという意味で、本書を読んでみる価値はある。