2020-02-22、令和2年2月22日の「猫の日」
2020年2月21日金曜日
『追想にあらず 1969年からのメッセージ』
●三浦俊一〔編著〕 ●講談社エディトリアル ●1800円+税
本書は、日本共産党(以下「日共」と略記)に代わる前衛党を目指した新左翼党派、共産主義者同盟(Bund/以下「ブント」と略記。1958年結党)の幹部による、1960年代後半から1970年代における同党派の活動等に係る記述だ。
ブント結党に関する経緯及びその後の展開等については本書にまとめられているのでここでは詳しくは触れないものの、60年安保闘争を担った全学連主流派による学生運動を理論的に指導した党派であったことを強調しておきたい。同党派はいわば、日本の新左翼運動の老舗的存在だった。なお、結党時のブントを第1次ブントと呼ぶ。
ブント(共産主義者同盟)と革命的共産主義者同盟
ブントの政治党派としての特徴は、厳格な前衛党というイメージから遠く、ブントを自称する大学、職場、地域における集団がそれぞれ独自に理論武装を行い、それぞれが独自に運動を展開するところにあった。
一方、60年安保闘争時、ブントに並ぶ反日共系党派として、革命的共産主義者同盟(以下「革共同」と略記。1957年結党)が存在した。革共同はブントと異なり、唯一強固な前衛党の実現を党是としており、結党以来一貫して内ゲバを他党派に向けて仕掛けた集団である。革共同のあり方が、新左翼運動衰退の主因の一つだった。
60年安保闘争終息後、ブントの幹部たちの多くが革共同に入党し、ブントは事実上、革命運動の主役から退いた。60年安保闘争終息後におけるブントの後退と革共同の台頭は、今日における日本の新左翼運動消滅の素因の一つであるのだが、このことについては後述する。なお、革共同は1962年に革共同全国委員会(以下「中核派」と略記)と革共同革命的マルクス主義派(以下「革マル派」と略記)に分裂して今日に至っている。
「じゅっぱち」とブントの復活
前出のとおり、60年安保闘争終息後、学生運動の主役の座から退いたブントだったが、60年代中葉の日韓闘争等を通じて次第に勢力を回復した。1966年、三派系全学連(ブント、中核派、社青同解放派)を結成し、新左翼運動再生の契機となった第1次(10.8)羽田闘争(1967/10/08)により一気に党勢を盛り返すに至った。このとき大同団結したブントを第2次ブントと呼ぶ。
日本の新左翼革命運動を記したとある書では、三派系全学連が担った10.8第1次羽田闘争(「じゅっぱち・はねだ」)から翌年の10.21国際反戦デー(1968/10/21)までの一連の街頭闘争を輝かしい戦果を上げた“激動期”と特記している。
「じゅっぱち」において学生デモ隊は初めて、党派ごとのシンボルカラーを塗装した工事用ヘルメットを装着し、角材(ゲバ棒と呼ばれた)と投石で機動隊と対峙した。それまで、学生を中心としたデモは警察機動隊の暴力的規制を受け、デモ参加学生の多数が負傷した。つまり、「じゅっぱち」における新左翼学生が行った武装は自衛だった。
新左翼革命運動高揚の象徴――佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争
前出の“激動期”のハイライトともいうべきなのが、佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争だった。エンタープライズとは米軍の巨大原子力空母の名称で、佐世保入港の目的は当時激化していたベトナム戦争における米軍支援だった。テレビでは、巨大な影のようなエンタープライズ号の不気味な映像と、放水を浴び、機動隊に警棒で殴られる若者(学生、反戦青年委員会のデモ隊)の凄惨な映像が繰り返し、重なるように放映された。
佐世保市民はもちろんのこと、テレビをみた全国の生活者大衆は、巨大な原子力空母の影に怯え、学生たちの献身的な寄港阻止運動に心を動かされた。佐世保市民は全国から集まった学生、青年労働者にカンパを惜しまなかった。それは、素朴な反戦の思いからだった。
戦争の記憶と新左翼革命運動
1968年というと、アジア太平洋戦争敗戦(1945年)から23年しかたっていない。ほぼ四半世紀というと、いかにも長い年月のように思えるかもしれないが、それはほんの数年前のことのようなのだということが、年齢を重ねればわかる。25年前のことは、それこそ、はっきりと記憶に残っているものなのだ。
佐世保における新左翼の若者による阻止闘争は、アメリカ軍に身内を殺され、空襲で家を焼かれた生活者大衆の生々しい戦争体験の記憶と重なっていた。1968年当時、「〇〇は、戦死した△△の生まれ変わりだね」という会話が日本の家庭の多くで、しばしば交わされていた。その会話の中心には、セピア色した軍服姿の青年の遺影があった。大学生ほどに成長したわが孫、わが子、わが甥っ子等と、若き軍服姿の青年の遺影を見比べたうえでの祖父、祖母、父、母、叔父、叔母の言葉だった。かくいう筆者も、サイパンで戦死した父の弟・五郎の「生まれかわり」だった。「似てねぇ」というのが当時の筆者の偽らざる心情だったのだが…
1969年――新左翼革命運動の転換点
新左翼学生運動は、1968年をもって力を失った。翌年(1969年)の1月、東大安田講堂封鎖解除(落城)から始まり、4.28沖縄闘争における破防法発動、全共闘運動の拠点だった大学への機動隊導入とロックアウトが相次ぎ、新左翼各派が「決戦」と位置付けた11月の羽田闘争も封じ込められた。新左翼各派は権力に暴力的(軍事的)に敗北した。
さて、本書副題が「1969年からのメッセージ」とあるように、ここからが本書である。権力側による反革命攻勢によって封じ込められたブントは、1969年、同党派内の関西ブントと呼ばれるグループが赤軍派を名乗って旗上げしたことで事実上、空中分解した。そのさなかで起こったのが、赤軍派によるブント議長らに対するリンチを発端とした幹部の死だった(7.6事件)。この事件については、本書寄稿者の多数がその経緯、背景等に触れている。
7.6事件後に結党した赤軍派は、▽ハイジャックを実行し、ピョンヤンにいまなお留め置かれている「よど号グループ」、▽アラブを拠点に海外武装闘争に参じた「日本赤軍」、▽京浜安保共闘と合体して「あさま山荘」銃撃戦、同志リンチ殺人を行った「連合赤軍」などに分派し、暴力闘争を展開したものの、警察権力により各派幹部の大半が逮捕・起訴・入獄したことにより活動停止に追い込まれた。また、赤軍派が分派した後の第2次ブントもRG派、戦旗派、情況派、叛旗派などに分解し、ブントは再び衰退期に突入し、1990年代に実態上、消滅したと思われる。
自己批判、反省、悔恨、懺悔
本書は、よど号グループ(小西隆裕、若林盛亮ほか)、日本赤軍(重信房子、足立正生)、赤軍派を立ち上げた幹部(高原浩之、三浦俊一ほか)による当時の回想及び現状認識に関する寄稿で構成されている。自己批判、反省、悔恨等々に満ちた内容だ。いま思えば、あるいは当時を知らない若者にしてみれば、たかが学生運動の活動家がいったいどうして武装、軍事、革命戦争を切実な闘争課題として思い込むに至ったのか、理解に苦しむだろう。まして、仲間同士がリンチ殺人を犯したのかと。
もちろんそれは、学生活動家の観念の無限の上向があったからだ。現実の生活実感を媒介しない空理空論(過渡期世界論→組織された暴力→前段階蜂起→世界一国同時革命→〈世界赤軍vs世界白軍全面戦争〉…)を弄んだからだ。そして組織内において、自己と他者が決意主義によって互いを追い込み追い込まれ、実行に至ったからだ。
武装の拡張が闘争の「勝利」をもたらすという思い込み
軍事路線の原点は、「じゅっぱち」「エンタープライズ寄港反対闘争」などの「武装闘争」による成功体験にある。そのことは赤軍派に限らず、武装闘争を競った新左翼各派に共通している。新左翼運動がほぼ1年間(激動期)、大衆的支持を得たのは、もちろん武装による勝利ではなかった。先述したとおり、生活者の素朴な反戦の記憶からの支持だった。にもかかわらず、新左翼はそれを「武装闘争」による勝利と錯誤した。
1969年を契機として、新左翼学生運動の「武装闘争」は機動隊暴力の強化と破防法等の法的規制により封じ込められた。また、権力側からのメディア規制も強まった(「過激派キャンペーン」など)。その一方、封じ込まれた側の新左翼党派は、1968年までの政治的勝利が武装にあったと誤信し、後退を食い止める方策は唯一「武装」の強化だと確信してしまった。ゲバ棒、投石から火炎瓶へ。さらに銃の奪取、爆弾使用へとエスカレートすれば、革命が成就するという論理だ。また、国内闘争から海外革命基地建設(キューバ、パレスチナ、北朝鮮)への空間的飛躍も夢想された。武装により勝利したというブントを筆頭とした新左翼の「成功体験」が、その武装に自縄自縛され、そこから逃れられなかった。そして無謀にも、M作戦(資金調達)、交番、銃砲店襲撃(銃の入手)、ハイジャック、パレスチナ解放勢力との共闘…と、武装をエスカレートし、逆に権力の圧倒的武力の前に屈した。
無謬の前衛党建設ーーブントは革共同との党派闘争に負けていた
それだけではない。ブントの分裂=赤軍派の分派は、革命成功の手段である前衛党建設をめぐる新左翼内論争に負けた結果でもあった。それは、60年安保闘争後のブントと革共同の確執に端を発していた。なかで革マル派は、唯一にして無謬の前衛政党建設のためには、いかなる他党派の存在も容認しないという姿勢を堅持していた。それが中核派との分裂を招いたばかりか、凄惨な内ゲバの正当化論理を新左翼に持ち込んでしまった。革マル派は、自党に敵対する他の新旧左翼党派は反革命であり、それらを暴力(テロ、リンチ)で消滅させることが革命遂行に必須だという論理を新左翼内に持ち込み実践した。
もとより牧歌的なブントの体質は、大学、地域内党派闘争における革マル派との党派闘争の際に弱点となった。ロシア革命成功は、レーニン率いる鉄の規律を有したボルシェビキの存在なくして語れない。ブントは党建設において革マル派にしばしば論破されてきた。強固な前衛党を媒介しない武装闘争ではプロレタリア革命はできない、と野合的ブント体質を革マル派に突かれると、弱かった。
その反動ともいえるのが、前出の「7.6事件」――党内闘争=リンチによる同志殺害だった。赤軍派はブントの弱さを克服すべく、赤軍兵士という規律を課そうとした。その究極的失敗が、連合赤軍によるリンチ殺害事件にほかならない。連合赤軍リーダーの一人、森恒夫が山岳アジトで「兵士」に命じた「自己の共産主義化」は、革マル派教祖の黒田寛一の「プロレタリア的人間自覚の論理」を素朴に単純化した「人間論」のように思える。このように、ブント赤軍派は、密教化した小集団として実体的かつ観念的に閉じこもり、仲間内でただただ軍事と戦争を夢想するインテリ集団と化していき、挙句、自壊した。
赤軍派、オウム真理教、大日本帝国
筆者は、本書に収められた赤軍派幹部たちの寄稿に失望した。その理由は、彼らが過ちを犯した者だからではない。彼らが現状をいかに認識しているかを開示する記述のなかに、オウム真理教の一連の武装闘争について、一切触れていないことに不信感を抱いたのだ。1969年に開始された赤軍派による武装闘争=革命戦争の夢想は、そのおよそ四半世紀を経た1995年、オウム教団による地下鉄サリン無差別テロによって、いっそう洗練された形で、無差別殺人として、蘇った。
オウム教団と赤軍派のイデオロギーはもちろん、異なるのだが…さて、1969年からおよそ四半世紀前、日本帝国は天皇制ファシズムの下、アジア太平洋戦争を戦っていた。日本帝国は、赤軍派をも、オウム真理教をも、その規模において圧倒的に凌ぐ国家による正真正銘の軍事力の行使、世界大戦だった。
日本帝国の軍隊は、天皇の名の下に、下級兵士を殴り銃殺するという不条理な暴力で服従させ、戦地の市民、農民の殺戮を強いた。オウム教団も信徒をリンチで殺し、弁護士一家ほかの市民を殺傷し、地下鉄内でサリンを撒いた。日本帝国(天皇信仰)、赤軍派(マルクス=レーニン主義)、オウム教団(オウム真理教経典)の三者は、依拠する思想はそれぞれ異なるばかりか、国家、党派、教団と組織の規模やその形成のあり方はまったく異なるものの、なりふりかまわぬ暴力、武装、軍事への盲信という意味で選ぶところがない。
本書寄稿者の一人が、革命後のソ連におけるレーニン、スターリンによる反革命派粛清や、カンボジア革命政府(ポルポト派)による大虐殺にふれる記述があった。それはそれで正しい歴史把握だと思われるが、日本の近現代史に即して考えることができたならば、赤軍派とオウム真理教との同一性、親近性にふれることは必須だった。加えて、オウム真理教の指導者(教祖)である麻原彰晃と、赤軍派リーダーである塩見孝也、田宮高麿、森恒夫らの人間性・性格などの比較も必要だった。
本書寄稿者がそれらを無視したのは、日本における1969年から今日(2020年)までの半世紀を総括するうえにおいて、彼らが日本の現実を一切見てこなかったことの証左のように思える。彼らがオウムに触れなかったのは、本書編集サイドから寄稿のポイントが事前に示されたことにより、必然的にネグレクトせざるを得なかった可能性が高い。ならば、本書編集者にも、わが国の1969年から今日までの半世紀を総括する視座が狭かった、といわざるを得ない。
階級闘争の勝利者
米国トランプ大統領(政権)を鋭く批判した『NOでは足りない――トランプ・ショックに対処する方法』(ナオミ・クライン著/岩波書店)において、クラインは次のような引用を示している。
億万長者ウォーレン・バフィットがいっている階級闘争とは――ソ連・東欧(社会主義国家群)の消滅を意味するものではなく――先進資本主義国家内の革命勢力に勝利したことを指す。それはいうまでもなく、新自由主義(経済理論なのかイデオロギーなのかよくわからないが)の勝利宣言であり、それまで先進資本主義国内にビルトインされていた社会民主主義的装置や政策を削除したことを含む、勝利宣言だ。
階級闘争に勝利したは富裕層が支配する今日の世界は、世界規模での弊害や諸矛盾を顕在化させている。ならば、革命的左派は富裕層が信奉する新自由主義を覆すべく、それに代わる新たな世界観、世界像を早急に提示しなければならない。
本書は、日本共産党(以下「日共」と略記)に代わる前衛党を目指した新左翼党派、共産主義者同盟(Bund/以下「ブント」と略記。1958年結党)の幹部による、1960年代後半から1970年代における同党派の活動等に係る記述だ。
ブント結党に関する経緯及びその後の展開等については本書にまとめられているのでここでは詳しくは触れないものの、60年安保闘争を担った全学連主流派による学生運動を理論的に指導した党派であったことを強調しておきたい。同党派はいわば、日本の新左翼運動の老舗的存在だった。なお、結党時のブントを第1次ブントと呼ぶ。
ブント(共産主義者同盟)と革命的共産主義者同盟
ブントの政治党派としての特徴は、厳格な前衛党というイメージから遠く、ブントを自称する大学、職場、地域における集団がそれぞれ独自に理論武装を行い、それぞれが独自に運動を展開するところにあった。
一方、60年安保闘争時、ブントに並ぶ反日共系党派として、革命的共産主義者同盟(以下「革共同」と略記。1957年結党)が存在した。革共同はブントと異なり、唯一強固な前衛党の実現を党是としており、結党以来一貫して内ゲバを他党派に向けて仕掛けた集団である。革共同のあり方が、新左翼運動衰退の主因の一つだった。
60年安保闘争終息後、ブントの幹部たちの多くが革共同に入党し、ブントは事実上、革命運動の主役から退いた。60年安保闘争終息後におけるブントの後退と革共同の台頭は、今日における日本の新左翼運動消滅の素因の一つであるのだが、このことについては後述する。なお、革共同は1962年に革共同全国委員会(以下「中核派」と略記)と革共同革命的マルクス主義派(以下「革マル派」と略記)に分裂して今日に至っている。
「じゅっぱち」とブントの復活
前出のとおり、60年安保闘争終息後、学生運動の主役の座から退いたブントだったが、60年代中葉の日韓闘争等を通じて次第に勢力を回復した。1966年、三派系全学連(ブント、中核派、社青同解放派)を結成し、新左翼運動再生の契機となった第1次(10.8)羽田闘争(1967/10/08)により一気に党勢を盛り返すに至った。このとき大同団結したブントを第2次ブントと呼ぶ。
日本の新左翼革命運動を記したとある書では、三派系全学連が担った10.8第1次羽田闘争(「じゅっぱち・はねだ」)から翌年の10.21国際反戦デー(1968/10/21)までの一連の街頭闘争を輝かしい戦果を上げた“激動期”と特記している。
「じゅっぱち」において学生デモ隊は初めて、党派ごとのシンボルカラーを塗装した工事用ヘルメットを装着し、角材(ゲバ棒と呼ばれた)と投石で機動隊と対峙した。それまで、学生を中心としたデモは警察機動隊の暴力的規制を受け、デモ参加学生の多数が負傷した。つまり、「じゅっぱち」における新左翼学生が行った武装は自衛だった。
新左翼革命運動高揚の象徴――佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争
前出の“激動期”のハイライトともいうべきなのが、佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争だった。エンタープライズとは米軍の巨大原子力空母の名称で、佐世保入港の目的は当時激化していたベトナム戦争における米軍支援だった。テレビでは、巨大な影のようなエンタープライズ号の不気味な映像と、放水を浴び、機動隊に警棒で殴られる若者(学生、反戦青年委員会のデモ隊)の凄惨な映像が繰り返し、重なるように放映された。
佐世保市民はもちろんのこと、テレビをみた全国の生活者大衆は、巨大な原子力空母の影に怯え、学生たちの献身的な寄港阻止運動に心を動かされた。佐世保市民は全国から集まった学生、青年労働者にカンパを惜しまなかった。それは、素朴な反戦の思いからだった。
戦争の記憶と新左翼革命運動
1968年というと、アジア太平洋戦争敗戦(1945年)から23年しかたっていない。ほぼ四半世紀というと、いかにも長い年月のように思えるかもしれないが、それはほんの数年前のことのようなのだということが、年齢を重ねればわかる。25年前のことは、それこそ、はっきりと記憶に残っているものなのだ。
佐世保における新左翼の若者による阻止闘争は、アメリカ軍に身内を殺され、空襲で家を焼かれた生活者大衆の生々しい戦争体験の記憶と重なっていた。1968年当時、「〇〇は、戦死した△△の生まれ変わりだね」という会話が日本の家庭の多くで、しばしば交わされていた。その会話の中心には、セピア色した軍服姿の青年の遺影があった。大学生ほどに成長したわが孫、わが子、わが甥っ子等と、若き軍服姿の青年の遺影を見比べたうえでの祖父、祖母、父、母、叔父、叔母の言葉だった。かくいう筆者も、サイパンで戦死した父の弟・五郎の「生まれかわり」だった。「似てねぇ」というのが当時の筆者の偽らざる心情だったのだが…
1969年――新左翼革命運動の転換点
新左翼学生運動は、1968年をもって力を失った。翌年(1969年)の1月、東大安田講堂封鎖解除(落城)から始まり、4.28沖縄闘争における破防法発動、全共闘運動の拠点だった大学への機動隊導入とロックアウトが相次ぎ、新左翼各派が「決戦」と位置付けた11月の羽田闘争も封じ込められた。新左翼各派は権力に暴力的(軍事的)に敗北した。
さて、本書副題が「1969年からのメッセージ」とあるように、ここからが本書である。権力側による反革命攻勢によって封じ込められたブントは、1969年、同党派内の関西ブントと呼ばれるグループが赤軍派を名乗って旗上げしたことで事実上、空中分解した。そのさなかで起こったのが、赤軍派によるブント議長らに対するリンチを発端とした幹部の死だった(7.6事件)。この事件については、本書寄稿者の多数がその経緯、背景等に触れている。
7.6事件後に結党した赤軍派は、▽ハイジャックを実行し、ピョンヤンにいまなお留め置かれている「よど号グループ」、▽アラブを拠点に海外武装闘争に参じた「日本赤軍」、▽京浜安保共闘と合体して「あさま山荘」銃撃戦、同志リンチ殺人を行った「連合赤軍」などに分派し、暴力闘争を展開したものの、警察権力により各派幹部の大半が逮捕・起訴・入獄したことにより活動停止に追い込まれた。また、赤軍派が分派した後の第2次ブントもRG派、戦旗派、情況派、叛旗派などに分解し、ブントは再び衰退期に突入し、1990年代に実態上、消滅したと思われる。
自己批判、反省、悔恨、懺悔
本書は、よど号グループ(小西隆裕、若林盛亮ほか)、日本赤軍(重信房子、足立正生)、赤軍派を立ち上げた幹部(高原浩之、三浦俊一ほか)による当時の回想及び現状認識に関する寄稿で構成されている。自己批判、反省、悔恨等々に満ちた内容だ。いま思えば、あるいは当時を知らない若者にしてみれば、たかが学生運動の活動家がいったいどうして武装、軍事、革命戦争を切実な闘争課題として思い込むに至ったのか、理解に苦しむだろう。まして、仲間同士がリンチ殺人を犯したのかと。
もちろんそれは、学生活動家の観念の無限の上向があったからだ。現実の生活実感を媒介しない空理空論(過渡期世界論→組織された暴力→前段階蜂起→世界一国同時革命→〈世界赤軍vs世界白軍全面戦争〉…)を弄んだからだ。そして組織内において、自己と他者が決意主義によって互いを追い込み追い込まれ、実行に至ったからだ。
武装の拡張が闘争の「勝利」をもたらすという思い込み
軍事路線の原点は、「じゅっぱち」「エンタープライズ寄港反対闘争」などの「武装闘争」による成功体験にある。そのことは赤軍派に限らず、武装闘争を競った新左翼各派に共通している。新左翼運動がほぼ1年間(激動期)、大衆的支持を得たのは、もちろん武装による勝利ではなかった。先述したとおり、生活者の素朴な反戦の記憶からの支持だった。にもかかわらず、新左翼はそれを「武装闘争」による勝利と錯誤した。
1969年を契機として、新左翼学生運動の「武装闘争」は機動隊暴力の強化と破防法等の法的規制により封じ込められた。また、権力側からのメディア規制も強まった(「過激派キャンペーン」など)。その一方、封じ込まれた側の新左翼党派は、1968年までの政治的勝利が武装にあったと誤信し、後退を食い止める方策は唯一「武装」の強化だと確信してしまった。ゲバ棒、投石から火炎瓶へ。さらに銃の奪取、爆弾使用へとエスカレートすれば、革命が成就するという論理だ。また、国内闘争から海外革命基地建設(キューバ、パレスチナ、北朝鮮)への空間的飛躍も夢想された。武装により勝利したというブントを筆頭とした新左翼の「成功体験」が、その武装に自縄自縛され、そこから逃れられなかった。そして無謀にも、M作戦(資金調達)、交番、銃砲店襲撃(銃の入手)、ハイジャック、パレスチナ解放勢力との共闘…と、武装をエスカレートし、逆に権力の圧倒的武力の前に屈した。
無謬の前衛党建設ーーブントは革共同との党派闘争に負けていた
それだけではない。ブントの分裂=赤軍派の分派は、革命成功の手段である前衛党建設をめぐる新左翼内論争に負けた結果でもあった。それは、60年安保闘争後のブントと革共同の確執に端を発していた。なかで革マル派は、唯一にして無謬の前衛政党建設のためには、いかなる他党派の存在も容認しないという姿勢を堅持していた。それが中核派との分裂を招いたばかりか、凄惨な内ゲバの正当化論理を新左翼に持ち込んでしまった。革マル派は、自党に敵対する他の新旧左翼党派は反革命であり、それらを暴力(テロ、リンチ)で消滅させることが革命遂行に必須だという論理を新左翼内に持ち込み実践した。
もとより牧歌的なブントの体質は、大学、地域内党派闘争における革マル派との党派闘争の際に弱点となった。ロシア革命成功は、レーニン率いる鉄の規律を有したボルシェビキの存在なくして語れない。ブントは党建設において革マル派にしばしば論破されてきた。強固な前衛党を媒介しない武装闘争ではプロレタリア革命はできない、と野合的ブント体質を革マル派に突かれると、弱かった。
その反動ともいえるのが、前出の「7.6事件」――党内闘争=リンチによる同志殺害だった。赤軍派はブントの弱さを克服すべく、赤軍兵士という規律を課そうとした。その究極的失敗が、連合赤軍によるリンチ殺害事件にほかならない。連合赤軍リーダーの一人、森恒夫が山岳アジトで「兵士」に命じた「自己の共産主義化」は、革マル派教祖の黒田寛一の「プロレタリア的人間自覚の論理」を素朴に単純化した「人間論」のように思える。このように、ブント赤軍派は、密教化した小集団として実体的かつ観念的に閉じこもり、仲間内でただただ軍事と戦争を夢想するインテリ集団と化していき、挙句、自壊した。
赤軍派、オウム真理教、大日本帝国
筆者は、本書に収められた赤軍派幹部たちの寄稿に失望した。その理由は、彼らが過ちを犯した者だからではない。彼らが現状をいかに認識しているかを開示する記述のなかに、オウム真理教の一連の武装闘争について、一切触れていないことに不信感を抱いたのだ。1969年に開始された赤軍派による武装闘争=革命戦争の夢想は、そのおよそ四半世紀を経た1995年、オウム教団による地下鉄サリン無差別テロによって、いっそう洗練された形で、無差別殺人として、蘇った。
オウム教団と赤軍派のイデオロギーはもちろん、異なるのだが…さて、1969年からおよそ四半世紀前、日本帝国は天皇制ファシズムの下、アジア太平洋戦争を戦っていた。日本帝国は、赤軍派をも、オウム真理教をも、その規模において圧倒的に凌ぐ国家による正真正銘の軍事力の行使、世界大戦だった。
日本帝国の軍隊は、天皇の名の下に、下級兵士を殴り銃殺するという不条理な暴力で服従させ、戦地の市民、農民の殺戮を強いた。オウム教団も信徒をリンチで殺し、弁護士一家ほかの市民を殺傷し、地下鉄内でサリンを撒いた。日本帝国(天皇信仰)、赤軍派(マルクス=レーニン主義)、オウム教団(オウム真理教経典)の三者は、依拠する思想はそれぞれ異なるばかりか、国家、党派、教団と組織の規模やその形成のあり方はまったく異なるものの、なりふりかまわぬ暴力、武装、軍事への盲信という意味で選ぶところがない。
本書寄稿者の一人が、革命後のソ連におけるレーニン、スターリンによる反革命派粛清や、カンボジア革命政府(ポルポト派)による大虐殺にふれる記述があった。それはそれで正しい歴史把握だと思われるが、日本の近現代史に即して考えることができたならば、赤軍派とオウム真理教との同一性、親近性にふれることは必須だった。加えて、オウム真理教の指導者(教祖)である麻原彰晃と、赤軍派リーダーである塩見孝也、田宮高麿、森恒夫らの人間性・性格などの比較も必要だった。
本書寄稿者がそれらを無視したのは、日本における1969年から今日(2020年)までの半世紀を総括するうえにおいて、彼らが日本の現実を一切見てこなかったことの証左のように思える。彼らがオウムに触れなかったのは、本書編集サイドから寄稿のポイントが事前に示されたことにより、必然的にネグレクトせざるを得なかった可能性が高い。ならば、本書編集者にも、わが国の1969年から今日までの半世紀を総括する視座が狭かった、といわざるを得ない。
階級闘争の勝利者
米国トランプ大統領(政権)を鋭く批判した『NOでは足りない――トランプ・ショックに対処する方法』(ナオミ・クライン著/岩波書店)において、クラインは次のような引用を示している。
アメリカの億万長者ウォーレン・バフィットは数年前、CNNの取材に応えていみじくも(略)「この20年間続いてきた階級闘争で勝ったのは、私の階級だ…富裕層が勝ったのだ」。(同書P97-98)日本の革命的左派が今日消滅したのは、本書がいみじくも示しているように、無謀な軍事至上主義に陥り自滅した赤軍派に代表される新左翼各派の失敗に帰せられることは否定しようがない。しかしそれだけではない。1960年代後半から世界規模で始まった革命的左派の異議申し立てに対し、富裕層は1980年代から一気に反革命を強化し、結果、“階級闘争に勝った”のだ。
億万長者ウォーレン・バフィットがいっている階級闘争とは――ソ連・東欧(社会主義国家群)の消滅を意味するものではなく――先進資本主義国家内の革命勢力に勝利したことを指す。それはいうまでもなく、新自由主義(経済理論なのかイデオロギーなのかよくわからないが)の勝利宣言であり、それまで先進資本主義国内にビルトインされていた社会民主主義的装置や政策を削除したことを含む、勝利宣言だ。
階級闘争に勝利したは富裕層が支配する今日の世界は、世界規模での弊害や諸矛盾を顕在化させている。ならば、革命的左派は富裕層が信奉する新自由主義を覆すべく、それに代わる新たな世界観、世界像を早急に提示しなければならない。
2020年2月9日日曜日
本田の挑戦を阻むブラジルの壁
ここのところ停滞気味だった日本サッカー界だったが、久々にビッグニュースが飛び込んできた。本田圭佑がブラジルの名門ボタフォゴ(リオデジャネイロ)へ正式入団したという。「本田ボタフォゴ入団」の噂は以前から伝えられていたが、本田に冠されたニックネームは「エア・オファー」だったから信じなかった。筆者にとって「正式に」という報道は大事件だった。ブラジルで大歓迎を受けたというから、おそらくカリオカ(リオデジャネイロ人)の間でもビッグニュースなのだろう。わがチームの再建を本田に託したというわけだ。まずは、本田のブラジルでの成功を祈りたい。
ブラジルサッカー界が懐く、3つの本田への不信感
カリオカの本田に対する熱狂的歓迎ぶりの一方、ブラジルのサッカー専門家の間では、本田の成功を危ぶむ声が強い。Web Sportivaによると、①直前、本田がオランダリーグのフィテッセをわずか4試合出場しただけで退団したことに対する不信感、②本田が昨年、マンチェスター・ユナイテッドやミランにTwitterを通して逆オファーしたことが、笑い話のように伝えられているということ、③本田がカンボジアの代表監督(正式ではないが)を兼任していることと、オーストリアではクラブチームを経営していたこと。これらのことは、本田がサッカーに全力で取り組んでいないという評価につながっているという。
以上の3点はきわめて当然であり、本田がプロのサッカー選手として真剣に試合に臨むつもりがあるのか、とだれしも思う。本田は、現役サッカー選手というよりも、スキャンダラスな人物であり、経営者・指導者だと評価されている。
本田を阻むブラジルの5つの壁
本田がこれからブラジルでプレーするに際し、待ち受ける困難性について推測してみよう。第一の壁は、相手選手から厳しいマークを受けることだ。サッカー王国を自負するブラジル選手が、鳴り物入りでやってきた東洋人に自由にプレーさせるとは思えない。イエロー覚悟で潰しにかかるのではないか。ブラジルに限らず、南米サッカーの基盤は強力な守備力である。堅く厳しい守備をいかに突破するかが逆に、ブラジルサッカー選手の攻撃力のレベルを上げてきた。もちろんその逆もある。守備力と攻撃力の相互性だ。華麗なサンバのリズムのような…というブラジルサッカーに対するイメージは幻想に近い。筆者は、本田のスピードでブラジルの守備陣を突破できる確率は低いように思う。
第二の壁は、周囲からの強いプレッシャーだ。本田が順調に滑り出せばそれは杞憂にすぎないが、壁にぶつかればメディア、サポーターから情け容赦ないブーイングを浴びる。極論だが、生命の保証もない。
第三の壁は、ブラジルの熱帯・亜熱帯気候と国土の広さだ。広いロシアでプレーした経験のある本田だから、ブラジルくらいOKだと考えがちだが、彼はすでに33才。厳しい気候のもとでの長距離移動は過酷だろう。ちなみに、2018年シーズンのブラジル選手権(リーグ)は全国26州・1連邦直轄地のうち、9つの州にある20チームが2試合総当たりで勝点を競った。
第四の壁は、言語。ブラジルはポルトガル語の国で欧州に比べると英語は一般的でない。オランダ、ロシア、イタリア、メキシコ、オーストラリアといろいろな言語圏でプレーした経験を持つ本田だから、言語の壁は高くないのかもしれないけれど、不安要素であることに変わりない。
第五の壁は、本田のフィジカル。これは前出の気候・風土及びブラジルの治安の悪さ、言語等からくる精神的疲弊を含んだ総合的な壁とも言える。コンディションを上げるのにどれだけの時間を要するのだろうか。
本田の挑戦を揶揄する気持ちはない。成功してもらいたい。だが筆者の予想では、彼のブラジルでの挑戦は不発に終わるように思う。
ブラジルサッカー界が懐く、3つの本田への不信感
カリオカの本田に対する熱狂的歓迎ぶりの一方、ブラジルのサッカー専門家の間では、本田の成功を危ぶむ声が強い。Web Sportivaによると、①直前、本田がオランダリーグのフィテッセをわずか4試合出場しただけで退団したことに対する不信感、②本田が昨年、マンチェスター・ユナイテッドやミランにTwitterを通して逆オファーしたことが、笑い話のように伝えられているということ、③本田がカンボジアの代表監督(正式ではないが)を兼任していることと、オーストリアではクラブチームを経営していたこと。これらのことは、本田がサッカーに全力で取り組んでいないという評価につながっているという。
以上の3点はきわめて当然であり、本田がプロのサッカー選手として真剣に試合に臨むつもりがあるのか、とだれしも思う。本田は、現役サッカー選手というよりも、スキャンダラスな人物であり、経営者・指導者だと評価されている。
本田を阻むブラジルの5つの壁
本田がこれからブラジルでプレーするに際し、待ち受ける困難性について推測してみよう。第一の壁は、相手選手から厳しいマークを受けることだ。サッカー王国を自負するブラジル選手が、鳴り物入りでやってきた東洋人に自由にプレーさせるとは思えない。イエロー覚悟で潰しにかかるのではないか。ブラジルに限らず、南米サッカーの基盤は強力な守備力である。堅く厳しい守備をいかに突破するかが逆に、ブラジルサッカー選手の攻撃力のレベルを上げてきた。もちろんその逆もある。守備力と攻撃力の相互性だ。華麗なサンバのリズムのような…というブラジルサッカーに対するイメージは幻想に近い。筆者は、本田のスピードでブラジルの守備陣を突破できる確率は低いように思う。
第二の壁は、周囲からの強いプレッシャーだ。本田が順調に滑り出せばそれは杞憂にすぎないが、壁にぶつかればメディア、サポーターから情け容赦ないブーイングを浴びる。極論だが、生命の保証もない。
第三の壁は、ブラジルの熱帯・亜熱帯気候と国土の広さだ。広いロシアでプレーした経験のある本田だから、ブラジルくらいOKだと考えがちだが、彼はすでに33才。厳しい気候のもとでの長距離移動は過酷だろう。ちなみに、2018年シーズンのブラジル選手権(リーグ)は全国26州・1連邦直轄地のうち、9つの州にある20チームが2試合総当たりで勝点を競った。
第四の壁は、言語。ブラジルはポルトガル語の国で欧州に比べると英語は一般的でない。オランダ、ロシア、イタリア、メキシコ、オーストラリアといろいろな言語圏でプレーした経験を持つ本田だから、言語の壁は高くないのかもしれないけれど、不安要素であることに変わりない。
第五の壁は、本田のフィジカル。これは前出の気候・風土及びブラジルの治安の悪さ、言語等からくる精神的疲弊を含んだ総合的な壁とも言える。コンディションを上げるのにどれだけの時間を要するのだろうか。
本田の挑戦を揶揄する気持ちはない。成功してもらいたい。だが筆者の予想では、彼のブラジルでの挑戦は不発に終わるように思う。
2020年2月7日金曜日
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