●竹田青嗣〔著〕 ●ちくま新書 ●780円+税(絶版)
筆者は現象学の創設者・フッサールの『現象学の理念』『経験と判断』『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』をかつて読んだことがあるが、なにも頭に入っていない。フッサールの著作は『イデーン I・II・III』(日本語訳全5冊)、『論理学研究』(同全4巻)など膨大で筆者にはすべて読むことが困難である。現象学の解説書である本書も再読に当たる。よって、フッサール及び本書を評価する能力は筆者にはない。本稿は『現象学は〈思考の原理〉である』という、現象学の解説書に係るノートである。
現象とは何か
現象学(Phenomenology)という言葉は一般には馴染みがないが、現象(phenomenon)という言葉はだれもが知っている。自然現象、生理現象等、日常的に使われる。目に見える変化、物事が起こったり変化したりする様子である。ではなぜ、現象が起きるのかとなると、説明は難しい。近代以前のキリスト教圏においては、現象は、不可視の存在(=神)の意志が可視化したものと説明された。たとえば自然災害(という現象)は、神の怒りが現れ出でたと。
近代に近づくにつれ、(可視的な)現象については、たとえば、地震を説明する場合、プレートのズレから生ずるとか、活断層が突然、動きだすとか、科学的説明がなされるようになった。現象については、自然科学という領域が確立されたのである。
一方、18世紀末から19世紀半ば、カント哲学に対する反動として、ドイツ観念論が台頭した。そこで、不可視の領域における現象、すなわち、意識=精神(心理、認識、言語、欲望など)の働きが哲学の主要な対象となった。その代表的な哲学者がヘーゲル(1770-1831)であり、『精神現象学』(ドイツ語:Phänomenologie des Geistes、英語:The Phenomenology of Spirit)がその代表的著作である。同書は、“観念論の立場にたって意識から出発し、弁証法によって次々と発展を続けることによって現象の背後にある物自体を認識し、主観と客観が統合された絶対的精神になるまでの過程を段階的に記述したもの。カントの、認識と物自体との不一致という思想を超克し、ドイツ観念論の先行者であるフィヒテ、シェリングも批判した上で、ヘーゲル独自の理論を打ち立てた初めての著書である。難解をもって知られ、多くの哲学者に影響を与えた。”(Wikipediaより引用)と要約される。
20世紀になると、オーストリア領ブロスニッツ生まれのフッサール(1859-1938)がドイツにおいて超越論的現象学という哲学の領域を切り開いた。このことをもって、現象学は一般化した。フッサールの現象学は彼の弟子であるハイデガー(1889-1976)、フランスのメルロポンティ(1908-1961)、ラカン(1901-1981)、ロシアのコジェーヴ(1902-1968)らに影響を与えつつ今日に至っている。
現象学とは何か――現象学的還元について
現象学とは本題が示すように思考の原理であり、“現象学は、近代哲学の中心問題であった「認識問題」、つまり「認識の謎」を解決しようという動機から発して、認識問題の原理論としてもっとも深い原理にまで達している”(P20)とされる。
フッサールが「認識の謎」を解決しようとして提起した方法が「現象学的還元」である。極論すれば、現象学とは「現象学的還元」のことだともいえる。著者(竹田青嗣)の「現象学的還元」の解釈を以下に要約しよう。
われわれがもっている二重の視線
だれもが二重の観点(視線)、すなわち「自分からの観点」と「客観的な観点」をもっている。これは人間の観点が本質的に自己対象化的観点であることからくる原理的必然性であるから。
われわれは「自分の世界」の中に“閉じ込められている(=実存の孤独)”。その一方で、われわれは、自分の視線から距離を取り、自分と世界全体を一つの客観的な関係として眺める視線をもっている。つまり、「実存の世界視線」と「客観化の世界視線」の二重性ということが、人間の世界像の基礎をなしている。
現象学の方法
現象学の方法とは、「自然的、客観的な態度」=「客観的な世界視線」をエポケーして実存的=私的な世界視線に置き戻すことである。
※エポケーとは古代ギリシャ語:epokhế、英語:suspension of judgment、すなわち判断停止である。還元(reduction)とは「戻す」という意味。たとえば、“利益を社会に還元せよ”というふうに使われる。フッサールがいう「客観的視点」は「自然的、客観的な態度」のことであり、「還元」せよというのは、われわれが持っている「客観的な世界視線」は、実際は「自分からの視線」(主観的な視線)から“構成”されているから、これをいったんすべて「自分からの視線」に置き戻すことができる。まず、そうしてみよということ。それが「自然的態度」を判断停止(エポケー)して純粋意識に「還元する」ということの内実である。
フッサールは(その結果、)“全世界が遮断されたとすれば、そのとき一体何が残りつづけることができるであろうか”と問う。著者(竹田青嗣)はそれを“全世界が括弧にくくられたとしたら、なお何が「存在として、定立されるのか」”と言い換える。
われわれは現象学的エポケーによって「純粋体験」とか「純粋意識」と呼ぶべき領域を見出す。「純粋意識」は、「純粋自我」と「意識相関者」という二つの契機(要因)をもつが、それは現実世界の領域ではなく、あくまで「意識」「自我」としての領域なのである。要は、「意識」領域をそれ自体自立的な領域とみなして、これを内省しつつ分析するということだという。
エポケーによって“残る”ことになるのは、結局「一つの絶対的な存在領圏」である。エポケーによって世界の実在性は遮断されるのだから、「意識」が残るといっても、それは実在的な意味での「意識」ではなくなる。だが「意識」が文字通りなくなるわけではもちろんない。それはただ、独自の意味と定義をもつ領域になる。つまり、いわばある自立的な「絶対的領圏」となる。それを(現象学では)「純粋な意識領圏」と呼ぶ。それが現象学的エポケーによって「残余」するものである。
現象学的還元の全体像(薄暗がりの中で白い紙を触る)
薄暗がりの中、目の前に白い紙が一枚あり、それを「私」は近づいてよく見る。これだけの体験を自分の「意識体験」として適切に記述すること。それが現象学的還元の全体像の例である。知覚体験を自分の「意識体験」として内省によって記述してみよう。するとそこにどういう「本質構造」を取り出すことができるか。
- 意識体験として見た知覚体験の第一の本質は、実際には(実的には)「私」はつねに対象の一部しか知覚していないが、それを「対象全体」として、あるいは対象全体の一部として知覚している、ということ。コギタチオは、それ自身として、おのれのコギタツームについてのコギタチオである。(=紙の諸部分についての具体的でリアルな体験の一つ一つは、まさしくその「一枚の紙」についての諸部分のリアルな体験と、意識されている。)
- 「物」の知覚には、中心的対象の知覚とその周りの背景(=意識の庭)という構図が常にある、ということも分かる。
- 知覚体験には、ちょうど暗いところを懐中電灯で光をあてて物を見るように、主体の側から「注意を向けること」(=配意)という側面があること。
※コギタチオ=暗がりの中でこの紙の部分部分を見たり触ったりすることで、はじめはっきりしないこの紙の全体のありようを、徐々にたしかめていく。つまり、一枚の紙を具体的体験として「知覚」していく。こういう“部分部分を確かめつつ進むという体験を「コギタチオ(cogitatio)」とか「意識体験」と呼ぶことにする。
※コギタツーム=そのつどの「コギタチオ」は個々別々で、そこには多様性がある。しかしその体験の中で「一枚の紙そのもの」をつねに意識している。この常に意識されている全体としての、同一のものとしての「紙そのもの」は、「コギタチオ」ではなく、「コギタツーム(cogitatum)」と呼ぶことにする。
現象学的還元の核心
- 現象学的還元とは「知覚体験」あるいは「経験」一般を「意識の経験」としてもう一度見直す作業である。たとえば、「リンゴを見る」という体験を、「意識」に生じていることがら(事象)としてはどういう事態として記述できるか、ということ。「意識」の本質を記述するということはそれを把握するということ、すなわち、「知覚体験」において誰にとっても「共通項」として取り出しうることがらを記述せよということを意味する。「現象学的還元」は、「私の意識」に生じている体験のありようから、他者にとっても必ず生じているはずだと考えられるもの、すなわち共通項を取り出す作業が、知覚の現象学的還元であり、「意識体験の本質」あるいは「意識のア・プリオリ」を把握すること。別言すれば、「還元」という方法は、一切の体験・経験を意識体験(経験)として見て、その万人にとっての共通構造(本質構造)を取り出すこと。
- 「共通構造」=「本質構造」をなぜ取り出す必要があるのか――その答えは「確信成立の条件と構造」を解明するため――そのアイデアが現象学という方法の最大のメルクマール。この根本アイデアが現象学をして近代哲学の根本問題であった「認識問題」を解明させ、現象学が哲学的思考の原理論たらしめる。
「認識問題」について
現象学的還元の方法は、人間の認識構造を「信憑構造」として捉えよ、という要請から出てきた方法である。信憑とは「信じて拠りどころとする」という辞書的意味が示すように、科学的根拠に基づく確信というよりも、宗教的、地域的、文化的、伝統的などの根拠に基づく確信に拠るというニュアンスをもっている。つまり、人間の認識構造は、宗教、生育時のまわりの言説、教育などを一般条件とする影響によって(世界像の確信=信念となって)あらわれている。それはさまざまな「物語」をとおして世界の信憑像として人間に住みつく。
このことを詳説すると、各人(もしくは共同体)の世界像は、必然的に、〔X:共通了解が成立している領域(=自然科学的な世界説明の領域、数学、シンプルな論理学的原則などの領域)〕と、〔Y:共通了解が成立していない領域(=宗教的世界像、それぞれの美意識、倫理感覚、価値観など)〕に分かれて描かれている。
近代以降は、Xの領域が拡大してきたが、Yの領域=世界観、価値観(すなわち、善・悪・聖・俗の個別的な文節区画)、美意識――には厳密な共通構造は成立せず、大きな多様性が現れる。Yの領域では、どれが「正しい世界観」であるとかを問うことは無意味である。人間の世界像一般は、〔X:共通了解の成立する領域〕と、〔Y:けして成立しない領域〕の区分という本質構造をもつ。
現象学の「確信構造」の発想は、なぜ近代において「客観世界」という信憑が強固に成立し、しかも一方で、世界観の絶対的な一致というものが成立しないかという事情の本質を、はっきりと解明するものである。
*伝統的な「主観-客観」構図では「どれかが正しい世界像であるはずだ」という発想になるし、相対主義、懐疑主義の発想では「正しい世界像などどこにもない」ということになる。
現象学は「真理」「普遍性」という概念を決定的に変更する(現象学による「認識問題」の書き換えに係る箇条書き)
- 「絶対的な心理」というものは存在しない。神のような超越性の視点を括弧に入れてしまうと、われわれが「真理」とか「客観」と呼んでいるものは、万人が同じものとして認識=了解するもののことである。人間の認識は、共通認識の成立しない領域を構造的に含んでおり、そのため、「絶対的な心理」「絶対的な客観」は成立しない。
- しかし逆に、われわれが「客観」や「真理」と呼ぶものは全く無根拠であるとは言えない。そのような領域、つまり共通認識、共通理解の成立する領域が必ず存在し、そこでは科学的、学問的知、精密な学といったものが成り立つ可能性が原理的に存在する。ニーチェやヴィットゲンシュタインを含めて、相対主義や懐疑的な思考の系譜は、総じてこの領域について適切な解明を行うことができない。
- 共通了解が成立しない領域は、大きくは宗教的世界像、価値観に基礎づけられた世界観(その特殊性を強引に普遍化しようとすると「イデオロギー」となる)、美意識、倫理意識、習俗、社会システム、文化の慣習的体系等々である。およそ人間社会における宗教、思想(イデオロギー)対立の源泉は、この領域の原理的な一致不可能性に由来する。
- しかし、この認識領域の基本構造が意識され、自覚されるなら、そういった宗教、思想(イデオロギー)対立を克服する可能性の原理が現れる。すなわちそれは、世界観、価値意識の「相互承認」という原理である。たとえば世界観はその本性上、絶対性をもたず仮構的なものだから必然的に多用性をもつ。しかしまた世界観は、人間の世界理解の基本構造なので存在しないわけにはいかない。だから宗教的世界観を廃絶することはできないし、絶対的に一元化することもできない。これは社会的な価値観、人間的価値観も同じ性質をもつ。
- ここから、異なった世界観、価値観の間の衝突や相克を克服する原理は、ただ一つであることが明確になる。すなわち、それらの「多数性」を相互に許容しあうこと、言いかえれば多様な世界観、価値観を不可欠かつ必然的なものとして「相互承認」することだが、この世界観、価値観の「相互承認」は、近代以降の「自由の相互承認」という理念を前提的根拠とする。「自由の相互承認」が各人の相互的心意によって確保されず、「ルール」を必要とするのと同様に、世界観と価値観の「相互承認」も、その確保はルール形成によってのみ可能となる。
「内在‐超越」の概念
同概念を簡単に説明する。「リンゴ」が存在するから、私に「赤くて、丸くて、つやつやしたもの」が見える。これが自然的なものの見方。これを還元すると、私の意識領域において「赤くて、丸くて、つやつやしたもの」が現れている、と捉えられる。そして、そのような像の現れ方(一般に「知覚」と呼ばれる)が私に「リンゴ」の存在を「確信」させている、という順序で考えられる。フッサールは、この還元された「意識」領域を「内在」と名づけ、そこから成立している「リンゴ」の存在確信を「超越」と呼んでいる。このことはすなわち、事物を「内在」(=意識体験)へと還元してみたら、事物(リンゴ)は「内在」を条件として構成された「確信の像」(=超越)であることがわかる、ということである。
(われわれは)、われわれの世界像を、「内在」つまり意識体験の世界からさまざまな確信の像として構成している。それが現象学的思考が明らかにした認識の一般原理である。そして「内在」から構成されるのが「超越」だが、したがってそれは、どこまでいっても絶対性を与えない変更可能な一つの「確信像」だというほかない。これがフッサールの主張である。
「内在」は絶対的に与えられているが、「超越」は決して絶対的な最終項に達することはない。フッサールはそれを「事実世界の現実性は、体験流におけるたえざる調和的な統一によってのみ可能になるのであって、ここには、絶対的な確証は原理的に存在しない」と表現している。
知覚体験における「物」の存在確信の条件=構造
- 人がそれを自然に「知覚」体験と考えるような意識体験の「本質構造」は、ほかの体験(想像や想起)に比べ、ありありとした像を与える(これは特質であって、絶対な本質とはいえない)。たとえば、視覚ならこちらの視線を動かさないかぎり、つねに向こうからやってくる。
- 必ず、注意の中心点とその背景領域という構造をもっている。いま現に確認している領域と、確認されていない未規定的地平の広がりという構図をもっている。
- 「射映」-「全体」という構造をもっている。事物知覚をよく内省すると、事物はその全体を一挙に与えないでつねにある一面を少しずつ(あるいはつぎつぎに)与える(射映)という構造をもっている。
- この「射映」-「全体」の構図は、志向性の構造として捉えれば「ノエシス-ノエマ」構造と言いかえることができる。また現に確かめられる確実性という観点でとらえると「内在-超越」の構造とも言える。「ノエシス-ノエマ」は、われわれは事物を必ずさまざまな局面として捉えつつ(ノエシス)、それを全体の像(ノエマ)として構成している、という基本構造を意味し、「内在-超越」は、われわれの認識は必ず、現に与えられている意識事象(内在)から構成された確信像(超越)である、という基本構造である。「ノエシス-ノエマ」構造と「内在-超越」構造は、確信成立の構造としてもっとも象徴的でわかりやすい基本構図なので、この二つの概念を理解すれば、世界「確信」の一般構造をほぼ把握できるという形になっている。
※
ノエシス (Noesis) :「考える」という精神作用を指す用語で、それによって「考えられたもの」を指す
ノエマ (noma) と対にして用いられる。
「信念対立」の克服の原理としての現象学
フッサールが現象学を立ち上げた動機は、ヨーロッパにおける深刻な「信念対立」を克服することにあった。具体的には、ヨーロッパの歴史を概観することでわかる。
ペスト禍の終息とともにヨーロッパの中世は終わりを告げられ、ルネサンスを経て16世紀に起こった宗教改革をきっかけとして、ヨーロッパは新旧キリスト教間で戦争状態に突入する。また、東方では1453年にはコンスタンチノーブル(東ローマ)がオスマン・トルコ(イスラム勢力)によって占拠され、ヨーロッパ(キリスト教圏)は、イスラム圏と長期にわたる戦争状態に陥る。大航海時代の訪れとともに、アジア、アフリカに新大陸を加えた交流が始まり、ヨーロッパ人の世界像は一気に拡大する。植民地経営が始まり、海外から巨万の富がヨーロッパに流入する。この間に成長したブルジョア階級が市民革命を起こし、その終息を待たずにナポレオン戦争がヨーロッパ全土で勃発する。その後、西ヨーロッパにおいて産業革命が始まり、20世紀に入ると資本主義体制下、市民社会が成立する。それを受けてプロレタリア階級が台頭し、共産主義、社会主義思想がヨーロッパを覆い、革命の嵐が吹きすさぶ。欧州大戦がはじまり、ヨーロッパ全土が戦禍に包まれる。大戦後、フッサールが住む混乱のドイツにはナチズムが台頭し、ユダヤ人であるフッサールに生命の危機が及ぶ・・・
およそ500年間、ヨーロッパは混乱と危機の連続だった。フッサールは、前出のとおり、ヨーロッパの激動は、宗教、イデオロギー、世界観、価値観等の相違――「信念対立」に起因すると考え、それを克服する探求の哲学として現象学を発表した。
その一方、ロシア革命を主導したレーニンが、第一次大戦の主因を「帝国主義の不均等発展」と断言したように、戦争、貧困等の主因は、階級的矛盾だとする唯物史観と革命思想が人々に受け入れられていた。そのマルクス主義は、フッサールの死後に起きた第二次世界大戦後、東西冷戦を経て、ソ連の崩壊とともに衰退し今日に至っている。フッサールは、資本主義⇔マルクス主義というイデオロギー対立を予言するかのように現象学を世に問うていた。
「信念対立」はヨーロッパの過去の出来事ではない。晩年のフッサールを追い詰めたナチズムが掲げたレイシズムはいまなお、世界中で深刻さを増している。新自由主義と社会民主主義は今日における最も先鋭的な政治的対立の一つである。イスラム教とキリスト教は共存しているとはいえない。新旧キリスト教は対立していないが分離したままである。これらの対立の主因を「信念対立」にだけ求めて、資本主義という生産様式に求めないのはどうなのか、という指摘も無視できない。こうした素朴な疑問に対して著者(竹田青嗣)は次のように答えている。
われわれが現代社会において見ている政治上思想上の大きな枠組みは、たとえば進歩と保守、レフトとライト、近代と反近代、自由と秩序、ヨーロッパと反(非)ヨーロッパなどです。もっと象徴的に言えば、「資本主義」対「反資本主義」、「国家」対「反国家」、「アメリカ」対「「反アメリカ」という構図がいまもっともアクチュアルかもしれません。しかし、この対立は基本的に「イデオロギー的」な対立という性格をもっている。(これはかつての自由主義か社会主義かという思想的対立ほど明確な形をとりませんが、その変奏体だと言えます)。つまりそれは、「資本主義」か「反資本主義」か、「国家」か「反国家」かという二者択一的選択を迫るような性格をもっている。だがこの対立軸は、ちょうど「カトリック」と「プロテスタント」のどちらかが正しい、という教義的な問いが、近代ヨーロッパが直面していた本質的な課題を表現できなかったのと似ていて、現代社会の本質的な課題を適切に表現するものとなっていないのです。
(略)
現代の資本主義は大きな欠陥をもっています。しかし資本主義は「自由競争」という近代社会の経済原理を土台にしたものであり、これを完全に取り払うことは「近代社会」の土台を取り払うことであり、社会主義の挫折が示したようにいまのところ不可能です。そのかぎりで「資本主義」の側に立つか「反資本主義」の側に立つかという選択は、それ自体では抽象的かつ無内容なものになってしまう。人間の「欲望」を悪しきものとして認めるか認めないかといった問いに、それは似てくるからです。単に「反資本主義」の立場に立つことではなく、むしろ、いかに現在の資本主義の矛盾を克服するための具体的な社会原理を構想するかが重要であるはずです。それが思想の本質的な役割であって、「現在の世界は間違っており、自分はこの世界に反対する」という立場に立つことこそ“正しい”といった思考は、まさしく強いイデオロギー的性格を帯びるのです。(P120)