2020年5月18日月曜日

『現象学の理念』


●フッサール ●作品社 ●2000円+税

本書は、フッサールが行った5つの講義(以下「講義」と略記)を収録したもの。構成は、①それを編集したヴァルター・ビーメルの緒論、②フッサール自身による「5つの講義のあゆみ」(以下「あゆみ」と略記)、③「講義」――の順である。②を読み込んでおくと、主要部分である③が頭に入りやすい。

「あゆみ」の冒頭、フッサールは現象学宣言のような形で自らの問題意識を明言している。彼自身(フッサール)がはじめる学問は認識論であり、認識批判の方法が現象学的方法であると。 
事象そのものを的確にとらえる認識の可能性に反省をめぐらすとき、われわれをなやますさまざまな難題。たとえば、それ自体として存在する事象と認識との一致はいかにして確信されるか。認識はいかにして事象そのものに「的中する」のか。事象そのものはわれわれの思考の動きや、動きを規制する論理法則にどのように干渉するのか。(P3)
 フッサールは自らの学問(哲学)が認識論であることを明らかにし、認識批判の方法としての現象学、普遍的な本質論としての現象学を宣言する。そしてその出発点は、デカルトの懐疑考察である。

次に、内在と超越という対概念ないし対語による回答の摸索である。思考(コギト)の直観的な認識は内在的であり、自然科学や精神科学…数理科学などを含む客観的な学問の認識は超越的である。

次にフッサールが提起するのが、現象学的還元であるすべての超越的なもの(実在物ではないもの)は利用すべきでなく、現象学的還元をおこない、すべての超越的な定立を排除しなければならない。こうもいう、認識批判にとって、すべての学問は学問現象にすぎない、と。

現象学的還元とは何か――それはすべての超越的なもの(わたしに内在的にあたえられないもの)をゼロの見出しをつけて理解すること、すなわち、その実在、その妥当性をそのまま認めないで、たかだか妥当性現象として定立することを意味する。

現象学的還元のさらにこまかな規定とは、実在的に超越しているものを排除するものではなく、実在するとうけとられる超越者一般を、つまり、純粋な直観に絶対的にあたえられているというほんとうの意味での明証的な所与ではないところの一切を、排除するのである。

探求はまさしく純粋な直観ののうちにとどまらなければならないが、といっても、実在的に内在するものにとどまるというわけではない。探求は純粋な明証性の領域で、しかも本質をきわめようとするものである。べつないいかたをすれば、その分野は、絶対的にほんものがあたえられるような領域の内部にアプリオリに存在するものである。

一切の基礎をなすのは、絶対的な所与の意味を把握すること、あらゆる有意味な疑いを排除した所与の絶対的な明晰さの意味を把握すること、ひとことでいえば、絶対的に直感し、ほんものを把握する明証性の意味を把握することにある。

(とはいえ、)現象学の課題が、あるいはむしろ課題と研究の分野が、たんに直観すればよい、といった些細なことがらではないことである。最初のもっとも単純な最低次の認識形式にあっても、純粋な分析や本質考察には最大級の困難が立ちはだかる。相関関係について一般的に述べることは容易だが、ある認識対象が認識のうちでどのように構成されるかをあきらかにするのはきわめてむずかしいのだ。ところでいま課題とすべきは、純粋な明証性、ないし、ほんもののあたえられかたの枠内で、すべてのあたえられかたの形式とすべての相関関係を追跡し、すべてを解明するような分析をすすめていくことである。

かくて問題はあたえられかたの問題であり、認識におけるあらゆる種類の対象性の構成の問題である。認識の現象学は二重の意味で認識現象の学問である。すなわち、一方で、認識の現象学は、あれこれの対象性を受動的または能動的に表象し意識するあらわれ、表象、意識作用としての認識にかんする学問であり、他方また、そのように表象される対象性そのものにかんする学問でもある。現象ということばは、あらわれとあらわれでるものとの本質的な相関関係のゆえに二重の意味を持っている。φαινόμενον(現象)は本来はあらわれでるものを意味するが、むしろあらわれそのものを、(心理学的に誤解をまねきやすい表現がゆるされるなら)主観的な現象をいいあらわすのにもちいられることのほうがおおいのである。
反省作用のなかで思考(コギタチオ)が――あらわれそのものが――対象となるのだが、これはあいまいさを多分にふくんだいいかたである。

以上の問題意識が以下の5つの講義において詳論される。