本田圭佑がまたもや大法螺を吹いたようだ。サッカー王国ブラジルからなかば追放に近い形で放逐された本田。数日前からポルトガルのポルティモネンセへの移籍決定をほのめかしていたのだが、筆者は俄かに信ずることができなかったので、拙Blogに書かなかった。そしてやはり、本田の移籍はなかった。
「登録できなかった」というのが本田側の説明。これもまた信じられない。スポーツ・ビジネスの世界において、登録できない選手と契約することは100%ないし、その逆もあり得ない。クラブは契約した選手に給料を払わなければならないわけで、よほど裕福なクラブでもそんな無駄はしない。ことほどさように、本田側からのソーシャルメディアによる発信は信用できない。
筆者は本田がブラジルに移籍したとき、拙Blogにおいて、活躍は難しいと書いてそのとおりになった。しかも、彼の退団間際の振る舞いは、サッカー選手というよりも、人間的レベルにおいて失格だと思えた。
ブラジルではサッカーはスポーツを超えて、宗教に近い。宗教というのは、ブラジル国民の精神性に強く入り込んでいるものだ、ということを意味する。サッカーの試合に人生を投影させることもあるだろうし、サッカー選手に希望や失望を純粋に抱く。勝利や敗北に神を見ることもあるかもしれない。このようなことは、日本で長い歴史を誇り、日本国民の多くが支持するプロ野球とも異なるし、アメリカ国民にとって、国技といわれる野球、アメリカン・フットボールに対する思いとも異なる。
本田がブラジルサッカーに対する認識が甘かったのは、彼のリベラルアーツが浅かったゆえである。傲慢さ、驕り、拝金主義、利己主義に凝り固まった本田には、異国の風土、国民性に寄り添おうという気持ちを持つことができなかった――筆者はそう勝手に想像する。