半月前くらいのことだろうか、東京の下町、谷根千地域について、ツイッター上で論争があった。発端は、谷中に開業したYANAKA SOWという宿泊施設の紹介記事からだった。同施設は閑静な寺町谷中に、著名な企画会社が企画をたて、積水ハウスが開発したもの。建設に際し、近隣から反対もあった。
『rojiroji‐magazine』
谷根千地域には、『rojiroji-magazine/ロジ・ロジ・マガジン』(以下『roji誌』)というタウン誌がある。同誌は谷根千界隈の小規模で個性的な飲食店等を取材・紹介し、紹介した店舗及び地元の書店等に雑誌を卸し販売してもらうという仕組みの雑誌である。刊行は不定期のようだ。同誌の編集・発行人のA氏が『Forbes』において、YANAKA SOWの紹介記事を書いた。その記事がYANAKA SOWの編集タイアップ広告記事なのか純粋取材記事なのか定かではないが、A氏は『Forbes』ではライターとして紹介されていて、そこに掲載されたプロフィールによると、複数のファッション誌の編集者を歴任後、通販サイトAmazonを経て、谷根千において前出の『roji誌』の編集発行に至ったとある。
M氏による『roji誌』攻撃
『Forbes』におけるYANAKA SOWの記事をツイッターで攻撃したのがM氏。M氏は谷根千の名付け親であり、地域振興専門家として講演活動などをする一方、作家としても活躍している。M氏と谷根千の関係性については後述する。
M氏のA氏に対する攻撃は常人の理解を超える内容だった。M氏はかねてより、谷根千界隈の変容ぶりを嘆いていた、というよりも怒っていた。外から来た資本による出店ラッシュにより、古い趣ある住宅、旅館、町工場、商店、公衆浴場等が撤退もしくは閉店する。その替わりに出店する店舗は谷根千らしくなく、表参道や代官山などの新しい繁華街のものとかわらないと。
M氏の攻撃は、そうした谷根千の変容の責任のすべてが『roji誌』にあるかのような書きぶりだった。『roji誌』の編集発行人A氏の経歴から、M氏はあたかもA氏が高級ファッション企業=大資本の代表者であるかのように攻撃した。『roji誌』の最新刊特集が谷根千地域のファッション店の特集だったことからM氏がそう思ったのかもしれないが、そうであれば、M氏の認識の誤りである。
ツイッター上で、M氏を支持する派と『roji誌』擁護派の双方が参戦し、論争は混乱した。短文のツイッター上における論争は、本筋から外れることが多く、今回も生産性に欠けた。かみ合わない論争に辟易したと思われるM氏が「ツイッターしばらくお休み」宣言を発して、論争は終息した。
『地域雑誌 谷中・根津・千駄木』
『roji誌』を攻撃したM氏は、1984年に地域情報雑誌『谷根千』(正式には『地域雑誌 谷中・根津・千駄木』)を創刊したメンバーの一人。前出のように、その後、作家として名を成すと同時に、〝まちおこし″の専門家として活躍中である。さて、谷中・根津・千駄木地域の特徴は、①東京大空襲の被害を免れた戦前からの古い町並みが残っていること、②神社仏閣が多い(谷中は江戸期からの寺町で、しかも広大な谷中霊園がある)こと、③高級住宅地と古い木造のしもた屋が混在していること、④小規模だが個性的飲食店、商店が集積していること、⑤レトロな商店街が発展していること、⑥行き止まりのような細い路地が多数あること、⑦界隈に猫が多く、猫好きが集まる地域でもあること(最近は減少)――である。いわゆる、下町レトロな風情を残した地域である。加えて近くには、東京芸大(上野公園)、東京都美術館(同)、国立西洋美術館(同)、上野文化会館(同)、太平洋美術会(西日暮里)等があり、音楽・芸術系の学生及びそのOBも多く住む。谷中には朝倉彫塑館、千駄木には森鴎外記念館もあり、文化的雰囲気が色濃い地域である。 M氏らは、これら3地域の歴史、文化、生活に関する情報を自ら取材し、印刷加工し、『谷根千』という雑誌として販売し一定の読者を得た。まさに手づくりの地域雑誌の範を示した。 その影響として、▽企業誘致や大規模開発でまちおこしを行うことに注力していた従来の地域活性化手法に反省を促したこと、▽地域を新しい価値観で見直すことを提唱したことーーなどが挙げられる。
また、谷中(やなか)・根津(ねづ)・千駄木(せんだぎ)の頭文字をとった「や・ね・せん」という名称は同地域の総称として、いわば固有名詞として全国に流通するほどの知名度を得た。そればかりではない。谷根千の知名度アップを嚆矢として、下町ブーム、レトロブームが巻き起こったと説明する者もいる。雑誌『谷根千』の創刊・発行は同地域の発展ばかりか、全国の地域活性化に計り知れない好影響を与えた。なお、同誌は2009年、94号をもって休刊した。
谷根千の変容
谷根千の知名度アップと並行して、まちのようすは変わってきた。古くからの商店等は撤退、閉店し新しい店が出店し始めた。大資本のスーパーマーケット、マンションもなくはないが、多くは新たな事業機会を得ようと開業した若い起業家たちだ。カフェ、コーヒーショップ、レストラン、ワインバー、ハンバーガーショップ、クラフトビールパブ、手づくりアクセサリー・雑貨・靴のデザイン工房兼ショップ、蕎麦屋、古着屋、バッグ・帽子のアトリエ、骨董品店、居酒屋、惣菜店、ギャラリー・・・それらのショップ等の事業者がどのような状況を背負って谷根千にやってきたのかはわからないが、かれらは地上げをして谷根千に入ってきたのではないことだけは確かである。古くからの店舗・住宅等が閉店、撤退した理由もわからないが、後継者難、相続税対策、売上不振などが予想できなくもない。谷根千の新参者たちは、その結果生じた空き物件を借り受けて出店したのである。
谷根千の変容の契機、旅館「澤の屋」
谷根千の変容の契機となったのは、私見では、旅館「澤の屋」(谷中)の営業方針転換からだと思われる。同旅館は創業70年余の老舗だが、外国人宿泊客を顧客ターゲットとしたことから、インバウンド観光客が谷根千地域に増加するようになった。さらに近年のSNSによる情報発信が盛んになったことにより、外国人の谷根千評価が高かったことが、逆輸入となって日本人に伝わり、とりわけ日本人の若者が谷根千に注目し始めた。コロナ禍前、谷根千は外国人と日本人の若者にとって、新たな価値を持ったまち(地域)として見直された。加えて、テレビの影響も大きかった。谷根千のどこかで、毎日のように、テレビクルーと思しき者がロケをしている光景が見られるようになった。もちろん、著名なタレント、俳優等の姿もある。このようなまち歩き番組のロケは、コロナ禍でもあいかわらず盛んである。
旅館「澤の屋」が谷根千を破壊したと言いたいのではない。まちは変わる、それだけのことだ。大資本が古い建物を壊し新しいマンションやスーパーをつくる開発行為と、新鮮な価値を求めて集まる人々のための諸施設を準備する現象は異次元の話である。『roji誌』が取材・発信する谷根千情報は大資本とは無縁だし、「澤の屋」の集客戦略の変更も、それとは無縁である。『roji誌』は、M氏が地域雑誌『谷根千』を発刊していた時代とは異なる世代の嗜好に合わせた情報の発信媒体であり、「澤の屋」は、それまでの日本人客から外国人に合わせて情報を発信し、新たな顧客創造を成し遂げたまでのことである。
「受動的経済」
手元に、『都市の経済学』(ジェーン・ジェイコブズ著)がある。そこにフランスのバルドー(バルドともいう)というまちの話が載っている。バルドーはローマ時代、ガリアがその属州になったとき、近隣の鉄製品の製造地域と道路でつながって発展したところだが、ローマ帝国の撤退をもって衰退が始まり、以降、20世紀に至ると、わずか3世帯が残るまでに落ち込んだ。ところが1966年、たまたま通りかかったドイツ人とアメリカ人のハイカー(フランス人ではない)に発見され、彼らが老人から土地を買い取り、さらに周辺の土地の買取りに成功すると、金利生活者、出版関係者らがやってくる地域へと変容した。さらにキャンパーなどがもたらす収入も増えるようになった。ある映画会社がロケ地としてこの村を借りることになったとき、お礼として水道配管設備を残してくれたという。ジェイコブズはバルドーの再興を「受動的経済」と呼ぶ。つまり、自力で経済的変化を創造せず、遠方の都市で生じた力に対応するだけの経済を示す例だという。バルドーの再興と谷根千の活性化は規模と時間に大きな隔たりがあるが、いずれも「受動的経済」の事例として近似している。
もちろん、まちが経済的に発展すればいいというものではない。バルドーがローマ時代の風情をなくせば、都市の人々は離れていくだろうし、谷根千も下町レトロ風情を喪失すれば、観光客はこなくなる。
地域に根差した交流の場としてのパブ
ビアパブイシイ |
『roji誌』はBPIが育むような人と人の交流を媒介する地元タウン誌であり、M氏が断定したような、金持ち資本の情報誌では断じてない。M氏は戦う相手を間違えた、というか、戦うべき相手と戦わずして、〈M氏〉のもつ知名度・権威性をもって、弱小タウン誌に攻撃を加えた。谷根千で働く者に分断と差別をもちこんだ。その罪はけして軽くない。