2021年7月17日土曜日

『啓蒙の弁証法』

 ●ホルクハイマー、アドルノ〔著〕 ●岩波文庫 ●1320円+税

本書が扱う啓蒙とは

本書の章立ては以下のとおりである。

・序文

Ⅰ.啓蒙の概念

Ⅱ.〔補論Ⅰ〕オデュッセウスあるいは神話と啓蒙

Ⅲ.〔補論Ⅱ〕ジュリエットあるいは啓蒙と道徳

Ⅳ.文化産業――大衆欺瞞としての啓蒙

Ⅴ.反ユダヤ主義の諸要素――啓蒙の限界

Ⅵ.手記と草案 

難解だといわれる本書だが、そのわかりにくさは、各章の関連が認めにくいところからくるのではないかとも思えてくる。各章が独立していて、読む者の前に放り出されているような感さえある。だが、関連性は十二分にある。Ⅰ章の書出しは次の通り。

古来、進歩的思想という、最も広い意味での啓蒙が追求してきた目標は、人間から恐怖を除き、人間を支配者の地位につけるということであった。しかるに、あます所なく啓蒙された地表は、今、勝ち誇った凶徴に輝いている。啓蒙のプログラムは、世界を呪術から解放すること〔2〕であった。神話を解体し、知識によって空想の権威を失墜させることこそ、啓蒙の意図したことであった。(P23)

訳者・徳永恂の訳注〔2〕を参照すると--

世界を呪術から解放すること(die Entzauberung der Welt);言うまでもなく、マックス・ヴェーバーが「合理化」の過程として世界史を捉えた定式を踏まえている。このことは、本書の批判の射程が、たんに18世紀以降のいわゆる「啓蒙期」や、近代合理主義批判に尽きるものでなく、歴史の発端以来の人類史の全体に関わることを示している。(P92)

この訳注がたいへん参考になるもので、このことを意識して読み進めると、全体の意図が明確になる。すなわち、啓蒙を概念化し(Ⅰ)、それを、神話等を使って補足し(Ⅱ、Ⅲ)、現在の情況(亡命先米国の情報化、大量消費社会、及び、米国・欧州で脅威となっている反ユダヤ主義)を批判する――という構成であることが理解できる。

神話と啓蒙

古い起源をもつ神話ではあるが、それは概ね以下のような物語性を有しているーー英雄が凶暴な荒ぶる神々の猛威等により危機に陥るのだが、それらを切り抜け、成功を勝ち取る。英雄は危機に対して、機知に富む判断や合理的行動によってそれらを退ける。荒ぶる神々は、異教・蛮族であり、彼らによって崇められた自然そのものの象徴である。

また、ときに英雄は見知らぬ神の呪術により身動きできなくなることもあるのだが、そのとき良き援助者の助けにより薬草等をすすめられ、意識・体力を回復することがある。このとき英雄が飲む薬草等は後世の科学を、英雄を助ける者は同じく科学者を暗示する。人類はこうして、啓蒙的思想を自然に身に着け、進歩を続けてきたと考えられている。

啓蒙と唯一神

ユダヤ的宗教の神への信仰は啓蒙なのか、反啓蒙なのか。答えは次のとおりである。

ヒュームやマッハによって否定された自我という実体は、自我という名辞とは同一のものではない。家父長の理念が神話の否定にまで進んで行くユダヤ的宗教においては、名辞と存在との間の紐帯は、神の名を口にしてはならないという戒律によって、依然認められている。ユダヤ人の「呪術から解放された」世界は、死すべきものすべての絶望に慰めを保証するような、いかなる言葉をも容赦しない。この宗教においては、希望はただ一つ、偽神を神と、有限なものを無限なるものと、偽を真と呼んではならないという戒律につながれている。(P56)

ユダヤ的宗教の神こそが啓蒙の根源である。18世紀以降、神を啓蒙と言い換えたのである。啓蒙批判を繰り返したロマン派を退けて、ホルクハイマー・アドルノは次のように主張する。

啓蒙の非真理は、その敵であるロマン派が昔から啓蒙に浴びせかけてきたような、分析的方法、諸要素への還元、反省による解体、などへの非難のうちにあるのではない。啓蒙にとっては、過程はあらかじめ決定されているということのうちに、啓蒙の非真理があるのである。数学的方法においては、未知のものは方程式の未知数になるとすれば、ある価値がまだ代入される前に、未知のものは、前から知られていたものという徴づけを帯びていることになる。自然は量子力学の出現の前後を問わず、数学的に把握されなければならないものである。わけのわからないもの、解答不能や非合理的なものさえ、数学的諸定理によって置き換えられる。よく考え抜かれた数学化された世界と、真理とが同一化されることを先取りして、啓蒙は神話的なものの復帰の前にも安穏としていられる。啓蒙は思考と数学とを同一視する。それによって数学は、いわば解放され、絶対的審級に祭り上げられる。(P58~39)

重要なのは〝啓蒙にとっては、過程はあらかじめ決定されているということのうちに、啓蒙の非真理がある″という箇所である。あらかじめ決定されている――決定しているのは神であり、神の決定を前提としているのが啓蒙なのだから、啓蒙は真理ではないと。

本書の今日性

本書全体に箴言のように読む者を覚醒する言辞が散りばめられている。ジェンダー問題、環境問題に対する、回答のような箇所を書き抜いておこう。

男は外に出て敵と戦って生き、活動し努力しなければならない。女性は主体ではない。女性は自ら生産にたずさわることなく、ただ生産する者の身の廻りの世話をやくだけだ。それは、はるか昔に消え失せた閉鎖的家内経済の時代の生きた記念碑である。女性にとって、男性から強制的に割り当てられた分業体制は、有利なものではなかった。女性は生物学的な機能を体現し、自然を象徴する者としてイメージされたが、この自然を抑圧することによってこそ、この文明に栄えある称号が授与されるのである。はてしなく自然を征服し、調和にみちた世界を無限の狩猟区に変えることが、数千年にわたる憧れの夢だったのだ。男性社会における人間の理念は、この夢に添ったものだ。これが人間が鼻にかけてきた理性の意味だったのだ。(P510~511)

今日のジェンダー問題、地球環境問題の根っこに啓蒙があることが、この言説から読み取れる。前出の数学の箇所に関連して、デジタル化、IT化の問題がある。啓蒙の延長線上に新自由主義思想とその経済活動があると筆者は考えている。本書は1939~1944年にかけて執筆されたというが、70年以上前とは思えない慧眼である。それらを今日的課題として深堀りする作業がいまの世代に投げかかられている。