田端の線路わきに群生するツツジ。
写真に収めるのが難しい。
記者: 事故によって原発廃絶論が出ているが。吉本の発言の核心は3つある。その第一は、《今回のように(原発の)危険性を知らせない、とか安全面で不注意があるというのは論外》、つまり日本政府が行ってきた原発推進政策こそ論外だということ。補足すれば、日本政府が行ってきた原発推進政策は利権であったことを滲ませているように思える。
吉本: 原発をやめる、という選択は考えられない。原子力の問題は、原理的には人間の皮膚や硬いものを透過する放射線を産業利用するまでに科学が発達を遂げてしまった、という点にある。燃料としては桁違いに安いが、そのかわり、使い方を間違えると大変な危険を伴う。しかし、発達してしまった科学を後戻りさせるという選択はあり得ない。それは、人類をやめろ、というのと同じです。ですから危険な場所まで科学を発達させたことを人類の知恵が生み出した原罪と考えて、科学者と現場スタッフの知恵を集め、お金をかけて完璧な防禦装置をつくる以外に方法はない。今回のように危険性を知らせない、とか安全面で不注意があるというのは論外です。(『日本経済新聞』「8.15からの眼差し」2011.8.5/『反原発異論』論創社P114。以下「本書」という。)
原子力発電は危険なことだから発電は勿論、原子力研究も一切やめようという考えがあります。しかし物質の究極構造を究めていくという人間の知恵の歴史に照らしても、科学の必然、資源の必然からみても、それは無意味です。理論的に可能な限りの危険防止装置を何重もつくれば、やってもいい。でもそれが確認できない時はやるべきではないという世界通念を成立させることが重要です。技術が進歩すれば、核分裂や、さらに核融合のエネルギーを利用するのは不可避なことです。それを前提としない「反原発」には意味がない。では核廃棄物をどうするか。核廃棄物が最終生成物で、地下に埋めようが海に棄てようが溜まる一方で、我々が放射能に囲まれて窒息してしまうようなイメージを与えるのは非科学的です。これは宇宙における物質代謝を考えればすぐにわかることです。人工衛星を打ち上げるのと同じように、核廃棄物を打ち上げて宇宙代謝する。宇宙空間で処理できない物質代謝はないんです。科学的には可能です。やるかやらないかは別の問題です。人間の知恵、政治、社会、経済の体制の問題です。吉本はここで原子力廃棄物を地下深く格納するという(オンカロ〔注〕)方式に触れつつ、宇宙代謝による最終処分を提言している。筆者は吉本この提言について論ずる科学的知見をもっていないので論評を控える。
ただ、安全性に対する危惧はどういう状態でも起こる。しかし人間の知恵の歴史の必然からいって、可能なかぎり危険を防止しながら原子力研究を進めるのは正当なことです。
現在、宇宙科学、素粒子論など人間の知の発達に比べ、経済社会体制の発達は遅れていて、両者はアンバランスです。これは今の文化・文明の根本問題です。原発が安全性の合意のないままに、技術のみが先行してつくられているという現状も、ほんとうの原因はここにあります。人間の歴史は大変なところにきているのかもしれません。しかしこれは次の段階への始まりなのです。(「原子力エネルギー利用は不可避『婦人画報』1986.8月号/本書P179~180)
〔注〕オンカロ:オンカロとは、フィンランドのオルキルオト原子力発電所が併設した、原発から出る放射性廃棄物を地下深くで保管する最終処分場のある地名。このようすが記録映画化され、筆者も観たことがある。小泉元首相がオンカロを見学し日本に紹介したことで日本でも、この方式が広く知られるようになった。さて、核廃棄物最終処分については、プルサーマル方式の原子炉の有効性が論じられたことがあった。同方式の再処理は使用済み核燃料からウランを回収することを意味し、従来の方式に比べ高レベル放射性廃棄物の量が大幅に減る。リサイクルされる低濃縮ウランとプルトニウムと貴金属の分だけ高レベル廃棄物が減少する。ガラス固化体の取り扱いは大変(20年間常時監視、その後深地層処分が必要)だが、使用済み核燃料を丸ごと廃棄する場合に比べると、処分場の規模を1/2から1/3程に抑えることができるという利点が強調された。しかしながら、この方式は高額な費用をかけて実証実験を続けたが効果が認められず、実用化を断念したようだ。
この3年9カ月間、多くの人と今度の原発事故の事実関係について言い合ってきた。私は苦が虫を嚙みつぶした思いでずっと生きてきた。福島の現地に行きもせず、遠くの方からよくもこの「リベラル・左翼大衆ども」は、ニューズ映像を見ただけで自分の脳に突き刺さった恐怖感と、雑多な情報・知識に捕われて(即ち洗脳、ブレイン・ウオッシングされて)よくもこれほどの巨大な迷妄の大騒ぎをしてくれたものだ。私の怒りは今も怒張天を突くほど深い。〔後略〕さすが。熱烈な吉本主義者の評価とはこのようなものなのかと感心するばかりであるが、副島の言説の中でけして無視できないキーワードがある。それは〝恐怖感″である。人類は、恐怖感(心)をレバレッジとした政治的結集や政治的煽動に励むという失敗を積み重ねてきた。
吉本隆明は、事故のあとの5月27日の毎日新聞のインタビュー記事で次のように答えている。
「・・・ひどい事故で、もう核エネルギーはダメだという考えは広がるかもしれない。専門ではない人が怒るのもごもっともだが・・・動物にない人間だけの特性は前へ前へと発達すること。技術や頭脳は高度になることはあっても、元に戻ったり、退歩することはあり得ない。原発をやめてしまえば新たな核技術もその成果も何もなくなってしまう。〔後略〕」
この吉本隆明の発言は正しい。絶対的に正しい。かつ優れている。〔後略〕(「悲劇の革命家 吉本隆明の最期の闘い」本書P4~5)
――先生(吉本隆明のこと)は著書『情況へ』の中で、「放射能の怖さを過剰に騒ぎ立てて脅迫する奴らを俺は許さない」と仰っています。一方、原発推進派の「原発がなければ経済がダメになる」というのも同様の脅迫に当たるというお考えなのだと思うのですがいかがでしょう。脅迫の裏返しが恐怖(心)であることは、言うまでもない。
吉本 そうです。両者に共通するのは、一番強力な武器である脅迫を使っている点です。一方は、「そんなに長く放射能にあたっていたら死ぬぞ」という脅迫、片方は「原発がなければ経済がダメになり生活が成り立たなくなるぞ」という脅迫です。ただ私は前者の脅迫がより問題だと思います。確かに、放射能をある期間以上浴びると、内臓、特に肺と消化器官がやられるんです。これは事実です。しかし、酷い状態の放射能に一度当たったらすぐにダメになる、死に至る病にかかる、という考え方は嘘だということはいえます。だからといって私は放射能が安全だとは言いません。(「吉本隆明 「反原発」異論」/『撃論』3号/オークラ出版/2011年11月/本書P129~130)
ーー今回確かに原発の事故が起きました。しかし、技術畑の人間なら、事故が起きれば、今後原因が究明されて、より安全なものができていくと考えます。そういった理屈でいえば、原発事故も飛行機事故も同じではないでしょうか。原発事故と自動車事故の死者数の比較としては、2023年時点では後者が前者を圧倒的に上回っている。しかし、日本にある原発が一斉に事故を起こしたとしたら、逆転する可能性はなくはない。さはさりながら、人類はリスクを飲み込んでここまできた。たとえば、飛行機がそうである。飛行機の発明から今日まで、航空事故による死者数(戦争における空中戦による死者数を除く)がどのくらいの数に上るかわからない。しかしわれわれは躊躇なく飛行機を使用する。たとえば、日本国内で東京から沖縄まで、飛行機を利用することを厭わない。飛行機の安全性はゼロではない。いわんや、飛行機は戦争機械として利用される。前出の広島・長崎に原爆を運び投下したのは飛行機である。世界の紛争地帯における米軍の軍用機による空爆等により、多くの市民が犠牲になる。だが、飛行機廃絶の声は上がらない。人類にとって、そのリスクよりも効用のほうが上回っていることを了解しているからである。人類は飛行機事故のリスクを飲み込んで、事故ゼロに努力しつつ、いまここにいる。飛行機を廃止して自然エネルギーを利用するならば、人類は大帆船時代に戻るのである。
吉本 飛行機の事故が起こるたびに改善して、それで技術が進歩していく。原発の事故もそれと同列の問題だ。
〔中略〕
――『情況へ』では、「自動車事故で年に何千人も死ぬだろう、だけど原発でそれだけの人が死ぬのか」とも書かれています。
吉本 ロジックとしては間違っていないと思います。ただし、それより難しいのは、車はその気になればなくすことは可能かもしれないが、原発はそうはいかないという点です。つまり、車なんかは大して重要じゃないから、それで何か害があるとしたら売り飛ばして酒でも飲んだほうがいいよ、といった冗談がいえると思いますけど、原発問題の場合は、そう簡単にはいきません。なぜなら原発一つを廃棄するにも莫大な予算と労力が必要になるからです。廃棄する時間や場所、廃棄後の安全性、検査などそれらをみんな考慮していったら、それだけで神経衰弱になってしまいます。一度発明した技術を捨て去ることは難しいことなんです。(前掲書/本書P130)
新たな規制官庁をつくったり、東電と政府の関係性を変えたところで、何かが変わるとは思えません。唐突に聞こえるかもしれませんが、僕は国家と組織の問題を考える場合、レーニンの考え方が唯一正しいと思います。レーニンは『国家と革命』のなかで、おおよそヨーロッパにおける革命が完成したなら、すぐに日常性にまで及ぶあらゆる制約や組織を解除してしまうべきだと言っています。つまり国家が消滅し、国家が管理運営してきた事業を民衆に委ねることです。〔中略〕こうした考えは、原爆、水爆にかかわるあらゆる国家の行政においても正しいと思うのです。つまり、日本の左翼は反対するかもしれませんが、今現在の放射能問題を下敷きにして考えてみればいい。もしも将来、放射能に対するきちんとした防御装置が作られ、また放射能物質を空高く排出する装置も完備されたなら、最終的には東電や政府といった国家の機構を解体して、民衆の手に委ねていく。これが重要なんです。必要なのは目的であって、組織はそのための手段でしかない。組織があれば何かが変わると考える時点で、もう思考停止に陥っているのです。(前掲書/本書P132)本書冒頭の副島が掲げた「悲劇の革命家 吉本隆明の最期の闘い」ここにあり。吉本の面目躍如というほかない。〔完〕
「憧憬の地、ブルターニュ」展(国立西洋美術館)に行ってきた。
20年余り前、筆者はパリから西へ、ノルマンディーを経てブルターニュ地方を観光した。
19世紀末、同地方のポンタヴァンという小村にゴーギャン、ベルナールらの画家たちが、パリから移り住み、同地の民俗・自然、人々の暮らし、宗教などを描いた。やがて彼らはパリ画壇から、「ポンタヴァン派」と呼ばれるようになった。
ブルターニュは紀元5~6世紀、イギリスからケルト系のブルトン人が移り住んだところ。そのため、フランスとは異なる風土が形成されていて、「フランスの異郷」と呼ばれる。