2005年10月10日月曜日

『アイルランド幻想』

●ピーター・トレメイン[著] ●光文社 ●705円+税

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本書は11の物語の集成である。原題は “AISLING and Irish Tales of Terror”。AISLINGとはゲール語で幻影の意味。本書最後の物語のタイトルになっている。11の物語とも、アイルランドに伝わる伝説、古くからの言い伝え、神話、迷信、呪いなどを現代に置き換えて、ストーリーが展開される。別言すれば、本書はアイルランド奇譚集ともいえる。

たとえば第1話『石柱』は、盲目の音楽家の殺害を企てる妻とその愛人が、逆に、屋敷の庭に立つ古代の石柱に閉じ込められてしまう話。また、本題にも冠せられている11番目の『幻影(AISLING)』は、アイルランドの孤島に赴任した若き司祭が、島の自由奔放な女性に魅せられ、禁を犯してしまう話。若き司祭は自ら命を絶つのだが、生前、その島でやはり、自ら命を絶った先代の司祭の自殺のシーンが予告のように幻影となって現れる。

アイルランドが英国の植民地から独立を勝ち取ろうとしたとき、国家・民族のアイデンティティーとして「ケルト」を選び取ったことは『妖精のアイルランド』に書いた。『妖精のアイルランド』は、アイルランドの言説のネットワークとして、“チェンジリング”だけを取り上げているのだが、本書は、アイルランド各地の伝承、神話、迷信を集成している。海や島に住む悪魔、村や屋敷や教会を舞台にした、復讐、怨念、ティンカーの呪い(のろい・まじない)など幅広い。本書を通じて、アイルランドの農漁村に伝わる古い言い伝えをくまなく体験できる。とくにクロムウエル時代の圧政により、多数のアイルラン人が命を落とした「飢饉の時代」を舞台にした支配者英国人への復讐のホラーは、凄みがある。

物語のパターンとしては、因果応報に近い。堕落、裏切り、圧政といった悪事が、古代の神や被害者たちの呪いによって、報いを受ける。だからといって、説教臭い「道徳・倫理」の押し付けではない。

人間が悪に傾くことは避けようがない。自然すなわち情念に動かされてしまうからだろうか。だが、そのまま悪が放置され許されるわけではない。犯した罪はやがて、土着の超越的力により、裁かれることになる。裁きは、キリスト教(唯一神)のものとは異なり、はてしなく強大な超自然の力によってもたらされたり、小さく弱き者の強い呪いによって、罪を犯した者にやってくる。それらを迷信や幻想といって退けるか、伝統的(土着的)裁きの方法として受け入れ、教訓や道徳の基盤として人々の心に刻むかではないか。

人を律するのは、唯一神だけとは限らない。アイルランドはカトリックの国でありながら、カトリック信仰だけの国ではないようだ。21世紀、アイルランド本国でも、古代の伝承は迷信として退けられているのだろうが、それらを自らのアイデンティティーとして、つまり、精神、社会規範のあり方の1つとして、保存する力がいまのアイルランドにあるに違いない。その力が、本書のような形式の幻想文学を生んだのではないか。

後書きの解説によると、著者ピーター・トレメインは、またの名(本名)をピーター・べレスフォード・エリスといい、著名なケルト学者とのこと。小説はピーター・トレメインの名で書き、ケルト研究の書については、ピーター・べレスフォード・エリスの名で発表するという。本書を通じて、アイルランドの神話、伝説を勉強することができる。ケルト好きな方(ケルトマニア)に、ぜひの一読をおすすめする。