プロ野球・読売巨人軍の阿部慎之助(当時監督/以下、肩書敬称省略)が、5月25日、長女への暴行容疑で警視庁に現行犯逮捕された。
読売球団の迅速な対応はなにを意味するのか
報道によると、阿部は、25日午後6時ごろ、東京都内の自宅で、姉妹のけんかを止めようとしたときに、長女(18)から言い返されたことに腹を立て、襟元をつかみ、投げ飛ばして倒すなどの暴行を加えたという。長女にけがはなかったとも。
事件を受けて、報道陣の取材に同席した代理人の名古屋聡介弁護士が「長女の手紙」を代読した。それによれば、長女が対話型AIのChatGPTに相談したところ、「児童相談所への匿名での相談」を助言され、実際に電話をした。電話を受けた児相の職員が警察に通報し、逮捕に至ったという。
阿部は、26日未明に釈放されたものの、同日午前に辞任を申し入れ、受理された。前出の「長女の手紙」には、「警察が来て一番驚いているのは自分自身ですし、父が警察に連行された姿を見て、目前で私は泣き崩れてしまいました」とあるという。
筆者は、この事件の全容が公表されていないにもかかわらず、きわめて短期間に収拾が図られたというところに疑問を抱いた。そこで、この事件の疑問点、注目された点などを以下に列挙してみた。
- 被害者に加えられた暴行の程度がどれほどのものだったかが判明していないこと
- 長女が ChatGPTに相談したこと
- その回答が児童相談所(児相)に相談したらいい、というものだったこと
- 通報を受けた児相が警察に通報したこと
- 通報を受けた警察が阿部を現行犯逮捕したこと
- 事件発覚後、読売巨人軍が阿部の辞表を即受理したこと
- 阿部の辞任を受けたファンが阿部復帰の署名を募り、13万人超が復帰に賛同したこと
1の暴行の程度だが、長女が「手紙」で殴る蹴るを否定しているようだが、前出の報道では、「襟元をつかみ、投げ飛ばして倒すなど」となっていて、「など」にどのような暴行が含まれるかが明らかにされていない。
2~3の「ChatGPTに相談」とその回答については話題性はあるが、たいした問題ではない。長女が加害者である父親をただちに警察に突き出すことを躊躇したのは当然だ。長女は警察ではないどこかに相談したかったところ、 ChatGPTが児童相談所という、長女にとってきわめて望ましい回答を与えてくれたため、そこに通報したと理解できる。それよりも、父親の暴力を母親、姉妹が止められなかった理由が筆者にはわからない。推測だが、阿部家には父親の暴力を容認することが日常的だったのではないか。
4の児相の〔対応=警察へ通報〕は問題するに当たらない。至極当然の対応だ。
5の現行犯逮捕時の実態=真相はいまのところ(2026/06/02現在)不明だが、長女への加害の程度がきわめて軽微で、室内に破損物がなく、整然としたままならば、現行犯逮捕はまずない。室内に暴行の状況を計るに足る物的証拠が残されていたか、加害者が興奮状態もしくは酩酊状態(阿部は飲酒をしていたと報道されている)だった可能性はある。
6の読売の対応だが、読売は報道されていない情報をつかんでいて、その事実が後日報道されることを恐れて、即刻、阿部を辞めさせたと考えられる。
7の復帰署名は愚かな行動だ。本邦の一部のプロ野球ファンの愚劣さを象徴する。捜査が終わらない段階で加害者に同情してみせて、自己満足するとは。こういう軽佻浮薄な直情傾向がDVや家庭内暴力を助長する。
家族 家庭 聖なるもの
家族とは小さな共同体だ。夫婦という契約的関係や親子・兄弟といった血縁を媒介とした 関係が標準的だが、養子や連れ子といった血縁関係を持たない者どうしで形成されることもある。
家庭とは家族が生活を営む場(空間)だ。社会を構成する微小な空間だが、家族にとっては隔絶した私的空間であり、閉鎖されている一方、それが癒しや安らぎの場ともなり得る。その一方で、家族と言えども感情的反発や利害関係の衝突に起因する親子のぶつかり合い、兄弟・夫婦間の諍いも起こり得る。
家族帝国主義
日本の明治期、家族の長は父親であり、その次に位置するのが長男とされた。男系支配の家族関係だ。父はときに子を暴力を用いて躾けた。母はそれを傍観した。また、夫はときに妻に暴力を加えた。だが、それら暴力は家族間のもしくは家庭内の問題として、社会的に容認された。
家父長的支配の関係は、天皇制全体主義へと国家規模に拡大した。それは家族帝国主義という用語を生んだ。その内実は支配する側による民衆に対する一方的暴力支配だ。国家権力の実体機関である警察、軍隊、その代替者である在郷軍人、自警団が国家を批判する民衆を暴力をもって抑圧した。子が父親に服従するように、民衆は国家(天皇)に服従した。暴力を受忍する規律権力の内面化が構造化された。
家族の関係である家父長制は、観念として、国家における天皇制全体主義に延伸した。また家庭という小規模共同体空間は国家という大規模共同体空間へと拡張した。関係性としては、民衆は天皇の赤子とされ、空間性としては、国家(の自然や人情)は万民の安らぎの場、癒しの場であると錯覚された。家庭=国家に侵入する敵は排除の対象となった。太平洋戦争前、日本帝国が国際連盟を脱退したのはその象徴だ。こうして一君万民の日本帝国は内に排外主義を、外に帝国主義を胚胎し、侵略戦争に向かった。これが前出の家族帝国主義だ。
法を超越する家族と家庭
阿部逮捕事件に戻ろう。若い女性が元プロスポーツ選手の中年男性に家庭内ではなく、街中のたとえば飲食店や公道等で暴行されたとしたらどうなるか。被害者もしくは通行人等の目撃者が110通報し、かけつけた警察官に加害者は現行犯逮捕される。あたりまえのことだ。それが有名人ならば、大きく報道される。芸能人の麻薬事件にあるように、当該芸能人は大々的に報道され、TVカメラの前で謝罪する。それが本邦の「当たり前の」光景となっている。当該芸能人が大麻を1キロ所持していたか、0.5グラム所持していたかは問題にならない。
このことを阿部の暴行の程度に敷衍すれば、阿部が長女に殴る蹴るの暴行を加えたのか、投げ飛ばしたかという程度は問われない。まして、家庭内の問題だ、親子喧嘩にすぎない、だから加害者を見逃せ、という議論は成立しようがない。
家族や家庭を聖化し、普遍的(法的)介入を退け、犯罪を見逃せという論理は通用しない。麻薬所持の芸能人が芸能界(という職場)を追放されるように、女性に暴行を加えた野球人が――それが実の娘であろうとも――野球界(における監督業)から追放されるのが本邦の「ルール」に従った道筋なのだ。
法的刑罰と社会的制裁
このような本邦の「ルール」がはたして基本的人権の侵害にあたるかどうかの議論はある。法的な処罰よりも社会的制裁のほうがはるかに上回っているのではないかという観点だ。法的な処罰は司法の領域だが、社会的制裁をくだす主体はマスメディアの領域となっている。テレビ報道はすべからく、テレビ事業に従事する者の恣意性に委ねられている。そこに従事する者は民間テレビならば、報道者の良心・思想性にではなく、視聴率という経営の価値観に従属する。それが社会的制裁の大いなる問題点だ。テレビ事業に従事する者による私刑ではないかと。
その反対の事例もある。海外の刑事もののドラマでは、せっかく追い詰め逮捕に至った犯罪者が証拠不十分という上層部等の圧力により釈放されてしまうケースだ。釈放されるのは大金持ち、警察幹部、政治家といった支配層に属する者だ。悔しがる刑事は、懇意にしているジャーナリストに捜査資料を渡し、ジャーナリストは特ダネとして大々的に報じる。ジャーナリストは特ダネという報酬が、刑事には無念を晴らすという、両者にウイン・ウインの取引がうまれる、という筋書きだ。巨悪に対して刑罰ではなく、社会的制裁が加えられ、視聴者であるわれわれは、巨悪が「裁かれる」結末に胸をなでおろす。これはドラマの中の話であって実際におこるかどうかわからないが、重要なのは、本邦の「ルール」と同様、マスメディア重要な役割を負っていることだ。
しかし。近年、より深刻な状況変化が起きている。ソーシャルメディアの発達により、マスメディア事業者から無数のユーザー(匿名個人)が制裁に加わったことだ。いまのところ、無数の匿名個人による恣意的な制裁を制限する手立てがない。〔完〕
