2006年4月13日木曜日

『春の雪 豊饒の海1』

●三島由紀夫〔著〕 ●新潮社 ●629円(税込)


FI2476527_0E.jpg本書は、三島由紀夫の遺作と言われる「豊饒の海(四部作)」の第一巻。大正期の華族(松枝公爵一家とその周辺)を舞台にした青春恋愛小説という体裁をとっている。松枝家は江戸時代、薩摩藩の下級武士だったが、維新革命の功績により公爵に準ぜられた。東京・渋谷に14万坪の大邸宅を構えるほどの権勢を誇っている。主人公松枝清顕は、学習院高等科に通う美貌の長男という設定だ。

清顕は明治の武断的気風から外れ、学生生活においてもおよそ空疎な感覚に支配された美青年。たった一人の親友・本多との交際しか外部との人間関係はなく、学業、実業、教養、芸術、政治といった上昇志向にはまったく興味を示さない。頽廃が滲む貴族のニヒルな美青年を主人公にしたところは、ドストエフスキーの作品を彷彿とさせる。本多は本書では清顕の親友の位置にとどまるが、『豊饒の海(四部作)』を通じた生き証人という重要な役割を担っている。

本書の粗筋をおさえておこう。18才の清顕は幼馴染の聡子(松枝家に隷属する綾倉伯爵の令嬢で、清顕と結ばれることを望んでいる)と淡い恋に落ちる。綾倉家は公卿の家柄だが、経済的に松枝家の庇護下にある。その聡子に宮家から縁組の話が舞い込む。松枝家及び綾倉家は宮家との縁組を歓迎し積極的に縁談を進めようとするが、清顕が聡子に特別な感情をもっている可能性を懸念して、縁組を決める前に清顕の意思を確認する。両親から聡子への感情を問われた清顕は、聡子への関心を否定する。松枝家・綾倉家は、清顕の意思を確認したうえで、聡子の宮家への輿入れを正式に受諾する。しばらくして、聡子と宮家の縁組に勅許が出た途端、清顕は聡子への愛を確信し、聡子を失うことに耐えられなくなり、聡子に愛を打ち明ける。聡子も清顕との愛に全身全霊を賭けることを選ぶ。

二人は禁断の恋に落ち密会を重ね、聡子に清顕の子が宿る。聡子の妊娠を知った松枝、綾倉両家は聡子に堕胎を強要し宮家との縁組を強引に進めようとするが、聡子は術後の静養先である京都の山寺で出家する。聡子の出家を知り困りはてた両家は聡子を精神病に仕立て上げ、宮家に破談を申し出、宮家もそれを受け入れる。監視状態の清顕は、親友本多の助けを借りて、聡子との再会を求めて京都へ向かう。清顕は聡子が滞在する山寺を何度も何度も訪問するが面会を拒絶され、ついには体力を消耗し肺炎を患う。病魔に取り付かれながら山寺を訪れる清顕だが、聡子との再会は適わない。ついに病床に臥した清顕は、電報を打ち親友の本多に助けを求める。本多は清顕を助けるため京都に出向き、聡子への面会を嘆願するが寺に拒絶される。本多は病気の清顕を伴い東京に戻るも2日後、清顕は20歳で命を落とす。

以上がメーン・ストーリーだが、松枝家を訪れたシャムの王子の話、松枝家の書生(下女と密通)の話、聡子のおつきの女と聡子の父・綾倉伯爵との密通の話等のサイドストーリーが、現在形、過去形で挿入されている。加えて、登場人物の口を借りた形式で、三島由紀夫の法学、仏教解釈などが教養主義的に散りばめられている。

この小説を読む上での基本的知識として、明治期に定められた華族制度を簡単に復習しておこう。華族制度は旧憲法下、皇族の下、士族の上に置かれ貴族として遇せられた特権的身分のことだ。1869年(明治2)旧公卿・大名の称としたのに始まり(旧華族)、84年の華族令により、公・侯・伯・子・男の爵位が授けられ、国家に貢献した政治家・軍人・官吏などにも適用されるに至った。1947年(昭和22)新憲法施行により廃止。

同じ華族でありながら、公卿出自と、政治家、大名、軍人、官吏を出自とする華族があった。本書の松枝公爵は華族の最高位に位置し、綾倉伯爵はそれより下位に位置するが、前者は武家、後者は公卿の出自になっている。綾倉家が公卿として皇室(雅)につながっている一方、松枝家には成り上がり(粗野)のイメージが付与されている。三島由紀夫は、華族制度の二極構造の一方(公卿)を肯定し、一方(武家)を否定する。大正期、宮家に通じる公卿系華族が新興の薩長藩閥勢力に凌駕された実態に、三島が大きな反発を覚えていることがうかがえる。

四部作を読了前なので、本書の印象を記すに留める。極めてグロテスクな小説だと思うものの、エンターテインメントとしてのレベルは高い。三島由紀夫は大正期の華族をサンプリングして、当時の日本社会に潜む、至上的、理想的、純なるもの――と、虚飾的、現実的、不純なるもの――とをつきつめる。明治維新が描いた国家像は、政治的には薩長連合政権による、天皇制国家として構想されながら、その実は薩長の武士的志向、外来志向、経済至上主義=不純なるものを取り込んだ連合体だった。明治から大正にかけて完成した日本帝国は、天皇制度を標榜としながらも、三島由紀夫が理想とする古代天皇制度、すなわち文化としての天皇中心国家ではなかったというわけだ。

清顕の内面はどうなのか。彼はその不純なるものを出自とすることで聡子を媒介にして、対極の純なるもの=絶対性に対峙してしまう。絶対性により喪失に直面することにより、自己の中に絶対的な愛を発見する。きわめてアイロニカルな設定だ。そして、己の絶対性を貫徹することで敗北する。この行動原理が革命的敗北主義だ。革命的敗北主義がもたらすものは死であり滅びである。清顕のアイロニーは天皇制度(勅許)の絶対性だった。清顕は勅許による喪失という「絶対性」により、生まれ変わった。だから、その生まれかわりが(宗教的に)担保されることが必要だ。ここで輪廻転生というテーマが示唆される。 -->