2006年5月29日月曜日

『村上春樹論「海辺のカフカ」を精読する』

●小森陽一〔著〕 ●平凡社新書 ●780円+税

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村上春樹に対する痛烈な批判の書である。その核心部分を引用しておこう。
「従軍慰安婦問題」はどこから考えても、かつての日本の侵略戦争を正当化できない、決定的な証拠でした。この問題は、「戦争」という国家が遂行する暴力の中に組み込まれた、非人間性の本質をくっきりと暴露するものでした。国家のための人殺しを正当化する考えを教育された男性たちは、そこに内在する「恐怖」の裏返しとして、女性に対する「レイプ」を欲望する心理構造をもつことが様々な角度から明らかにされ、同時代的に発生したコソボ紛争における、「民族浄化」の名による集団的な「レイプ」と同じ問題として、国連の人権委員会でも議論され、勧告が出されもしたのです。そうした一連の問題を、〈いたしかたのなかったこと〉として不問に付す枠組が、『海辺のカフカ』の中に組み込まれているのです。ここに2002年に日本で発表され、国民的な〈癒し〉を与えた小説として、ベストセラーとなった『海辺のカフカ』という犯罪的ともいえる社会的役割があることを、私は文学という言語実践にかかわる者の責任として強調しておきたいと思います(256頁)
村上春樹論には難解なものが多いが、本書もその1つ。批評者の牽強付会、我田引水の臭いがしなくもないけれど、著者の精読の成果を批判する能力が筆者にはないので、本書の感想を書くしかない。日本文学は難しい。

さて、筆者(小森陽一)が指摘する『海辺のカフカ』(以下「同書」という。)の犯罪性(=問題点)は、概ね以下の事項に整理できる。

『海辺のカフカ』は――

(1)「9.11」以降の「戦争の時代」に生きる人々の心に「癒し」をもたらしたのだが、この「癒し」は、人々が本来直視すべき時代の本質を見失なわせてしまっている。

(2)日本が起こしたアジア太平洋戦争における戦争責任を曖昧にしてしまっている。

(3)女性嫌悪(ミソジニー)で一貫している。

(4)国民国家(国民皆兵制度)における戦争とレイプの問題を不問に付してしまっている。

それぞれの事項は関連がある。特に(1)(2)(4)は同義反復かもしれない。それはそれとして、これらに関する著者(小森陽一)と村上春樹の時代認識とは、どこかどう違うのか。本書を読んで、両者の立場を突き合わせてみて、批評者(小森陽一)をとるか、作家(村上春樹)をとるかについての判断は読者次第。

対立軸を簡単に紹介しておこう。

『海辺のカフカ』は、2001年に起きた「9.11事件」後の世界に係る村上春樹のメッセージだと著者(小森陽一)は規定する。「9.11」がなければ、同書は書かれなかったはずだと。

「9.11」とは(米国の発表によると)、「イスラム過激派テロリスト」が米国の民間航空機を乗っ取り、ニューヨークのWTCビルに突っ込んだその結果、ニューヨーク市民6,000人あまりが犠牲になった事件をいう。

この事件を境にして、米国はアフガニスタン、そして、イラクに侵攻し両国を武装制圧し今日に至っている。冷戦終結後の世界は、この事件を契機として、米国(西欧圏)とイスラム圏の対立という構造に定式化された。

「9.11」には多くの疑問が投げかけられている。米国による自作自演説(陰謀説)も消えない。その根拠として、米国は20世紀初頭にファシズムの脅威を挙げ、冷戦時代に共産主義の脅威を説き、冷戦終結後は、新たにイスラム過激派のテロリズムの脅威を挙げて世界戦略を進めている。米国の世界戦略とは世界を軍事的に支配することではないのか。イラクに大量破壊兵器があるといいながら、それは嘘だったし、テロリスト集団といわれるアルカイダも、その首謀者ビンラビンも捕まらない。米国が進めた「反テロリズム」の戦争が正しい選択なのか。

著者(小森陽一)は、日本及び西欧先進国の大衆の気分は、「9.11」以降の米国の軍事行動を「いたしかたない」として消極的に肯定していることで一致していると、また、同様に、村上春樹の志向性及び同書の構成・表現は、現状を「いたしかたない」とする大衆全般の気分を代表するものであり、米軍に象徴される戦争(暴力)の本質を追求する思考回路を閉ざしてしまっている、という。

確かに1970年代前後には、ベトナム戦争反対の声が世界的に高まったのだが、いま現在は、とりわけ日本においては、米国が仕掛ける戦争に対する問題意識は失われている。

村上春樹の小説が時代の気分に迎合していることは、同書にとどまらず、村上の小説の特徴の1つである。とりわけ退潮的気分を肯定する。時代と真正面から対峙しないし、批判もしない。村上春樹は、時代状況に対して原理的に対立する姿勢をとらない。だから、小説の登場人物も時代の気分に対峙するというよりも韜晦的であり、気分(快・不快)を重視し、気分という曖昧さの中で行動する。気分のなかで、本質は常に溶解される。繰り返せば、時代の問題と原理的に対峙することなど不可能ではないのか――というのが村上春樹の小説のあり方であり特徴だと言っていい。

一方、著者(小森陽一)は、米国が今日進めている反イスラム、反テロリズムの軍事行動に批判的であり、その立場は反米、反軍、平和主義で一貫している。だから、大雑把にいって、村上の小説が反戦反米の立場をとらないことがけしからんという批評につながることになる。

村上春樹の小説を「犯罪的」だと断定することもできないと思う。今日、まともな反戦、反軍の戦略を構築できなければ、小説を書いてはいけない、という著者(小森陽一)の断定には無理がある。

退潮的気分で「9.11」を眺め、米国の戦争に反対もせず、政治には無関心で曖昧で韜晦的なのがいまの日本人および先進国の人々なのならば、そのような態度と気分の是非を決定するのは著者(小森陽一)ではない。著者(小森陽一)の政治的メッセージを信用できると確信できない人も多い。反戦、反軍、平和主義を先験的に肯定するのは、小森陽一のイデオロギーにすぎないのではないか。反戦、反軍の主張は言葉の操作ではなく、政治運動、大衆運動が担う役割であって、小説(家)にそれを求めるのはいかがなものか。著者(小森陽一)の村上批判は、文学と政治という設定に逆戻りすることのように思える。