●中村好文 芸術新潮編集部〔編〕 ●新潮社 ●1300円(+税)
観光旅行は事前の情報の収集のいかんによって、変わる場合がある。まっさらなまま当地に赴き、真直ぐな感動を覚える人もいるだろうが、かなりの感性の持ち主であって、筆者のような凡人は、なかなかそうはいかない。逆に、旅行後、観光情報雑誌を読み返していて、あれ、あそこに行ってなかった!なんて後悔することもある。
本書は、観光王国であるイタリア(北部)を紹介した、写真情報誌。イタリア北部は観光資源の豊富な地域で、高級ブランド好きな日本人が大好きなミラノや、世界でもトップクラスの観光地・ヴェネチア、フィレンチェなどが含まれている。本書はそういう超有名な観光地を一味変わった視点でとりあげる。たとえば、ヴェネチア紹介では、エッセイスト・須賀敦子の『地図のない道』の舞台となった場所を、彼女の文章の引用と、写真で紹介する。
さて、本書を評する視点からは外れるが、観光の“歓び”というのは、以下のようなところにあるような気がする――どんな都市の裏道にも、歴史とそこに関わった無数とも言える人間のドラマが隠されている。巨大な宗教施設や都市施設は当然のことながら、人の目を引くけれど、朽ちた建物がひしめく迷路のような細道には、暮らしの重みや生活の詩がある。美しさの基準はひとさまざまである。ヘルダーリンは、“人は詩的に住まう”と言った。
ある個人がたまたまそのとき持ち合わせた気分や恣意的空間解釈によって、無名の地が意味のある場所にとって変わる。人はそのような輝きの認められる場所に出会うため、旅行を続ける。そういうふうに考えるならば、本書に取り上げられた場所が新たな観光地である必然性はない。観光する主体が、その主体ごとに意味ある場所に出会える可能性があるからだ。つまり、旅の発見の可能性を一冊の写真集にまとめるならば、本書のような体裁におさまることもある、ということにすぎないのだと思う。もちろん、そこから重要な示唆を受けることもあるだろ。
(2008/11/15)
2008年11月15日土曜日
2008年11月11日火曜日
『地図のない道』 須賀敦子全集第3巻
●須賀敦子〔著〕 ●河出文庫 ●1100円(+税)
本書は、著者・須賀敦子(1929-1998)がヴェネチアについて書いたエッセイ。本書を読んだ動機はこの秋、筆者がヴェネチアに観光旅行したことによる。
著者・須賀敦子は、イタリア留学中にイタリア人男性と結婚するも、夫君に先立たれ、単身イタリア滞在を続け、翻訳・イタリア文学研究等に従事した。その傍ら、多数のイタリアに関するエッセイを日本で発表した。イタリア研究者であるから、ヴェネチアについても、一介の観光旅行者とは異なる視点がばらまかれている。
たとえば、本書の中の『ザッテレの川岸で』において、そのことは顕著だ。このエッセイの大筋は、著者・須賀敦子がヴェネチアの街中の水路に、「Rio Degli Incurabili(治療のあてのない)」というサインを発見したところから始まる。もちろん、イタリア語のわからない筆者のような観光客には、そんなサインが目に入ろうはずもない。著者・須賀敦子はそのサインから、ヴェネチアの歴史の中に隠された多数の娼婦の存在を発見していくことになるのだが、ヴェネチアの娼婦を巡る著者・須賀敦子の“知的冒険”については、本書をお読みいただくほかない。ただし、この“知的冒険”を、語学に堪能なイタリア通の知識のひけらかしと感じるか、それとも、知的冒険として著者(須賀敦子)に同伴するかは、読む側の勝手であって、どちらかが正しいとも言えない。
前者に立つならば、ヴェネチアの中世以降の繁栄の陰に、多数の娼婦が存在したことは常識だ、というだろう。「Rio Degli Incurabili」という、日本人にとって不気味なイタリア語が掲げられた病院跡を発見した視線の鋭さは認められても、「だからどうなんだ」という意見にも蓋然性がある。
著者・須賀敦子のヴェネチアにおける「発見」を、日本(東京・浅草)におけるイタリア人に置換して考えてみよう。つまり、こういうことだ――東京の外国人観光地のメッカの1つである浅草を訪れた日本語に堪能なイタリア人が、浅草の外れの千束で吉原大門という地名を「発見」したとする。この辺りの地名は千束なのに、なぜここが「吉原」なのかと疑問をもち、いろいろ調べた結果、20世紀まで、ここは「吉原」という地名で、巨大な遊郭が存在し、江戸時代には「遊女」「おいらん」と呼ばれた娼婦が多数存在し、悲惨な生活をしていたことを突き止める。このことは、日本語が堪能なイタリア人の“知的冒険”であることは間違いないのだが、日本人の大多数にとっては、千束が吉原であり、遊郭地帯であったことは周知の事実なのである。吉原は単純すぎるというのならば、「谷根千」ブームに沸き外国人観光客が多数訪れるようになった、文京区・根津に遊郭があったことを、なんかのきっかけで外国人が発見する、という、“知的冒険”に組み替えてもいい。
『ザッテレの川岸で』というエッセイに限らず、著者・須賀敦子の“発見”は、著者自身のイタリア研究に係る奮闘・奮戦記であることが否めない。「だから、須賀敦子のエッセイは取るに足らない」と評するつもりはない。異文化研究には困難が付きまとうものだ。ヴェネチア人にとっての常識が、日本人にとってはまるで不可解であることが少ないはずがない。困難な異文化研究のプロセスについて、研究者の謙虚な挑戦の結果として読むものに伝えられるか、それとも、傲慢な知識のひけらかしとして伝えてしまうかは、研究者の人格に起因する文体に現れる。筆者は、須賀敦子の文体がどちらに属するかの判定を控えたい。ただ、著者・須賀敦子のエッセイを読んでイタリア観光に臨めば、その観光はより深いものとなることは間違いない。観光情報として、本書の貴重さが損なわれるものではないことを確信している。 (2008/11/11)
本書は、著者・須賀敦子(1929-1998)がヴェネチアについて書いたエッセイ。本書を読んだ動機はこの秋、筆者がヴェネチアに観光旅行したことによる。
著者・須賀敦子は、イタリア留学中にイタリア人男性と結婚するも、夫君に先立たれ、単身イタリア滞在を続け、翻訳・イタリア文学研究等に従事した。その傍ら、多数のイタリアに関するエッセイを日本で発表した。イタリア研究者であるから、ヴェネチアについても、一介の観光旅行者とは異なる視点がばらまかれている。
たとえば、本書の中の『ザッテレの川岸で』において、そのことは顕著だ。このエッセイの大筋は、著者・須賀敦子がヴェネチアの街中の水路に、「Rio Degli Incurabili(治療のあてのない)」というサインを発見したところから始まる。もちろん、イタリア語のわからない筆者のような観光客には、そんなサインが目に入ろうはずもない。著者・須賀敦子はそのサインから、ヴェネチアの歴史の中に隠された多数の娼婦の存在を発見していくことになるのだが、ヴェネチアの娼婦を巡る著者・須賀敦子の“知的冒険”については、本書をお読みいただくほかない。ただし、この“知的冒険”を、語学に堪能なイタリア通の知識のひけらかしと感じるか、それとも、知的冒険として著者(須賀敦子)に同伴するかは、読む側の勝手であって、どちらかが正しいとも言えない。
前者に立つならば、ヴェネチアの中世以降の繁栄の陰に、多数の娼婦が存在したことは常識だ、というだろう。「Rio Degli Incurabili」という、日本人にとって不気味なイタリア語が掲げられた病院跡を発見した視線の鋭さは認められても、「だからどうなんだ」という意見にも蓋然性がある。
著者・須賀敦子のヴェネチアにおける「発見」を、日本(東京・浅草)におけるイタリア人に置換して考えてみよう。つまり、こういうことだ――東京の外国人観光地のメッカの1つである浅草を訪れた日本語に堪能なイタリア人が、浅草の外れの千束で吉原大門という地名を「発見」したとする。この辺りの地名は千束なのに、なぜここが「吉原」なのかと疑問をもち、いろいろ調べた結果、20世紀まで、ここは「吉原」という地名で、巨大な遊郭が存在し、江戸時代には「遊女」「おいらん」と呼ばれた娼婦が多数存在し、悲惨な生活をしていたことを突き止める。このことは、日本語が堪能なイタリア人の“知的冒険”であることは間違いないのだが、日本人の大多数にとっては、千束が吉原であり、遊郭地帯であったことは周知の事実なのである。吉原は単純すぎるというのならば、「谷根千」ブームに沸き外国人観光客が多数訪れるようになった、文京区・根津に遊郭があったことを、なんかのきっかけで外国人が発見する、という、“知的冒険”に組み替えてもいい。
『ザッテレの川岸で』というエッセイに限らず、著者・須賀敦子の“発見”は、著者自身のイタリア研究に係る奮闘・奮戦記であることが否めない。「だから、須賀敦子のエッセイは取るに足らない」と評するつもりはない。異文化研究には困難が付きまとうものだ。ヴェネチア人にとっての常識が、日本人にとってはまるで不可解であることが少ないはずがない。困難な異文化研究のプロセスについて、研究者の謙虚な挑戦の結果として読むものに伝えられるか、それとも、傲慢な知識のひけらかしとして伝えてしまうかは、研究者の人格に起因する文体に現れる。筆者は、須賀敦子の文体がどちらに属するかの判定を控えたい。ただ、著者・須賀敦子のエッセイを読んでイタリア観光に臨めば、その観光はより深いものとなることは間違いない。観光情報として、本書の貴重さが損なわれるものではないことを確信している。 (2008/11/11)
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