●須賀敦子〔著〕 ●河出文庫 ●1100円(+税)
本書は、著者・須賀敦子(1929-1998)がヴェネチアについて書いたエッセイ。本書を読んだ動機はこの秋、筆者がヴェネチアに観光旅行したことによる。
著者・須賀敦子は、イタリア留学中にイタリア人男性と結婚するも、夫君に先立たれ、単身イタリア滞在を続け、翻訳・イタリア文学研究等に従事した。その傍ら、多数のイタリアに関するエッセイを日本で発表した。イタリア研究者であるから、ヴェネチアについても、一介の観光旅行者とは異なる視点がばらまかれている。
たとえば、本書の中の『ザッテレの川岸で』において、そのことは顕著だ。このエッセイの大筋は、著者・須賀敦子がヴェネチアの街中の水路に、「Rio Degli
Incurabili(治療のあてのない)」というサインを発見したところから始まる。もちろん、イタリア語のわからない筆者のような観光客には、そんなサインが目に入ろうはずもない。著者・須賀敦子はそのサインから、ヴェネチアの歴史の中に隠された多数の娼婦の存在を発見していくことになるのだが、ヴェネチアの娼婦を巡る著者・須賀敦子の“知的冒険”については、本書をお読みいただくほかない。ただし、この“知的冒険”を、語学に堪能なイタリア通の知識のひけらかしと感じるか、それとも、知的冒険として著者(須賀敦子)に同伴するかは、読む側の勝手であって、どちらかが正しいとも言えない。
前者に立つならば、ヴェネチアの中世以降の繁栄の陰に、多数の娼婦が存在したことは常識だ、というだろう。「Rio Degli
Incurabili」という、日本人にとって不気味なイタリア語が掲げられた病院跡を発見した視線の鋭さは認められても、「だからどうなんだ」という意見にも蓋然性がある。
著者・須賀敦子のヴェネチアにおける「発見」を、日本(東京・浅草)におけるイタリア人に置換して考えてみよう。つまり、こういうことだ――東京の外国人観光地のメッカの1つである浅草を訪れた日本語に堪能なイタリア人が、浅草の外れの千束で吉原大門という地名を「発見」したとする。この辺りの地名は千束なのに、なぜここが「吉原」なのかと疑問をもち、いろいろ調べた結果、20世紀まで、ここは「吉原」という地名で、巨大な遊郭が存在し、江戸時代には「遊女」「おいらん」と呼ばれた娼婦が多数存在し、悲惨な生活をしていたことを突き止める。このことは、日本語が堪能なイタリア人の“知的冒険”であることは間違いないのだが、日本人の大多数にとっては、千束が吉原であり、遊郭地帯であったことは周知の事実なのである。吉原は単純すぎるというのならば、「谷根千」ブームに沸き外国人観光客が多数訪れるようになった、文京区・根津に遊郭があったことを、なんかのきっかけで外国人が発見する、という、“知的冒険”に組み替えてもいい。
『ザッテレの川岸で』というエッセイに限らず、著者・須賀敦子の“発見”は、著者自身のイタリア研究に係る奮闘・奮戦記であることが否めない。「だから、須賀敦子のエッセイは取るに足らない」と評するつもりはない。異文化研究には困難が付きまとうものだ。ヴェネチア人にとっての常識が、日本人にとってはまるで不可解であることが少ないはずがない。困難な異文化研究のプロセスについて、研究者の謙虚な挑戦の結果として読むものに伝えられるか、それとも、傲慢な知識のひけらかしとして伝えてしまうかは、研究者の人格に起因する文体に現れる。筆者は、須賀敦子の文体がどちらに属するかの判定を控えたい。ただ、著者・須賀敦子のエッセイを読んでイタリア観光に臨めば、その観光はより深いものとなることは間違いない。観光情報として、本書の貴重さが損なわれるものではないことを確信している。 (2008/11/11)