●色川大吉[著] ●中央公論社 ●絶版
明治維新(1868)をもって日本の近代化が開始されたことに異論は少ない。さらに、それが日本の民主化の開始ではないことにも異論はないはずだ。明治維新後、20年余を経過し、(欽定)憲法制定、(帝国)議会開設といった、表面的な議会制民主主義の体裁が整えられていったものの、国民による国民のための政治制度が定着するのは、アジア太平洋戦争の敗戦(1945)の後、すなわち、維新から数えて77年後ということになる。
■豪農層――自由民権運動の隠れた主役
欧米文化の急激な流入が、明治維新の大きな特徴の1つだ。19世紀末、欧州の主要国は市民革命を終えており、さらに、米国は英国の植民地から独立を果たしていた。維新後の日本には、市民革命の理念を説いた思想書が数多く輸入されていたし、翻訳も進められていた。維新後、欧米の進んだ技術の受け入れと同時に、欧米の啓蒙思想、政治思想、議会制度等の民主主義の紹介が進んだ。
その一方、明治10年前後、松方財政による重税とデフレ進行により、日本経済は深刻な不況に陥った。そして、不況の影響を最も強く受けたのが農民層で、彼らは維新後に台頭した金融業者から莫大な負債を負い、困窮に喘いだ。そのような中、封建時代から伝統的に農民層の上に立つ豪農層が、自由民権運動を担う一団として、運動の表層に現れるようになった。彼らは、徳川時代末期に自ら設立した教育機関である「塾」を基盤として、草の根レベルで、欧米の民主主義理念を研究し、欧米の民主主義を日本に定着させようと、働きかけた。彼らは維新革命を成し遂げた「英雄的」な薩長等の出身者とは接点をもっていない。中央においてはまったくの無名の者であり、後年においても、歴史の闇に埋もれてしまった者が多い。本研究は、彼らに光を当て、明治という時代に生きた、若き民権運動家の精神を蘇らせようとする試みである。
■民衆蜂起と自由民権運動
不況下、二つの勢力による、新政府打倒の機運が盛り上がった。その1つは、不平士族・豪農を主体とした「自由民権運動」であり、もう1つは困窮農民による武装蜂起だ。前者は、「西南の役」「佐賀の乱」に代表される士族集団による武装蜂起が挫折した後、国会期成同盟を契機として、政党を中心に政治闘争化した。後者は各所で起こった「困民党」の武装反乱に代表されるような、自然発生的民衆抵抗運動だ。自由民権運動と農民の武装抵抗反乱は、無関係ではないが、同一のものでもない。自由党解党により自由党員と困民党指導者が結合し、組織された暴力として武装蜂起に至ったケースもあるが、そうでないものもあった。留意すべきは、本研究が自由民権運動そのものの研究でもなければ、困民党等農民武装蜂起に関する研究でもないということだ。本研究は士族と農民の二つの勢力と微妙な関係を保った、豪農層の研究である。この点を踏まえないで本書を読むと、著しい不満を覚えることになる。
■明治初期の東京近郊多摩地域
本書は、東京郊外の多摩地区を拠点にした、2人の明治の青年の行動の軌跡を追った章から始まる。2人の青年とは、北村透谷と石坂公歴(まさつぐ)だ。2人は同時期、同地域(東京近郊多摩地区)において、わが国における自由と民権の実現の志を抱きながら、やがて袂を分かち、まったく別の道を進むこととなった。北村透谷は、彼が入党していた自由党が党の方針として武装蜂起を選択したときに離脱、以来、民権の志を内面化、精神化し、文学創造の世界に入っていった。彼は、明治維新後の民権と国権の問題を知識人の問題としてとらえ、知識人としてそれを思想化しようと試みた。しかし、享年27才の若さで自殺。彼が試みた思想の内面化のテーマは宙に投げ出されたまま、しかも、その問題意識を受け継ぐ者が不在のまま、前に進む事がなかった。
一方の公歴は目標とした自由と民権の実現のための活動から召還した後、官憲から逃れるため、米国カリフォルニアに亡命、明治政府を外から批判した後、米国開拓を志し、サクラメント地方に入植するも失敗、その後、米国を放浪した挙句、太平洋戦争の最中(1944)、カリフォルニア州のマンザアナの日本人収容所にて客死を遂げた。透谷は文学者として歴史に名を残したが、一方の公歴についてはまったく、知られることなく、歴史の闇に埋もれてしまった。本研究の意義の1つは、名も知れぬ活動家の半生を素描することによって、日本の民主主義運動の始原の活力を現代に蘇生することにある。
著者(色川大吉)の研究方法の特徴を大雑把に言えば、徹底したフィールドワークに基づいた点だろう。複数の研究者集団が手分けして広大な多摩地区の豪農を一軒一軒あたり、古い資料を採集し、収集した新資料と既存資料とを照合しつつ、それまで知られていなかった明治期の活動家を世に送り出すとともに、活動家を類型化し、その類型の中に日本近代の課題と希望(展望)を探る形をとっている。フィールドワークの間接的成果として、八王子市の古民家から、千葉卓三郎、深沢権八らによって起草された、「平民憲法」の発見も挙げられよう。
本書(新編)が刊行されたのは1973年だが、著者(色川大吉)が旧編(『明治精神史』)を世に出すためにフィールドワークを開始したのは1960年代初めに遡る。そのころといえば、安保闘争直後の前衛的政治運動の退潮期に当たる。安保闘争に取り組んだ日本の知識人の多くが、その敗北によって、思想的虚脱状態に陥った。著者がこの研究に没入した根底には、虚脱し停滞する日本思想の再生、とりわけ、日本の民主主義再生のため、維新期という近代の始原に回帰することにおいて、新たな光明を見出したいという願望と意気込みがあったはずだ。本書を読む者は、本研究の隅々から、明治時代の民権思想の歴史研究に従事する研究者(色川大吉)の熱意と矜持を感じるはずだ。日本の民主主義思想の萌芽を模索する、研究者(色川大吉)のエネルギーを受けとめるだけでも、本書を読む価値がある。
■豪農層研究における総合性の欠如
本書第3部「方法と総括」において、著者(色川大吉)自らが本研究への批判をまとめている。その中で注目すべきは、本研究の対象地域を多摩に限定した根拠が必ずしも明確でないという批判である。豪農層が日本各所において、自由民権運動を領導したのかどうかも、本研究からは明らかでない。だから、多摩とその他の地域とのネットワークの存在の有無も明らかではない。徳川時代の政治・経済の中心であった江戸の近郊である多摩という地域特殊性が、豪農の民権運動参入を育んだのかどうか、いわば、地域特殊性が北村透谷、大矢蒼海、石坂公歴、大矢正夫、村野常右衛門、秋山国三郎らを輩出したのかどうか。もし、そうならば、多摩の風土とはいかなるものなのかが、本書からはうかがい知れない。風土性を明らかにしていないという意味において、本研究には総合性が欠如している。
■豪農層の思想的限界
前出のとおり、本研究が発表された後に寄せられた不満・批判が、本書におさめられていて、著者(色川大吉)が寄せられた批判に答える形をとっている。それを読む限りにおいては、豪農層の思想的限界が本書に対する不満と重なり、本研究批判を加速した感がある。こうした不満と批判は、主に「マルクス主義」陣営側から、プロレタリア革命を志向する観点で発せられたように思う。左翼側からの、自由民権運動(もちろん本研究が発見した豪農層のものを含めて)の限界に対する批判は根強い。当時自然発生的に勃発した農民蜂起と、民権運動が結合するに至らなかったのは両者の限界であるが、どちらかというと、民権運動の限界性として認識されている。しかも、自由民権運動家の多くが、明治20年代において、超国家主義に吸収されてしまったことをたいへん口惜しく思うのである。もちろん、豪農層、士族に限らず、自由民権運動が歴史的に規定された運動であることは仕方がないことであって、後年の我々がいくらその限界性を批判しても始まらないのではあるが。
本研究に対する不満不平ではないが、筆者は明治維新(革命)を否定的にとらえる立場に立つため、豪農層の国家観・民衆観に失望を感じている。明治維新及び維新政府については、国民的文学者といわれる司馬遼太郎が捏造した維新史観、人物史観が大衆的に浸透していて、日本の近代化を客観的に評価する試行が国民レベルで妨げられている。筆者は、維新革命、維新政府(指導者)、維新期の自由民権運動家(抵抗勢力)を含めて、明治人の精神構造が、後のアジア・太平洋戦争に直結したと確信している者である。であるから、司馬遼太郎のように、維新革命を絶対的に肯定する立場(=「栄光の明治政府」という見方)に与しない。司馬遼太郎が垂れ流した、「栄光の明治政府」を相対化する意味において、本研究は最も重要な研究論文の1つであると確信する。本研究は維新政府に抵抗したといわれる、自由民権運動家のうちの豪農層の精神性を明らかにすることにより、民権運動家、すなわち、明治知識人の功績と限界を明らかにしようとする試みだと換言できる。
■豪農層民権家の横顔
しかし、シニカルに言えば、本研究のように自由民権運動(家)をいくら因数分解してみても、日本の民主主義、人民の権利獲得の道筋は見えてこないのではないか。自由民権運動とは、維新政府の権力が脆弱な明治10年前後に発生した、支配層内部における権力内闘争にすぎなかったのではないか。士族、豪農層とは、筆者からみれば、支配層内反対派である。だから、人民(people)による革命運動(ブルジョア市民革命)ではないし、もちろん、労農(プロレタリアート)による階級闘争でもない。維新革命を市民革命と規定するか否かに問題を還元することも、不毛である。
自由民権運動の担い手たちは、西欧を範としたモダニズムに基づき、議会制度や国会開設を望み、維新政府に異議申し立てを行った。ところが、明治20年前後を境として体制を整えた維新政府の強権化と、対外的緊張により高まった愛国主義により、彼らの民権運動は天皇制国家と臣民を待望する、超国家主義思想に収斂していった。
ところで、本書を読めば、このことは彼らの転向でも変節でもないことがよくわかる。けっきょくのところ、自由民権運動の担い手である士族・豪農層には、民衆の生活の困窮が視界にとどまることはついぞなかったのである。なぜならば、維新直後の日本社会とは伝統的階級社会のままであり、維新政府が身分制度を撤廃したところで、一夜にして平等社会が出現するわけもなかったからだ。士族や豪農層といった、社会の上層の青年に限り、学問の機会が与えられ、西欧の社会思想や政治制度が受け入れられ、反政府運動に参加する道が開けたのである。本書から、自由民権運動家である、豪農層のプロフィールを概観してみよう。
豪農層とは、根本的には漢籍の素養を下地して、西欧の近代思想を受け入れた者たちである。彼らが身につけた漢籍における理想的知識人像とは、草深い郊外に蟄居し、自然とともに時を過ごす隠者である。隠者とは、清貧を旨とするから、彼らの価値観からすれば、維新期に勃興した経済的自由人――新技術を駆使した製造業起業家、あるいは、近代的商業、金融業(参入)者(もちろん維新政府と特別な関係を有した「政商」を含めてだが)――を認めることはできなかった。認めないどころか、そのような者を軽蔑すらした。
しかも、彼らの配下にある農民は困窮に喘いでいる。農民層はとりわけ、金融業者から莫大な負債を負っていた。この惨状は資本の本源的蓄積によるものであるのだが、豪農層は国士(憂国の徒)として、農民困窮の事態を招き寄せた松方財政政策=維新政府及び新興ブルジョアジー(金融業者)に対して攻撃を開始した。とはいえ、軍事力は維新政府にあり、武装蜂起もできない。となれば、彼らに残された道は、反政府に賛同する者を集め、西欧の新思想を受容しそれを掲げて政道を説き、難解な言語で維新政府を攻撃する演説家=自由民権運動家となることだけだった。
自由民権運動というが、彼らは本来、民主主義者・人民主義者であるわけではない。彼らは、幕末から維新期に強まった過激な勤皇思想を十二分に受容していた。だから後年、彼らは、民権運動から召還して愛国的、排外主義的侵略主義者(帝国主義者)となった。豪農出身者、士族出身者を問わず、自由民権運動家は、維新政府の強権化、維新政府の富国強兵の進展とともに、必然的に天皇制超国家主義者として、自らを純化することが可能だった。維新政府の殖産興業が次第に現実のものとなり、日本中に工場が設立されるようになったとき、小作農民は土地を追われ、都市プロレタリアートに移行し、工場労働者として従事した。そのころ、明治政府は教育勅語、軍人勅語等を整備し、日清戦争に勝利していて、次なる国家的目標として、条約改正と新たな帝国主義戦争(侵略戦争)の開始を準備していた。自由民権運動はもちろん終焉していて、国士的運動家は、愛国的国家主義者へと変身していった。
以上が、明治の自由民権運動家の大方の精神の推移であり、それが大正・昭和を経て軍部主導の天皇制超全体主義国家の完成につながっていく。自由民権運動がこうした後年の不幸な歴史の抵抗体とならなかったことが、残念でならない。