2010年12月2日木曜日

“アル中”“うぬぼれ”歌舞伎役者に天誅

○マスコミが、事件関係者の若者の人権を一方的に侵害

有名若手歌舞伎役者が泥酔して酒場で度を越して暴れまわり、たまたまその場に居合わせた血気盛んな若者がぶん殴った――というのが、今回の事件の真相のような気がする。ところが、事件直後の芸能マスコミ報道は、歌舞伎役者が酔った“色の黒い”男性をかいほうしようとしたところ、いきなり暴行を受けた、とされた。役者の父親(父親ももちろん歌舞伎役者)が、息子がそういっていると芸能記者等に話したらしい。酒のうえのもめごとにすぎないにもかかわらず、警視庁が動き出し、「犯人」とされる若者に逮捕状が出た。さらに、芸能マスコミは、「犯人」がJリーグサッカークラブ(ユースチーム)に所属していたこと、父親が日本人でないこと、などを報じた。これらの報道は明らかに、人権侵害だ。

○マスコミの蛮行に逆襲

マスコミは、歌舞伎役者側の「証言」を検証なしで報じ、「犯人」とされる若者に対するネガティブ・キャーンペーンを敢行し始めた。相変わらずだ。こういう「報道」を蛮行という。ところが、事件の目撃者が、一部マスコミに対し、事件の一部始終を語り始めた。証言者は、事件のあったバーの責任者や従業員だという。商売柄、彼らは客のプライバシーを他者に語ることはないのだが、芸能マスコミのあまりの一方的「報道」に義憤を感じ、事件当夜の歌舞伎役者の行動を語りだしたのだ。彼らの証言からは、若者が「犯人」とされる根拠は見出せないばかりか、歌舞伎役者のほうに事件を惹起させた要因が認められる。そして彼らの証言が、この事件に係る報道の流れを変えようとしている。

○刑事コロンボを知っていますか

かつて、『刑事コロンボ』という米国の連続ドラマが日本でも人気を博したことがあった。ストーリーはワンパターンで、完全犯罪(殺人)を目論んだ犯人をコロンボ刑事が逮捕するというもの。このドラマのおもしろさは、犯人は概ねWASPの成功者――たとえば、大企業の役員、有名医者、弁護士、元軍人、有名映画スター・・・であること、一方のコロンボ刑事は愛妻家で、汚いトレンチコート、ポンコツ車、愛犬、葉巻がトレードマークのイタリア系であることだ。

WASP=「勝ち組」が企てた完全犯罪を、イタリア系下層階級の刑事が知恵と機転で見破り、逮捕にいたるところが痛快なのだ。筆者のような庶民は、コロンボ刑事のファンだった。コロンボを愛した理由は、「勝ち組」の成功の裏には不正があるに違いない、彼らは成功のために善良な庶民を押しのけて(たとえば、法を犯して)、いまの地位を築いたに違いない、という確信に基づくものであり、翻って、私が成功しなかったのは、罪を犯さなかったからだ――なんて、見当違いの自己肯定に浸り、自己を慰撫する一助だったからかもしれない。

ことほどさように、「勝ち組」ではない筆者のような庶民は、「勝ち組」の挫折、敗北、破綻が嬉しくないはずがない。“他人の不幸は蜜の味”は、その他人の属性が成功者であることにおいて、倍加するといえないだろうか。

○まず反省すべきは、歌舞伎役者よりもマスコミのほう

この事件の真実を知る由もないのだが、看過できない面もある。第一に、前出のとおり、マスコミは事件関係者の一人の若者の人権侵害を平然と犯し、歌舞伎役者側の言い分を、なんの検証もなしに大報道したことだ。よしんば、その若者が元か現かしらないが暴走族であったとしても、それだけで、彼の過去や身体的特徴や親の国籍が特別に報道されていいはずがない。

○この歌舞伎役者には治療が必要

第二は、「被害者」とされる歌舞伎役者の酒癖の悪さが、事件までずっと、見過ごされてきたことだ。報道の通りならば、彼は、筆者は医者ではないものの、アルコール中毒であり、彼に必要なのは、顔の治療よりもアルコール中毒の治療だと思う。そればかりではない。報道によると、事件を引き起こした歌舞伎役者の酒癖の悪さは、関係者がみな知っていたという。しかるに、そのことを注意すべき肉親(とりわけ父親)、先輩、友人、知人は何もしなかったようだ。とりわけ、芸の師匠であるはずの父親の責任は重い。

○歌舞伎に対する助成金制度は即刻廃止せよ

詳しいことはわからないので、誤りであればご指摘いただきたいのだが、歌舞伎は文化庁から無形文化財に指定されているはず。無形文化財には国から、助成金が出ているのではないか。もし、国がそのような制度を設けているのであれば、即刻助成金制度の廃止が望ましい。税金の一部が役者の飲み代に使用されているのであれば、納税者として我慢できない。

○芸能人の事件に共通するもの――まわりはみな知っていた

最近、芸能人が引き起こした事件――朝青龍(暴行?)事件、押尾事件、酒井法子事件等々を含めて――には、共通する傾向が認められる。それは、事件が突発的に起きたのではなく、事件を引き起こした芸能人のそれまでの行動等において、必然性が認められるということだ。単純にいえば、事件が起きる前から、たとえば、酒のうえでの暴行が常習的に行われていた、あるいは、薬物を使用していた等々が、うかがわれるということだ。

たとえば押尾事件の押尾学被告の場合、保護責任者遺棄の罪に問われる前に、MDM等の薬物を常習的に使用していたようだし、酒井法子の場合も、夫婦で覚せい剤を常用していたことがわかっている。朝青龍事件の場合は示談が成立しているが、朝青龍はそれまでにも、酒席でほぼ常習的に暴行等を振るっていたことが報道されている。

○芸能人を“燃え尽きる”まで利用するものたち

芸能人犯罪の特徴は、その多くは、事件化して犯罪が報道されるまで、その不法行為が周囲では不問に付されていたことだ。それはなぜか、そのことが何を意味しているかを問わなければならない。

ここから先の記述は、筆者の想像であるから、間違っているかもしれない。それはともかくとして、おそらく、芸能人というのは、“売れている”あいだは、何をしても許されるのだと思う。それが不法行為であれ、周囲への迷惑行為であれ、弱い立場の者に対するいじめであれ、程度の差はともかく、世間一般では許されない言動が、“売れている”限りにおいて、とがめられることがない。しかし、大きな事件となって、警察沙汰になり、隠蔽できなくなってはじめて、それを契機として、当該芸能人のそれまでの「悪事」の数々が報道され始めるような気がする。

“売れている”芸能人を守っているのはだれかといえば、芸能プロダクションを筆頭とする芸能業界の関係者であり、TV、新聞、雑誌等に従事する芸能マスコミ関係者であろう。先般の相撲界賭博事件において、NHK記者が捜査情報を親方に流していたことが発覚したことでわかるように、芸能記者は、芸能人の人気に負ってその生業としている限りにおいて、芸能人と一体だ。だから、芸能マスコミは芸能人が“売れている”限り、芸能人を守る。ところが事件化して、当局が乗り出し、芸能人の悪事を守りきれなくなると、手のひらをかえすように、その芸能人を追い込んでいく。

このたびの事件でも、前出のとおり、マスコミは、「暴行」されたとされる歌舞伎役者の発言を検証することなく、役者に暴行を加えた「犯人」は、暴走族で、Jリーグユースチームにいた、色黒の26歳の男性だと報道した。マスコミは、明らかに、歌舞伎役者を守ろうとした。「暴走族」「ハーフ」「スポーツ選手崩れ」・・・というネガティブなイメージのレッテルを貼ったのだ。ナイーブ(うぶ)な茶の間の視聴者は、スポーツ選手として挫折したハーフの男の子が“ぐれた”挙句に暴走族になり、六本木、西麻布あたりの夜の街で芸能人に言いがかりをつけ、腕力に任せて凶行に及んだ、と認識する効果を狙ったことは明らかではないか。

しかし、事件現場にいた人々が、事件の一部始終を証言し始め、守りきれなくなると、マスコミは、歌舞伎役者のこれまでの酒癖の悪さを報じるという、方向転換をし始めたのだ。

芸能プロダクション、TV、新聞、雑誌等の芸能マスコミ関係者は、芸能人を走らせるだけ走らせてカネを稼ぐ。彼らは、芸能人が“売れている”限りにおいて放任し、やりたい放題にさせる。彼らは、“売れている”芸能人が感じているストレスやプレッシャーに関心を示すことがない。そして、芸能人が発する救済のサインや精神、肉体の磨耗の予兆を無視し続ける。

猛スピードを出して走り続ける自動車は、いずれ、ブレーキやタイヤに異常を生じさせる。しかし、異常や故障を承知しながら、修理に出すことがない。車を修理に出してしまえば、カネが稼げなくなるからだ。やがて、ブレーキが利かなくなり、エンジンは燃え尽き、車は事故を起こして大破する。そうなって初めて、この車はへんな音がしてました、ブレーキが甘かったような気がします、アクセルが・・・といって、車の数々の異常を明らかにするというわけだ。

○芸能界は無法でいいのか

一級、特級の芸能を常人が享受するためには、常人と違う世界が必要だという論理もある。芸能界というのは、法を超越した世界なのだから、多少の無法を許容しなければいけない、という論理だ。芸人、映画俳優、歌手、芝居の役者、相撲取りあたりがその対象となろう。芸の肥やしなのだから、××くらい仕方がない、というわけだ。

この論理を拡大すれば、政治家も該当する。力のある政治家ならば、彼らが多少法を無視したとしてもいいではないか、という風潮がつい最近までの日本にはあった。裏のカネをもらうこと、裏にカネをばら撒くこと、一夫一婦制を守らないこと、密約をすること、明らかに不要な公共工事を地元に誘致すること・・・卓越した政治力のおかげで人々の暮らし向きがよくなり、社会が安定するのならば、政治家の小悪には目をつぶろうという風潮だ。

ところが、マスコミは、ロッキード事件あたりを境にして、政治家の「不法行為」を許さなくなった。昨今の小沢一郎に対する、マスコミによる過度なネガティブ・キャンペーンも、その一例だろう。彼らは「不記載」という極微的「罪」に対して、起訴を求めている。

そこまでの無菌社会をマスコミが求めるのであれば、芸能界、角界にも彼らの無菌尺度を当てはめるべきだろう。一級、特級の芸を極める歌舞伎界の「プリンス」であろうとも、その者の普段の言動に明らかに異常が認められ、無法に係るのであれば、その「プリンス」を告発し、態度を改めさせるような報道姿勢をもつべきなのではないか。

○歌舞伎役者はまずもって「アルコール中毒」の治療を

この事件の主因は、アルコール中毒の疑いのある役者を治療しなかったことにある。彼の両親、配偶者、マネジャー・・・に責任の一旦がある。本人が自覚することは難しい。彼らは、事件当事者の役者に治療をすすめなかったばかりか、増長させた疑いもある。一方、役者を殴った若者も、酒席とはいえ、過剰だった。すべてが酒の上、で許されるわけではない。

さて、殴られた歌舞伎役者は、殴られた顔の治療とともに、アルコール中毒のほうも治したほうがいい。結論としては、この事件の処理としては、示談が妥当だと思う。