2011年5月9日月曜日

ボディビル(2)



一般にスポーツ(競技)においては、筋肉は目的をもって、鍛えられる。速く走る・泳ぐため、遠くに・高く飛ぶため、ボールを投げる・蹴るため、相手を倒す・殴るため等々だ。目的にそって、概ね特定の部位が限定的に鍛えられる。

一方、ボディビルには目的がない。ボディビルダーたちは、ただひたすら、己の全身の筋肉を大きく強く美しくするためにトレーニングに励む。その結果としてできあがった超肉体は、フリークとして、偏見的見方をされることが多く、彼らはマイナーな立場に置かれてきた。

一般性を欠き、少数派にとどまるという意味で、ボディビルは純文学、否、詩に近い。言語をある目的のために使用するのが小説・随筆・ノンフィクション、その他文芸の各領域であるならば、その方向とは逆の向きに、すなわち、言語そのものの美を追求する詩という領域が浮かび上がり、詩とボディビルは近い立場にあるような気がする。

詩の現在を問うことは、筆者の力量では困難なことだ。ただ、筆者が敬愛する詩人が「瞬間の王は死んだ」と詩の創作中止の宣言をして以来、詩は筆者から遠い存在になってしまったことだけは確かなのである。

近年、ボディビルは、本来、己の筋肉の美学にとどまるところから、フィットネス、健康ブームのなか、「筋肉トレーニング」という呼び名で復権している。ボディビルの現在は、新たな目的を付与されたのだ。

自身の筋肉の美学を追求するビルダーたちがその復権を、喜んでいるのかどうかは知らない。ただ、筆者はボディビルダーたちが追求する身体の原理主義・禁欲主義をリスペクトしている。彼らこそ、肉体の詩人なのだから。