○原発事故が呼び起こす漠とした不安
3.11以降、日本国民のだれもが感じる不安は、福島第一原子力発電所(以下「福島原発」と略記。)の事故によるものであることは疑う余地がない。そのことは、世界で唯一の被爆国である日本国民に過剰な核アレルギーがあるからでもなければ、原子力に係る国民教育が十分なものでなかったからでもない。一般の日本国民は、確かに原子力に関する科学的知識に乏しく、原発の基本構造すら理解していないかもしれないが、原発が人間の生命、生活(生態圏)から限りなく遠く、人間の力では制御しきれないことを、直感的に悟っているように思える。
福島原発事故が報道された直後、テレビを通じて多くの原子力専門家がその「安全性」を強調しながらも、彼らの言葉を信用した生活者はわたしの周囲では、そう多くはなかった。なにかとてつもなく恐ろしいことが起こっている、政府はそのことをかくしている、と思った人が多かったように思う。
そして、生活者のその直感は、残念ながら、当たっていた。加えて、海外メディア、国内外の記者クラブに属さない多数のフリージャーナリストたちの独自取材により、政府、専門家の福島原発事故に関する発表・説明がまったくのでたらめであることが次第に、日本国民の間に明らかになってきた。
しばらくは、政府の「大本営発表」に従ってきたマスメディアだが、それでは自らの存在意義を失うことに危機感を覚え、彼らは、福島事故の深刻さを一斉に伝え始めた。また、原発を巡る政・産・官・学・マスコミの利権構造を暴露し始めた。書店に行けば、原発に関する利権構造の犯罪性を弾劾するもの、その「安全性」「経済性」に係る虚偽報道、欺瞞的研究等を暴露するもの、かつまた、原発に代わる新しいエネルギー技術の選択を迫るもの――といった内容の論文、取材記事等を掲載した雑誌、書籍があふれている。
○原発事故の不安の根源に迫る
だがしかし、原発批判及びそれに代わる新エネルギー技術・政策に係る情報の量的氾濫にもかかわらず、日本国民がいまある原発の危険性を整理し、その後の道筋――停止、廃棄、新エネルギー技術の選択――を明確にする、思想的基盤を示した論文・論評は管見の限り、あまり見当たらないように思える。
本書の大筋は、「あとがき」にて簡潔にまとめられている通り、(一)原子力発電をめぐる論争に、たんなる経済計算の視点を超えた、エネルゴロジーの視点(エネルギーの存在論)の視点を導きいれる試みであること、(二)3.11以降開始された「原発以降」のエネルギー論争というものが、これまで原子力発電を推進してきたのと同じ、経済計算やエネルギー計量論の狭い枠のなかでおこなわれているのが、現状であることから、こうした傾向の再生可能エネルギーへの転換の限界を突破すること――という2点の視点で展開されている。
○エネルゴロジー(エネルギーの存在論)
本書のキーワードは、エネルゴロジー(エネルギーの存在論)である。著者(中沢新一)が原子力をエネルゴロジーによって立論し、そして、原子力を速やかに退場させなければならない道筋を、以下のように説明する。
(原子力発電をめぐる論争について)ヱネルゴロジーの視点に立つと、経済的効率性によって立つ議論や、核技術への感情的な反発などを超えて、そもそもエネルギー技術としてそれはどのような存在なのか、それはイノベーションを繰り返していけば将来的に「安全な」技術となりえるものなのか、といった根本的な問題に、確度の高い見通しをあたえていくことができるようになる。
エネルゴロジー的視点からは、原子力発電をなりたたせている存在構造の特異性が明らかになる。それによると、原子力発電は、生態圏の外部の、太陽圏に属する高エネルギー現象を、生態圏の内部に深く持ち込む技術である。現在のところ考えられているイノベーションのすべてが、この構造を変えない範囲で試みられている、場当たり的な対応に過ぎない。
そのために、電子力発電の技術がはらむ生態圏への危険性は、将来的もけっして消えることがない。危険の封じ込めのために、小さな範囲内での改良は可能であろうが、人類に与えられた程度の知性をもってしては、この技術の根本の構造自体を変えることは不可能である。エネルギー獲得のために技術として、原子力発電をできるだけ速やかに退場させなければならない理由はそこにある。(P142)
生活者が原発事故に抱く不安の根源には、原子力というものが、自らの属する圏域の外側にあることにある。著者(中沢新一)はそのことを、“人類に与えられた程度の知性をもってしては、この(原子力発電)の技術の根本の構造自体を変えることは不可能である”という結論を導くのである。簡単にいえば、人類はこれからも原子力発電事故を回避できないし、事故から生じる放射能汚染等による危険から免れないと。
○3.11以降のエネルギー論争の限界と原発以降の社会のあり方
前出の通り、著者(中沢新一)によると、3.11以降、活発に論じられている原子力発電の維持と、その真逆にある代替エネルギー推進も、同一のレベルにあるという。両者とも、「経済計算やエネルギー計量論の狭い枠のなかでおこなわれている」からだという。
著者(中沢新一)は、原子力発電と現代のグローバル型資本主義(新自由主義、市場原理主義)とは、存在の地平を共有するという。その理由として、「両者のエネルゴロジー的構造が、多くの同型をしめしているから」であるとする。
また、一方の再生可能エネルギーの存在構造については、エネルゴロジーの視点で分析してみると、そこに現代の資本主義からの脱出の可能性が見えてくるという。「脱原発を果たし、太陽発電や風力発電、バイオマス発電のようないわゆる再生可能エネルギーの技術を主要なダイナモとして動く経済社会は、それに対応した構造への変化を起こしていかねばならない」というのだ。
これからはじまろうとしている新しいエネルゴロジーの革命は、原子力発電からの脱出と自然エネルギーへの転換につきることのない、多くの可能性をはらんでいるのです。原子力発電を推進してきたのは、いままで主流であった「モダニズム資本主義」でしたが、そこからの脱出をきっかけとして、資本主義そのものの内面的な変化が引き起こされていくにちがいないからです。
第一種交換だけでできた市場の原理によって作られてきた世界には、贈与=キアスム構造をもった別の交換原理が組み込まれることによって、大きな変化が生じることになります。第一種交換の思考がつくりだしてきた「通貨」にたいする考え方なども、これによって変わっていきます。・・・(P139~140)
著者(中沢新一)は本書をマニフェストとして、「太陽と緑の党」を組織し、反原発運動を推進していくことを示唆している。