2011年8月26日金曜日

『日本の大転換』

●中沢新一[著] ●集英社新書 ●700円(税別)


○原発事故が呼び起こす漠とした不安

3.11以降、日本国民のだれもが感じる不安は、福島第一原子力発電所(以下「福島原発」と略記。)の事故によるものであることは疑う余地がない。そのことは、世界で唯一の被爆国である日本国民に過剰な核アレルギーがあるからでもなければ、原子力に係る国民教育が十分なものでなかったからでもない。一般の日本国民は、確かに原子力に関する科学的知識に乏しく、原発の基本構造すら理解していないかもしれないが、原発が人間の生命、生活(生態圏)から限りなく遠く、人間の力では制御しきれないことを、直感的に悟っているように思える。

福島原発事故が報道された直後、テレビを通じて多くの原子力専門家がその「安全性」を強調しながらも、彼らの言葉を信用した生活者はわたしの周囲では、そう多くはなかった。なにかとてつもなく恐ろしいことが起こっている、政府はそのことをかくしている、と思った人が多かったように思う。

そして、生活者のその直感は、残念ながら、当たっていた。加えて、海外メディア、国内外の記者クラブに属さない多数のフリージャーナリストたちの独自取材により、政府、専門家の福島原発事故に関する発表・説明がまったくのでたらめであることが次第に、日本国民の間に明らかになってきた。

しばらくは、政府の「大本営発表」に従ってきたマスメディアだが、それでは自らの存在意義を失うことに危機感を覚え、彼らは、福島事故の深刻さを一斉に伝え始めた。また、原発を巡る政・産・官・学・マスコミの利権構造を暴露し始めた。書店に行けば、原発に関する利権構造の犯罪性を弾劾するもの、その「安全性」「経済性」に係る虚偽報道、欺瞞的研究等を暴露するもの、かつまた、原発に代わる新しいエネルギー技術の選択を迫るもの――といった内容の論文、取材記事等を掲載した雑誌、書籍があふれている。

○原発事故の不安の根源に迫る

だがしかし、原発批判及びそれに代わる新エネルギー技術・政策に係る情報の量的氾濫にもかかわらず、日本国民がいまある原発の危険性を整理し、その後の道筋――停止、廃棄、新エネルギー技術の選択――を明確にする、思想的基盤を示した論文・論評は管見の限り、あまり見当たらないように思える。

本書の大筋は、「あとがき」にて簡潔にまとめられている通り、(一)原子力発電をめぐる論争に、たんなる経済計算の視点を超えた、エネルゴロジーの視点(エネルギーの存在論)の視点を導きいれる試みであること、(二)3.11以降開始された「原発以降」のエネルギー論争というものが、これまで原子力発電を推進してきたのと同じ、経済計算やエネルギー計量論の狭い枠のなかでおこなわれているのが、現状であることから、こうした傾向の再生可能エネルギーへの転換の限界を突破すること――という2点の視点で展開されている。

○エネルゴロジー(エネルギーの存在論)

本書のキーワードは、エネルゴロジー(エネルギーの存在論)である。著者(中沢新一)が原子力をエネルゴロジーによって立論し、そして、原子力を速やかに退場させなければならない道筋を、以下のように説明する。

(原子力発電をめぐる論争について)ヱネルゴロジーの視点に立つと、経済的効率性によって立つ議論や、核技術への感情的な反発などを超えて、そもそもエネルギー技術としてそれはどのような存在なのか、それはイノベーションを繰り返していけば将来的に「安全な」技術となりえるものなのか、といった根本的な問題に、確度の高い見通しをあたえていくことができるようになる。

エネルゴロジー的視点からは、原子力発電をなりたたせている存在構造の特異性が明らかになる。それによると、原子力発電は、生態圏の外部の、太陽圏に属する高エネルギー現象を、生態圏の内部に深く持ち込む技術である。現在のところ考えられているイノベーションのすべてが、この構造を変えない範囲で試みられている、場当たり的な対応に過ぎない。

そのために、電子力発電の技術がはらむ生態圏への危険性は、将来的もけっして消えることがない。危険の封じ込めのために、小さな範囲内での改良は可能であろうが、人類に与えられた程度の知性をもってしては、この技術の根本の構造自体を変えることは不可能である。エネルギー獲得のために技術として、原子力発電をできるだけ速やかに退場させなければならない理由はそこにある。(P142)

生活者が原発事故に抱く不安の根源には、原子力というものが、自らの属する圏域の外側にあることにある。著者(中沢新一)はそのことを、“人類に与えられた程度の知性をもってしては、この(原子力発電)の技術の根本の構造自体を変えることは不可能である”という結論を導くのである。簡単にいえば、人類はこれからも原子力発電事故を回避できないし、事故から生じる放射能汚染等による危険から免れないと。

○3.11以降のエネルギー論争の限界と原発以降の社会のあり方

前出の通り、著者(中沢新一)によると、3.11以降、活発に論じられている原子力発電の維持と、その真逆にある代替エネルギー推進も、同一のレベルにあるという。両者とも、「経済計算やエネルギー計量論の狭い枠のなかでおこなわれている」からだという。

著者(中沢新一)は、原子力発電と現代のグローバル型資本主義(新自由主義、市場原理主義)とは、存在の地平を共有するという。その理由として、「両者のエネルゴロジー的構造が、多くの同型をしめしているから」であるとする。

また、一方の再生可能エネルギーの存在構造については、エネルゴロジーの視点で分析してみると、そこに現代の資本主義からの脱出の可能性が見えてくるという。「脱原発を果たし、太陽発電や風力発電、バイオマス発電のようないわゆる再生可能エネルギーの技術を主要なダイナモとして動く経済社会は、それに対応した構造への変化を起こしていかねばならない」というのだ。

これからはじまろうとしている新しいエネルゴロジーの革命は、原子力発電からの脱出と自然エネルギーへの転換につきることのない、多くの可能性をはらんでいるのです。原子力発電を推進してきたのは、いままで主流であった「モダニズム資本主義」でしたが、そこからの脱出をきっかけとして、資本主義そのものの内面的な変化が引き起こされていくにちがいないからです。

第一種交換だけでできた市場の原理によって作られてきた世界には、贈与=キアスム構造をもった別の交換原理が組み込まれることによって、大きな変化が生じることになります。第一種交換の思考がつくりだしてきた「通貨」にたいする考え方なども、これによって変わっていきます。・・・(P139~140)

著者(中沢新一)は本書をマニフェストとして、「太陽と緑の党」を組織し、反原発運動を推進していくことを示唆している。

2011年8月24日水曜日

神話の崩壊(続)

3.11以降、日本は大転換が迫られているにもかかわらず、マスコミ(テレビ/新聞)はそのことを拒み続け、虚構の「神話」を作り続けているように思える。

◎テレビ局解体が日本再構築の第一歩

島田紳助という吉本興業に属するタレントが、暴力団関係者との交際を理由として、突然、芸能界を引退した。紳助はテレビ界ではとりわけ売れっ子で、ゴールデンタイムに係る多数の番組のレギュラーを抱え、数社の企業とCM契約を結んでいたという。

しかし、紳助が大きなトラブルを起こしたのは、過去に3度あった。以下に、その記事を引用しておく。
【過去の紳助のお騒がせメモ】
▼1982年 ラジオの番組の企画で、東京大学への受験を突然宣言。共通一次試験の受験会場に出向いたが受験阻止を訴えるグループと騒動が起き、その場で受験票を破り捨てた。
▼2004年10月 司会を務める朝日放送系「クイズ!紳助くん」の収録前に、吉本興業の女性マネジャーの態度に腹を立て、殴る、髪をつかんで壁に打ちつける、顔に唾を吐きかけるなどの暴行を加え、全治1週間のけがを負わせた。女性の告訴により芸能活動の無期限自粛を発表。翌年1月に復帰した。
▼09年10月 TBS系特番「オールスター感謝祭」で後輩芸人・東京03があいさつをしなかったことを発端に、生放送中に紳助が詰め寄りどう喝。その姿がオンエアされてしまったためインターネット上で騒動になった。
(出典:2011/8/24-06:00 「スポーツ報知」)
最初の東大受験騒動は、私見ではトラブルに当たらない。注目すべきは、2004年の女性マネジャー暴行事件だ。引退の引き金になったのは、2005~2007年にかけて行われていた暴力団関係者との交際を証するメール等の発覚だというから、2004年の暴行事件前後に何かがあったことは間違いない。また、引退会見では、紳助がかかわったなにがしかの事件の解決に向けて暴力団が動いたと報道されている。

紳助は女性マネジャー暴行事件前から暴力団との交際があり、彼は「自分には組織の後ろ盾がある」ということを意識していたのだと思われる。「組織」の後ろ盾を得た暴力的パワーが彼自身の行動・言動の抑制を欠如させ、暴力的体質を強めさせ、かつ、彼は暴力的傾向を前面に出すようになったのではないか。たまたま、女性マネジャー暴行事件だけが明るみになっただけで、水面下ではもっと多くの「事件」が起きていたのではないか。

そこで問題となるのは、紳助を起用し続けてきたテレビ業界だ。前出の女性マネジャー暴行事件が起きた直後、紳助は無期限自粛を発表したのだが、わずか3か月ほどで自粛は終わり、テレビ業界は彼を再び起用してきた。前出のとおり、紳助は事件解決のために暴力団と関係をもったと発言しているようだが、繰り返すが、紳助と暴力団との結びつきはかなり前から、もちろん女性マネジャー暴行事件発生の前から続いており、同事件発生の背景になっていたはずだ。

テレビ業界は、暴力団と密接な関係をもったタレントに対し、長年にわたり、ギャラを支払い続けてきたことになる。その間、紳助に支払われたギャラの一部が、「事件解決の謝礼」などの名目で組織に流れていたと考えるほうが自然だろう。

視聴率がとれれば、どんなタレントでもかまわない、おかしなことがあっても、表にでなければそれまで。表に出たときは、「無期限自粛」で時を稼ぎ、人の噂も75日で復帰させる。タレント等から上がる収益だけがすべて――というのが、日本のテレビ業界の体質だ。

テレビには倫理も正義もない。羞恥心も善悪の区別もない。視聴率=収益だけを価値観とする巨大なテレビ業界というものは、現代の魔窟だ。テレビの内部に棲む関係者はそこだけで通用する「業界的価値観」「業界的常識」「業界的××」に支配され蝕まれていく。テレビ局を解体することが、日本の再構築の第一歩となるはずだ。

◎「甲子園」を「神格化」した朝日新聞

先般閉幕した夏の全国高校野球選手権大会で、青森県勢として42年ぶりの準優勝を果たした光星学院高校は22日、所属する野球部員3人が昨年12月に飲酒をしていたと発表した。同校では3人を停学処分とする方針。この部員らは昨年末に帰省した際に、それぞれ別々に飲酒したという。このうちの1人がブログに飲酒している様子を自ら書き込んだことから発覚した。甲子園にみちのく旋風を巻き起こし、東日本大震災の被災地に勇気を与えたといわれている同校の不祥事に、波紋が広がっているという。

この「飲酒事件」が発覚したきっかけは、「2ちゃんねる」らしい。発覚に至る詳細については省略するが、同掲示板投稿者が、飲酒した男子部員の問題のブログを発見し、同掲示板に書き込み、その後にスレッドが乱立、高校側も飲酒の事実を隠せなくなったらしい。

「2ちゃんねる」の騒動の前にマスコミ(新聞・テレビ・雑誌等)が野球部員の飲酒を知っていて報道しなかったのか、知っていても報道しなかったのかは不明だが、飲酒事件発覚前、甲子園大会を実態上主催する朝日新聞社は、「天声人語」に以下のとおりの内容の駄文を掲載している。
「甲子園」はタイガースの本拠である阪神甲子園球場とは別物だと、江川卓さん(56)がスポーツ誌「ナンバー」で語っている。「春と夏だけ、神様が高校生のために甲子園という聖地を届けて下さる」と。「僕もそう思ってます」と応じたのは、対談相手の桑田真澄さん(43)である▼神々しさが極まるのが夏の決勝だ。3年続けてそのマウンドに立った桑田さんは「神様の声を聞いた」と言い、縁がなかった江川さんは「僕には何も言ってくれなかった」と笑う。神様は気まぐれだ▼聖地の空は、一戦ごとに盛夏のぎらつきを収め、柔和になる。秋めく甲子園で日大三(西東京)と光星学院(青森)が球譜に名を刻んだ。三高の豪打、恐るべし。疲れを見せぬ吉永投手にもしびれた▼片や光星。青森県出身者は少なくても、津波に襲われた八戸の期待を背に、「東北初」の夢をよくつないだ。親元を離れてでも聖地に足跡を残す。そんな個々の執念が、被災地の願いと一つになった▼大会の延長戦は最多記録に並ぶ8試合。満塁ホームランあり、サヨナラ劇ありの熱戦に奮い立った人も多かろう。そして決勝の両校には、残るべき理由があった。気まぐれに見えて、神様もなかなかやる▼節電による前倒しで、栄冠は昼前に輝いた。泥んこのユニホームや、揺れるアルプス席の残像を自分の力に転じるのに、週末の長い午後はあつらえ向きだ。野球の神様はいてもいなくてもいい。ただ聖地があってよかったと、特別な夏の終わりに思う。(出典:朝日新聞「天声人語」2011/08/23)
ちなみに、桑田真澄氏といえば、プロ野球現役時代、「投げる不動産屋」と呼ばれ、バブル崩壊後に多大な債務を抱えたことで知られている。スキャンダルを恐れた桑田氏が属する巨人軍(=読売)は桑田氏の借金の肩代わりをし、桑田氏は巨人軍(読売)にいる間中、読売に返済を続けていたという。今現在、彼が債務を完済したかどうかはわからないが、迷惑を被っている人がいないことを祈っている。

そして、もう一人の江川卓氏にいたっては、ドラフト破りの「空白の一日」の主役として世に知られた人物。ドラフト制度を無視して読売入団を強行し、非難を受けた。江川氏は法を犯したわけではないが、プロ野球業界のルールを破ったことが日本の球史に刻印されている。そんなお二人が神や聖地を口に出すのは、誠に似合わないと思うのは筆者だけか。そんなお二人に甲子園に係る対談をさせたスポーツ誌「ナンバー」には、卓抜したブラックユーモアのセンスがあることは否定できないものの、それを甲子園賛歌として引用した朝日新聞「天声人語」は愚かというほかない。

さて、「天声人語」の駄文にいちゃもんをつけるのが本意ではない。問題なのは、マスコミが甲子園野球の裏側に潜む、多くの問題を隠ぺいしている実態にある。

問題の光星学院は被災地・青森の「代表」だそうだが、監督、選手の出身地は以下の通り。
監督:仲井宗基、大阪府生まれ、桜宮高~東北福祉大卒。投:秋田教良 (大阪太子中)、捕:松本憲信 (大阪菫中)、一:金山洸昂 (大阪堅下南中)、二: 榎本 慎 (和歌山東中)、三:田村龍弘 (大阪狭山三中)、遊:北條史也 (大阪美木多中)、左:和田祥真 (大阪守口四中)、中:川上竜平 (沖縄仲井真中)、右:沢 辰寿 (大阪守口一中)
(出典:高校野球情報.COM)

被災地・青森出身者はゼロ。大阪出身の高校生がなぜ、被災地・青森の高校にかくも多数集まっているのか筆者にはわからない。大阪から被災地・青森までボランティアに出向いたわけでもあるまい。筆者の推測では、大阪に足場をもつ監督が、大阪近辺にある有力な少年野球チームから才能のある中学生をスカウトして集め、青森の光星学院高校野球部をつくりあげ、3年間鍛え上げて甲子園に出場させたのだろう。監督も高校生も、みな、プロ野球選手なのだ。

引用の通り、朝日新聞を筆頭とするマスコミが甲子園を「聖地」に仕立て上げる一方、全国の私学経営者の一部は、野球の上手な中学生を全国から集めて寮に放り込み、名ばかりの高校野球部(実態はプロ集団)をつくって、日々猛練習をさせて予選を勝ち抜かせ、「聖地」とやらに出場させる。「聖地」とやらに出場した高校は、全国的知名度を得て、生徒が集まりやすくなり、少子化で縮小するなか、私学経営を軌道に乗せることができる。

マスコミは、「無私」で「純粋」な高校球児とやらが炎天下、「聖地」で「熱戦」を演じるさまを美辞麗句で飾り立てて報道し、自らがつくりだした偶像で視聴率やら販売部数等を増加し経営を安定させる。「聖地」に集まる高校生がまさか酒やタバコをやるはずもない。彼らは「純粋」な、神に召されし球児なのだから。

しかし、ごく普通に考えるならば、それが違法であろうとも、今現在、酒を飲む高校生は珍しくない。飲酒が発覚した高校生が処分されることもあるだろうし、不問に付されることもあろう。まして、大阪出身の中学生が、遠い青森という異郷の地で入寮生活を強いられたうえ、毎日過酷な練習に耐え、レギュラー争いに明け暮れるような生活を続ければ、ストレスもたまる。久々に帰郷して緊張がほぐれ、結果、飲酒や喫煙に走るようになる傾向は納得できなくもない。そんな問題を抱えた高校生は、全国に数えきれないほど存在している。それが実態なのだ。

筆者は当ブログで何度も「甲子園」を批判してきた。「甲子園」の裏側にいかなる実態が隠されているか、はっきりさせるべきなのだ。

高校生にとって、全国規模のスポーツ大会は必要であり、筆者はそれを否定するつもりはない。ただ、「甲子園」だけを特別視することは、もう、やめるべきなのだ。高校生のスポーツ大会としては、全国高等学校総合体育大会(インターハイ)がある。野球という競技をそこに統合させればいい。報道の量も質も、現行のインターハイのレベルで十分だ。

インターハイにおいても、高校生のプロ化が進んでいるかもしれない。それでも、「甲子園」の過熱ぶりはないはずだ。インターハイには、高校経営者が期待する投資価値が見出せないからだ。インターハイで優勝したとしても、マスコミの扱いは甲子園と比較できないほど小さいため、彼らが「甲子園」に投資して得てきたリターンは期待できない。インターハイは高校経営者及びマスコミにとって、収益が上がらない無名のイベントにすぎない。インターハイは「神がつくった舞台」ではないし、「神聖」でもない。高校の体育系部活の全国大会に過ぎないからだ。でも、それで十分ではないか。

被災地の人々がどう考えているかは別として、高校生の野球が被災地をはじめとするそれぞれの故郷を代表するいわれはない。彼らが「勇気」や「感動」を被災地や故郷に与える義務はない。発展途上にある高校生に、そのような重圧を与えることは教育に反する。野球をする高校生たちの故郷は、高校の所在地とはまったく別なのだから。

「甲子園」の神聖化は、原発の「安全神話化」とまったく同じ構造をもっている。「甲子園」の裏側に、数えきれないほどの不正、反教育、非人間性、暴力等が行われていても、それらは「神」の名の下に隠ぺいされる。主催者、マスコミ、高校経営者等の売上・利益が上がれば、それでいいという態度だ。3.11の後、被災地の名の下に美化された「甲子園」のフィクションが明らかになったいま、高校生の野球を「甲子園」の呪縛から解放し、普通の部活動に一刻も早く戻すべきではないか。

2011年8月22日月曜日

無題

@Sendagi

三四郎池


熱中症が頻発した暑さから解放されて、ここ数日は過ごしやすい日が続いている。

雨も降りそうもないので、近くの東大本郷構内を散策。

拙宅から徒歩で20分ほどだ。

三四郎池は水が汚い。

2011年8月15日月曜日

『原発の深い闇』

●別冊宝島[編]  ●宝島社  ●980円


3.11による福島第一原発事故により、日本の原発ビジネスのインチキ性が暴露された。インチキが白日の下に晒されたことは結構なことだけれど、原発事故の深刻さは想像を絶するものであり、多くの日本人の生命が危機に晒されることとなってしまった。

○3.11以前

原発が唯一の被爆国である日本で製造・稼働するようになったのは、米国の原発ビジネス推進の結果である。米国は冷戦下におけるソ連(当時)との平和共存が定着して以来、核の平和利用を世界的に喧伝し、原発を各国に売り込んだ。被爆国日本がそれを受け入れることは容易でなかったものの、中曽根康弘(大勲位)らの保守政治家、そして、正力松太郎(読売新聞社主)らのマスコミ人の尽力により、原発ビジネスを軌道に乗せることができた。正力松太郎は米国CIAのエージェントであったことはよく、知られている。

そればかりではない。冷戦下、平和共存といえども、米国にとって東側(ソ連・中国)は、脅威であり続けた。自由主義圏に属する極東の日本が原発を製造・稼働させることは、日本が潜在的核保有国であることを東側に見せつけることになる。日本における原発の存在は、軍事的プレゼンスとしての役割も果たした。

日本の原発ビジネスの特徴は、電力会社がそれを開発・運営するところにある。日本の電力会社は、地域別に編成されていて、各市場を独占している。しかも、コストを電力利用者に無限に転嫁できる仕組み(総括原価方式)をもっているため、経営は超安定状態を維持できる。よって、開発資金を入手しやすい。機関投資家、金融機関、個人投資家に至るまで、彼らは電力会社にほぼ無条件で融資をし続けてきた。電力債は安全・安定金融商品として、機関、個人を問わず、投資家にとって人気が高かった。電力会社は開発資金を容易に調達可能であった。

原発で潤うのは電力会社にとどまらない。原発ビジネスは電力会社を中心として、商社、原子炉メーカー(日立、東芝等)、原発施設および公共施設を建設するゼネコン、建設業、原発警備会社、はては作業員を派遣する闇勢力、そして原発広報を担当するマスコミ業界等に至るまで、多種多様の事業者が原発に紐づけられている。原発ビジネスはきわめて裾野の広い業態であり、日本の各種企業等にとって、仕入れコストを考慮しない電力会社との取引は、利潤を確保しやすい、低リスク=安全・安心なビジネスとして歓迎された。

しかし、唯一の被爆国民・日本人は核アレルギーが強い。「非核三原則」を建前上の国是としている。そんな中、原発推進派は、それが「絶対安全」なものであることを国民に「周知」する必要があった。そして、そのことに多大なる貢献をしたのが御用学者(アカデミズム)、新聞・雑誌・テレビといったマスコミであり、“インテリモドキ”タレントたちであった。本書は、その代表的存在として、ビートたけし、勝間和代、大前研一らを挙げている。

アカデミズムの世界の腐敗はより深刻である。いま言われている“原子力ムラ”というのは、原発マネーにたかった御用学者の集団のことを言う。彼らは原発の「安全」を社会に喧伝する見返りに、研究費という名目で電力会社から多額の援助金を受け入れ、公私ともに潤ったのである。そればかりではない。彼らは原発建設の安全基準に手心を加えたばかりか、稼働後の監理についても電力会社の側に立った。科学者でありながら、国民の安全、安心をないがしろにした。彼らは原発マネーという悪魔に良心を売った輩である。

電力会社を強力に支えたのは、政治家および官僚である。核アレルギーの強い日本人が「絶対安全」な原発を受け入れるには、カネの力も必要とした。原発を受け入れる地域を選挙区とする政治家は、交付金等を餌にして地元をまとめ、原発誘致を経産省に働きかけると同時に、その見返りとして電力会社を通じて政治資金を得た。

原発の大元締めである経産省は、原発に関する事務を一手にわがものとし(本来、中立の立場を堅持し、原発の安全性を厳正に審査するはずの保安院さえも自らの陣営に引き入れ)、自らの予算と組織を拡大した。官僚は電力会社が吐き出す巨額の出損金を基金として外郭団体をつくり、天下り先を確保した。

3.11以前、原発に係るこうしたメカニズムが報道されることはなかった。それどころか、原発は「未来の希望」だった。日本人は、原発は絶対に安全な(=事故を起こさない)もの、CO2を排出しないもの、過疎地に雇用と富を生み出すものとして、肯定的に受け入れてきた。原発のリスクを考慮しない思考停止状態を日本国民にもたらしたのは、前出の通り、(御用)学者・マスコミ、そして、“インテリモドキ”タレントたちの影響が大きい。

もちろん、原発の危険性や、原発の建設・運営に係る不健全性、不透明性を糾弾してきた学者、ジャーナリストも存在したのだが、彼らは「活動家」とみなされ、「過激派」と同様の扱いをマスコミから受けた。彼らの告発はマスコミから一切無視された。

○3.11以降

そして、このたびの東日本大震災である。地震と津波により、「絶対安全」なはずの原発は、一般の建造物となんらかわることなく、一気に制御不能に陥ってしまった。事故後に起きたことと言えば、①政府による大本営発表、②御用学者およびマスコミによる「絶対安全」報道の繰り返し、③政府・電力会社・マスコミによる情報隠ぺい、④政府・電力会社による棄民政策の推進――であった。原発に対する政府、電力会社、御用学者、マスコミのかかわり方は、3.11以前も以降も変わりない。彼らにとって原発は、「絶対安全」なものであり続けている。

政治家・電力会社・官僚は、“パニックを起こさない”という「大義名分」を念仏のごとく心の中で唱えつつ、「大本営発表」を繰り返しているに違いない。そして、それに唯々諾々と従うマスコミ業の従業者。かれらの頭の中は、“住民に真実を伝えればパニックが起こり、事態はより悪化する”という住民蔑視、愚民思想が詰まっているに違いない。とりわけ政治家は、パニックが起こり、社会不安が生ずれば、自らの政治家生命が失われることばかりを恐れているようにみえる。彼らは、情報を隠ぺいすることこそが「大人」の判断なのだと言いたげだ。

こうなれば、なんでもありである――事故直後、政府は「計画停電」という目くらましを放って、国民の関心を原発事故の恐怖から、停電の恐怖に向かわせた――政府・御用学者は、放射線物質の安全基準を勝手に引き上げた――東電は、放射線物質の測定値を実際よりも低く発表している――被災地の農産物生産者は、産地偽装をして、被災農作物等を市場に闇で流している――御用学者はテレビ出演して、根拠もないくせに、福島原発に危険はない、放出される放射線量は基準値以下だと言い続ける――3.11以後、なにごともなかったのだと。

メルトダウンしたのは福島原発だけではない、政治家・官僚によって構成される日本政府、、電力会社=原発事業者、学者、マスコミ業者、農業従事者・・・国家を動かしている諸機能のすべてがメルトダウンしてしまったのだ。

さて、マルクスレーニン主義によれば、資本主義国家においては、ブルジョアジー(資本家)の利益は国家の共同の利益と見なされる。であるから、プロレタリアート(労働者)はまずもって、資本主義国家(自国政府)の打倒に向かわなければならない、とされる。プロレタリア暴力革命の必然性である。原発は、国家の幻想的共同利益(国益)=ブルジョアジーの利益にほかならないのか――

原発は、電力会社に従事する労働者にとっても利益となっている。民主党(=政権党)には、労働組合を母体とする政治家が数多い。もちろん、原発事業者=電力会社の労働組合(電力総連)を支持基盤として当選した政治家もいる。原発はプロレタリアートの敵なのであろうかというと、そうではない。3.11以降、電力総連=プロレタリアートは、原発稼働を表明しているのである。原発を階級的利害という視点から見れば、ブルジョアジー、プロレタリアート共通の利益を生み出しているように見える。プロレタリアートが反原発を唱えるためには、自己否定という自らが享受している利益の否定から始めなければならない。民主党とその支持者(労働組合)にそこまでの覚悟があるのだろうか。

どうしたらいいのか、その答えは――原発を、現実の利害関係、過去の経緯といったしがらみから解き放つことではないか。3.11以降の日本人すべてが、福島原発事故による被曝を免れない。失うものはなにもない。だからその終息にむけて、自己否定を前提として、その存在のすべてを傾ければよい。過去、そして、いま現在、みずからが享受している(してきた)原発からの利益を否定するほかない。日本人にそれができなければ、原発の呪いからの解放はない。自己否定が原発の深い闇から脱する唯一の前提となろう。

具体策としては、これまで原発の絶対安全性を説明してきた、電力会社、官僚、政治家、学者、“インテリモドキ”タレントらはすべて福島に出向き、防護服を着用して福島原発の修理作業に従事することだ。3.11以前、原発インチキビジネスによって享受した利益を、死を賭した行為によって代償することだ。それができれば、日本という国家は、原発事故を境に変わることができる。

2011年8月8日月曜日

不忍池




上野公園内にある不忍池はいま、蓮が満開である。

蓮はユーラシア大陸各地で尊ばれている。

筆者の想像では蓮を最初に尊んだのはアーリア民族。

同民族がイラン高原、インド亜大陸、ヨーロッパへと移動したことにともない、

蓮を尊ぶ意識がユーラシア各地に広がったのだと思う。

日本人が蓮を尊ぶようになったのも、インド(アーリア民族とアジア系諸民族の混血)を起源とする仏教の受容からだろう。

池の周囲には、名を知らぬ小さな神社があるが、おそらく蓮とは関連がない。

●上野公園

夢見る猫




二匹の猫は概ね別々に寝ているのだが、ときたま、体を寄せ合って眠りにつくことがある。

観察をしていると、それは別々、くっついて、を問わず、猫は夢を見ているように思える。

脚をばたつかせたり、表情を変えたり、立ち上がろうとしたりと、いろいろだが、起きているときの動作をしようとするのだ。

猫の睡眠時間は人間よりはるかに長い。

彼らはどれだけの夢をみているのだろうか。