2011年8月15日月曜日

『原発の深い闇』

●別冊宝島[編]  ●宝島社  ●980円


3.11による福島第一原発事故により、日本の原発ビジネスのインチキ性が暴露された。インチキが白日の下に晒されたことは結構なことだけれど、原発事故の深刻さは想像を絶するものであり、多くの日本人の生命が危機に晒されることとなってしまった。

○3.11以前

原発が唯一の被爆国である日本で製造・稼働するようになったのは、米国の原発ビジネス推進の結果である。米国は冷戦下におけるソ連(当時)との平和共存が定着して以来、核の平和利用を世界的に喧伝し、原発を各国に売り込んだ。被爆国日本がそれを受け入れることは容易でなかったものの、中曽根康弘(大勲位)らの保守政治家、そして、正力松太郎(読売新聞社主)らのマスコミ人の尽力により、原発ビジネスを軌道に乗せることができた。正力松太郎は米国CIAのエージェントであったことはよく、知られている。

そればかりではない。冷戦下、平和共存といえども、米国にとって東側(ソ連・中国)は、脅威であり続けた。自由主義圏に属する極東の日本が原発を製造・稼働させることは、日本が潜在的核保有国であることを東側に見せつけることになる。日本における原発の存在は、軍事的プレゼンスとしての役割も果たした。

日本の原発ビジネスの特徴は、電力会社がそれを開発・運営するところにある。日本の電力会社は、地域別に編成されていて、各市場を独占している。しかも、コストを電力利用者に無限に転嫁できる仕組み(総括原価方式)をもっているため、経営は超安定状態を維持できる。よって、開発資金を入手しやすい。機関投資家、金融機関、個人投資家に至るまで、彼らは電力会社にほぼ無条件で融資をし続けてきた。電力債は安全・安定金融商品として、機関、個人を問わず、投資家にとって人気が高かった。電力会社は開発資金を容易に調達可能であった。

原発で潤うのは電力会社にとどまらない。原発ビジネスは電力会社を中心として、商社、原子炉メーカー(日立、東芝等)、原発施設および公共施設を建設するゼネコン、建設業、原発警備会社、はては作業員を派遣する闇勢力、そして原発広報を担当するマスコミ業界等に至るまで、多種多様の事業者が原発に紐づけられている。原発ビジネスはきわめて裾野の広い業態であり、日本の各種企業等にとって、仕入れコストを考慮しない電力会社との取引は、利潤を確保しやすい、低リスク=安全・安心なビジネスとして歓迎された。

しかし、唯一の被爆国民・日本人は核アレルギーが強い。「非核三原則」を建前上の国是としている。そんな中、原発推進派は、それが「絶対安全」なものであることを国民に「周知」する必要があった。そして、そのことに多大なる貢献をしたのが御用学者(アカデミズム)、新聞・雑誌・テレビといったマスコミであり、“インテリモドキ”タレントたちであった。本書は、その代表的存在として、ビートたけし、勝間和代、大前研一らを挙げている。

アカデミズムの世界の腐敗はより深刻である。いま言われている“原子力ムラ”というのは、原発マネーにたかった御用学者の集団のことを言う。彼らは原発の「安全」を社会に喧伝する見返りに、研究費という名目で電力会社から多額の援助金を受け入れ、公私ともに潤ったのである。そればかりではない。彼らは原発建設の安全基準に手心を加えたばかりか、稼働後の監理についても電力会社の側に立った。科学者でありながら、国民の安全、安心をないがしろにした。彼らは原発マネーという悪魔に良心を売った輩である。

電力会社を強力に支えたのは、政治家および官僚である。核アレルギーの強い日本人が「絶対安全」な原発を受け入れるには、カネの力も必要とした。原発を受け入れる地域を選挙区とする政治家は、交付金等を餌にして地元をまとめ、原発誘致を経産省に働きかけると同時に、その見返りとして電力会社を通じて政治資金を得た。

原発の大元締めである経産省は、原発に関する事務を一手にわがものとし(本来、中立の立場を堅持し、原発の安全性を厳正に審査するはずの保安院さえも自らの陣営に引き入れ)、自らの予算と組織を拡大した。官僚は電力会社が吐き出す巨額の出損金を基金として外郭団体をつくり、天下り先を確保した。

3.11以前、原発に係るこうしたメカニズムが報道されることはなかった。それどころか、原発は「未来の希望」だった。日本人は、原発は絶対に安全な(=事故を起こさない)もの、CO2を排出しないもの、過疎地に雇用と富を生み出すものとして、肯定的に受け入れてきた。原発のリスクを考慮しない思考停止状態を日本国民にもたらしたのは、前出の通り、(御用)学者・マスコミ、そして、“インテリモドキ”タレントたちの影響が大きい。

もちろん、原発の危険性や、原発の建設・運営に係る不健全性、不透明性を糾弾してきた学者、ジャーナリストも存在したのだが、彼らは「活動家」とみなされ、「過激派」と同様の扱いをマスコミから受けた。彼らの告発はマスコミから一切無視された。

○3.11以降

そして、このたびの東日本大震災である。地震と津波により、「絶対安全」なはずの原発は、一般の建造物となんらかわることなく、一気に制御不能に陥ってしまった。事故後に起きたことと言えば、①政府による大本営発表、②御用学者およびマスコミによる「絶対安全」報道の繰り返し、③政府・電力会社・マスコミによる情報隠ぺい、④政府・電力会社による棄民政策の推進――であった。原発に対する政府、電力会社、御用学者、マスコミのかかわり方は、3.11以前も以降も変わりない。彼らにとって原発は、「絶対安全」なものであり続けている。

政治家・電力会社・官僚は、“パニックを起こさない”という「大義名分」を念仏のごとく心の中で唱えつつ、「大本営発表」を繰り返しているに違いない。そして、それに唯々諾々と従うマスコミ業の従業者。かれらの頭の中は、“住民に真実を伝えればパニックが起こり、事態はより悪化する”という住民蔑視、愚民思想が詰まっているに違いない。とりわけ政治家は、パニックが起こり、社会不安が生ずれば、自らの政治家生命が失われることばかりを恐れているようにみえる。彼らは、情報を隠ぺいすることこそが「大人」の判断なのだと言いたげだ。

こうなれば、なんでもありである――事故直後、政府は「計画停電」という目くらましを放って、国民の関心を原発事故の恐怖から、停電の恐怖に向かわせた――政府・御用学者は、放射線物質の安全基準を勝手に引き上げた――東電は、放射線物質の測定値を実際よりも低く発表している――被災地の農産物生産者は、産地偽装をして、被災農作物等を市場に闇で流している――御用学者はテレビ出演して、根拠もないくせに、福島原発に危険はない、放出される放射線量は基準値以下だと言い続ける――3.11以後、なにごともなかったのだと。

メルトダウンしたのは福島原発だけではない、政治家・官僚によって構成される日本政府、、電力会社=原発事業者、学者、マスコミ業者、農業従事者・・・国家を動かしている諸機能のすべてがメルトダウンしてしまったのだ。

さて、マルクスレーニン主義によれば、資本主義国家においては、ブルジョアジー(資本家)の利益は国家の共同の利益と見なされる。であるから、プロレタリアート(労働者)はまずもって、資本主義国家(自国政府)の打倒に向かわなければならない、とされる。プロレタリア暴力革命の必然性である。原発は、国家の幻想的共同利益(国益)=ブルジョアジーの利益にほかならないのか――

原発は、電力会社に従事する労働者にとっても利益となっている。民主党(=政権党)には、労働組合を母体とする政治家が数多い。もちろん、原発事業者=電力会社の労働組合(電力総連)を支持基盤として当選した政治家もいる。原発はプロレタリアートの敵なのであろうかというと、そうではない。3.11以降、電力総連=プロレタリアートは、原発稼働を表明しているのである。原発を階級的利害という視点から見れば、ブルジョアジー、プロレタリアート共通の利益を生み出しているように見える。プロレタリアートが反原発を唱えるためには、自己否定という自らが享受している利益の否定から始めなければならない。民主党とその支持者(労働組合)にそこまでの覚悟があるのだろうか。

どうしたらいいのか、その答えは――原発を、現実の利害関係、過去の経緯といったしがらみから解き放つことではないか。3.11以降の日本人すべてが、福島原発事故による被曝を免れない。失うものはなにもない。だからその終息にむけて、自己否定を前提として、その存在のすべてを傾ければよい。過去、そして、いま現在、みずからが享受している(してきた)原発からの利益を否定するほかない。日本人にそれができなければ、原発の呪いからの解放はない。自己否定が原発の深い闇から脱する唯一の前提となろう。

具体策としては、これまで原発の絶対安全性を説明してきた、電力会社、官僚、政治家、学者、“インテリモドキ”タレントらはすべて福島に出向き、防護服を着用して福島原発の修理作業に従事することだ。3.11以前、原発インチキビジネスによって享受した利益を、死を賭した行為によって代償することだ。それができれば、日本という国家は、原発事故を境に変わることができる。