コンプライアンスは通常、「法令違反」と訳されるが、法律違反でなければコンプライアンス違反に係らないかと言えば、そうではない。このことについては、直前の当コラムに書いた。コンプライアンスとは、法令はもちろんのこと、諸規定(倫理規定を含む)、共同体の約束事、マナー等を遵守することだ。ドラフト会議とは、プロ野球界とプロ野球を志す学生アマチュア選手との間に構築された約束事だ。同制度は契約金の高騰を防止すること、特定球団に戦力が偏らないこと等を目的としたもので、きわめて合理的だ。
◎ドラフト制度の必要性
プロ野球は日本人に最も愛されている娯楽の1つであり、社会の関心も高い。地域にプロ野球球団をもつことは地域の人の夢の1つであり、実現すれば、その地域の活性化につながる。それは経済効果にとどまらない。だから、筆者はできるだけ多くのプロ野球球団が日本に存在すべきだと思っている。日本の人口1億2千万人超に比して現在の12という球団数は少なすぎる。
いま衰退期にあるという日本のプロ野球だが、衰退から飛躍へとベクトルを変換するためには、少なくとも、現状の12球団から8球団ほど増設し20球団体制で臨むべきだと思っている。地域でいえば、東北、北関東、甲信越、東海、中国・四国、沖縄等にプロ球団があっていい。
球団を増設するためには、初期投資、運営経費等を抑制した合理的球団経営が求められる。そのような観点に立つ時、ドラフト制度は新人契約金の高騰を防止する面で、必要不可欠な制度として機能する。さらに、各球団の戦力均等化が担保され、リーグ戦の白熱化がプロ野球ファンの拡大に直結する効果も期待できる。
◎「巨人」の復活は日本のプロ野球の「死」
そう考えないプロ野球経営者もいる。彼らは、かつての日本のプロ野球、すなわち、「巨人軍」人気に全面的に依拠し、日本中の野球ファン=巨人ファンであったことを理想とする者たちだ。彼らは、“巨人軍は永遠に不滅です”と信じている。
スポーツマスコミ経営者も同様だ。彼らの発行するスポーツ新聞が全国的規模で売上を伸ばすためには、全国の野球ファンが巨人ファンであることほど好都合なことはない。北は北海道から南は沖縄まで、巨人ブランドが浸透していれば、これほどシンプルなマーケティングはない。巨人が勝てば、全国規模で新聞部数が増大する。新聞に限らない。テレビ局、雑誌社も同様だ。
しかし、野球に限らず、スポーツの魅力は内容だ。戦力、情報、人気が一極集中したままであれば、そのようなコンテンツは腐敗する。同じ球団が9年連続して日本一であり続ければ、勝負とは呼べない。実際、近年のプロ野球界の推移を振り返ると、その人気が、他のスポーツに奪われていく過程そのものだった。プロ野球人気を侵食したスポーツは、どれも力の拮抗した者たちが真剣に競う内容をもったものだった。たとえば、米国のMLB(大リーグ野球)、世界のサッカー、米国のNBA(バスケットボール)、フィギアスケート、陸上競技、格闘技・・・それらの台頭と進出によって、日本プロ野球は人気に陰りをみせた。とりわけ、1995年、日本のプロ野球選手・野茂英雄がMLBで活躍したことがその契機となったと言って過言でない。野茂がドジャースの投手として、MLBで活躍をはじめ、MLBのライブ映像が日本に届けられるようになってきてからというもの、日本のプロ野球の貧困さに日本の野球ファンが気づき始めた。加えて、2002年日韓W杯が開催され、日本のスポーツファンがサッカーの魅力に覚醒して以来、日本プロ野球、とりわけ、“巨人一極集中”は一気に衰退へと向かっていった。
◎それでも野球は日本で一番の人気スポーツ
もちろん、それでも、日本のスポーツ界におけるプロ野球の地位は依然トップであり、スポーツ界の王者であることに変わりない。だから、人々はドラフト会議の結果にこうまで注目する。一人の新人選手の入団交渉権の行方について、世間が騒然とするようなスポーツはほかにない。
であるからこそ、日本の野球人には、コンプライアンスが求められる。前出のとおり、ドラフトは法的規制ではないが、野球界おける新人契約に係る倫理規定と言える。法外な契約金で新人を金満球団が独占できないよう、学生野球界とプロ野球界が倫理的に取り決めた規制とも換言できる。
学生野球選手は、プロ野球入りを希望する者すべてがその旨を学生野球連盟に申請する(「プロ野球志望届」)。学生野球連盟は申請を受け付け、それを公示し、プロ野球球団は順番にその中の意中の選手に対して(交渉権)を指名する。指名が重複すれば抽選だ。これほどシンプルで公正な制度がほかにあろうか。しかも、選手は指名を拒否することができる。その場合は、どことも交渉しないことを意味するので、プロ野球球団に入ることはなくなる。先に出した「プロ野球志望届」に拘束されない。このことについては後ほど、触れる。
このたび、学生野球界の逸材・菅野投手に対して、1位指名をしたのが日本ハムと読売。抽選の結果、日ハムが交渉権を獲得した。何の不思議もない。ドラフト制度のあたりまえの進捗だ。ところが、菅野の伯父にあたる者がたまたま読売の監督だったことから、菅野が読売に単独指名されることが自然であるかのような空気づくりが、事前にスポーツマスコミの間で醸成されていた。伯父のいる球団に甥が入団するのが「当たり前」であるかのように。
◎ドラフト破りに介在する学生野球部のボス
筆者は直前の当コラムにおいて、甥が、たまたま伯父が監督を務める球団に入団することのほうが不自然であることを書いた。よって、そのことについては繰り返さない。ただ繰り返しておきたいのは、菅野を無抽選で単独指名したい球団があり、菅野を特定球団に入団させたい大学野球部があることだ。大学野球部(体育会)においては、暴力体質とともに、その悪しき伝統となっているのがコネ・学閥だ。先輩・後輩の関係による利権確保だ。学閥は就職、転職等の決定に重要な要素となっていることも少なくない。さらにそのことが深化して、利権につながる。このたびのドラフト会議においては、東海大学野球部が指名球団である日ハムと指名された菅野の間に介在し、野球界、すなわち、プロ~アマ(学生野球)が共同して構築したドラフト制度の円滑な推進を阻害しようとしているようにみえる。
ドラフト会議は、プロ球団と学生アマ選手の交渉について、公正さと経済合理性を担保するための制度だ。それは法外な裏金等の授受を排除するためのルールでもある。だから、選手と球団との間に不健全な第三者の介在も自動的に排除される。
ドラフト制度がなく、学生選手とプロ球団が直接入団交渉をすることになれば、一個人(学生選手)が複数の大企業組織(プロ野球球団)とあい渉らなければならなくなる。学生選手側が代理人として弁護士を立てることもできる。また、所属する野球部の監督等が代理人として登場することもできる。もし、後者のようなケースが頻発すれば、そこに裏金のような不透明な金銭のやり取りが発生する可能性を排除できない。ドラフト制度という合理的仕組み(=規制)は、入団交渉における不透明性を自動的に排除できる。
野球人(プロ球団、学生選手、学生球団=学生・社会人野球部等)すべてが、ドラフト制度を遵守することが、野球界のコンプライアンスの確立につながる。また、スポーツマスコミは、野球人のうちのどこかの部分がドラフト無視の行動を示した場合、あるいは、抜け道をさがすような行動を見せた場合、違反者に対し、批判を加えなければいけない。少なくとも、スポーツマスコミはドラフト当事者に対し、中立であらねばならない。
◎「プロ野球志望届」を無視する学生選手こそ「法令違反者」
菅野が今後進むべき道(選択肢)は1つしかない。ドラフト会議で指名権を得た日ハム球団と交渉し、妥当な条件であるならば、プロ野球(日ハム入団)に進むことだ。海外プロ野球、国内社会人球団等への入団もないことはないだろうが、菅野は学生野球連盟に対して、「プロ野球志望届」を提出している。であるから、志望届をホゴにするような選択は不正にほかならない。学生選手が堂々と、プロ・学生球界共同で構築した制度を無視するというのはいかがなものか。「プロ野球志望届」というのは、それほどまでに軽い提出書類なのか。「プロ野球志望届」を提出していながら、ドラフト終了後、プロ球団と交渉しない場合、法令違反にならないのか。
日本プロ野球機構はこれまで、「プロ野球志望届」を提出しながら、ドラフト会議終了後にプロ野球に入団しなかった学生選手に抗議していない。プロ側は、「志望届」をホゴにした学生選手をとがめるようなことはなかった。また、日本のマスメディアもその件を追及していない。「法令違反者」を批判しない日本のマスメディアとは一体全体、どのような価値観・倫理観をもっているのか。一人の政治家の事務的ミスを「法令違反」にでっちあげ、検察審議会までつかって起訴に追い込んだ日本のマスメディアが、「プロ志望届」を無視する学生選手に寛容な理由が知りたい。
2011年10月31日月曜日
2011年10月28日金曜日
スポーツマスコミの大罪―日ハム菅野指名は快挙
プロ野球のドラフト会議に係るマスメディア、とりわけ、スポーツマスコミの報道ぶりについては、ただただ呆れるばかりだ。
今年のドラフトの目玉の一人が、最速157キロを誇る大型右腕、菅野智之投手(東海大)。菅野は読売ジャイアンツ原監督の甥にあたるという。そんな血縁関係から、菅野は読売の単独指名間違いないという報道がなされていた。ドラフトの目玉を読売が単独指名をするのが当然だという空気づくりだ。なぜならば、菅野は監督の甥だから・・・
こんなバカな話はない。一般社会において、子が父親のライバル会社に就職することは珍しくない。おじ~甥の関係ならばなおさらだ。そもそも、子の立場からすれば、父やおじといった存在は鬱陶しい。あたりまえに成長した子供ならば、就職のとき、肉親のいない職場を選ぶことのほうが普通だろう。
逆に、自力で就職できない出来の悪い子供の場合、コネ(縁故)入社がある。あるいは、父親が世襲を目指す場合、子供の意思を無視して、自分の経営する会社に強制的に子供を就職させることもある。なによりも、コネや世襲というのは一般的ではない場合なのだ。
“菅野読売入り”を一般常識であるかのように書いてきたスポーツ記者諸氏は、自らのおじ等の肉親がいることをもって、いまのスポーツマスコミ会社に入社したのだろうか。繰り返すが、一般社会において、伯父が管理職(監督)を務める企業(球団)に甥である新人(選手)が入社(団)することのほうがよほど、不自然なのだ。
そればかりではない。原が読売の監督でいる期間は、せいぜい2012シーズンまでだろう。たまたま菅野がドラフト会議にかかった2011年シーズンとその翌シーズン、原は読売の監督を務めるにすぎない。しかも、2011シーズン、原監督はペナント優勝を逃し、リーグ3位という不本意な成績に終わっている。原は読売の監督の座を更迭されても不思議ではなかったのだが、なぜか、読売フロントは原を留任させた。憶測・邪推にすぎないけれど、菅野を単独指名するため、伯父の原に監督を続けさせた可能性すら否定できない。
読売はこれまで、ドラフト会議制度を事実上、形骸化させてきた。江川問題を持ち出すまでもなく、2011年シーズン、新人投手ながら11勝11敗、防御率2.03と大活躍した沢村拓一は2010年のドラフト会議で読売の単独指名を受けている。沢村の場合、ドラフトに際しては複数のメジャー球団からメジャー契約でのオファーもあり、巨人以外から指名された場合はアメリカでのプロ入りを選択していた可能性もあったといわれている。つまり、沢村は読売以外に指名された場合、指名球団との交渉を拒否して、アメリカへ行くぞ、という脅しを11球団にかけたのだ。せっかく1位の交渉権を得ても、選手が交渉を拒否するのであれば指名する意味がない、と他球団に思わせたのだ。もちろん、そう報道したのが、スポーツマスメディアだった。スポーツメディアは、読売の沢村単独指名の地ならしをした。
2011年シーズン、セリーグの首位打者となった長野久義の場合は、ドラフト破りに近い。2006年シーズン、長野(日本大学)は、春季は12試合出場、打率.489、主将を務めた秋季は13試合出場、打率.404の好成績をおさめ、2季連続首位打者(高須洋介・青山学院大学以来2人目)を獲得、ベストナインにも満票選出された。強肩・俊足を兼ね備え、プロの注目を浴びることとなり、同年のドラフト会議で北海道日本ハムファイターズから4巡目指名を受けたが、巨人への入団を熱望していたことから入団を拒否した。
長野は2007年に本田技研工業へ入社。ノンプロチームHondaでも大活躍をし、大会最優秀選手に選出された。2008年、ドラフト会議で巨人以外に指名された場合はプロ入りせず会社に残留する意志を固めていたといわれていたが、巨人以外でも入団するとの情報を得ていた千葉ロッテマリーンズが2巡目で“強行”指名。ところが、長野は当日のボビー・バレンタインとの面会を拒否し、入団拒否を明らかにした。翌日にロッテ球団側に直接入団拒否を申し入れ、球団側も了承。Honda残留が決定し、2009年のドラフトで巨人の指名を待つこととなった。
2009年2月、巨人は長野にドラフト1位指名する方針を公表。長野は、Hondaにおいて、第80回都市対抗野球大会で打率.579の活躍で首位打者を獲得。チームを13年ぶりの優勝に導いた。2009年10月、ドラフト会議で巨人から確約通り単独1位で指名、交渉権が確定した。他球団は長野1位指名を行わなかった。
長野は、読売入団までなんと3年間、ノンプロチームで道草を食った。2006年、2008年の長野の交渉拒否を目の当たりにした読売以外の球団は、前出のとおり、長野の轍を踏まぬよう、2010年ドラフトにおいて、沢村の読売単独指名を許容した。
読売入団に固執する選手も選手だけれど、他の11球団の読売に対する弱気、遠慮がドラフトを形骸化させている。2009年ドラフトで読売が長野の1位指名を表明したとしても、他の11球団のうち、長野を必要とする球団が敢然と長野を1位指名すればよかった。抽選の結果、読売以外の他球団に交渉権が決まった場合、長野はプロ野球界入りを拒否できただろうか。大学卒業から4年間、ノンプロチームHonda(本田技研)の選手でいられただろうか。
もちろん、そうすることの弊害はある。長野という才能のある野球選手を大学卒業後4年間もノンプロチームに塩漬けにしていいのかという問題だ。また、長野の交渉権を獲得した北海道日ハム、千葉ロッテは、1位交渉権という最大の補強の機会を失っている。新人選手、プロ野球球団双方にとって、ドラフトのミスマッチに伴う損失は計り知れないほど大きいように思える。
しかし、2008年ドラフト会議で長野を獲得できなかった千葉ロッテの場合、2009年パリーグ5位、2010年同3位(日本一)、2011年同6位という結果になっている。長野がロッテに入団していたら、2009年シーズンからプレーしたわけだが、長野不在の2010年にクライマックスシリーズを制しているくらいだから、不在の影響は少なかったようにも思われる。
同様に、2006年ドラフトで長野を獲得できなかった北海道日ハムの場合、2007年シーズンは同1位、2008年同3位、2009年同1位、2010年同4位、2011年同2位という成績だ。
2009年ドラフトで長野を獲得した読売の場合、長野が入団した2010年シーズンは同1位だが、長野が首位打者を獲得し活躍した2011年は3位に順位を落とした。つまり、有望な新人を獲得することはチーム力アップの必要条件だが、獲得できなかったからといって、即座に成績に反映するとも限らない。これがチームスポーツの不思議なところだ。
結論を言えば、日本プロ野球が新人選手交渉権の公正さ及び経済合理性を担保するため、ドラフト制度を続けるつもりならば、各球団は補強すべき選手については、選手側の交渉拒否を恐れず、断固として上位指名を敢行すべきなのだ。
ドラフト会議がライブ中継される時代だ。球団は、指名権重複(抽選)や選手側の交渉拒否の事前情報を恐れてはいけない。指名重複の結果に基づく抽選は、それ自体がドラマであり、ファンサービスにほかならない。また、球団の逃げ腰に乗じて、選手側が交渉拒否の事前情報をリークするような不透明さを許せば、ドラフトは事実上形骸化し、人気球団に有望・有名選手が自ずと偏る傾向を助長してしまう。
さらに、スポーツメディアは「巨人」のドラフト形骸化戦略を援助する予断に満ち満ちた報道を中止すべきだ。読売はかつての「巨人」一極集中プロ野球の復活を夢見ている。だがもはや、全国区人気の「巨人」中心という構図の復活はあり得ない。21世紀の日本プロ野球は、それぞれの地域に根差した地域のための球団と、その地域のファンとともにある。全国津々浦々が「巨人」を応援するなどという不自然なスポーツ文化は、もうあり得ない。おらが国のおらがチームを応援する。
このたびの北海道日ハムの菅野1位指名は快挙だ。読売のドラフト破りの横暴を許さないため、換言すれば、「読売単独指名」を恒常化させないため、今後、各球団もこれに倣ってほしい。
また、プロを目指す若き野球選手も、「巨人」という幻想に迷って、自らの進路を誤ってほしくない。いまのプロ野球を代表する選手のうち、いったい何人が読売ジャイアンツに所属しているか数えてみればいい。野球において、日本代表チームを編成したとき、代表に呼ばれる読売の選手は、投手ならば内海、沢村、野手ならば、長野、阿部くらいだろう。読売ジャイアンでは、選手は育たない。
繰り返すが、スポーツメディアは、読売単独指名を助長する意図的報道を行ってはいけない。かりに、「読売以外にはいかない、指名されても交渉しない」と発言する選手がいたならば、その発言をもって、その選手を批判すべきだ。コンプライアンスは「法令遵守」と訳されるが、法律に触れないからと言って、約束事、ルール、倫理(規定)等を無視することは許されない。もちろん、海外への挑戦は自由であるから、それは除外する。海外志向の新人は、あらかじめ「自分は海外でやりたい」と表明すればいい。そうすれば、全球団がその選手を指名から除外することができる。「読売以外なら海外」というのは、ドラフト精神(倫理)に反する。
今年は計72選手が指名を受けた。指名された全選手の今後の活躍を祈念する。
今年のドラフトの目玉の一人が、最速157キロを誇る大型右腕、菅野智之投手(東海大)。菅野は読売ジャイアンツ原監督の甥にあたるという。そんな血縁関係から、菅野は読売の単独指名間違いないという報道がなされていた。ドラフトの目玉を読売が単独指名をするのが当然だという空気づくりだ。なぜならば、菅野は監督の甥だから・・・
こんなバカな話はない。一般社会において、子が父親のライバル会社に就職することは珍しくない。おじ~甥の関係ならばなおさらだ。そもそも、子の立場からすれば、父やおじといった存在は鬱陶しい。あたりまえに成長した子供ならば、就職のとき、肉親のいない職場を選ぶことのほうが普通だろう。
逆に、自力で就職できない出来の悪い子供の場合、コネ(縁故)入社がある。あるいは、父親が世襲を目指す場合、子供の意思を無視して、自分の経営する会社に強制的に子供を就職させることもある。なによりも、コネや世襲というのは一般的ではない場合なのだ。
“菅野読売入り”を一般常識であるかのように書いてきたスポーツ記者諸氏は、自らのおじ等の肉親がいることをもって、いまのスポーツマスコミ会社に入社したのだろうか。繰り返すが、一般社会において、伯父が管理職(監督)を務める企業(球団)に甥である新人(選手)が入社(団)することのほうがよほど、不自然なのだ。
そればかりではない。原が読売の監督でいる期間は、せいぜい2012シーズンまでだろう。たまたま菅野がドラフト会議にかかった2011年シーズンとその翌シーズン、原は読売の監督を務めるにすぎない。しかも、2011シーズン、原監督はペナント優勝を逃し、リーグ3位という不本意な成績に終わっている。原は読売の監督の座を更迭されても不思議ではなかったのだが、なぜか、読売フロントは原を留任させた。憶測・邪推にすぎないけれど、菅野を単独指名するため、伯父の原に監督を続けさせた可能性すら否定できない。
読売はこれまで、ドラフト会議制度を事実上、形骸化させてきた。江川問題を持ち出すまでもなく、2011年シーズン、新人投手ながら11勝11敗、防御率2.03と大活躍した沢村拓一は2010年のドラフト会議で読売の単独指名を受けている。沢村の場合、ドラフトに際しては複数のメジャー球団からメジャー契約でのオファーもあり、巨人以外から指名された場合はアメリカでのプロ入りを選択していた可能性もあったといわれている。つまり、沢村は読売以外に指名された場合、指名球団との交渉を拒否して、アメリカへ行くぞ、という脅しを11球団にかけたのだ。せっかく1位の交渉権を得ても、選手が交渉を拒否するのであれば指名する意味がない、と他球団に思わせたのだ。もちろん、そう報道したのが、スポーツマスメディアだった。スポーツメディアは、読売の沢村単独指名の地ならしをした。
2011年シーズン、セリーグの首位打者となった長野久義の場合は、ドラフト破りに近い。2006年シーズン、長野(日本大学)は、春季は12試合出場、打率.489、主将を務めた秋季は13試合出場、打率.404の好成績をおさめ、2季連続首位打者(高須洋介・青山学院大学以来2人目)を獲得、ベストナインにも満票選出された。強肩・俊足を兼ね備え、プロの注目を浴びることとなり、同年のドラフト会議で北海道日本ハムファイターズから4巡目指名を受けたが、巨人への入団を熱望していたことから入団を拒否した。
長野は2007年に本田技研工業へ入社。ノンプロチームHondaでも大活躍をし、大会最優秀選手に選出された。2008年、ドラフト会議で巨人以外に指名された場合はプロ入りせず会社に残留する意志を固めていたといわれていたが、巨人以外でも入団するとの情報を得ていた千葉ロッテマリーンズが2巡目で“強行”指名。ところが、長野は当日のボビー・バレンタインとの面会を拒否し、入団拒否を明らかにした。翌日にロッテ球団側に直接入団拒否を申し入れ、球団側も了承。Honda残留が決定し、2009年のドラフトで巨人の指名を待つこととなった。
2009年2月、巨人は長野にドラフト1位指名する方針を公表。長野は、Hondaにおいて、第80回都市対抗野球大会で打率.579の活躍で首位打者を獲得。チームを13年ぶりの優勝に導いた。2009年10月、ドラフト会議で巨人から確約通り単独1位で指名、交渉権が確定した。他球団は長野1位指名を行わなかった。
長野は、読売入団までなんと3年間、ノンプロチームで道草を食った。2006年、2008年の長野の交渉拒否を目の当たりにした読売以外の球団は、前出のとおり、長野の轍を踏まぬよう、2010年ドラフトにおいて、沢村の読売単独指名を許容した。
読売入団に固執する選手も選手だけれど、他の11球団の読売に対する弱気、遠慮がドラフトを形骸化させている。2009年ドラフトで読売が長野の1位指名を表明したとしても、他の11球団のうち、長野を必要とする球団が敢然と長野を1位指名すればよかった。抽選の結果、読売以外の他球団に交渉権が決まった場合、長野はプロ野球界入りを拒否できただろうか。大学卒業から4年間、ノンプロチームHonda(本田技研)の選手でいられただろうか。
もちろん、そうすることの弊害はある。長野という才能のある野球選手を大学卒業後4年間もノンプロチームに塩漬けにしていいのかという問題だ。また、長野の交渉権を獲得した北海道日ハム、千葉ロッテは、1位交渉権という最大の補強の機会を失っている。新人選手、プロ野球球団双方にとって、ドラフトのミスマッチに伴う損失は計り知れないほど大きいように思える。
しかし、2008年ドラフト会議で長野を獲得できなかった千葉ロッテの場合、2009年パリーグ5位、2010年同3位(日本一)、2011年同6位という結果になっている。長野がロッテに入団していたら、2009年シーズンからプレーしたわけだが、長野不在の2010年にクライマックスシリーズを制しているくらいだから、不在の影響は少なかったようにも思われる。
同様に、2006年ドラフトで長野を獲得できなかった北海道日ハムの場合、2007年シーズンは同1位、2008年同3位、2009年同1位、2010年同4位、2011年同2位という成績だ。
2009年ドラフトで長野を獲得した読売の場合、長野が入団した2010年シーズンは同1位だが、長野が首位打者を獲得し活躍した2011年は3位に順位を落とした。つまり、有望な新人を獲得することはチーム力アップの必要条件だが、獲得できなかったからといって、即座に成績に反映するとも限らない。これがチームスポーツの不思議なところだ。
結論を言えば、日本プロ野球が新人選手交渉権の公正さ及び経済合理性を担保するため、ドラフト制度を続けるつもりならば、各球団は補強すべき選手については、選手側の交渉拒否を恐れず、断固として上位指名を敢行すべきなのだ。
ドラフト会議がライブ中継される時代だ。球団は、指名権重複(抽選)や選手側の交渉拒否の事前情報を恐れてはいけない。指名重複の結果に基づく抽選は、それ自体がドラマであり、ファンサービスにほかならない。また、球団の逃げ腰に乗じて、選手側が交渉拒否の事前情報をリークするような不透明さを許せば、ドラフトは事実上形骸化し、人気球団に有望・有名選手が自ずと偏る傾向を助長してしまう。
さらに、スポーツメディアは「巨人」のドラフト形骸化戦略を援助する予断に満ち満ちた報道を中止すべきだ。読売はかつての「巨人」一極集中プロ野球の復活を夢見ている。だがもはや、全国区人気の「巨人」中心という構図の復活はあり得ない。21世紀の日本プロ野球は、それぞれの地域に根差した地域のための球団と、その地域のファンとともにある。全国津々浦々が「巨人」を応援するなどという不自然なスポーツ文化は、もうあり得ない。おらが国のおらがチームを応援する。
このたびの北海道日ハムの菅野1位指名は快挙だ。読売のドラフト破りの横暴を許さないため、換言すれば、「読売単独指名」を恒常化させないため、今後、各球団もこれに倣ってほしい。
また、プロを目指す若き野球選手も、「巨人」という幻想に迷って、自らの進路を誤ってほしくない。いまのプロ野球を代表する選手のうち、いったい何人が読売ジャイアンツに所属しているか数えてみればいい。野球において、日本代表チームを編成したとき、代表に呼ばれる読売の選手は、投手ならば内海、沢村、野手ならば、長野、阿部くらいだろう。読売ジャイアンでは、選手は育たない。
繰り返すが、スポーツメディアは、読売単独指名を助長する意図的報道を行ってはいけない。かりに、「読売以外にはいかない、指名されても交渉しない」と発言する選手がいたならば、その発言をもって、その選手を批判すべきだ。コンプライアンスは「法令遵守」と訳されるが、法律に触れないからと言って、約束事、ルール、倫理(規定)等を無視することは許されない。もちろん、海外への挑戦は自由であるから、それは除外する。海外志向の新人は、あらかじめ「自分は海外でやりたい」と表明すればいい。そうすれば、全球団がその選手を指名から除外することができる。「読売以外なら海外」というのは、ドラフト精神(倫理)に反する。
今年は計72選手が指名を受けた。指名された全選手の今後の活躍を祈念する。
2011年10月26日水曜日
猫たちの近況
気温が低くなった今日この頃、二匹の猫は互いにくっついて寝ることが多くなったようにも思えたのだが、それぞれ、離れて寝ねていることも多い。寝る場所も一定ではない。
猫は一日の大半を寝て過ごすが、起きているときは、互いにポジションどりで争っていることが多い。一匹が高いところを占拠すると(たとえば、デスクの上とか)、その一方がそこを取ろうとする。そして、じゃれ合う。
追いかけっこをくりかえすことも多い。この行動は狩りの練習だと思われる。CATVの動物専門番組でライオン、ヒョウといった大型のネコ科動物の特集をやっていたのを偶然、見たのだが、彼らの行動がわが家の猫のそれと大差のないことを確認した。
猫はペットでありながら、獣性・野性を失っていない。
2011年10月19日水曜日
『原発の深い闇2』
●別冊宝島 ●宝島社 ●980円
日本は利権国家だといわれる。日本国における利権の構造の特徴はいくつかある。たとえば、人々の生存に必須な部門において、より強固な利権が関係者によって築かれている場合が多いことを挙げることができる。生存に係る部門というのは、農業(食糧)、エネルギー、医療、年金、公共施設…等々のことをいう。
また、利権は政~官~財の結びつきによって守られ、さらに、第四の権力と呼ばれるマスメディア業界の関与が近年顕著なことも特徴だ。たとえば、斜陽産業といわれる農業(食糧)の場合、利権の主体は農業協同組合、行政(農水省、地方自治体)、政治(国政、首長、地方議会)で、この三者が共同で他の参入を妨害する一方、“素朴な農民(業)を守ろう”という「世論」を形成するマスメディア業界が、前出の三者を援護するという構図になっている。マスメディア業界が「第4の権力」と言われる所以だ。
そればかりではない。利権は弱者救済、正義、良心、合理性等に基づく「政策」の化粧を施されて温存される。農業の新規参入を阻んできたのが、“素朴な日本の農民(業)を守ろう”という「良心」であったことは前出のとおりだ。
利権の構造については、近年、表面的にはメスが入れられているかのようにも見える。▽郵政民営化、▽年金改革、▽公共事業に係る契約の透明化等が図られたようにみえる。だが、改革とは名ばかりで、既得権が温存されていることが多い。
そして、原発利権である。
原発利権には、電力会社、ゼネコン、地元建設業、原発メーカー、行政(経産省、文科省、地方自治体、警察)、司法、政治(国政、首長、地方議会)、地域社会、マスメディア業界、芸能界、文化人、労働団体、学界までも関与した。原発利権は、日本のすべての業態が群がっているという意味において、格別のスケールを誇る。しかも、原発(建設から稼働まで)が有する反社会性、反道徳性、非人間性、危険性等が良心的研究者・ジャーナリスト等から指摘されながら、大手マスメディア業界はそれを無視し、電力会社の出稿する広告宣伝費の前に沈黙した。こうした原発利権に群がる集団をいつしか世間は「原発マフィア」と呼ぶようになった。
3.11は、原発の矛盾を公にした(はずである)。人々はその危険性を認識した(はずである)。「はずである」のだが、事故発生後7か月にして、原発の非人間性、危険性の認識は薄れてきているように思える。けれど、人々の関心が原発から遠ざかることを非難できない。というのも、原発マフィアは、マスメディア業界を使って、情報隠ぺい、情報操作、情報偽装等あらゆる手段を通じて、人々の意識を「安全宣言」の方向性に誘導しているからだ。日本における3.11以降の状況について、本書はナチの宣伝大臣ゲッペルスの言葉「充分に大きな嘘をくりかえせ」を引用する。3.11以降、日本に宣伝大臣がいるわけではない。なんとなく、それとなく、原発の「安全性」が空気となる。日本の権力構造の不可解さだ。
その間、原発事故を契機として、市民活動家を前歴とする菅直人は彼なりの良心に基づき、原発の危険性を真摯に受け止めたように思える。彼は次々と脱原発に向けて政策の舵を切り始めた。ところが、いつのまにか形成された“反菅”の空気に押し出されるように、菅直人は総理大臣の職を追われた。
菅に代わって総理大臣の座に就いた野田佳彦は、内向きには「脱原発」を掲げながら、国際公約として「原発推進」を宣言した。経産省は高まる東電解体、発送電分離の世論をかわしつつ、その利権をすべて温存することに成功した。経産省傘下にある原発関連の公益法人等はすべて無傷なままだ。
原発安全を保証してきた原子力学界からの真の反省の声は聞こえない。ばかりか、「笑っていれば放射能は逃げていく」と被災住民に説いている「学者」がいる。
マスメディア業界は、脱原発を政治信条とする新任の経産相のクビをとばした。
原発マフィアの構成員には、3.11はなかったかのようだ。彼らは「彼らに降りかかった3.11」を切り抜けようと躍起になっているばかりか、その利権を守り、さらにより強固にする計画を作成し実行しつつある。日本国民の生命を犠牲にして。
さて、本書の編集コンセプトは、前号から継続して、3.11以前及び3.11以降に継続して行われている原発マフィアたちの悪行をタブーなしで暴露する内容となっている。本書から、原発マフィアが、3.11以降も自らの悪行を反省したり自己批判したりする気配がないことをうかがい知ることができる。
本書の目玉の1つは、古賀茂明、小出裕章、広瀬隆の三氏の登場ではないか。古賀は、3.11以降ではあるが、現役経産省官僚の立場から政府の事故処理、原発政策を批判し、経産省を辞めている。小出、広瀬は3.11以前から反原発、脱原発の立場を掲げてきた。三者の原発行政批判は信頼できる。
もう1つの目玉は、本書掲載の原発マフィアに関する各種データだ。▽電力会社に取り込まれた大手新聞社幹部社員の実名一覧及び原発学者の実名一覧、▽原子力等関連の公益法人、独立行政法人の役員・総資産等の一覧、▽電力関連会社から敦賀市(原発立地)への寄附金一覧――等も興味深い。なかで驚異的なのが、巻末の▽「全国原発立地」電源三法交付金公開一覧だ。
『原発の深い闇』は1~2号を通じて、「闇」の実相を暴露し、人々を啓蒙した。もちろん、その功績は称えられるべきだ。ならば次のミッションは、原発マフィアの息の根を止める方法を明らかにすることではないか。啓蒙から、反原発、脱原発の運動論、組織論に踏み込めれば・・・原発の深い闇を払う、闇を光に変える、という意味において、次号(3)に期待したい。
日本は利権国家だといわれる。日本国における利権の構造の特徴はいくつかある。たとえば、人々の生存に必須な部門において、より強固な利権が関係者によって築かれている場合が多いことを挙げることができる。生存に係る部門というのは、農業(食糧)、エネルギー、医療、年金、公共施設…等々のことをいう。
また、利権は政~官~財の結びつきによって守られ、さらに、第四の権力と呼ばれるマスメディア業界の関与が近年顕著なことも特徴だ。たとえば、斜陽産業といわれる農業(食糧)の場合、利権の主体は農業協同組合、行政(農水省、地方自治体)、政治(国政、首長、地方議会)で、この三者が共同で他の参入を妨害する一方、“素朴な農民(業)を守ろう”という「世論」を形成するマスメディア業界が、前出の三者を援護するという構図になっている。マスメディア業界が「第4の権力」と言われる所以だ。
そればかりではない。利権は弱者救済、正義、良心、合理性等に基づく「政策」の化粧を施されて温存される。農業の新規参入を阻んできたのが、“素朴な日本の農民(業)を守ろう”という「良心」であったことは前出のとおりだ。
利権の構造については、近年、表面的にはメスが入れられているかのようにも見える。▽郵政民営化、▽年金改革、▽公共事業に係る契約の透明化等が図られたようにみえる。だが、改革とは名ばかりで、既得権が温存されていることが多い。
そして、原発利権である。
原発利権には、電力会社、ゼネコン、地元建設業、原発メーカー、行政(経産省、文科省、地方自治体、警察)、司法、政治(国政、首長、地方議会)、地域社会、マスメディア業界、芸能界、文化人、労働団体、学界までも関与した。原発利権は、日本のすべての業態が群がっているという意味において、格別のスケールを誇る。しかも、原発(建設から稼働まで)が有する反社会性、反道徳性、非人間性、危険性等が良心的研究者・ジャーナリスト等から指摘されながら、大手マスメディア業界はそれを無視し、電力会社の出稿する広告宣伝費の前に沈黙した。こうした原発利権に群がる集団をいつしか世間は「原発マフィア」と呼ぶようになった。
3.11は、原発の矛盾を公にした(はずである)。人々はその危険性を認識した(はずである)。「はずである」のだが、事故発生後7か月にして、原発の非人間性、危険性の認識は薄れてきているように思える。けれど、人々の関心が原発から遠ざかることを非難できない。というのも、原発マフィアは、マスメディア業界を使って、情報隠ぺい、情報操作、情報偽装等あらゆる手段を通じて、人々の意識を「安全宣言」の方向性に誘導しているからだ。日本における3.11以降の状況について、本書はナチの宣伝大臣ゲッペルスの言葉「充分に大きな嘘をくりかえせ」を引用する。3.11以降、日本に宣伝大臣がいるわけではない。なんとなく、それとなく、原発の「安全性」が空気となる。日本の権力構造の不可解さだ。
その間、原発事故を契機として、市民活動家を前歴とする菅直人は彼なりの良心に基づき、原発の危険性を真摯に受け止めたように思える。彼は次々と脱原発に向けて政策の舵を切り始めた。ところが、いつのまにか形成された“反菅”の空気に押し出されるように、菅直人は総理大臣の職を追われた。
菅に代わって総理大臣の座に就いた野田佳彦は、内向きには「脱原発」を掲げながら、国際公約として「原発推進」を宣言した。経産省は高まる東電解体、発送電分離の世論をかわしつつ、その利権をすべて温存することに成功した。経産省傘下にある原発関連の公益法人等はすべて無傷なままだ。
原発安全を保証してきた原子力学界からの真の反省の声は聞こえない。ばかりか、「笑っていれば放射能は逃げていく」と被災住民に説いている「学者」がいる。
マスメディア業界は、脱原発を政治信条とする新任の経産相のクビをとばした。
原発マフィアの構成員には、3.11はなかったかのようだ。彼らは「彼らに降りかかった3.11」を切り抜けようと躍起になっているばかりか、その利権を守り、さらにより強固にする計画を作成し実行しつつある。日本国民の生命を犠牲にして。
さて、本書の編集コンセプトは、前号から継続して、3.11以前及び3.11以降に継続して行われている原発マフィアたちの悪行をタブーなしで暴露する内容となっている。本書から、原発マフィアが、3.11以降も自らの悪行を反省したり自己批判したりする気配がないことをうかがい知ることができる。
本書の目玉の1つは、古賀茂明、小出裕章、広瀬隆の三氏の登場ではないか。古賀は、3.11以降ではあるが、現役経産省官僚の立場から政府の事故処理、原発政策を批判し、経産省を辞めている。小出、広瀬は3.11以前から反原発、脱原発の立場を掲げてきた。三者の原発行政批判は信頼できる。
もう1つの目玉は、本書掲載の原発マフィアに関する各種データだ。▽電力会社に取り込まれた大手新聞社幹部社員の実名一覧及び原発学者の実名一覧、▽原子力等関連の公益法人、独立行政法人の役員・総資産等の一覧、▽電力関連会社から敦賀市(原発立地)への寄附金一覧――等も興味深い。なかで驚異的なのが、巻末の▽「全国原発立地」電源三法交付金公開一覧だ。
『原発の深い闇』は1~2号を通じて、「闇」の実相を暴露し、人々を啓蒙した。もちろん、その功績は称えられるべきだ。ならば次のミッションは、原発マフィアの息の根を止める方法を明らかにすることではないか。啓蒙から、反原発、脱原発の運動論、組織論に踏み込めれば・・・原発の深い闇を払う、闇を光に変える、という意味において、次号(3)に期待したい。
2011年10月7日金曜日
「陸山会事件」の本質
「陸山会事件」の本質は何か――小沢一郎という政治家の活動を公判によって縛ることだ。ではだれが小沢一郎の政治活動を縛りたいのか――財界・官僚・マスコミという評価が一般的だ。いずれにしても、既存の権益を守ろうとする反小沢勢力であることは間違いない。カレル・ヴァン ウォルフレンに合わせて言えば、複数のアドミニストレーター(管理者)ということになる。ここでは、便宜上、それを反小沢派管理者と表現する。もっとも、一部には、小沢を権力の座につかせまいとするのは、米国(CIA)だという説もあるが。
小沢の政策のなかで、反小沢派管理者がもっとも反発しているもの1つの具体例を挙げれば――とりわけ、日本の大手マスコミが最も恐れているのは――メディアにおけるクロスオーナーシップの排除ではないか。このことは田中龍作(フリージャーナリスト)も指摘している。民主党が政権をとったとき、原口総務大臣(当時)がクロスオーナーシップの排除にふれたが、大手マスコミは完全無視を決め込み、当時の総務大臣の革新的政策を黙殺した。原口(当時大臣)の後ろ盾となっていたのが小沢一郎だった。
メディアにおけるクロスオーナーシップの排除とはいうまでもなく、新聞、ラジオ、テレビ等のマスメディアを単独のオーナーが所有することを排除することだ。米国ではすでにクロスオーナーシップ排除の原則が法制度化されているが、日本では実現せず、大新聞~テレビが完全に系列化されているし、ラジオもそれに近い。さらに、地方局も中央の大新聞系のキー局に系列化されている。新聞とテレビの関係について具体的に記述すれば、関東の場合、読売新聞~日本TV、朝日新聞~テレビ朝日、毎日新聞~TBS、産経新聞~フジテレビ、日経新聞~テレビ東京といった具合だ。
マスメディアが民意形成に与える影響力が大きなことは言うまでもない。報道によって、世論が形成される。日本ではとりわけ新聞、テレビの影響が大きく、NHKと民間併せて6つのキー局がテレビ番組を独占しているから、それらが同じ内容の情報を流せば、視聴者の洗脳は容易である。加えて、朝夕に世帯ごとに配布される新聞におなじ記事が掲載されていれば、ほかの情報を入手できない生活者は、テレビ・新聞の報道を世の中でおこった事実だと理解するほかない。
それだけではない。新聞・テレビのニュースは、記者クラブ制度を情報源(基盤)として制作されるため、すべてのメディアがほぼ同じニュースを流すことになる。記者クラブには協定が結ばれていて、談合によって、情報が伝達される仕組みになっている。日本のメディア事情というのは、資本、情報の質の両面において、民間5社とNHKになる6社の独占状態にある。
民間5社に対し、クロスオーナーシップ排除の原則が適用されたならば、必然的にテレビと新聞は競合するから、それぞれに積極的情報選択を促し、情報の内容に変化が起こることが期待できる。競合は必然的に、記者クラブ制度を崩壊させるから、政府がインターネットを通じて政策等を発表すれば、人々は新聞テレビを介さずに、ほぼリアルタイムにそれらを入手することができる。新聞とテレビは競合し、さらにインターネットとも競合するから、それぞれのメディアがそれぞれの特徴に合った内容の「ニュース」を報道するようになる。その結果、民意は多様化する。そればかりではない。政府がマスメディアを利用して国民を洗脳することがまずできなくなる。
結果として、安価で便利なインターネットがマスコミュニケーションの有力なツールとなることが予想される。筆者の予想に反して、人々がインターネットに信頼を置かず、これまでの新聞、ラジオ、テレビに期待するのであれば、新聞社、ラジオ局、テレビ局はいままでどおりの繁栄を続けるだろうし、期待されなければ市場から消えていく。インターネット通信の報道には許認可制度がないから、無数の「局」が乱立する。もちろん、そのなかでいいものだけが生き残る。
さて、「陸山会事件」である。これが裁判になる根拠はない。水谷建設による違法献金もなければ、そのことの虚偽記載もない。単に事務上の虚偽記載(ミス)があったとして、一人の政治家の政治活動を長期間にわたって拘束する「事件」ではない。修正もしくは罰金刑程度の微罪である。
政治資金規正法に違反してしまう政治家(事務所)は多い。規制が多すぎて、適法に事務を行うことが難しいからだ。そこが検察の目のつけ所となる。一般に、政治家がその権限を利用して不正なカネを得ていると考えるのは、大衆の自然の意識の流れだ。長期にわたる自民党政権下の日本にはそのような政治風土があったし、いまもあるかもしれない。“政治とは汚れたものだ”という空気に乗って、検察は自らにとって不利益となる政治家を政治資金規正法でひっぱり、政治活動を制限させてきた。しかも、そのことにより、検察は存在意義を示し、世論の支持を得ることすらできた。検察こそが正義だと。検察は、国民にとって利益をもたらすが自らには不利益となる政治家を抹殺することによって、国民から拍手喝さいを受けるのである。なんというパラドックスであろうか。
政治とカネをヒステリックに追及してきたのがマスメディアだ。マスメディアは検察の権威に乗って、「悪い政治家」を叩く。そのことによって、彼らもまた「正義」だと称賛を受ける。マスメディアに楯突くやつは「ペン」が許さぬ、という自己の権力化を成し遂げてもきた。
「陸山会事件」は、検察・マスメディアvs.小沢一郎の闘いとなった。検察・マスメディアは反小沢派管理者の代理人である。小沢一郎がメディアにおけるクロスオーナーシップ排除を掲げているため、マスメディアは露骨に「小沢つぶし」に走った。マスメディアは、このたびの「検察審議会」の強制起訴を、「市民感覚」とまで表現した。これはポピュリズムを通り越して、ファシズムを称賛したようなものだ。「検察審議会」の暴挙は、小沢一郎を公判に縛り付け、その政治活動を事実上、抑制する意図をもったものであることは明らかだ。にもかかわらず、マスメディアはそれを称賛した。検察審議会の正体を知りながら、それを報道しない。
検察・マスメディアvs.小沢一郎の闘いは、前者の勝利で終わってしまう可能性がみえている。そのことは、小沢が有罪になることを意味しない。小沢の秘書の公判を含め、「陸山会事件」の決着がつくころには、民主党は政権の座についていないであろうし、よしんば政権にあったとしても、名前は民主党であっても、小沢一郎が掲げた「民主党」とは異なる政党だからだ。
そればかりではない。小沢一郎の健康も気になるところだ。民主党政権発足後に起こった、検察の捜査、起訴猶予、検察審議会の強制起訴という一連の流れが、小沢の心身を傷つけたことは明白ではないか。加えて、自身の公判の前に行われた秘書に対する暗黒裁判の結果が小沢の心身に一層の打撃を加えたことであろう。そのことこそ、検察・マスメディアが企図したものにほかならない。
小沢一郎が権力を掌握することはほぼ不可能になったようにみえる。小沢一郎という政治家が、反小沢派管理者のテロによって倒されたように筆者には思える。
小沢の政策のなかで、反小沢派管理者がもっとも反発しているもの1つの具体例を挙げれば――とりわけ、日本の大手マスコミが最も恐れているのは――メディアにおけるクロスオーナーシップの排除ではないか。このことは田中龍作(フリージャーナリスト)も指摘している。民主党が政権をとったとき、原口総務大臣(当時)がクロスオーナーシップの排除にふれたが、大手マスコミは完全無視を決め込み、当時の総務大臣の革新的政策を黙殺した。原口(当時大臣)の後ろ盾となっていたのが小沢一郎だった。
メディアにおけるクロスオーナーシップの排除とはいうまでもなく、新聞、ラジオ、テレビ等のマスメディアを単独のオーナーが所有することを排除することだ。米国ではすでにクロスオーナーシップ排除の原則が法制度化されているが、日本では実現せず、大新聞~テレビが完全に系列化されているし、ラジオもそれに近い。さらに、地方局も中央の大新聞系のキー局に系列化されている。新聞とテレビの関係について具体的に記述すれば、関東の場合、読売新聞~日本TV、朝日新聞~テレビ朝日、毎日新聞~TBS、産経新聞~フジテレビ、日経新聞~テレビ東京といった具合だ。
マスメディアが民意形成に与える影響力が大きなことは言うまでもない。報道によって、世論が形成される。日本ではとりわけ新聞、テレビの影響が大きく、NHKと民間併せて6つのキー局がテレビ番組を独占しているから、それらが同じ内容の情報を流せば、視聴者の洗脳は容易である。加えて、朝夕に世帯ごとに配布される新聞におなじ記事が掲載されていれば、ほかの情報を入手できない生活者は、テレビ・新聞の報道を世の中でおこった事実だと理解するほかない。
それだけではない。新聞・テレビのニュースは、記者クラブ制度を情報源(基盤)として制作されるため、すべてのメディアがほぼ同じニュースを流すことになる。記者クラブには協定が結ばれていて、談合によって、情報が伝達される仕組みになっている。日本のメディア事情というのは、資本、情報の質の両面において、民間5社とNHKになる6社の独占状態にある。
民間5社に対し、クロスオーナーシップ排除の原則が適用されたならば、必然的にテレビと新聞は競合するから、それぞれに積極的情報選択を促し、情報の内容に変化が起こることが期待できる。競合は必然的に、記者クラブ制度を崩壊させるから、政府がインターネットを通じて政策等を発表すれば、人々は新聞テレビを介さずに、ほぼリアルタイムにそれらを入手することができる。新聞とテレビは競合し、さらにインターネットとも競合するから、それぞれのメディアがそれぞれの特徴に合った内容の「ニュース」を報道するようになる。その結果、民意は多様化する。そればかりではない。政府がマスメディアを利用して国民を洗脳することがまずできなくなる。
結果として、安価で便利なインターネットがマスコミュニケーションの有力なツールとなることが予想される。筆者の予想に反して、人々がインターネットに信頼を置かず、これまでの新聞、ラジオ、テレビに期待するのであれば、新聞社、ラジオ局、テレビ局はいままでどおりの繁栄を続けるだろうし、期待されなければ市場から消えていく。インターネット通信の報道には許認可制度がないから、無数の「局」が乱立する。もちろん、そのなかでいいものだけが生き残る。
さて、「陸山会事件」である。これが裁判になる根拠はない。水谷建設による違法献金もなければ、そのことの虚偽記載もない。単に事務上の虚偽記載(ミス)があったとして、一人の政治家の政治活動を長期間にわたって拘束する「事件」ではない。修正もしくは罰金刑程度の微罪である。
政治資金規正法に違反してしまう政治家(事務所)は多い。規制が多すぎて、適法に事務を行うことが難しいからだ。そこが検察の目のつけ所となる。一般に、政治家がその権限を利用して不正なカネを得ていると考えるのは、大衆の自然の意識の流れだ。長期にわたる自民党政権下の日本にはそのような政治風土があったし、いまもあるかもしれない。“政治とは汚れたものだ”という空気に乗って、検察は自らにとって不利益となる政治家を政治資金規正法でひっぱり、政治活動を制限させてきた。しかも、そのことにより、検察は存在意義を示し、世論の支持を得ることすらできた。検察こそが正義だと。検察は、国民にとって利益をもたらすが自らには不利益となる政治家を抹殺することによって、国民から拍手喝さいを受けるのである。なんというパラドックスであろうか。
政治とカネをヒステリックに追及してきたのがマスメディアだ。マスメディアは検察の権威に乗って、「悪い政治家」を叩く。そのことによって、彼らもまた「正義」だと称賛を受ける。マスメディアに楯突くやつは「ペン」が許さぬ、という自己の権力化を成し遂げてもきた。
「陸山会事件」は、検察・マスメディアvs.小沢一郎の闘いとなった。検察・マスメディアは反小沢派管理者の代理人である。小沢一郎がメディアにおけるクロスオーナーシップ排除を掲げているため、マスメディアは露骨に「小沢つぶし」に走った。マスメディアは、このたびの「検察審議会」の強制起訴を、「市民感覚」とまで表現した。これはポピュリズムを通り越して、ファシズムを称賛したようなものだ。「検察審議会」の暴挙は、小沢一郎を公判に縛り付け、その政治活動を事実上、抑制する意図をもったものであることは明らかだ。にもかかわらず、マスメディアはそれを称賛した。検察審議会の正体を知りながら、それを報道しない。
検察・マスメディアvs.小沢一郎の闘いは、前者の勝利で終わってしまう可能性がみえている。そのことは、小沢が有罪になることを意味しない。小沢の秘書の公判を含め、「陸山会事件」の決着がつくころには、民主党は政権の座についていないであろうし、よしんば政権にあったとしても、名前は民主党であっても、小沢一郎が掲げた「民主党」とは異なる政党だからだ。
そればかりではない。小沢一郎の健康も気になるところだ。民主党政権発足後に起こった、検察の捜査、起訴猶予、検察審議会の強制起訴という一連の流れが、小沢の心身を傷つけたことは明白ではないか。加えて、自身の公判の前に行われた秘書に対する暗黒裁判の結果が小沢の心身に一層の打撃を加えたことであろう。そのことこそ、検察・マスメディアが企図したものにほかならない。
小沢一郎が権力を掌握することはほぼ不可能になったようにみえる。小沢一郎という政治家が、反小沢派管理者のテロによって倒されたように筆者には思える。
2011年10月6日木曜日
2011年10月5日水曜日
大円寺(文京・向丘)
拙宅からブラブラと本郷方面を目指してあるいている途中、向丘(文京区)にて、赤い山門の寺を見かけた。
前を歩く若いカップルが数組、その中に吸い込まれていくように入っていく。
もしかしたら有名な寺なのかということで見学したのが、大円寺である。
帰宅後、ネット検索したところ、文京区の観光名所にもなっていることを知った。
この寺の見どころ等の詳細については、「ぞえぞえねっと」あたりがわかりやすい。
さて、大円寺の墓地が「無量壽」で、この季節、墓地内には、ヒガンバナ、ヒマワリ、ホウキグサ等が無秩序に咲き乱れていて、ちょっと不思議な雰囲気。
この界隈には数多くの寺があることが判明。
谷中ほどの風情はないけれど、特徴のある地域ではある。
2011年10月3日月曜日
季節の変わり目
これまで順調だった二匹の猫たちだが、ここのところ異変が続いている。
9月30日、Zazieが何かを飲み込んだらしく、家人が獣医に急いで連れて行き、レントゲンをとった。
結果は何も写っていなかったという。
数時間口をくちゃくちゃと鳴らしていたので、異物を口に入れたことは間違いない。
体重は2.2㌔と1月で0.2㌔増えたが、獣医の話では痩せているという。
一方のNicoであるが、今朝、食べた餌を全部吐いてしまった。
それでも、元気で走り回っていたので、あまり心配はしなかった。
1時間後、腹がすいたらしく、餌をねだったので、あげてしまった。
体重は3.4㌔でやはり、0.2㌔の微増であるが、去勢後の猫用のダイエットフードを与えているので、仕方がない。
ここのところ気温が下がってきたので、猫たちは抱かれたり、くっついたりして寝ることが多くなった。
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