2011年10月7日金曜日

「陸山会事件」の本質

「陸山会事件」の本質は何か――小沢一郎という政治家の活動を公判によって縛ることだ。ではだれが小沢一郎の政治活動を縛りたいのか――財界・官僚・マスコミという評価が一般的だ。いずれにしても、既存の権益を守ろうとする反小沢勢力であることは間違いない。カレル・ヴァン ウォルフレンに合わせて言えば、複数のアドミニストレーター(管理者)ということになる。ここでは、便宜上、それを反小沢派管理者と表現する。もっとも、一部には、小沢を権力の座につかせまいとするのは、米国(CIA)だという説もあるが。

小沢の政策のなかで、反小沢派管理者がもっとも反発しているもの1つの具体例を挙げれば――とりわけ、日本の大手マスコミが最も恐れているのは――メディアにおけるクロスオーナーシップの排除ではないか。このことは田中龍作(フリージャーナリスト)も指摘している。民主党が政権をとったとき、原口総務大臣(当時)がクロスオーナーシップの排除にふれたが、大手マスコミは完全無視を決め込み、当時の総務大臣の革新的政策を黙殺した。原口(当時大臣)の後ろ盾となっていたのが小沢一郎だった。

メディアにおけるクロスオーナーシップの排除とはいうまでもなく、新聞、ラジオ、テレビ等のマスメディアを単独のオーナーが所有することを排除することだ。米国ではすでにクロスオーナーシップ排除の原則が法制度化されているが、日本では実現せず、大新聞~テレビが完全に系列化されているし、ラジオもそれに近い。さらに、地方局も中央の大新聞系のキー局に系列化されている。新聞とテレビの関係について具体的に記述すれば、関東の場合、読売新聞~日本TV、朝日新聞~テレビ朝日、毎日新聞~TBS、産経新聞~フジテレビ、日経新聞~テレビ東京といった具合だ。

マスメディアが民意形成に与える影響力が大きなことは言うまでもない。報道によって、世論が形成される。日本ではとりわけ新聞、テレビの影響が大きく、NHKと民間併せて6つのキー局がテレビ番組を独占しているから、それらが同じ内容の情報を流せば、視聴者の洗脳は容易である。加えて、朝夕に世帯ごとに配布される新聞におなじ記事が掲載されていれば、ほかの情報を入手できない生活者は、テレビ・新聞の報道を世の中でおこった事実だと理解するほかない。

それだけではない。新聞・テレビのニュースは、記者クラブ制度を情報源(基盤)として制作されるため、すべてのメディアがほぼ同じニュースを流すことになる。記者クラブには協定が結ばれていて、談合によって、情報が伝達される仕組みになっている。日本のメディア事情というのは、資本、情報の質の両面において、民間5社とNHKになる6社の独占状態にある。

民間5社に対し、クロスオーナーシップ排除の原則が適用されたならば、必然的にテレビと新聞は競合するから、それぞれに積極的情報選択を促し、情報の内容に変化が起こることが期待できる。競合は必然的に、記者クラブ制度を崩壊させるから、政府がインターネットを通じて政策等を発表すれば、人々は新聞テレビを介さずに、ほぼリアルタイムにそれらを入手することができる。新聞とテレビは競合し、さらにインターネットとも競合するから、それぞれのメディアがそれぞれの特徴に合った内容の「ニュース」を報道するようになる。その結果、民意は多様化する。そればかりではない。政府がマスメディアを利用して国民を洗脳することがまずできなくなる。

結果として、安価で便利なインターネットがマスコミュニケーションの有力なツールとなることが予想される。筆者の予想に反して、人々がインターネットに信頼を置かず、これまでの新聞、ラジオ、テレビに期待するのであれば、新聞社、ラジオ局、テレビ局はいままでどおりの繁栄を続けるだろうし、期待されなければ市場から消えていく。インターネット通信の報道には許認可制度がないから、無数の「局」が乱立する。もちろん、そのなかでいいものだけが生き残る。

さて、「陸山会事件」である。これが裁判になる根拠はない。水谷建設による違法献金もなければ、そのことの虚偽記載もない。単に事務上の虚偽記載(ミス)があったとして、一人の政治家の政治活動を長期間にわたって拘束する「事件」ではない。修正もしくは罰金刑程度の微罪である。

政治資金規正法に違反してしまう政治家(事務所)は多い。規制が多すぎて、適法に事務を行うことが難しいからだ。そこが検察の目のつけ所となる。一般に、政治家がその権限を利用して不正なカネを得ていると考えるのは、大衆の自然の意識の流れだ。長期にわたる自民党政権下の日本にはそのような政治風土があったし、いまもあるかもしれない。“政治とは汚れたものだ”という空気に乗って、検察は自らにとって不利益となる政治家を政治資金規正法でひっぱり、政治活動を制限させてきた。しかも、そのことにより、検察は存在意義を示し、世論の支持を得ることすらできた。検察こそが正義だと。検察は、国民にとって利益をもたらすが自らには不利益となる政治家を抹殺することによって、国民から拍手喝さいを受けるのである。なんというパラドックスであろうか。

政治とカネをヒステリックに追及してきたのがマスメディアだ。マスメディアは検察の権威に乗って、「悪い政治家」を叩く。そのことによって、彼らもまた「正義」だと称賛を受ける。マスメディアに楯突くやつは「ペン」が許さぬ、という自己の権力化を成し遂げてもきた。

「陸山会事件」は、検察・マスメディアvs.小沢一郎の闘いとなった。検察・マスメディアは反小沢派管理者の代理人である。小沢一郎がメディアにおけるクロスオーナーシップ排除を掲げているため、マスメディアは露骨に「小沢つぶし」に走った。マスメディアは、このたびの「検察審議会」の強制起訴を、「市民感覚」とまで表現した。これはポピュリズムを通り越して、ファシズムを称賛したようなものだ。「検察審議会」の暴挙は、小沢一郎を公判に縛り付け、その政治活動を事実上、抑制する意図をもったものであることは明らかだ。にもかかわらず、マスメディアはそれを称賛した。検察審議会の正体を知りながら、それを報道しない。

検察・マスメディアvs.小沢一郎の闘いは、前者の勝利で終わってしまう可能性がみえている。そのことは、小沢が有罪になることを意味しない。小沢の秘書の公判を含め、「陸山会事件」の決着がつくころには、民主党は政権の座についていないであろうし、よしんば政権にあったとしても、名前は民主党であっても、小沢一郎が掲げた「民主党」とは異なる政党だからだ。

そればかりではない。小沢一郎の健康も気になるところだ。民主党政権発足後に起こった、検察の捜査、起訴猶予、検察審議会の強制起訴という一連の流れが、小沢の心身を傷つけたことは明白ではないか。加えて、自身の公判の前に行われた秘書に対する暗黒裁判の結果が小沢の心身に一層の打撃を加えたことであろう。そのことこそ、検察・マスメディアが企図したものにほかならない。

小沢一郎が権力を掌握することはほぼ不可能になったようにみえる。小沢一郎という政治家が、反小沢派管理者のテロによって倒されたように筆者には思える。