2013年12月28日土曜日

新居昭乃 LIVE2013 アルファケンタウリ

久々のライブ。

ロックでもフォークでもない。

会場はお台場。


入場とともにドリンク代500円が徴収される。飲み物を買うと、ペットボトル用ストラップがおまけにつく。

2013年12月26日木曜日

猫たち近影






わが家の猫二匹が一緒に寝ることは稀。

ところが、寒くなってくると、電気毛布の誘惑に勝てず、どちらかともなくその上にのる。

最初のうちはよそよそしく、相手を意識していたものの、やがて、眠りの境地に。

そして、二匹とも無意識のまま身体を回転させ、接近したり離反したり・・・

あたかも4コマ漫画のよう。

2013年12月17日火曜日

谷根千漂流

根津・NAKASA

ママのオーノピン

根津HidamariのGeorgeママ

ママの本名はッボーイ・ジョージ。店内にはカルチャークラブのレコード盤

2013年12月16日月曜日

Israel

7日~15日まで、イスラエルへ観光に行ってました。

観光地としては十分魅力があるとは言えないです。

各所に残るキリスト教(旧約・新約)に記述された地名は神秘的だけれど、そこに建てられた教会等は新しいもの。

考古学の発展とともに、聖書の記述された場所の特定が進んだ結果、目印として建造物が建てられるようになってきたようです。

もっとも、ビザンツ時代、言い伝え、聖遺物(として当時特定されたもの)、あるいは、聖書の時代からそのまま伝承された場所にビザンツ系の教会等が建設されていていまに至るものもあるようです。

とりわけ、エルサレム付近にはギリシャ正教(ビザンチン教会)系の教会が多いように感じました。

詳しくは後日、ウエブサイト、Blog等にまとめます。

聖墳墓教会(エルサレム)

2013年12月3日火曜日

朝倉彫塑館(その4)

朝倉は大の猫好きだったらしく、猫の作品も多い。

なお、館内にたくさんの猫に囲まれた朝倉の写真が展示されている。


@Yanaka

朝倉彫塑館(その3)

空中庭園





 
@Yanaka

朝倉彫塑館(その2)

裏口



@Yanaka

朝倉彫塑館(その1)

外観・前庭等





10月にリニューアルされた朝倉彫塑館に行ってきた。

館内の撮影は禁止である。

@Yanaka

12月(Zazie,Nico)

2013年も12月(師走)に入ってしまった。

緊張感のない一年だったように思う。

先日あった忘年会で近況報告をしろと言われて、言葉に詰まり、

昨年と変わってない、と口ごもった。

でも、そう答えたのは筆者だけではない。

たった一年でそうそう、情況が急激に変化するものではないのだ。

さて、月初めの猫の体重測定を記録しておく。

Zazieが4.4㎏

Nicoが6.1㎏

Zazieが先月から300g減、Nicoが100g増。

Zazieの肥満がちょっとだけ解消されたかな。

Nico

Zazie

2013年11月29日金曜日

冬柿と南天

谷中の冬柿は寂しい

南天は精一杯の自己主張

@Yanaka

晩秋の上野公園





2013年11月26日火曜日

高校時代からの親友の

誕生日と、筆者たちの結婚記念日が同日という偶然。

本日はその両方のお祝いを拙宅にて開催した。だが実は、開催日と「記念日」はおよそ2週間ほど隔たりがある。出席者の友人カップルと我が方のスケジュールが調整できなかったためだ。

高校時代というのは、生涯の中で最も輝かしい期間の一つではないか。観念的な不安はあっても、未来に疑いを抱かない、若さゆえのエリート意識に支えられ、日々を楽しく過ごすことができた時代ではないか。

具体的なことはあまり覚えていないが、そんな明るい記憶がいまの筆者には残っている。




2013年11月24日日曜日

『資本主義と自由』

●ミルトン・フリードマン〔著〕 ●日経BP社 ●2400円+税
 

“世界の構造改革のバイブル”と帯にうたってあるとおり、ネオリベラリズム、自由市場経済を是とする勢力にとって、本書は聖典のひとつになっている。大胆な規制緩和(レーガノミックス)を掲げた、レーガン大統領が本書を抱えているTVニュース映像がしばしば世界中に流れたことから、大統領の愛読書とも言われた。

本書の刊行は1962年。世界は社会主義圏と自由主義圏が厳しく拮抗する冷戦下だった。著者ミルトン・フリードマン(1912-2006)の詳細なプロフィール等は省略するが、彼はもちろん資本主義、自由主義圏のリーダーである米国の経済学者。シカゴ大学で師ハイエクに学び、やがて、ネオリベラリズム、自由市場経済を唱える「シカゴ学派」の頭首として、世界の経済(学)をリードした、いやいまもリードしている。

フリードマンの経済学を一言で言えば、反ケインズ主義(反ニューディール政策)――自由な経済活動を第一義とする自由市場原理主義――だ。国家の役割を否定はしないが、国家権力をできるだけ分散、制限し、市場の調整機能に無条件に信をおく。またそのイデオロギーは自由主義思想を第一とし、全体主義思想批判、集産主義思想批判で貫かれている。
自由主義思想の根本にあるのは、個人の自由の尊重である。自由主義では、各自が自分の考えに従ってその能力と機会を最大限に生かす自由を尊重し、このとき、他人が同じことをする自由を阻害しないことだけを条件とする。このことは、ある点では平等を、ある点では不平等を支持することを意味する。人は等しく自由権を持っている。この権利がきわめて重要な基本的権利なのは、人間一人ひとりみな違うからであり、自分の自由でもって人と違うことをしようとするからだ。そして人と違うことをする過程で、大勢が暮らす社会のあり方に、一層多くの貢献をする可能性がある。(P352~353)
フリードマンの説く小さな政府、自由市場原理主義には明快・痛快な一面があり、たとえば霞が関の肥大化や地方における無駄な公共事業に嫌気がさしている都会派納税者に受けがいい。もちろん、競争を勝ち抜いて富を得た成功者、資産家、富者は、自分たちの富が国家権力による強制的徴税と再配分により、貧者、弱者に行きわたることに否定的だから、フリードマンを支持する。さらに、日本の戦後民主主義者からも支持される。なぜならば、彼らは超国家主義、官僚的スターリン主義特有の強大化した国家権力による個人の自由束縛を忌み嫌うからだ。

フリードマンの思想を凝縮したと思われる個所を引用しよう。フリードマンは年金の強制加入に反対して、こう言及する。
(年金加入の)強制を正当化する理由として一つ考えられるのは、例の温情主義である。いまは法律で全員加入が義務づけられているが、任意加入に決めたければそうできたはずだ。だが国民は放っておくと得てして近視眼的で先のことを考えない。誰でもある程度は老後に備えようとするはずだろうが、もっと周到に準備する方が身のためだと政府はよく知っている。政府として一人ひとりを説得して回るのは不可能だが、何と言っても国民のためなのだから、過半数を説得して全員に強制しよう……。断っておくが、これは、れっきとした大人のための配慮である。だから、自分で責任のとれない狂人や子供のための温情的配慮だという正当化はできない。
この言い分はそれとして完結しており、論理的破綻はない。したがって筋金入りの温情主義者がこう言い出したら、論理の誤りをついて意見を変えさせるのは不可能である。このような主張をする人は、すこしばかり勘違いをした善意の友ではなく、共に天を戴かざる敵である。なぜ敵なのかと言えば、独裁主義に与しているからだ。たとえ慈悲深く、多数決を重んじるとしても、彼らは根本的には独裁主義者である。(P337~338)
フリードマンは、老後の年金に国民全員が加入することを強制する政府を「独裁主義者」だと断言しているのである。
 
自由を信奉するならば、過ちを犯す自由も認めなければならない。刹那的な生き方を確信犯的に選んで今日の楽しみのために気前よく使い果たし、貧しい老後をわざわざ選択する人がいたら、どんな権利でもってそれをやめさせることができようか。この人を説得し、その生き方はけしからぬと説得するのはよかろう。だが、人が自ら選んだことを強制的にやめさせる権利はどこにもない。あちらが正しくてこちらがまちがっている可能性はゼロではないのだ。自由主義者は謙虚を身上とする。傲慢は温情主義者にゆずろう。
(略)
自由主義の原則から年金の強制加入を正当化し得る唯一可能な論拠は、将来の備えを怠る人は自らの行動の結果を引き受けずに他人に負担を強いるというものである。まさか困窮した老人を見過ごすこともできまい。したがって身銭を切って、あるいは公的資金を投じて、救いの手を差し伸べることになる。よって、自分の老後に備えなかった人は社会の負担になる。だから年金に強制加入させるのは、本人のためではなく他の大勢のために必要だ、というわけだ。
この議論の重みは、事実如何によって変わってくる。強制加入の年金がない場合、65歳人口の90%が社会の負担になるのだとすれば、この議論には説得力がある。だがもし1%しかそうならないとすれば、説得力はない。1%のコストを防ぐために、なぜ99%の自由を制限しなければならないのか。(P338~339)
フリードマンは以下、年金強制加入があたりまえだと人々が思うようになったのは、老齢・遺族年金制度が発足した当時が大恐慌だったためだと説明する。そして、年金の強制加入は、コストばかりが大きく、得るところがほとんどない制度であると結論づける。そして――
・・・強制加入制度のために、国民全員が所得のかなりの割合について自由に使う権利を奪われ、退職年金の購入という特定目的、それも政府から買うという特定のやり方に従うことを要求されている。年金商品の販売では競争が禁じられ、さまざまな選択肢の発展が妨げられてきた。そして年金を扱う巨大な官僚組織を生み出し、この組織は自己増殖的に拡大し、国民の生活のさまざまな面へと触手を伸ばす兆しを示している。それもこれも、ごくわずかな人々が社会の負担になるかもしれない危険性を避けるためなのだ。(P341)
残念ながら、日本の強制加入型年金制度は、フリードマンの予言通り、年金を扱う巨大な官僚組織を生み出し、担当官僚が年金資金を浪費・流用(グリーンピア事業等)するという、まさに犯罪的行為を招いてしまった。だから、フリードマンの言うことは正しい、彼は日本の年金問題を予言していたではないか、と考えがちだが果たしてそうだろうか。

“刹那的な生き方を確信犯的に選んで今日の楽しみのために気前よく使い果たし、貧しい老後をわざわざ選択する人がいたら、どんな権利でもってそれをやめさせることができようか。この人を説得し、その生き方はけしからぬと説得するのはよかろう。だが、人が自ら選んだことを強制的にやめさせる権利はどこにもない”――この箇所こそ、自由主義者フリードマンの真骨頂ともいえる。寓話「アリとキリギリス」を思い出す人も多かろう。寓話ではキリギリスは野垂れ死にすることが暗示されているものの、そのさまは詳しく書かれていない。フリードマンは、今日(1960年代のアメリカ)、アリは絶対多数であり、キリギリスは絶対少数だと断言するが、これが怪しい。たとえば、21世紀の日本の国民年金納付率は59%。つまり強制加入の国民年金でありながら、加入者の4割は保険料を納付していない。

このような現状を踏まえるならば、フリードマンの言う自由加入制度にしたとしたらどうなるのか、選択型年金に加入する者は2~3割にまで低下するのではないか。日本の年金制度の保険料徴収方法に問題があるという指摘はそれとして、強制型で4割が保険料を納めない現実から想像する限り、自由加入制度の下で、年金加入者率が9割以上に達することはあり得ない。

フリードマンが思い描く年金制度の誤りはそれだけではない。国民の所得には格差がある。低所得者が支払える年金額は自ずと低いから、民間企業が運営する年金であれば、低所得者の納付額に応じて受取額が必然的に下がる。しかも、その下げ幅は企業の自由裁量だから、経済情勢や経営の変化次第では、加入者が老後の生活を維持できなくなる可能性もある。その一方で、高額所得者は年金制度そのものに関心がないから、年金会社は高額所得者の多くが年金加入することに期待できない。

さらに、年金会社が運営を誤れば、破綻するリスクもある。国家が強制加入型年金から手を引いたとしたら、年金企業の倒産リスクによって、年金を受け取れない者が出てくる可能性も高まる。いや、フリードマンならば、そのリスクは低いと確言するだろうし、年金会社の一つや二つが競争に負けて破綻することは自由市場であるかぎり避けられないと言うにちがいない。あるいは、年金会社を選ぶのも個人の自由なのだから、破綻しても文句は言うなとなる。

言うまでもなく、強制加入型年金制度というのは、高額所得者から相当の納付金を徴収し、それを原資として、低所得者の年金支払いにまわすという相互扶助によって成り立っている。そうやって、等しく老後の最低限の生活を保障するものだ。年金を必要としない富者にも年金が支払われるが、富者の加入が年金原資を保証する。フリードマンには、そのような所得の再配分システム自体に我慢ならないのだ。

ついでに、フリードマンが本書で廃止を提言した政策を掲げておく。これは本書の帯にも載っているものだ。
  1. 農産品の買い取り保証価格(バリティ価格)制度
  2. 輸入関税または輸出制限
  3. 家賃統制、全面的な物価・賃金統制
  4. 法定の最低賃金や価格上限
  5. 細部にわたる産業規制
  6. 連邦通信委員会によるラジオとテレビの規制
  7. 現行の社会保障制度
  8. 事業・職業の免許制度
  9. 公営住宅
  10. 平時の徴兵制
  11. 国立公園
  12. 営利目的での郵便事業の法的廃止
  13. 公有公営の有料道路
フリードマンのような底なしの自由主義が社会を動かすようになったら(いや、現実は、ネオリベラリズムが世界を席巻しつつあるのだが)、ナオミ・クラインが『ショック・ドクトリン』でリポートしたように、貧者は「貧者の世界」に閉じ込められ、富者は「富者の世界」を謳歌するような、分断型社会が到来することになる。富者の居場所は、高い壁とハイテクのセキュリティーに守られた、贅を尽くした「グリーンゾーン」。一方の貧者は、その外側の「レッドゾーン」。そこは安全も公共サービス(年金、医療、教育)もない、暴力と略奪が支配する殺伐とした社会だ。

そして、そのことがすでに世界各所で起こっている。アメリカジョージア州に民間企業が運営する、金持ちだけが住めるまち(自治体)、サンディ・スプリングスが誕生した。財政破綻したデトロイトの市街地は警察官不在で暴力が支配する荒廃した地域となっていく一方で、金持ちは郊外に転出して、別世界を形成している。イラクのバクダッドでは、マッド・ディモン主演で映画化されたような、石油支配を企む多国籍企業の社員やアメリカ政府関係者が居住する、まさに「グリーンゾーン」が存在し、その外側はテロと略奪が横行する無政府地帯の「レッドゾーン」が広がっている。西欧でも貧しい移民が暮らす特区がつくられ、中国、東南アジア、ロシア、南米南部地域、南アフリカでも、富者と貧者の居住地が明確に区別されるようになっている。それがフリードマンがリードしてきた世界(経済)の確かな現実のようだ。

2013年11月23日土曜日

学生時代からの友人の

ちょっと早めの忘年会。北海道のO君の上京予定に合わせたもの。概ね、年一回の(忘年会)開催が定例化した。

われわれの学生時代はいまとは大違い。ほとんどの大学で学園闘争があり、学園は封鎖されていた。講義もなかった。

当時「新左翼」と呼ばれた政治集団が全学生数のおよそ2割ほどを占めた。ほかに政治運動に参加しないものの、そのシンパである者、政治よりは文化・芸術に情熱を燃やした者などが、毎日新宿に集まり、安酒を飲みながら、議論をし、喧嘩をし、大声で騒いだ。

抵抗と挫折、連帯と孤立、革命と反革命・・・といった恐ろしいまでの対句が学生の心の中に渦巻いていた時代だった。そして気が付いたら、学校を追い出され、就職を余儀なくされていた。

以来、半世紀近くが経過したのだが、その当時の仲間がどういうわけかいまに至るまで、関係を切らずに会うようになった。まったくもって不思議な縁である。

当会の話題は完全に「後ろ向き」。あのとき、だれがどうした、いやしなかった、いやいや・・・といった、非建設的なこと、このうえない。

でもいいじゃないか。昔話に罪はない。そのすべてが「時効」というものだ。

市ヶ谷「三晴」にて鮟鱇鍋

2013年11月15日金曜日

タイ料理

牡蠣のオムレツ
都内ではタイ料理店が増えたけれど、筆者は湯島の「トンカーイオ」がお気に入り。

何を頼んでも、外れがない。

モダンジャズ・バーのニャン太郎

根津に「楽耳」というモダンジャズ・バーがある。
その道のプロが驚くような音響設備をもつ店内。
客が聴きたいアルバムをリクエストすれば、マスターが気楽に応じてくれる。

このバーのサプライズはそれだけではない。
マスターの愛猫「ニャン太郎君」の存在だ。
近くの神社の境内に捨てられていた子猫をマスターが引き取り、育て上げた。
成長するにしたがい、長毛の立派な姿に変身してきたという。

でも、いつでも店内にいるとは限らない。
運のいい人だけが、「ニャン太郎」君に会うことができる。

ニャン太郎君、眠ってるところを起こされて不機嫌

猫のオブジェ

猫と犬をこよなく愛す、ジャズ好きのマスター
@Nedu
 

2013年11月8日金曜日

「消費者庁」こそが誤表示、いや偽装だ

食材偽装が大手有名ホテルから、百貨店等に拡大。その「勢い」はとどまるところを知らない。ホテル、百貨店側は、調理側とホール側のコミュニケーション不足等と責任逃れを繰り返している。単純に考えて、コストの低いものを食材に使用しておいて、メニューは高価な食材に置き換わっていて、その逆がない。つまり、安いものを使用しておいて、高いものとして売っていたのだ。1万円もしないクズダイヤを100万円の鑑定書をつけて売れば詐欺だろう。李朝のツボといって100万円の値を付けておきながら、実は1万円もしない瀬戸物だったら・・・

ローカルニュースでたまたま見たのだが、韓国産の海産物を国内産と称して卸した海産物業者が、不正競争防止法で逮捕されたという。逮捕されたのは家族経営の零細業者。しかるに、消費者を騙していた大手ホテル、百貨店等の経営者・担当者が逮捕を免れているのは、いかなる理由か。

メニュー偽装はシンプルな事件である。まず、当局がメニュー偽装をした大手ホテル・飲食業者・百貨店等の担当者を逮捕すること、消費者庁が事件を起こした業者を営業停止にすること、さらに調査・聞き取り等を継続し、再発防止に取り組ませること。

ところが、当局、消費者庁はまったく動かない。とりわけ、消費者庁は事件の解明、再発防止に実質上、関心すら示していない。「消費者庁」という名称こそが「誤表示」どころか偽装そのものである。こんな役所、つぶしてしまえ。

2013年11月1日金曜日

11月(Zazie, Nico)

11月だ。

猫の健康状態(体重)を記録しておく。

Zazieが4.7㎏で前月比300gの増、

Nicoが6㎏ちょうどで同じく200gの増。

Nicoはよく嘔吐するし、ここのところ痩せたような感じがしたが、体重は増えていたので安心。

一方のZazieは健康そのもの、手術後、体重を増やしている。


2013年10月29日火曜日

『ショック・ドクトリン』

●ナオミ・クライン[著] ●岩波書店 ●上下各2500円(税別)

同時代を生きていながら、自分は何も知らなかった、感じていなかった、己の無知を恥じたい気分だ・・・読後の感想を率直に言えば、まあ、そんなところか。このことを換言するならば、歴史の変化というのは、その時代を生きていたからと言って必ずしも自覚できるものではない――己が気づかないうちに世界は変化していて、しかも、正義や道義に基づいて流れているとは限らない、己の価値観から外れることも多く、ときとして、深い暗部に向かって進んでいることもあり得るのだと。

それは1970年代、南米南部地域で起こっていた

変化は1970年代、南米南部地域のチリ、アルゼンチン、ブラジル、ウルグアイ、ボリビアで起こっていた、いや、起こされた。冷戦時代、キューバ革命の南米大陸への波及を恐れたアメリカは諜報機関を使って、当時同地域に成立していた社会主義政権を軍事クーデターで打倒した。倒された社会主義政権のうち、チリの人民連合(アジェンデ政権)は、日本でもよく知られていた。チリに新しくアメリカの後押しによって樹立されたのがピノチエット政権である。ピノチエットは、その誕生に抗議する共産主義者、社会主義者、民主主義者、さらには、一般市民をも弾圧し、彼らを誘拐、拘留、処刑し、転向を強要する拷問を繰り返した。

この歴史的事実は承知していたのだが、その軍事政権の経済政策にミルトン・フリードマンを頭首とするシカゴ学派の若手の経済学者、経済官僚(「シカゴ・ボーイズ」と呼ばれた)が大いに関与していたことについては、本書で初めて知った次第である。
最初の1年半、ピノチェトはシカゴ学派の指示を忠実に守った。いくつかの銀行を含む国営企業の一部(全部ではなく)を民営化し、最先端の新しい形の投機的金融を許可し、長年チリの製造業者を保護してきた障壁を取り除いて外国からの輸入を自由化し、財政支出を10%縮小した(ただし軍事費だけは大幅に増大した)。さらに価格統制も撤廃したが、これはパンや食用油など生活必需品の価格を過去何十年間も統制してきたチリにとって、急進的な措置である。(P109)

フリードマンの経済学を大雑把に言えば、反ケインズ主義――政府による経済活動に対する規制・介入の撤廃、財政縮小、公共部門の民営化と反福祉政策である。自由市場のメカニズムに任せれば、自ずと均衡状態が生まれるというものである。シカゴ学派は、ケインズが主唱する政府による経済活動への関与及び社会福祉政策を敵視する。

それだけではない。シカゴ学派が南米南部地域に自由な市場経済を実現するためにとった政策は、これまであったものを“すべて白紙に戻すこと”だった。白紙に戻すためには、その国民に衝撃を与えてショック状態に追い込み(=人々を白紙状態にし)、そこから立ち直る前に、シカゴ学派の経済政策を即座に実行してしまおうという試みだ。「現実の、あるいはそう受け止められた危機のみが真の変革をもたらす」(ミルトン・フリードマン)というわけである。シカゴ学派の経済学者たちは、ある社会が政変や自然災害などの「惨事」「危機」に見舞われ、人々が「ショック」状態に陥ってなんの抵抗もできなくなったときこそが、自分たちの信ずる市場原理主義に基づく経済政策を導入するチャンスだと捉え、それを世界各地で実践してきた、と本書は言う。それを惨事便乗型資本主義という。

「ショック」とは、“シカゴ学派の経済政策”と“拷問”の二重のメタファー

それだけではない。ショックにはもう一つの意味が込められている。南米南部地域で政権についた軍事政権は、先述のとおり、自国の共産主義者、社会主義者、民主主義者、知識人のみならず、軍事政権に異議を唱えるならば一般市民に対してまでも、アメリカのCIA等の諜報機関が開発した拷問を使って弾圧をした。その拷問手法は1950年代に、アメリカCIAの援助によって、カナダのマギル大学で密かに研究されたもので、過剰な電気ショック、暴行、間隔遮断、薬物投与などを行って身体にショックを加えることによって、人間の脳を「白紙状態」に戻す実験に端を発するものである。

この拷問手法は、1970年代の南米南部地域の軍事政権から、21世紀の9.11以降のアメリカのイラク戦争、「テロとの戦い」においても常套化された。つまり、「ショック・ドクトリン」という本題は、シカゴ学派の経済政策推進における状況認識と、それを実行する暴力的拷問手法を二重化したメタファーである。

アメリカによって南米南部地域で実行にうつされたシカゴ学派による「反革命モデル」は、フォークランド戦争(1982年)を契機としてイギリス(サッチャー政権)に、さらに冷戦末期からソ連崩壊後のポーランド(1989年~マゾヴィエツキ政権)、天安門事件(1989年)後の中国(鄧小平政権)、アパルトヘイト廃止(1991年)後の南アフリカ(マンデラ政権)、ソ連崩壊(1991年)後のロシア(エリツィン政権)、通貨危機(1997年)に見舞われたアジア諸国(韓国、タイ、インドネシア、マレーシア、フィリピン)、スマトラ沖大地震による大津波(2004年)に襲われたスリランカ等へと波及した。

惨事・危機に見舞われた国々は激しいインフレに襲われ、国内は大混乱に陥っているケースが多い。そんなとき、助けの手を差し伸べるはずの国際通貨基金(IMF)、世界貿易機関(WTO)は混乱に乗じて、危機に見舞われた国に対し、減税、自由貿易、民営化、福祉・医療・教育などの社会的支出の削減、規制緩和といった「反ケインズ主義的」経済政策の転換を矢継ぎ早に実行することを求める。また、アメリカが送り込んだ経済顧問団等がシカゴ学派の経済理論を基本とした経済政策を立案することもある。アメリカ政府、IMF、WTO職員等に「シカゴ・ボーイズ」が配置されているのである。このような“手口”こそが、シカゴ学派の常套手段である。

それだけではない。特筆すべきは、シカゴ学派の「反革命モデル」は、アメリカ国内において、たとえば2005年8月、大型ハリケーン・カトリーナに襲われたニューオーリンズ地域にも適用されていたことである。

コーポラティズム(惨事便乗型資本主義複合体)の台頭

この間、シカゴ学派による「反革命モデル」は、軍事政権における暴力的推進形態から、惨事便乗型資本主義複合体の台頭という変容をとげた。災害や戦争といった惨事を媒介として、市場原理主義を基本とする経済改革を進めるという基本に変化はないものの、本来、国家が行うべき災害復興や派兵・戦闘等の軍事行動はもとより、それに付随する通信・輸送、医療、インフラ整備、セキュリティー部門までもが、多国籍企業が国から受注するという形で、莫大な利益を得るような仕組みをつくりあげていった。このような資本主義と国家の複合的合体モデルをコーポラティズムと呼ぶ。

アメリカ国内では、前出の大型ハリケーン・カトリーナに襲われたニューオーリンズ地区において、被災後、インフラ整備、水道、教育等といった公共予算が大幅に削減され、公立学校は民営のチャータースクールにとってかわった。被災地に住んでいた低所得の住民(主にアフリカ系住民)は居住地域を追われ、まさに白紙化された土地に大手開発業者が進出し、大型の観光拠点を構築した。というよりも、カトリーナで堤防が決壊した主因は、すでに公共事業費の大幅削減により、行政が老朽化したダムを補修できなかったことによる、という説も有力である。

コーポラティズム国家アメリカ=イラク戦争で潤う多国籍企業

イラクには、奪い取れものが山ほどあった。世界第三位の石油埋蔵量だけではない。イラクはフリードマンの放任資本主義構想を基本とするグローバル市場化の流れに、最後まで抵抗した地域のひとつだった。ラテンアメリカ、東欧、アジアを征服してきたグローバル市場推進派にとって、アラブ世界は最後の未開拓地(フロンティア)だったのである。(P473)
イラク侵攻は、自由市場経済を目指す改革運動初期の残忍な手口への回帰をもたらした。一切の干渉を受けつけないコーポラティズム国家のモデルを建設するうえで障害となるものを力づくで排除、消去するために、究極のショック療法が駆使されることになるのだ。(P480)

今日、不安定な国際情勢で潤っているのは何もひと握りの武器商人だけではない。ハイテク化したセキュリティー産業や建設業者、負傷した兵士を治療する民間医療企業、石油やガス会社、そして言うまでもなく軍事請負企業も巨額の利益を得ている。
・・・同社(=ロッキード・マーティン社)は2005年だけで国民(アメリカ国民)の税金250億ドルを手にした。民主党のヘンリー・ワックスマン下院議員によれば、これは「アイスランドやヨルダン、コスタリカなど世界103カ国のGDPより多く、(中略)わが国の商務省、内務省、中小企業庁、連邦議会上下院の予算を合わせた額よりも多い」という。ロッキードそのものが「新興成長市場」だった(同社の株価は2000~05年の間に3倍に跳ね上がった)。アメリカの株式市場が9.11以降、長期的に下落しないですんだ大きな理由のひとつは、ロッキードのような企業が存在したからだ。通常の株価が低迷を続けるなか、「防衛、セキュリティー、航空各企業の株価の指標」であるスペード防衛インデックスは、2001年から06年までに年平均15%も上昇した。これは同時期のS&P500インデックス[アメリカの代表的500銘柄の株価に基づいて算出される株価指数]の上昇率のじつに7.5倍にあたる(P619)

「グリーンゾーン」と「レッドゾーン」に引き裂かれる社会

1970年代からイラク戦争までの現代史を本書に従い振り返ってみると、世界の動きというものが、あたかも一本の糸で結ばれているように思え、合点がいく部分が多い。そんななか、いまイラクの首都バクダッドでは、アメリカ軍の圧倒的軍事力で防衛され、要塞化された地域の内側(グリーンゾーン)では、イラク復興にビジネスチャンスを求める多国籍企業の人間や「占領者」アメリカ人が、極上のリゾート地のような環境でビジネスに励みつつ優雅な休日を楽しんでいる。一方、その外側(レッドゾーン)ではいまなお戦闘状態にあり、テロや略奪が絶えない。

この状態を国家戦略化したのがイスラエルである。イスラエル政府は2006年、これまでとってきたパレスチナとの親和路線を一転しレバノンに侵攻、ヒズボラとの全面戦争に突入した。
イスラエルの産業界にとって、もはや戦争を恐れる理由がないことは明らかだった。紛争は経済成長を阻害すると見みられていた1993年とは対照的に、レバノンとの悲惨な交戦状態にあった2006年8月、テルアビブ証券取引所の株価は上昇した。同年1月のパレスチナ評議会選挙で強硬派のハマスが圧勝したのを受けて、ヨルダン川西岸地区とガザ地区での紛争が激化した同年の第4四半期にも、イスラエル経済は8%(同時期のアメリカの経済成長率の3倍以上)という驚異的成長を遂げた。(P642)
世界規模の戦いの終わりなき継続というイスラエルの目論みは、9.11以降にブッシュ政権が生まれたばかりの惨事便乗型資本主義複合体に対して提示した事業構想と同じものだ。それはどこかの国が勝利するという戦争ではない。そもそも勝つことは重要ではない。壁の外側で低レベルの紛争が果てしなく続くことによって強化される要塞国家を築き、その内部の「セキュリティー」を保つことこそが重要なのだ。(P643) 
イラク戦争終結後、いま現在シリアで起こっている――壁の外側で低レベルの紛争が果てしなく続く――内戦状態こそが、イスラエル及びアメリカを本籍とする多国籍企業が理想とする状態ではなかろうか。

シカゴ学派のイデオロギー

本書にあるとおり、1970年代以降、世界を暴力的に動かしてきたのがシカゴ学派の経済学である。前出のとおり、同学派は反ケインズ主義を第一義とし、政府による経済活度に対する規制・介入の撤廃、財政縮小、公共部門の民営化と反福祉政策を掲げる。自由市場のメカニズムに任せれば、自ずと均衡状態が生まれるとする。

ところが、本書にあるとおり、シカゴ学派が実行した「反革命モデル」は均衡状態をもたらせるどころではない。それは、南米南部地域の軍事政権による民衆弾圧によって守られていたし、3.11以降、世界中に戦争、内戦、テロを勃発させてきている。軍事政権下で行われた反政府活動家に対する不当拘留、拷問、惨殺は、「テロとの戦い」を掲げるアメリカ(軍)に引き継がれ、アブグレイブ刑務所、グアンタナモベイの米軍基地において、「イスラム過激派テロリスト」に向けられている。「経済活動の自由」のイデオロギーが、人民の生存を脅かし、自由を奪い、国民間の経済格差を広げる。このことをどう受け止めたらいいのであろうか。

なおここで、シカゴ学派のイデオロギーを表現する言葉を整理すると、それは市場原理主義(market fundamentalism)、 新自由主義(neo-liberalism)、自由市場経済(free market system)と言われることが多い。また、1990年代に台頭したネオコンの思想(Neo-conservatism)も同じである。この曖昧な表現が、シカゴ学派のイデオロギーの実態をわかりにくくしている。

さらに、シカゴ学派のイデオロギーを実践するアメリカが、外交上、反独裁、民主主義、自由主義を建前として掲げているため、その経済的野心が表に出にくくなっている。われわれがイラク戦争を仕掛けた米国の本心を知り得たのは、終戦後、イラクに大量破壊兵器がなかったことが判明した後であったことは記憶に新しい。
これらの思想は、いっさいの制約から放たれたこの自由こそが、まさにシカゴ学派経済(あるいは新自由主義(ネオリベラリズム)、アメリカでは「ネオコン」と呼ばれる)の神髄である。それは新たに考案されたものではなく、言うなれば資本主義からケインズ主義を取り除いたものであり、独占状態にある資本主義、勝手気ままなシステムである。民衆をお客扱いする必要もなく、どんなに反社会的、反民主主義で横暴な振る舞いも許される。共産主義が脅威であった間は、ケインズ主義が生き延びるのが暗黙のルールだったが、共産主義システムが崩壊した今、ケインズ主義的な折衷政策を一掃することが可能になった。半世紀前にフリードマンが改革の目標として掲げたことが、ついに成就できるときが到来したのだ。(P368)
シカゴ学派が自由市場に全面的拝跪する根源を探るには、思想史的アプローチを必要としている。18~19世紀、古典派経済学誕生の背景には、自然・科学・神(真理)はともに合理性に基づき運動するという西欧人の信念があるように思えるが、このことは別稿でふれてみたい。

日本へのシカゴ学派の影響は

日本の安倍政権が掲げる経済政策“アベノミックス”は、その具体的すがたをいまだ現していないものの、経済活性化指針として、開発独裁型の公共事業に依存したものとなりそうな雰囲気である。また、3.11(大地震、大津波、原発事故)という未曽有の大惨事後の日本であるが、消費税率アップを別にすれば、惨事便乗型経済改革が執り行われるような様子も認められない。安倍政権誕生後に起こった脱デフレ政策(円安、株高誘導)によって、日本経済がひとまず安定化したと思われているからであろうか。

日本の政界では、シカゴ学派を支持する政党は、みんなの党、日本維新の会、自民、民主の一部ではないか。日本ではいまなお、ケインズ主義が主流のように思える。

安倍政権は、国家安全保障会議(日本版NSCと称される)の創設に基づく、特定秘密保護法の制定に向かっている。日本版NSCとは、米国にある国家安全保障会議(NSC:National Security Council)をモデルにしたものと言われる。この動きは、集団的自衛権の行使容認、憲法改正、自衛隊から国防軍改名へと続いていくようだ。しかし、東北被災地の復興計画や、自然災害が続く気候変動を背景とした国土強靭化計画において、日本が反革命惨事便乗型経済改革の標的となる可能性を否定できない。経済特区創設、企業減税、派遣法改正等、TPP参加・・・等、シカゴ学派が望む規制撤廃の序曲が聞こえてくるような気もしないではない。“日本はだいじょうぶ”と言うのはまだ早い。

2013年10月25日金曜日

猫の不思議(22~23)

 (その22)喧嘩なのか、なにかのトレーニングなのか
 
一日のある時間帯、仲良しのはずの猫同士が突然、睨み合ったかと思うとつかみ合いのけんかを始める。
 
どちらかが逃げ、どちらかが追いかける。
 
その役回りは日によって代わる。
 
追いつめたほうがにらみを利かせ、追いつめられた方がギブアップして終わる。
 
 
 
 
(その23)飼い主にくっつく位置が決まっている
 
寒くなると猫たちは人間にくついて眠りたがる。
 
不思議なのは、飼い主である筆者の胸・腹にZazie(サビ猫)が、脚の間にNico(白猫)が互いに位置取ることだ。
 
けしてその逆はない。
 
 



2013年10月8日火曜日

猫の不思議(19~21)

(その19)人の仕事に関心が高い


(その20)気温が下がると、人にくっつく


(その21)夢の中でカンフーか


2013年10月6日日曜日

猫の不思議(16~18)

(その16)照明がまぶしい

 
(その17)眼を見開いて万歳

 
(その18)人の足に挟まれているのが好きなようだ