2013年1月11日金曜日

責任は橋下大阪市長と「甲子園」――大阪バスケ部生徒自殺事件

大阪市立桜宮高校2年の男子生徒(17)が、所属するバスケットボール部顧問の男性教諭(47)から「体罰」を受けた翌日に自殺した。筆者は、この問題の責任は、大阪市行政のトップにある橋下市長(以下、肩書略)及び「甲子園」を筆頭とする歪んだ高校スポーツを礼賛するマスコミ(そして、それに靡く社会風潮)にあるものと考える。

まず橋下――
彼は、大阪市行政改革の目玉の1つとして、教育改革を前面に打ち出していた。にもかかわらず、今回の事件の発覚により、彼の大阪市における教育改革が一向に実績を上げていないことが明らかになった。橋下は、国歌を歌わない教師に厳罰を処することに熱心である一方、生徒に恒常的に暴力をふるう部活顧問の教師の存在を簡単に見逃しているのである。国政(=日本維新の会)の活動に没頭して、肝心の市政が手抜きになっている。橋下の教育改革がまやかしであることは、このことをもって、明らかではないか。

彼の教育改革は偏向したものであって、彼の独自のイデオロギーに毒されている。橋下はまずもって大阪市の高校生が安心して課外部活動に励める環境を教育現場において、実現すべきなのである。橋下が市教育委員会を批判することはできない。橋下は市長なのであるから、教育委員会のトップでもある。橋下は市長として、暴力が日常的に横行するような高校をまずもって一掃すべきである。

橋下とつるんだマスコミは、この件に関する橋下の責任を追及しない。おかしいではないか。報道によると、暴行を加えた顧問は公立高校に勤務しながら18年間も異動していないという。公立高校の教育現場にあって、教師が18年間も異動せず、一つの高校にとどまるとは、常識では考えられない。教員人事に係る基本が蔑にされているのが、大阪市の教育現場なのである。そんなことにも気づかない大阪市上層部は情けない、もちろん、市長失格である。しかも、桜宮高校における顧問による暴行事件はこれが最初ではなかったという。大阪市のトップとして、橋下は責任を感じなければいけない。大阪市民は、「維新の会」などどうでもいいのである。なによりも、大阪市の市政(その一つである教育=高校のあり方)を糺すことが、市長の責任なのではないのか。  

橋下と共犯のマスコミ――
次に、今回の事件の報道のあり方の問題を指摘する。この事件を「体罰」という抽象的領域に導こうとする報道姿勢である。自殺の原因は「体罰」によるものではない。この高校生の自殺は、「体罰」もしくは「指導」という名を借りた恒常的暴力によるものである。なぜならば、スポーツの指導において、暴力の力で技術や体力が向上することはないからである。人々を動かすのは“恐怖=暴力”か“打算=利害関係”のどちらかだ、という極論が跋扈するわが日本国であるが、この二つが一時的に人々を動かすことはあっても、それによって築かれた規律はいずれ破綻する。今回の事件がその良き例である。体罰=暴力がスポーツ能力を向上させることはないにもかかわらず、そして、それにより若い尊い命を失ってもまだ、マスコミや一部のスポーツ関係者は、暴力による指導=体罰の有効性を声高に叫んでいる。なんと、愚かなことであろうか。暴力顧問が行った「指導」はいままさにここに破綻しているではないか。

重要なのは、技術、人格において優れたスポーツ指導者をすべての高校が擁することである。スポーツ指導の最低限の知識・経験を有する者が同校の部活指導者として配されていたならば、このような悲劇は防げた。

体罰による「指導」があったならば、その被害者は直ちに警察に駆け込むことである。ところが、この一見簡単そうに見える逃避行為が実はなかなか難しい。とりわけ、桜宮高校のようなスポーツ有名高校においては、スポーツ特待生という境遇の生徒が少なからず存在するからである。自殺した生徒が特待生であったかどうかは不明であるが、スポーツ有名校の場合、全国からすぐれたスポーツ選手を集めてくる。彼らは課外活動である体育系部活動の枠を越えた運動部に属し、ただひたすら高校の名前を全国に売るため、練習を重ね、試合に勝つことだけを義務付けられる。「スポーツをする=試合に勝つ」ためだけに高校に入った彼らには、顧問や先輩に暴行されようとも、所属する体育系部活から逃げ出すことができない。部活を辞めることは、すなわち学校を辞めることを意味するからである。

今回の生徒の場合はバスケット部に属していたというから、その頂点を争う大会はインタハイ(全国高校総合体育大会)になるのだが、インタハイの規模をはるかに超えているのが、高校野球の甲子園大会である。インタハイ、野球の甲子園大会、サッカーの国立、ラグビーの花園・・・と高校生のスポーツは、学校経営のみならず、マスメディアの有力な収入源となっている。これらの大会で優勝するために行われる指導(練習)が、通常の高校生の課外活動の領域をはるかに超えたものであることを知りながら、政治家、教育行政関係者(公務員)、教育の現場(教師)、知識人、マスメディアは、その弊害について真剣に取り上げてこなかった。彼らは、高校教育の枠を越えた生徒集め(スカウティング)、指導(練習)の実態について批判をしてこなかった。スポーツ有名校の顧問たちが勝つために行う生徒に対する暴行を黙認してきた。管見の限りだが、日本の高校スポーツのあり方を批判したスポーツ関係者は、ブラジル出身のサッカー評論家・セルジオ越後氏以外に知らない。

というわけで、スポーツが得意な若い命を追い込んで失わせてしまった第一の責任は、大阪市の教育改革に真剣に取り組んでこなかった橋下大阪市長にある。そして、第二の責任は、勝利至上主義の歪んだ高校スポーツのあり方を批判してこなかったマスコミにある。橋下を支持する大阪市民も共犯である。さらにいえば、甲子園大会等の異常な高校スポーツの現状を熱心に支持する日本国民にも、その責任の一端はある。若い尊い命の犠牲から、大阪市民、日本国民が反省し学ぶべき点は少なくない。