筆者は橋下徹大阪市長(以下、肩書略)が嫌いだ。当コラムにおいて幾度となく批判してきた。だが、このたびの大阪市立桜宮高校バスケ部生徒自殺事件に関しては、橋下の発言を全面的に支持する。
自殺した生徒の命を無駄にしないため、桜宮高校をせめて廃校にせよ
橋下の発言については報道が断片的でわかりにくいのだが、筆者なりに解釈すると以下のとおりとなる。
(一)桜宮高校の廃校を目指すこと。
(二)同校のスポーツ関連学科の廃止を早期に実施すること。
(三)今年度の同校スポーツ関連学部の試験を中止すること。
(四)同校における人事異動を年度内に行うこと。
(五)上記(三)及び(四)が教育委員会において年度内に実施されなかった場合、次年度、同校における関連予算を執行停止すること。
橋下発言は項数ごとに段階を追っていて、(一)(二)の実現が年度内はもちろんのこと、短期的に実現するとは思っていないような節がある。早期に実現すべきは(三)(四)であり、その実施の武器として、(五)を持ち出したのだろう。というのも、地方自治体における教育については教育委員会に実施権限があり、首長といえども簡単には踏み込めないからだ。首長と教育委員会が教育問題で対立した場合、首長は教育委員会に対して予算執行権限で対抗する以外にない。
さて、バスケ部生徒自殺問題の原因については前回の当コラムで詳述したとおりだ。自殺のあった桜宮高校の体育関連学科というのは、スポーツ関連の教育を目的としたものではない。同校の場合、
(A)体育系学科に優秀なスポーツ選手を集め、
(B)それらの生徒を課外活動である体育系部活動に所属させ、
(C)彼らを顧問が暴力を使って練習させ強化し、
(D)各スポーツ大会において優秀な成績を上げさせ、
(E)同校の知名度を高め、
(F)さらに受験生を増やし、
(G)かつ、大学に用意されたスポーツ選手枠を通じて有名大学進学率を高め、
・・・
というメカニズムを構築しているのだ。簡単に言えば、同校の体育系の部活動、たとえばバスケット部、バレー部等が高校生の大会で優秀な成績を上げることによって、桜宮高校は大阪市内有名校として君臨していることになる。
桜宮高校が体育関連学科の名の下に入学させた生徒は、同校が各スポーツ大会で優勝するためにただひたすら部活に励むことになる。もちろん入学した生徒全員がそうだとは言わない。スポーツ全般を学び、体育系大学に進学したい、という志望をもった生徒もいるだろう。ただ、問題はそんなところにあるのではない。同校において、体育系部活動の顧問の恒常的暴力(断じて体罰ではない)によって生徒が自殺に追い込まれた原因を真剣に求めるのならば、この高校に特設された体育系学科の主たる目的が、全国レベルで行われる各競技大会において優勝するために活用されてきた実態に着目することこそが重要なのだ。
体育系学科の目的は、スポーツを科学することにあるのではないのか。優秀な競技者を生むことよりも、そのよき指導者を育成することのほうに力点は置かれるべきではないのか。さらに社会科学的分野においては、現代社会におけるスポーツの意味を問うことではないのか。体育系学科に課せられた、この2つの本来的課題に取り組む教育が実施されていたならば、顧問の暴力が同校において起こり得るはずがない。もちろん、それによる生徒の自殺が起こるはずもない。
ならば、若い尊い生命を賭して告発された同校の悪しき体質を一掃するためには、今年度の入学試験(体育系学科)を中止すべきだ。新年度の人事の一新(=校長、体育系学科責任者、暴力顧問の辞任等)ももちろんであり、最低限の措置となる。入学試験の中止は大きな社会的混乱を生起するという懸念は無用だ。というのは、わが国において、1969年、当時、新左翼系学生運動の活発化の影響により、東京大学、東京教育大学(現・筑波大学)の2校の入試が中止になったことがあったが、それによる大きな社会的混乱は生じていないからだ。当時、マスメディアもそれによって誘導された世論も、入試中止に賛成した。もちろん、両校の体育系部活動(体育会)に影響はあったであろうが、そんなことに社会は関心を示さなかった。当然である。
高校生スポーツ・イベントの巨大化が問題の根源に
さて、大阪市立桜宮高校バスケ部生徒自殺問題における行政措置としては、前出の5項目を(五)から(一)へと順次実施していく、という道筋が見えてきた。次は、この問題をわが日本国の高校生スポーツの実態上の問題として解決する道筋を構築することにある。それこそが、若い命の犠牲に償い、かつ、報いるための唯一の道だろう。
いま、わが国おいてスポーツは大きな産業に成長している。スポーツ用具製造業者、ユニフォーム等を製造するアパレス業者、食料品・飲料品業者、製薬業者、メディア業者・・・オフィシャルサプライヤーを含めれば、全業界がスポーツと無縁ではない。しかもそれは全世界に及ぶ。そのことによって、スポーツイベントは大きな意味を持ってきた。それぞれのスポーツごとに世界大会が開催される。頂点はサッカーワールドカップであり、世界陸上、ワールドベースボールクラシック・・・と、各国、各都市が世界大会誘致に血眼になっている。その頂点の1つがオリンピック(五輪)ということになる。
スポーツの巨大産業化は、それが有するエンターテインメント(娯楽)性にある。スポーツは面白い。このことに議論の余地はない。世界規模で巨大なエンターテインメント・コンテンツに成長したのが現代スポーツなのだ。だから、アマチュアもプロも関係はない。一昔前、五輪ではアマチュア精神が遵守されていたことがあったが、いまはアスリートがプロなのかアマなのか、だれも気に留めない。国民的人気を誇るフィギュアスケートの浅田真央がプロなのかアマなのかを判別することすら不可能だろう。
エンターテインメントとしてのスポーツは今日、それぞれがカテゴリー化を成し遂げて、さらに拡大を遂げている。男女の別、地域の別、年齢の別、社会的属性の別・・・だ。細かくは体重別というのもある。オーバーオールであれば世界王者は一人しか存在し得ないが、それをクラス(体重別)に分ければ、複数のチャンピオンが生まれることになり、世界タイトル戦という興行は複数にのぼる。
日本では、社会的属性別のスポーツコンテンツが有力なものとして成長している。そこでは昔懐かしいアマチュア精神の純粋性が尊ばれる。大学野球の早慶戦、大学ラグビーの早明戦、実業団野球=都市対抗などが有名だが、学生スポーツの、しかも、なかで異常な人気を誇っているのが高校野球の「甲子園大会」だ。
そしてさらに、その影響を受けて、わが国では高校生スポーツの人気が異常に高くなっている。野球の母国米国ではハイスクールベースボールの注目度は低い。米国で人気があるのはカレッジフットボール等くらいではないか。
高校生スポーツはもちろん、繰り返しになるが、一般の部活動の枠を越えている。全国レベルで活躍できる高校生たちは、その実態においてプロフェッショナルと同等だ。もちろん報酬は得ていないが、高校三年間、そのスポーツに集中できる境遇というのは、少なくとも、プロ的であることはまちがいない。
高校生スポーツを巨大なエンターテインメント=イベントに高めたのは、メディアの力にほかならない。甲子園大会の巨大化は、NHKと朝日・毎日の二大新聞の力に負っている。その成功を模範として、読売・日テレが高校サッカーを、毎日・TBSが高校ラグビーを、フジ・産経が高校バレーを巨大化させようとしている。自殺した大阪市立桜宮高校の生徒は野球、サッカー、ラグビー、バレーよりはマイナーなバスケットをやっていたそうだが、同校はバスケの強豪校であり続けるため、暴力顧問をなんと、18年間も在籍させていた。こうして、メディアが高校生スポーツを悪戯に礼賛することによって、高校生の課外活動にすぎなかった運動部のスポーツはことさらゆがみを増していくことになる。
それだけではない。少子高齢化により生徒数が減少して危機感を抱くようになった学校経営者が、経営戦略として、スポーツ強化という方策を打ち出した。このことはすでに何度も書いたので繰り返さないが、大阪市立桜宮高校バスケ部生徒の自殺の原因もそこにある。
桜宮高校は公立高校であるが、生徒が集まらなければ廃校も選択肢としてまるでないわけではない。また、スポーツ有名校として大阪、関西で君臨することによって、そこに配属された教師も悪くない待遇を得ることができる。生徒に暴力を振るってでも、スポーツ大会で優秀な成績を上げれば、指導者(コーチ)としての評価が高まる。その証拠に、この暴力顧問教師がバスケットボール日本代表の年齢別チームのコーチに抜擢されているくらいなのだ。ここに倒錯も極まれるというものだ。また前出のとおり、スポーツ有名大学への推薦枠も増えていくため、同校の有名大学進学率も高まる。
最後に、繰り返して言う。日本のスポーツ界は時代錯誤にある。運動能力を高めるために必要な心身のトレーニング技術を磨くことはなおざりで、選手を暴力で支配する指導者を優遇している。この事件を踏まえ、高名なスポーツ関係者が、「体罰」の非合理性を説くようになった。けっこうな傾向だ。彼らスポーツ成功者の発言こそが説得力を持つ。
体育系学科創設の目的そしてその教育内容は、スポーツを科学すること、及び、スポーツを社会科学として研究・分析すること等ではないのか。そして、結果として、それがよきスポーツ指導者の育成につながるのではないのか。もちろん、実技の向上も必要だ。
大阪市の教育委員会が教育の原点に返ろうとする意志をもっているのならば、さらに歪んだ高校スポーツのあり方を是正しようと思うのならば、大阪市立桜宮高校の廃校もしくは体育系学科の廃止を急ぐよう努めるべきだ。
また、高校を受験しようとする中学三年生が心配なのは理解できる。だが、桜宮高校の入学試験が中止になることによって、一人の高校生の死について深く考える機会を得たと受け止めてほしい。
マスメディアは、入試中止を迫る橋下の発言を「教育への介入」だと歪めてはいけない。今回の問題に限定だが、橋下の側に理はある。