2013年5月17日金曜日

『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』

●村上春樹[著]   ●文芸春秋  ●1700円+税

 

大雑把に言って、村上春樹の作品には2つの傾向が認められる。1つは自分史に基づく私小説的なもの。この作風を筆者は洗練化された私小説と呼ぶ。初期の作品群にその傾向が色濃い。たとえば、『ノルウェイの森』(1987年刊)が代表作である。

そしてもう1つの傾向は、重大事件等をベースにしつつ、荒唐無稽にイメージを膨らませたファンタジーもの。『1Q84』(2009~2010)が思い浮かぶ。

最新刊の本書だが、その作風は初期作品に回帰していて、自分史の重大なエピソードに執拗にこだわった作品となっている。

●3.11と本書を関連付ける発想は危険

一方、本書は、3.11を背景にして書かれた、と解釈する立場もある。たとえば、東京新聞の書評である(評者:横尾和博)。以下、引用しよう。

本書の背後には3.11の大震災と原発事故がある。著者が1995年の阪神大震災のあと、連作短編集「地震のあとで」(のちに『神の子どもたちはみな踊る』)を発表したように。本書には津波も放射能もなにも書かれてはいない。だが大震災が行間に深く埋もれている。私はそのように読んだ。同じ時代の空気を吸ってきた同世代の者の勘である。
その根拠を謎解きのように提示するのは簡単だ。主人公の多崎つくるという名前。姓は三陸リアス式海岸の多くの岬を象徴し、名はモノ作りと再生を比喩する。人間関係の正五角形とは原子力ムラを暗示。また盛んに使われる「色彩のない」という表現について、私は大津波が押し寄せるさまや、事故後の福島第一原発のモノクロ映像を想起した。そして「調和する親密な場所」は「消え失せた」のであり・・・

勘を働かすことによって、作品をいかように解釈しようと勝手である。著者が3.11を踏まえたかどかは著者に聞く以外にない。しかし、この評者の解釈は、村上春樹の仕掛けたトラップに見事はまったと思うしかない。村上春樹という作家は、そういう戦略的な技巧に長けている。

この評者に決定的に欠落している視点――そして、村上春樹もそのような姿勢において同書を書いたのならば同罪だが――3.11にあって、地震・大津波という自然災害と福島第一原発事故との決定的な違いを認識しないことにある。地震・津波がなければ福島原発事故は起きなかった、のではない。事故が起きた福島に限らず、日本の原発政策は、3.11前からすでに破たんしていた。にもかかわらず、だれもそのことを指摘しえなかった。福島の事故は、国民(政治、行政、学界、マスコミ、法曹界、地域住民、電力消費者・・・)が真剣に原発(政策)に向き合っていれば防げた。その一方、地震と津波は防ぐことはできない。そこに決定的な違いがある。地震・津波と原発事故は、ともに大きな被害をもたらしたが、両者を区別することなく、その悲惨さだけを同等に扱えば、両者は“自然災害”という統一カテゴリーにイメージとして共有され、やがて、同じような位相で忘却されてしまう危険性を孕む。

3.11で引き起こされた2つの異なる人類史的悲劇について、巨大な自然災害という統一的イメージで受け止めることだけは最低限避けなければならない。このことは、文学を書く者、評する者、読む者に隔てはない。だから、本書と3.11を関係付けて読むことはできれば、避けてほしい。作者村上春樹の自分史の範囲にとどめておいてほしい。

主人公(=多崎つくる)は団塊ジュニア、時代は「いま」であって、村上春樹の青春時代とは異なっている。だが、本書のストーリーはおそらく、村上春樹の青春時代の経験が土台となっているはずである。突然の人間関係の断絶及び崩壊について、いまなお村上春樹は執拗にこだわり続けているように思える。

●1990年代型の「最新」感覚

ストーリーの大筋を示せば、以下のとおりである。

多崎つくるは、名古屋の高校時代に形成した無辜な5人(男3人と女2人)の仲良しグループから、東京の大学進学後、突然、理由も知らされないまま、絶交を言い渡される。そして、16年後、36歳になった多崎つくるが恋愛関係にある沙羅という女性の助言に基づき、絶交を言い渡された理由を突き止めるため、昔の仲間に会いに行くことになる。次々に仲間に会いに行く行為を巡礼と称したのであろう。

おそらく、村上春樹は自分史のなかに、特別な人間関係の崩壊と悲劇を組み込んでいる。そして、そのことにこだわり続けることが自己の倫理に適うのだと確信している。

自分史にこだわること、あるいは自分の過去にこだわることが悪いわけがない。それが文学において普遍化されるのであるならば、時代や空間を越えて多くの人々の経験と共鳴し、価値を高める。だが、村上春樹は新作において時代を見誤った。

村上春樹はデビュー作『風の歌を聴け』(1979年刊)において、団塊の世代の政治的挫折経験者から共感を得た。その後、村上の小説は、日本が都市化、情報化、国際化を国策として旗印に掲げ、成長を遂げようとした、1980年代後半から1990年代に同伴しつつ、読者を獲得した。シリアスな虚無主義的作風から、時代が消費するに足る心地よさに迎合した作風へと転位した。『海辺のカフカ』(2002年刊)及び前出の『1Q84』においてその気分は頂点に達した。

その巧みさは、サブカルチャーに係る情報を大量に作品中にちりばめることにより、若い読者の共感を得る手法だった。ファッション、ミュージック、クルマ、地名、スポーツ、登場人物の名前、容姿・・・等に何かを暗示させるかのような手法であり、読者は村上春樹が提示した、それらのそれぞれに鋭く反応した。

だが、時代のほうがいつのまにか、村上春樹の外界への感受性を追い越してしまったようだ。そのことに気が付かないまま、村上春樹はその気分をいまに持ち越している。だから本書の各所にいまとの齟齬が顔を出してしまう。そのことは、作品と時代(いま)とのズレを明確にし、陳腐さを読む者に与えてしまう。村上春樹は、1990年代の「現代」から飛び出せていない。
たとえば――
偶然というべきか、五人はみんな大都市郊外「中の上」クラスの家庭の子供たちだった。両親はいわゆる団塊の世代で、父親は専門職に就いているか、あるいは一流企業に勤めていた。子供の教育には出費を惜しまない。家庭も少なくとも表面的には平穏で、離婚した両親はいなかったし、母親はおおむね家にいた。学校はいわゆる受験校だったから、成績のレベルも総じて高い。(P8)

引用のとおり、主人公を含んだ仲良しグループはみな、名古屋の「中の上」、すなわち、アッパーミドルの家庭に育った偏差値の高い高校生として設定され、4人が地元名古屋の大学から地元に就職している。男友達の一人(アオ)はトヨタの高級車レクサスの営業職である。そしてもう一人(アカ)は名古屋の大学を卒業後、脱サラして社員教育のアウトソーシング会社の社長になっている。なお、主人公だけが東京の大学に進学し、卒業後、鉄道会社の鉄道駅の設計部に就職している。

いまの時代にあっては、アッパーミドルは解体過程にあり、そのことが深刻な社会問題発生の根源にある。一方、村上が設定した5人は時間差によってその解体過程から免れ、小説上の時制においてのいま現在、うまく1%の側に属すことに成功しており、けして99%の側ではない。

だから、村上春樹に派遣社員や就職浪人を主人公とした作品を書け、といっているわけではない。前出のとおり、村上春樹が同伴した時代では、大学卒の就職はさほど困難ではなかった。高校、大学、就職は既定の路線であった。進学、就職は一連の自然の進路なのだが、しかし、いまはどうだろうか。99%の側の若者――非正規社員、アルバイト生活として生活に呻吟している階層にとって、本書のような登場人物の属性の設定は気持ちのいいものではなかろう。むしろ、村上春樹の時代感覚といまとの落差に苛立つのではなかろうか。

登場人物の職業や銘柄も、村上春樹の時代感覚のズレを表している。前出のレクサスは1989年に開発が開始された、まさに情報化の申し子のような車種である。だが、車離れが進むいまや、レクサスを崇める若者はおそらく少数派ではないか。

社員教育のアウトソーシング会社というのも、情報化(という胡散臭さ)を象徴する業態であり、アウトソーシングという概念そのものが、1990年代に一般化したものの1つである。

鉄道会社の駅の設計という仕事はいささか古くさい感じがしないではないが、鉄道会社=安定企業=1%を象徴する。

●地名が喚起するイメージと地方都市差別

本書に登場する地名、名古屋、東京、浜松そしてヘルシンキ及びその郊外のハアタイネン(フィンランド)も村上春樹の価値観を表している。グループが育まれた名古屋といえば、日本が生んだグローバル企業の代表格トヨタの本拠地。都市化、情報化、国際化の条件をすべて満たしている。多崎つくるが就職地として選んだ東京は言うまでもない。フィンランドだが、これも村上春樹の価値観に基づき選ばれた場所である。けして、バンコク、マニラ、ソウルではない。実際に行ったことはないが、おそらくフィンランドはドライかつクリーンさからみて、ヨーロッパの中でも清潔感抜群な地域のイメージを抱かせる。さらに、その郊外となれば、北欧特有の透明感が増すばかりである。

一方、残された浜松はどうか。本書では、そこでグループ崩壊を象徴する悲劇的事件が発生しているのだが、事件現場としての具体的記述は一切書かれていない。浜松という無個性的地方都市のもつイメージがどういう効果を与えているかは、読者がそう思うとおりなのである。浜松の関係者に礼を失することを承知で言えば、“そこで、いかにも”、という印象を読む側に惹起させる効果を村上春樹は計算しているのである。

登場人物の姓名にはすべて色が付されており、色と無関係な姓名をもつ者は、主人公・多崎つくるのみである。本書のなかで、色は人間のありようを明示する重要なメルクマールとして扱われているが、筆者はそのことに重要性を認めない。村上春樹の技巧の1つではあるのだろうが、どうでもいいような気がする。

●産業の洗練化に即した私小説の洗練化
・・・最後にもうひとつ質問がある。レクサスって、いったいどういう意味なんだ?」
アオは笑った。「よく人にきかれるんだが、意味はまったくない。ただの造語だよ。ニューヨークの広告代理店がトヨタの依頼を受けてこしらえたんだ。いかにも高級そうで、意味ありげで、響きの良い言葉をということで。不思議な世の中だよな。一方でこつこつと鉄道駅を作る人間がいて、一方で高い金を取って見栄えの良い言葉をでっちあげる人間がいる」
「それは一般的に『産業の洗練化』と呼ばれている。時代の流れだ」とつくるは言った。
アオは顔に大きな笑みを浮かべた。「お互いそいつに取り残されないようにしよう」(P176)
先述のとおり、本書は私小説であり、洗練化されたそれである。村上文学は、その骨格の半分として産業の洗練化ならぬ自分史の洗練化という傾向をもち続けている。引用部分は、村上春樹の自嘲であろう、売れる本を書き続けるために・・・だが、時代が村上春樹を取り残して進んでしまっている。そのことが、本書の凡庸さを際立たせる。